第26話 師弟
「も、もうじぃわげぇあでぃまぜんでぇじだぁ……」
言葉になりきらない嗚咽を漏らしながら、ルークは額を床に叩きつけていた。殴られ、腫れ上がった顔は原形を留めておらず、瞼の隙間から覗く白目だけが必死に助けを乞うように揺れている。
一度、二度、三度――そのたびに鈍い音が室内に響き、床板が不憫に思えるほどだった。
:さすがに引くわ
:エグすぎて草
:もう誰だかわからないやんw
:冒険者たちも引いてるw
:引いてるというより、見て見ぬふりだな
:関わりたくないんだろ
神々のおっしゃる通りだと思う。
なぜなら俺もその一人なのだ。
だというのに、なぜか俺も、ルークの隣で正座をさせられている。
膝に走る痺れよりも、背中に突き刺さる視線の方が痛かった。
埃と血の匂いが、まだ薄く空気に残っている。先ほどまでの騒動が、夢ではなかったことを否応なく思い知らせる匂いだ。
その中央に立つ彼女は、微動だにせず、ルークと俺を交互に見下ろしていた。
傷だらけの肌。その一つ一つが、幾多の修羅場を潜り抜けてきた証のはずなのに、浮かべる笑みだけは不釣り合いなほど整っている。
低く、よく通る声が、静かに落とされた。
「――あんたは、頭を下げなくてもいいのかい?」
怒鳴り声ではない。
脅しでもない。
それなのに、その一言は、喉元に冷たい刃を差し込まれたような重みを持っていた。
逃げ場を残さない声――いや、存在そのものが、そうなのだ。
意味を噛み砕くより先に、心臓が遅れて大きく跳ねた。
背筋を、氷の指でなぞられたような感覚が走る。
考えるまでもなかった。
選択肢など、最初から用意されていない。
「――申し訳ありませんでした!」
声が、思ったよりも大きく響いた。
反射的に頭を下げ、額が床に触れる。
それ以外の行動を選べるほど、俺は愚かではなかった。
それから小一時間ほど、ミネルバの説教は途切れることなく続いた。
雷鳴のような怒号が飛ぶわけでもない。
だが、淡々と、的確に、逃げ道を一つずつ潰していく言葉の刃は、下手な恫喝よりもはるかに骨身に沁みる。
俺は正座のまま、背筋を伸ばし、呼吸の間合いを計り続けていた。
――今だ。
今なら、空気を壊さず、最小限の被害で退席を申し出られる。
「そろそ――」
口を開いた、その瞬間だった。
「――俺を弟子にして下さい!」
ギルド内の空気が、またたく間に凍りついた。
――え……えええええええええ!?
思考が完全に停止する。
視線の先では、顔面を倍以上に腫らしたルークが、なぜか妙に澄んだ目でミネルバを見上げていた。
殴られすぎて、ついに脳のどこかが逝ってしまったのではないか。
そうとしか思えない。
自ら進んで、地獄の門を両手で叩き割りにいくなど、正気の沙汰ではなかった。
「……歳は?」
「十八です!」
「なぜ、あたしの弟子になりたい」
「姐さんの強さに、心底惚れ込みました!」
即答だった。
一切の迷いも、照れもない。
ウォーリア女といい――
どうやらルークという男は、根っこからして「強い女」が性癖らしい。
――いや、性癖で済ませていいのか、これ。
どこからともなく、神々のざわめきが聞こえてくる。
:ルークって、やっぱりそっち系なのか?
:痛めつけられるのが好きなタイプでは
:いわゆる変の態だなw
:ならオークでもいいのではwww
さすがの神々も、若干引いていた。
だが、冷静に考えればわかる。
ミネルバは、これまで俺以外に弟子を取ったことがない。
この突拍子もない申し出など、一蹴されて終わる――はずだった。
そう、思っていたのだが。
「……条件がある」
「なんですか!」
前のめりで食いつくルーク。
嫌な予感が、背骨を伝って駆け上がる。
「そこの不肖の弟子が逃げ出さないよう、見張る役を引き受けるというのなら……考えてやらんでもない」
「やります!」
――即答!?
ふざけるな!
つーか、少しは考えろよ!
しかもなんだよその条件、完全に俺の首に縄をかけに来ているじゃないか。
――そんなの、認められるわけがないだろ!
俺の内心の絶叫は、神々にすら届かない。
:ああ、ロイドおわた\(^o^)/
:もう逃げ切れないな
:これは詰み
:御臨終です
:……チーン
やめろ。
縁起でもない。
神々はすでに、俺の未来――いや、死に様まで見通している気がした。
笑えない。
まったく、笑えない話だった。
◆
「――で、どうしてくれるんだよ」
そう吐き捨てるように言ったのは、ミネルバが去った直後だった。
――明日から修行を再開する。
それだけを言い残し、彼女は振り返りもせずギルドを後にした。
嵐が通り過ぎたあとのように、場には重苦しい沈黙だけが残る。
俺はその沈黙を睨みつけるように、ルークへと視線を向けた。
「なにが?」
当の本人はというと、痺れきった脚をさすりながら、何食わぬ顔でギルド備え付けの卓に腰を下ろしている。
しかも――
「オーク肉のオイスター炒め、ひとつ!」
無一文のくせに注文までしている。
遠慮という言葉を、母胎に置き忘れてきたのかこいつは。
「……」
「そんな怖い顔すんなって。今日は俺の冒険者登録祝いってことでさ」
意味がわからない。
どうして俺が、お前の冒険者登録を祝わなければならない。
そもそも俺は、誰からも祝われた覚えなどないというのに。
「お前、絶対に後悔するぞ」
「……後悔?」
「ミネルバの弟子になったことだよ」
「……お前、ひょっとして妬いてんの?」
心底楽しそうに、ルークは口角を吊り上げる。
「は?」
「俺にミネルバ姐さんを取られると思って、焦ってんだろ。お前って昔からそうだよな。独占欲が強えっていうかさ」
「なんの話してんだよ」
「そういうとこだって。……正直、そういうのマジで嫌われるからやめとけ」
言葉が、胸の奥に引っかかる。
返すべき反論は、いくつもあったはずなのに、どれも形にならない。
「ユリアナの時もそうだったろ」
「……」
「俺がちょっと誘っただけでさ。お前、俺のこと野盗でも見るみたいな目で睨んでたじゃねぇか」
――そんなことは、ない。
……と思いたい。
いや、確かに、そういう目で見ていた時期があったかもしれない。
だが、それは――ルークが、あまりにも強引で、ユリアナの腕を掴んで無理やり連れ出そうとしたからで……。
「……っ」
言い訳は、喉の奥で潰れた。
その沈黙を嘲るように、神々の声が視界をかすめる。
:確かにロイドって独占欲強そうだよな
:案外、ルークがユリアナ狙ってたってのもロイドの勘違いかも
:それはある
:母親を取られそうになって焦るガキみたいなもんだな
:おいおい、今回の相手はミネルバだぞ
:ルークが後悔するに一票
:最悪、二人して死体で発見とかあるんじゃね?
:絶対まともな修行じゃねぇ
:ルークはその辺、理解してなさすぎる
――まったく、その通りだ。
いまさらルークが「やっぱ弟子入りの話は無しで」と言い出したところで、ミネルバが首を縦に振るはずがない。
あの女は、一度決めたら、骨が砕けようと、命が尽きようと、決して手を緩めない。
このバカは、自分の首を、死神の鎌の刃元に差し出しているということを、まるで理解していない。
いや――理解していないからこそ、今こうして笑っていられるのだろう。
果たして、明日のこの時間も同じ顔で笑っていられるだろうか。
絶対に無理だな。




