第21話 夕焼けの中
「――では、今回の報酬は四万六千ギルになります」
受付嬢の落ち着いた声が、夕刻のギルドに染み渡る。
差し出された封筒は、ずしりとした重みこそないが、内側に丁寧に束ねられた紙幣の存在を確かに主張していた。独特の紙の香りすら、“冒険者としての稼ぎ”を手にしたのだと実感させる。
あの地下演習場でミネルバと刃を交えてから、すでに一月が経つ。
試合の後、治癒師トレランシアさんの手当てでようやくまともに身体が動くようになった。そしてギルドマスター室で正式な手続きを踏み、晴れて冒険者となったのだ。
冒険者には階級が存在する。
黒・白銀・黄金・赤銅・紅・紫・蒼・緑・橙・白――十段階。
ほとんどの新人は最下位の白等級から始まるのが常識だ。
だが、今、俺の胸に下がっているプレートは、深紅の光を帯びた“紅等級”である。
「ぐふふ」
なぜそんな破格の扱いなのか。
理由はひとつだ。
――俺が相対した、女剣士ミネルバの階級。
それが、【黄金等級】だったからだ。
黄金等級。
一匹で村を滅ぼす脅威たりうる怪物すら、単独で討つことのできる冒険者に与えられる称号。
その彼女と、たとえ短時間とはいえ刃を交わし、互角に近い応酬を演じた――それだけで、俺の評価は跳ね上がったらしい。
……ただし、あのまま試合が続いていれば、結果は明白だった。
神々から与えられた剣士スキルを持ってしても、ミネルバという“本物”には届かなかった。
冒険者とは、超人の巣窟だ。
その意味を、ようやく骨身に染みて思い知った。
そして――
俺の最終目標である【魔王討伐】がどれほど遠く、険しい道なのかも。
だからこそ、俺は依頼を選ばない。
どんな小さな仕事でも経験になる。
一つでも多く血を流し、一歩でも前へ進まなければ、未来の自分に近づけない。
「ロイド、またソロで狩ってたのか?」
ギルド内を歩くと、強面のベテランたちが次々声をかけてくる。
そのほぼ全員が、あの地下演習場で俺の戦いを見ていた面々だ。
「この前も一人で山越えてったろ? 死ぬなよ、ホントに」
「そういやよ、お前のこと、ミネルバが血眼になって探してたぞ」
「えっ……!」
ミネルバ。
その名を聞いた瞬間、背筋がぴんと伸びた。
自分でもおかしいと思うが、心の奥で何かが強制的に姿勢を正すのだ。
あの剣閃、あの殺気、あの重い眼光。
一度味わえば、忘れられるはずがない。
王都が誇る冒険者ギルドでも指折りの実力を誇る女剣士。
そんな存在が、また俺を探している?
胸の鼓動が、わずかに速まる。
思い出すのは試合後――
冒険者登録を済ませた翌日――早速依頼を受けるためギルドへ向かった。
冒険者になった喜びを噛み締めながらギルドに入ると、そこには仁王立ちのミネルバが待ち伏せるように立っていた。
「ロイド。お前、あたしの弟子になれ!」
前置きひとつ無い、突然の命令だった。
後で聞いたところによると、ミネルバは長年、血のにじむ研鑽で掴んだ自身の技を後世に残したいと考えていたという。実際、かつてギルドの掲示板に弟子募集を貼り出したらしい。
だが、結果は“惨敗”だった。
応募者は大勢現れた。羨望も尊敬も集めた。けれど――ミネルバ本人が、全員を追い返したのだ。
理由は単純。
弟子志願者の多くが自分より年上だった、というだけのこと。
中には年下もいたらしいが、「なんか違う」という謎の理由で落としたらしい。……もはや基準の形さえ残っていない。
そこへ現れたのが、よりにもよって俺である。
剣を握って日も浅い俺が、練習試合で彼女と“渡り合った”。
その事実が、ミネルバの中に潜む奇妙な――いや、不気味な“弟子を育てたい欲”に火を放ったのだという。
二十五歳の彼女から見れば、十六歳の俺は「ちょうどいい」らしい。
……ちょうどいいってなんだよ、本当に。
当初は俺も、剣士として鍛練を積む必要性を感じていたため、その申し出を(多少の恐怖を押し殺して)受け入れた。
しかし――俺は致命的に見誤っていた。
よりにもよって、師匠に選んだのが“あの女”だったのだ。
同業者の胸元に、ためらいなく剣先を突きつける。
命の軽重を天秤にすらかけない。
訓練と実戦の境界を踏み越えたまま戻ってこない――そんなイカれた女を、俺は師として迎えてしまったのである。
そして結論を言うなら、俺はミネルバの弟子になった初日、その日のうちに――二度、死にかけた。
いや、正確には二度、殺されかけた。
地下演習場での練習試合では、暴走する彼女をギルドマスターが止めてくれた。
しかし今回は違う。
ギルドの加護も、監督者の目もない。
彼女を止めるのは――俺自身だけだった。
その単純すぎる事実を、俺はすっかり忘れていたのである。
――結果、俺は神々の助言に従い、命からがら逃げ出した。
あの死線からおよそ一月。
俺は、師匠(仮)ミネルバと顔を合わせないよう、息を潜めるような日々を送っていた。
朝は人影の薄い時間を狙ってギルドへ向かい、帰り道は影が差す路地を避け、外出のたびに周囲に漂う“気配”を嗅ぎ分ける。
もはや冒険者の心得というより、獣の生存本能に近い。
今日もそうだった。
依頼達成の報告に来たものの、扉を開ける前から窓越しに中を覗き、受付の陰、掲示板の前、酒場横の柱影まで、ミネルバの姿がないか念入りに確認した。
――いない。
その一点だけを確かめ、ようやく足を踏み入れたのだ。
だが、不安というものは、とかく遅れて押し寄せる。
冒険者仲間と談笑していた時、不意に背筋を冷たいものが撫でた。
空気が変わった。
師匠(仮)の気配を、風が運んできたような錯覚すらあった。
「ご、ごめん、俺すぐに行かなきゃ!」
声が裏返った。
情けないとは思うが、生命に関わる問題である。格好など、つけていられない。
呆気にとられる冒険者たちに手を振る暇もなく、俺は半ば駆け足でギルドを飛び出した。
外の空気はやけに澄み切っていて、逃げ出したばかりの俺の鼓動だけが、やたらとうるさく響いていた。
:必死に逃げてて草
:次に捕まれば命はないからwww
:あれは修行という名の虐待だったw
:ミネルバが追跡者なのでは?
:まだシーズン参加してないw
――画面の向こうの神々は、今日も相変わらずだ。
こちらの心臓がまだ逃走の余熱でざわついているというのに、彼らは他人事のように愉快そうに喋っている。
石畳を踏む足音が、夕暮れの街路にかすかに響く。
陽の傾きは早く、街灯の灯りがひとつ、またひとつと宿り始めていた。
灯りに照らされた文字は、この世界の風景とはどこか調子の違う色をして浮かんでいた。
「ロイド……?」
ふいに背後から名前を呼ばれ、肩が僅かに跳ねる。
どこかで聞き慣れた声音だったが、緊張の糸はまだ完全にはほどけていない。
振り返った瞬間、ようやく胸の奥に温度が戻った。
「ルーク!」
そこには、コルネ村の村長の孫であり、│幼馴染み《永遠のライバル》とも言うべき男――ルークが立っていた。
旅人服にわずかな埃をつけ、息を整えたところを見るに、どうやらつい今しがた街へ来たらしい。
懐かしさと警戒心が入り混じった複雑な感情が、胸の内側でひそやかに波を立てる。
村を離れてからというもの、こうして昔の顔に出くわすことは初めてだった。
だからこそ、不意に現れたルークの姿は、薄暗い夕景の中でひときわ鮮やかに見えた。




