第25話 無謀な挑戦
「――では、こちらの書類にサインをお願いします」
淡々と響く受付嬢リリカの声は、どこか春風のように柔らかく、何の障りもなくルークの登録手続きを流していった。
俺の時とは大違いだ。
誰にも止められず、ギルドマスターにも呼び出されず、地下演習場に引きずられて実力を証明させられることもない。
あまりに順調すぎて、隣で見ていた俺は思わず眉をひそめてしまった。
「……なんか腑に落ちないな」
そう呟くと、リリカは肩をすくめ、困ったように微笑んだ。
「ルークさんはコルネ村で自警団の経験があるでしょ? それに、過去にはゴブリン討伐の実績もある。ロイドくんとは――違うのよ?」
最後だけ妙に優しく言い含めるような口調で、俺を慰めているのがわかる。
“違う”と言われると胸に刺さるが、言い返せる材料も特にない。
まあ、たしかに実力差は歴然だ。
「……緑等級か」
ルークが受け取った冒険者プレートには、鮮やかな緑が刻まれていた。
等級は下から順に白、橙、そして緑。
新人がいきなり緑等級から始まるのは、かなりの好待遇だ。
ちなみに等級は全部で十段階。
黒・白銀・黄金・赤銅・紅・紫・蒼・緑・橙・白――以上。
けれど、ルーク自身はどうにも納得しきれない様子だった。
手の中でプレートを何度も返しつつ、ちらり、ちらりと俺の胸元を見やる。
「俺が緑等級で、ロイドが……紅等級、か」
俺の等級を口にした瞬間、彼の眉間にわずかな影が落ちた。
羨望か、悔しさか、あるいは別の感情か――そこまでは読み取れない。
「お前も、緑等級スタートだったのか?」
「いや。俺は最初から紅等級だった」
そう答えた瞬間、ルークの顔が露骨に歪んだ。 驚きでも羨望でもない。
そこに浮かんだのは、どう見ても不服の色だった。
「……変えてくれ!」
勢いよく机を叩き、ルークは胸を張る。
「俺はコイツより強い。つまりだ――最低でも紅等級以上ってことになるだろ!」
その大仰な宣言に、ギルドの空気が一瞬、間を置いた。
次の瞬間。
――くくっ。
――はははっ。
受付カウンターの向こうで、リリカが心底面倒くさそうに嘆息し、周囲の冒険者たちからは抑えきれない笑い声が漏れた。
「な、なにがおかしいんだ!」
笑われたことが余程こたえたのだろう。
ルークは耳まで真っ赤に染め、必死に声を張り上げる。
その様子を見かねたのか、一人の男が輪の中から歩み出てきた。
「まあまあ、そう目くじら立てんなって」
肩をすくめ、悪かった悪かったと手を振る。
その顔には見覚えがあった。
地下演習場で、俺がミネルバと模擬戦をしたとき、観客席にいた冒険者の一人だ。
首元に光るプレートは――俺と同じ、紅等級。
「ロイドが紅で、自分が緑なのが気に入らねぇんだろ? まあ、その気持ちはわかるぜ」
男はそう言って、ちらりと俺を見た。
「なんたってこいつ、一月前まで剣もろくに握ったことがなかったって話だからな」
ルークの視線が、再び俺へ向く。
だが男は、すぐに続けた。
「……けどな」
声が、少し低くなる。
「お前、黄金等級の冒険者と、数分間――全力で斬り結べるか?」
ルークは言葉に詰まる。
「しかも相手は、あのミネルバだ。
面倒くせぇって理由だけで、白銀等級の試験を何年も受けてねぇ……正真正銘の化物だぞ」
周囲の冒険者たちも、自然と笑みを引っ込めていた。
一般に、冒険者の階級は赤銅等級まではギルドの裁量で決められる。
だが、黄金等級以上は違う。
冒険者協会が実施する昇格試験を突破した者にしか、その称号は与えられない。
黄金と赤銅――その差は、まさに天地。
黄金等級冒険者には、各国から特権と信頼が与えられ、冒険者であれば誰もが、まずそこを目指す。
「……それと、ロイドが何の関係があるんだよ」
ようやく絞り出したルークの言葉に、男は鼻で笑った。
「そこのちんちくりんな。一月前に、黄金等級のミネルバと真正面からタイマン張ったんだよ」
ルークの目が驚きで大きく見開かれた。
「その結果、ギルドマスター直々に冒険者登録を認められて、紅等級スタートだ。
だからな――」
男は周囲を見回し、言い切った。
「こいつが紅等級でも、ここにいる連中は誰一人文句を言わねぇ。ロイドの実力は、もう全員が知ってる」
そして、ルークに視線を戻す。
「だが、兄ちゃんは違う。今日登録したばかりで、いきなり紅等級になったら――さすがに黙ってねぇ奴が出てくる」
男は苦笑しながら、肩を叩いた。
「俺だってよぉ。紅等級になるまで、十年かかったんだぜ?」
その言葉は、諭すようでいて、同時に冒険者という生き方の重さを突きつけるものだった。
「ロイドにやれて、俺にやれないわけがないだろ!」
ルークは拳を握り締め、声を張り上げた。
「そのミネルバとかいう冒険者と、俺も戦わせろよ! そいつに勝って、俺の実力を証明してやる!」
――ミネルバに、勝つ。
その言葉が耳に届いた瞬間、背中に冷たいものが走った。
あまりに無謀で、あまりに現実を知らない宣言だった。
ルークは知らないのだ。
あの女が、どれほど理不尽で、どれほど容赦がなく、どれほど――恐ろしいのか。
だから、そんなことが言える。
周囲を見渡せば、それは明らかだった。
さっきまで笑っていた冒険者たちは口を閉ざし、苦いものを噛み潰したような顔で沈黙している。
誰一人として、ルークの言葉に賛同する者はいなかった。
「ほら、早く連れてこいよ!
コルネ村のルーク様が、ぶっ飛ばしてやるからよ!」
「バカ、もうやめ――」
俺が止めに入ろうとした、その瞬間だった。
「……面白いじゃないか」
低く、くぐもった声が、背後から滑り込んできた。
「誰が、あたしをぶっ飛ばすって?」
煙草で喉を燻したような、ざらりとしたハスキーな声。
静かな口調なのに、場の空気を一瞬で支配する圧があった。
北方訛りの混じる低音が、ギルドの広間にゆっくりと染み渡る。
――まずい。
そう思ったときには、もう遅かった。
理屈より先に、身体が反応していた。
これは訓練でも経験でもない。
生き物として刷り込まれた、本能的な危機回避だった。
捕食者の気配を察した瞬間、草食獣が音を立てずに身を引くように。
俺は無意識のうちに、ミネルバの視界から外れようと足を引いた。
息を殺し、存在を薄め、気配を消す。
――頼む。気づくな。
「――ロイド」
氷を削ったような低い声が、空気を断ち切った。
その名を呼ばれた瞬間、背筋が凍りつく。
心臓が跳ね、胸の奥で暴れ出す。
ゆっくりと向けられた彼女の視線。
それを受け止めた途端、呼吸の仕方を忘れた。
「どこへ行く気だい?」
淡々とした声音が、逆に恐ろしい。
「あんた、あたしがこの一ヶ月、どれだけ探してたか……。まさか、知らないとは言わないよね?」
「……い、いや、その……」
言葉が、喉に貼り付いて出てこない。
――あ、これ、殺されるやつだ。
確信に近い予感が、頭の中を支配した。
この一ヶ月。
俺は意識的に、徹底して、ミネルバだけは避けてきた。
宿を選び、通りを選び、時間帯まで気をつけて。
それなのに――。
ルークの後始末に追われ、目の前の厄介事に気を取られ、最も避けるべき存在を、完全に失念していた。
後悔したときには、もう彼女は目の前に立っていた。
「……ミ、ミネルバ」
声が、喉の奥で引き攣った。
「――師匠」
氷の刃を喉元に当てられたような声だった。
感情の欠片も読み取れない無表情が、その恐ろしさを倍にする。
「……」
一瞬の沈黙。
その間、俺は息をすることすら忘れていた。
「あたしのことは“師匠”と呼ぶように、そう言ったはずだよ」
淡々とした口調。
だが、その裏に潜む圧は、はっきりと殺気に近い。
俺は言葉を失い、ただ何度も頷くことしかできなかった。
無理もない。この女には、修行という名目で――二度も命を奪われかけている。
否、きっと奪うつもりだったのだ。
俺はたまたま生き残った、運がよかっただけの話だ。
「あんたとは後で、腰を据えて話をしようじゃないか」
そう言ってから、ミネルバの視線が横に滑る。
「――で。そっちの前髪は、あたしに喧嘩を売ってた……って理解でいいのかい?」
“前髪”。
それは間違いなく、ルークのアシメトリーな髪型を指した呼び名だろう。
普通なら、その時点で足がすくむ。
だが――。
「……」
ルークは、睨まれてなお睨み返していた。
尊大とも無謀ともつかぬ態度で。
:本物のアホだ
:こいつ死んだな
:南無阿弥陀仏
その様子を見て、先程まで仲裁に入っていたベテラン冒険者が、何も言わず距離を取る。
彼だけではない。
周囲の冒険者たちも、申し合わせたように壁際へと後退していった。
――巻き込まれる気は、誰にもないということだ。
「あんたが、ミネルバか」
「だったら何だい、前髪」
「まえっ……俺の名前はルークだ!
人を変な呼び方で呼ぶんじゃねぇ!」
「そうかい、前髪」
取り合わない。
その態度そのものが、実力差を雄弁に物語っていた。
「――で、その細腕で、あたしをぶっ飛ばすってのは……冗談の類かい?」
「冗談なもんか! お前をぶっ飛ばして、俺は赤銅等級から冒険者を始めるんだ!」
ミネルバの視線が、ルークの頭から爪先までをゆっくりと撫でる。
値踏みですらない。
“確認”に近い。
そして、鼻で嗤った。
「……あんたが、あたしに勝つ?」
小さく首を振る。
「寝言は、寝てから言いな」
「なっ! ロイド如きに手こずった奴が、偉そうに言ってんじゃねぇよ!」
――やめろ。
俺の喉が、音にならない声を絞り出す。
「……そうかい」
ミネルバは、わずかに口角を上げた。
「なら、抜きな。ここで相手してやろうじゃないか」
場の空気が、一段冷えた。
「あたしに一撃でも入れられたら――
あんたを赤銅等級にするよう、ここのギルマスに直接話をつけてやるよ」
「言ったな!」
ルークの声が弾む。
「約束だぞ!」
「女に、二言はないさね」
その言葉を聞いた瞬間、
俺ははっきりと理解した。
――ああ、終わったな。
この男は今から、
“冒険者”になる前に、現実という名の地獄を味わうのだ。




