第27話 巨大芋虫
翌朝――いや、朝と呼ぶにはまだ早すぎる時刻。
夜の名残が空気に沈み、世界そのものが息を潜めているような頃合いだった。
俺は隣の寝台に視線をやる。
ルークは大の字のまま、無防備な寝息を立てていた。
――よし、起きていない。
ゆっくりと上体を起こし、軋みを殺すように寝台から抜け出す。
動作一つひとつに神経を尖らせ、まるで人の命を奪いに来た暗殺者のように、衣擦れの音すら許さず着替えを済ませた。
扉に手をかける前、ほんの一瞬だけ振り返る。
……いや、やめておこう。
振り返ったら、逃げる理由まで揺らいでしまいそうだった。
あのままルークと一緒に起きてしまえば、間違いなくミネルバの魔の手から逃げられなくなる。
そうなる前に、雲隠れするしかない。
宿を転々とし、ほとぼりが冷めるのを待つ。
一月前と同じだ。
同じことを、もう一度繰り返すだけ――。
――ドサッ。
「痛っ――!」
宿の扉をくぐり、外へ出ようとした瞬間、足元に何かが絡みついた。
派手に前のめりになり、情けない音を立てて転ぶ。
「誰だよ……こんなとこに変なモン置いたの」
舌打ちしながら立ち上がり、苛立ち混じりに振り返る。
蹴躓いた原因を確かめようと、一歩、近づいた――その刹那。
息が、止まった。
そこにあったのは、巨大な芋虫だった。
【猫のしっぽ亭】の出入り口を完全に塞ぐように、ずんぐりと横たわる異様な影。
表面は不自然なほど膨らみ、ところどころが隆起している。
生き物にしては動きが鈍く、だが死骸にしては妙に存在感があった。
芋虫は、もぞ……と腹の奥から音を立てるように身じろぎし、
ゆっくりと、こちらへ向き直る。
「――――――」
悲鳴が喉までせり上がる。
俺は反射的に両手で口を押さえ、声が漏れるのを必死で堪えた。
「随分と早起きじゃないか」
低く、くぐもった声。
次の瞬間、芋虫の輪郭が崩れ、
それが――寝袋に包まったミネルバだと理解した。
「…………ど、どうして……」
思考が追いつかない。
なぜ彼女が、ここにいる。
なぜ、宿の入口で寝袋に包まり、芋虫と化している。
その瞬間、理解よりも先に身体が反応した。
額から、背中から、滝のように汗が噴き出す。
――逃げ場は、最初から存在しなかった。
そう悟った時、朝焼け前の冷たい空気が、やけに生温く感じられた。
「ここで寝ていれば、わざわざ不肖の弟子を迎えに行かなくて済むだろ」
「で、でも……どうして、ここが……」
「お前がこの宿に泊まっていることかい? ――あたしに密偵がいることを、もう忘れたのかい」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
――あの野郎っ!
恩を仇で返しやがって……。
怒りが湧き上がるよりも先に、背筋を冷たいものがなぞっていく。
「しかし、まぁ……こんな時間から基礎体力向上のために走り込みとは、感心な心掛けじゃないか」
「…………え?」
「なんだ、違うのかい?」
ミネルバは、わずかに首を傾げた。
その仕草ひとつで、空気の温度が数度下がる。
「――なら、どうしてこんな時間に、こそこそと宿を抜け出したのか。説明してもらおうか?」
ごくり、と生唾を飲み込む音が、やけに大きく頭蓋の奥で反響した。
夜明け前の静寂が、俺を逃がさぬよう包囲してくる。
ここで――
『お前の修行という名の虐待から逃げるためだ!』などと、正直に口にしたらどうなるか。
考えるまでもない。
俺の生命の灯は、朝日を見る前に、無慈悲に吹き消される。
「き、基礎体力向上は……だ、大事だって……」
喉が引き攣れそうになるのを、必死で抑える。
「そ、その……し、師匠が、前に言っていたので……!」
震える声を押し殺し、言葉をつなぎ合わせる。
俺は、まだ死にたくない。
――生きたい。
たとえ流れる言葉の数々が非難に満ちていたとしても、自ら終わりに手を伸ばすことはしたくない。
情けなく、卑屈で、保身に満ちていたとしても。
自ら終わりへ手を伸ばすつもりなど、微塵もなかった。
無様でいい。
みっともなくていい。
一秒でも長く、生き延びてこその人生だ。
「……そうか。殊勝な心がけだな」
ミネルバはわずかに口角を上げた。その笑みが、何より不吉だった。
「――では、ルークが起きてくるまでの間、一切休まず走り込んでもらおうか」
「…………っ」
この、鬼めっ!
◆
「ぜぇ……っ、はぁ……ぜぇ……」
肺が悲鳴を上げ、喉は紙やすりで擦られたように焼けつく。
一体、どれほどの時間を走らされているのか――もはや数える気力すら残っていなかった。
気づけば朝日はとうに昇りきり、王都の通りは人の波で埋め尽くされている。
買い物籠を抱えた女、通学途中の子ども、仕事へ急ぐ男たち。
その喧騒の只中を、俺は死人めいた足取りで駆け抜けていた。
視線が刺さる。
好奇と困惑、そして心配が入り混じった、無数の視線だ。
――やめてくれ。俺は見世物じゃない。
足は鉛のように重く、意識はときおり白く霞む。
水一滴も口にしていない舌が、勝手に痙攣した。
:容赦ねぇな
:顔色、完全にアウトだろ
:すれ違う奴みんな二度見してるの草
:おはよ。これ何時間やってんの?
:たぶん六時間経過
:地獄かな?
:はよルーク起きろ!
:誰か叩き起こしてこい!
――もう、無理だ。
そう思った、その瞬間。
視界の端に、見慣れた宿の扉が映り込んだ。
【猫のしっぽ亭】の戸が軋み、そこから呑気そうな男が顔を出す。
「ミネルバ姐さん、もう来てたんですか」
「……なんだ、意外と早起きじゃないか」
「そうっすか?」
どこがだよ――!
喉まで出かかった叫びは、声になる前に潰えた。
怒る力すら、もう残っていない。
宿の前までたどり着いたところで、限界が来た。
膝が砕け、視界が揺らぎ、俺はその場に崩れ落ちる。
◆
時は移り――
俺たちは王都から東へ数キロほど進んだ先、深い森の只中に足を踏み入れていた。
「……気味が悪いな」
ルークが低く呟くのも無理はない。
今はまだ昼だというのに、森の上空は絡み合う枝葉に覆われ、陽の光は細い糸のようにしか地表へ届かない。
湿った空気が肌にまとわりつき、足元の土は不気味なほど静まり返っていた。
ここは通称――蛇骨の森。
その名の通り、森の奥へと続く地面には、数百キロにもわたって巨大な白骨が横たわっている。
それは蛇の姿を象った骨だった。
胴は地を這うように連なり、肋骨は朽ちた木々を押しのけるように突き出し、まるでこの森そのものを支配しているかのようだ。
数百年近く、この地に居座り続ける“それ”は、もはや死骸というより――森の主だった。
視線を向けるだけで、胸の奥がざわつく。
畏怖という感情を、否応なく思い出させる存在。
「……本当に、こんな化け物がいたのかよ」
ルークの呟きに、俺は小さく頷く。
伝え聞く話によれば、この白骨は、かつてこの地で討ち取られたドラゴンの遺骸だという。
討伐したのは、聖堂十二宮の一角――白羊宮に名を連ねた勇者。
神話とも史実ともつかぬ古い戦の名残だ。
真偽のほどは、誰にも分からない。
だが、この異様な白骨の存在が、森の名を決定づけたのは間違いない。
問題は一つ。
なぜ、誰も足を踏み入れたがらないこの蛇骨の森へ、わざわざ俺たちを連れてきたのか――それに尽きる。
俺の視線に含まれた疑念を察したのだろう。
ミネルバは足を止めることもなく、低く、ぶっきらぼうに口を開いた。
「近頃、モンスターの動きがおかしいらしくてね。調査してほしいって、ベルガの野郎に頼まれたんだ」
珍しいことだった。
彼女が理由を説明するなど、滅多にない。
その事実だけで、この森が“ただ事ではない”と察するには十分だった。
「……じゃあ、修行じゃないんっすか?」
恐る恐る、ルークが問いかける。
一縷の望みをかけた声音だった。
「修行だ」
間髪入れず、ミネルバは言い切った。
「……いや、でも――」
「雑魚狩りなんぞしていても、強くはなれんだろ」
言葉は淡々としているのに、逃げ道を完全に塞ぐ響きがあった。
反論の余地すら与えない断定。
俺とルークは、思わず互いの顔を見合わせる。
どちらからともなく、乾いた笑みがこぼれた。
――これ、かなり不味いんじゃないか。
蛇骨の森。
調査依頼。
そして“修行”。
嫌な要素が、三つも揃っている。
にもかかわらず、ミネルバの背中からは、わずかな迷いすら感じられなかった。
まるで――
この森に何がいようと、どう転ぼうと、それすら織り込み済みだと言わんばかりに。




