第19話 幻影のミネルバ
「さっきも言ったが、殺しは無しだぞ」
低くつぶやくギルドマスターの声に、ミネルバは肩をすくめ、鼻で笑った。
「あんた、あたしをなんだと思ってるんだい」
飄々と返す一言。
だがその裏に、どこか誇りのようなものが透けて見えた。
ミネルバは手首だけで軽やかに剣を回し、金属が空気を割く鋭い音が、演習場の静けさを一瞬震わせた。
そして次の瞬間、彼女はゆっくりと腰を落とし、無駄のない姿勢へと移る。
その構えは――獲物を屠る寸前の豹のようだった。
瞳は深い闇を湛え、呼吸すら静かに沈んでいく。
先ほどまでの“軽く遊んでいる”空気とはまるで違う。
ミネルバの身体の輪郭から、目には見えない圧が立ちのぼっていた。
ただ立っているだけなのに、皮膚がざらりと逆立つような、野生の気配。
喉が鳴った。
気づけば、俺は本能の命じるままに半歩、後ろへと退いていた。
――これが、本気の冒険者か。
胸の奥で小さな恐れと、それをかき立てる興奮が入り混じり、熱を帯びて跳ねた。
俺はひとつ長い息を吐き、胸の奥に渦巻くざわめきを静かに鎮めた。
余計な思考を削ぎ落とし、頭の中をいっそ空白にする。
――考えて勝てる相手じゃない。
戦闘経験など皆無の俺が、命を張ってきた本物の冒険者ミネルバに策で挑んだところで、意味などあるはずがない。
いま俺がこうして剣を握り、彼女の前に立てているのはただひとつ――剣士スキルという、神々から与えられた奇跡のおかげだ。
ならば、俺がするべきことは理屈をこね回すことじゃない。
与えられた力を信じ、身体を任せることだ。
受け入れろ、剣士スキルの導きを――そう言われている気がした。
思考を手放すと、奇妙な静寂が胸に広がった。
意識の底が澄み渡るように、身体が自然に動きはじめる。
正眼に構えた剣の切っ先越しに、ミネルバがわずかに口元を緩めた。
「……!」
その瞬間――ミネルバの輪郭が、揺らめいた。
疲れで視界がにじんだのかと最初は思った。
だが違う。ぼんやりと滲んだ像はやがて二つに分かれ、別々の方向へと輪郭を固めていく。
まるで鏡に映った像が、ひとりでに鏡面を抜け出して歩きだしたかのようだった。
視界が澄んだとき、そこには二人のミネルバが立っていた。
同じ呼吸、同じ構え、同じ殺気。
区別できない二つの影が、ぴたりと同じ角度でこちらを射抜いている。
「武技――│もう一人の自分」
静かな声で、ミネルバ自身が名乗った。
:ミネルバ武技持ちかよ!?
:これはまずくない?
:ロイドくんピンチじゃん
:普通試験でここまでするか?
:試されてるんじゃない?
:死ななきゃいいけど……
武技――その言葉に、脳裏にかつて耳にした知識が浮かぶ。
この世界には、根源の力が二つ存在する。
一つは│権能。
女神が唯一無二と認めた者だけに与える、授けられた奇跡。
才能そのものが力となる、選ばれた者の証。
もう一つは《武技》。
それは誰に祈って得られるものではない。
積み重ねた時間、滲んだ汗、折れずに耐えてきた心――その全ての果てに自ら掴み取る、人間の極限の力。
│権能が〈天から降る才能〉なら、
武技とは〈地を踏みしめて辿り着く努力の結晶〉。
どちらも強大だが、まるで異なる。
そして今――俺の前で影のように二つへと増えたミネルバは、紛れもなく〈努力の果てにここへ至った“努力の天才”〉だった。
先程までのそれとは質の違う殺気が、ふたつに分かれて押し寄せてくる。
同じ空気を吸っているだけで、全身に荒れ狂う突風を浴びているかのようだ。ほんの一瞬でも意識の糸が緩めば、そのまま壁際まで吹き飛ばされる――そんな確信めいた危機感が背骨の奥に冷たく貼りつく。
「「あたしの│もう一人の自分を見ても、まだ剣を構えていられるなんてね。正直、大したもんだよ。……どうやら、あたしはあんたを侮っていたらしい」」
二つの声が、ぴたりと重なり響く。
どちらが本物か、もはや見分けなどつかない。
それなのに、どちらにも同じ体温と呼吸があるように錯覚してしまう。
「「――だが、あんたが立っていられるのはここまでさ。これから“本当の戦い”ってやつを教えてやるよ」」
宣告と同時に、二つの影が烈火のように弾けた。
石畳を蹴る硬質な音が左右から交互に迫り、耳が追いつくより先に殺意だけがこちらへ叩き込まれる。
速い。常識の枠から外れた速度――本来なら、目で追うことなど不可能だ。
……だが、見える。
いや、“俺が見ている”のではない。
剣士スキルが俺の思考を先回りして、二人の軌跡を読み取り、最適な動きを身体に教えていた。
筋肉の収縮、足裏の角度、呼吸のリズム――すべてが俺の意志とは無関係に、達人めいた精度へと最適化されていく。
圧倒されているはずなのに、意識だけは湖面のように静かだった。
「右から行くよっ!」
風を裂く音。
右側のミネルバが、肩口へ鋭い斬撃を放つ。
反射ではない。
身体が勝手に沈み、迫る刃が額のすぐ上を掠めていく。
切れた髪が、光の粒のように宙へ散った。
「次だよっ!」
左から続撃。
石畳を踏み込む衝撃が胸に響く。
避けられない――と思った刹那、
腕がひとりでに浮かび、剣の平で斬撃の角度を“逸らす”。
耳奥が震えるような金属音。
散る火花が視界の端を白く染める。
「……っ!」
息が漏れ、手首が痺れた。
二人分の重みと切れ味。受け流すだけで骨が軋む。
「「――ちっ」」
二人のミネルバが同じ速度で退き、同じ角度でこちらを見据える。
双つの瞳は不気味なほどにそっくりで、しかし底に宿す熱はほんのわずかに違う。
「「……たいしたもんだよ。 だが、そんな芸当が何度も通じると思うんじゃないよ」」
賞賛とも脅しともつかぬ声が、重く胸に落ちる。
息を整える間すら与えられないまま、二人は再び地を蹴る。
次は――先ほどの比ではない。
空気そのものが裂けた。乾いた音が耳朶を打ち、直後、右のミネルバが地を蹴った。
低く、刺すような軌道で袈裟に振り上げる。
同時に、左のミネルバが天から裁きを下すかのように鋭く斬り下ろした。
上下からの挟撃。
もはや猶予など存在しない。どちらかを捌き、どちらかを受ける――その二択だけが冷酷に迫る。
だが、剣士スキルは迷わず答えを示した。
呼吸すら要らぬほど自然に、脳裏へと最適解が浮かぶ。
上だ――。
俺は左からの斬撃へ剣を合わせ、鋼が擦れる甲高い音とともに弾き返す。
同時に腰をひねり、右から迫る刃を足さばきで外へ誘導した。
石畳をかすめる靴音が、まるで舞踏の一節のように軽やかに響く。
そして――二人のミネルバが、揃って困惑した顔を浮かべた。
「……くっ」
その一瞬。
わずかな緩み。
その隙を、俺の身体は――いや、剣士としての本能は逃さない。
剣先が右側のミネルバへ向かう。
勘でもなければ虚勢でもない。
剣士スキルが、彼女の身体に走るわずかな“呼吸の乱れ”を捉えていた。
本物は――こっちだ。
「なっ――!?」
右のミネルバの瞳が揺れた。
対して左は、まるで彫像めいた無表情。
その刹那――影が滑り込むように前へ出る。
石畳を蹴る音が、鋭い刃のように空気を裂いた。
「――させないよ!」
影が本体を守るように、俺の剣へ自ら身体をねじ込んできた。
速い――!
金属がぶつかり合い、白い火花が散る。
衝撃が腕を突き抜け、指先が震えた。
影のミネルバが笑う。
「「あんたとあたしじゃ、積んできた年季が違うのさ!」」
二人の動きが重なる。
刃の軌道が螺旋を描くように変化し、容赦ない連撃を紡ぎ出す。
連撃。
連撃。
さらに連撃――。
:剣が何重にも見える!?
:もはや漫画だろ、これ!?
:ロイドの奴もなんで捌けるんだよ!
:剣士スキルってこんなに凄かったっけ?
:まだ初期スキルだからこれは異常
:剣士スキルはその人の本来の性質に大きく関わってくる
:ロイドに剣士としての才能があるってこと?
:たぶんな
まるで刃の雨の只中へ投げ込まれたかのようだった。
剣士スキルがなければ、とうに俺の身体は無残な肉に変わっていただろう。
だが――
それでも、まだ負けていない。
まだ、立っていられる。
息は荒れ、腕は痺れ、足は震え、全身が悲鳴を上げている。
それでも倒れないのは、意地なのか、スキルの御蔭なのか――自分でもわからない。
「!?」
二人のミネルバが、ふいに構えを変えた。
直感が告げる。
今までとは何かが違う。
“これで終わらせる”。
その決意が、圧となって肌に刺さる。
石畳に落ちる二つの影が――重なった。
「「――武技、│三つ爪の狩人」」
空気が凍りついた。
二撃ではない。
三人のミネルバ――三つの刃が同時に迫る。
避けられない。
受けきれない。
捌ける保証もない。
なら――賭けるしかない。
俺は剣を握りしめ、虚空を睨んだ。
逃げれば死ぬ。
なら、前へ踏み込むしかない。
「来い――!」
石畳を砕くほどの踏み込みとともに、三つの影が、中心で激突した。
金属が打ち鳴らされる――そんな生易しい音ではなかった。
:これ、ヤバくね?
:死ぬのでは?
:殺しなしじゃねぇの!?
:ギルドマスター止めろ!
鋼と鋼とが憎しみのようにぶつかり合い、爆ぜる衝撃が演習場を揺らした。
空気が震え、鼓膜が悲鳴を上げる。
視界が揺れた。
腕に奔る衝撃で、握力が一瞬、霧散しそうになる。
それでも必死に剣を離すまいと踏みとどまるが、足は石畳を滑り、横へ弾き飛ばされた。
転がりながら、横目にミネルバを追う。
彼女もまた激しく弾き飛ばされ、石畳に擦れて浅く転がり、そのまま息を呑んだように動きを止めた。
遅れて、影のミネルバが霧散する。
煙のように形を崩し、音もなく消えていった。
「……はっ、は……!」
荒い息。
胸が張り裂けそうに脈打ち、視界の端が白く滲む。
生きているだけで奇跡に思えた。
:焦った……
:死んだかと思ったわ
:ミネルバさんやり過ぎで草
ミネルバも同じ状態だった。
肩で息をしながら乱れた髪をかき上げ、こちらを見て、苦笑いを浮かべる。
「……やるじゃないか。まさか、あそこで踏み込んでくるとはね……」
返事をする余裕はない。
膝に手をつき、ようやく立ち上がろうとしたその瞬間――。
乾いた破裂音が、演習場を切り裂いた。
「――そこまでだァッ!!」
ギルドマスターの怒号だった。
雷鳴のごとき声が大気を震わせ、砂埃すら跳ねるほどだ。
気づけば、すでに彼は俺とミネルバの間へ割って入っていた。
腕を広げ、まるで押し返す壁のように立っている。
:遅っ!?
:さすがに止めるの遅すぎでは?
:とりあえず一安心だな
:心臓に悪いわ
:それな
まったく気配を感じなかった。
彼が異常に速いのか、俺たちが戦いに没頭しすぎていたのか――おそらく両方だ。
「ミネルバァ! てめぇなにぶっ放してやがんだ!!」
怒号が場を震わせる。
ミネルバは肩をすくめ、悪戯を見つかった子どものように鼻をくいっと擦った。
「だってさ、あんた“殺し無し”って言っただけで……全力を出すなとは言ってないだろ?」
「言わなきゃ分かんねぇのか、てめぇは!!」
怒声とともに演習場に沈黙が落ちる。
俺はまだ立ちきれず、膝をついたまま必死に呼吸を整えていた。
ギルドマスターがこちらを見て、深々とため息をついた。
「……よく生き残ったな。正直、止めに入るタイミングを完全に見失ってたわ」
そう言って、手を差し伸べてくる。
その掌は無骨で、大地のように温かかった。
俺はその手を掴み、身体を引き上げた。
すかさずミネルバが口を開く。
「――で、ベルガ。こいつの試験結果はどうなんだい?」
ギルドマスター――ベルガは大げさに鼻を鳴らした。
「幻影のミネルバと互角に渡り合った奴を落とす理由がどこにある。……ロイド、よくやった。お前の冒険者登録を認める」
:よっしゃぁああああ!
:これで配信者としても及第点だな
:今晩はミネルバちゃんに怪我の責任取ってもらえ
:それあり!
:エロ配信希望
:ミネルバより受付のお姉さんがいい!
:じゃあ当面の目標はその二人の攻略?
:エロゲみたいでいいじゃん!
横目にチャット欄を確認すると、神々が何やら騒がしかった。
「――だってさ。ほら、おめでとう」
ミネルバが楽しげに肩を回しながら笑う。
「あんた、なかなかのもんだよ」
その笑顔は、つい先ほどまで刃を交えていた戦士のそれではない。
純粋に勝負を楽しむ者――そんな無邪気さがあった。
俺はまだ息が整わないまま、ようやく声を絞り出す。
「……あ、ありがとう……」
ミネルバは胸を張って言う。
「次はぶっ飛ばすからね。覚悟しておきな」
その場に座り込む俺へ、ベルガが頭をかきながら怒鳴る。
「治癒師呼んでくるから動くな! 勝手に帰ったら承知しねぇぞ!! ――お前らも見世物は終わりだ! さっさと解散しろ!!」
あまりの必死さに、思わず笑いが漏れた。
――こうして、俺は憧れの冒険者になった。




