第18話 演習場
冒険者ギルド――その地下には、古代遺跡のような円形の演習場が広がっていた。
階段を降りて足を踏み入れた瞬間、ひやりとした空気が肌を撫で、胸の奥で何かがぎゅっと縮むのがわかった。
闘技場の中央に立つと、理由もなく身体中の筋肉が硬直する。
まだ一分と経っていないのに、口の中はすでに乾ききっていた。
観客席には、暇を持て余した冒険者たちが群れを成し、俺とミネルバの戦いを酒の肴にしようと肩を寄せあっている。
笑い声、野次、金属の鳴る音――すべてが俺の神経をちぎるように騒がしい。
その中心で、ミネルバはといえば――
俺の前方で腕を組みながら、ギルドマスターに向かって「さっさと始めな」と舌打ちまじりに急かしていた。
ギルドマスターは大きく肩を落とし、やれやれと首を振ると、こちらへ視線を向ける。
「坊主、まだ名前を聞いてなかったな」
「……ロイドだ」
「顔色が死人みたいだが、平気か?」
「だ、だいじょうぶだ」
大丈夫なわけがない。
胸の奥では心臓が鉄槌のように暴れ、肋骨を内側から叩き割ろうとしている。
正直、今すぐ「やっぱり無しで!」と言って逃げ帰りたい。
だが――客席から突き刺さるような視線が、それを許さない。
:ロイド死にそうで草
:真っ青じゃんww
:可哀想になってきた
:スキルあるし何とかなるだろ
「じゃあ、もう少し前へ。剣を構えてくれ」
ギルドマスターがそう促した瞬間、ミネルバが腰の剣を抜いた。
使い込まれた湾曲刀の刃が、地下を照らす明かりを受けて妖しく光る。
その光が目に入っただけで、心臓がさらに早鐘を打ち始めた。
「テ、テストって……真剣でやるの? 木剣とかじゃ、ないのか?」
言った瞬間、観客席から爆笑がどっと湧く。
ミネルバは楽しげに鼻で笑い、湾曲刀を弄んで肩を揺らした。
ギルドマスターは深々とため息をついてから、俺に歩み寄る。
「ロイド、お前、冒険者になりたいんだろ?」
「そりゃ……そうだけど」
「なら聞く。冒険者ってのは、木剣で魔物と戦うのか?」
「……いや」
言われなくてもわかっている。
わかってはいる――けれど、テストという名の練習試合で真剣を使うだなんて、そんな常識外れは想定していなかった。
喉が鳴って息が詰まり、手のひらは汗でじっとり濡れている。
「坊や、いまさら怖気づいたかい?」
「そんなわけないだろ! 怪我させちゃったらどうしようかと思っただけだ」
「ぷっ……ぎゃはははは――! こりゃまいったねぇ。一本取られたよ」
笑いの渦が、演習場の石壁にぶつかり反響する。
その中心に自分が晒されているのだと思うと、耳まで焼けつくように熱くなる。
――馬鹿にしやがって。
悔しさが胸を叩く。平静を装おうとしても、内側で暴れ狂う心臓だけは言うことを聞かない。
「構えなよ。……始めるんだろ?」
ミネルバが剣先を突きつけてくる。天井に等間隔で並ぶ魔導灯がその刃を照らし、鋭い光が細く走った。
喉が自然と鳴り、唾が落ちていく感覚がいやに生々しい。
ここまで来たら、もう退くわけにはいかなかった。
けれど――足は地面に根を張ったように重く、思う通りに動かない。
「ほら、どうした。さっきの大口はどこへ行ったんだい?」
片眉をつり上げて笑うミネルバ。その挑発が胸の奥で小さな火種となり、じりじりと熱を帯びていく。
――こうなりゃ、ヤケだ。
立会人はギルドマスター。
危なくなったら止めに入るとは言っていた。
あのやる気のない表情で本当に止めてくれるのか甚だ疑問だったが……少なくとも“死ぬほどのこと”にはならない……はずだ。
「……どうした?」
「あ、いや」
呼吸を一つ深く吸い込む。冷えた空気が肺に満ち、わずかに震えていた指先さえ静めていく。
俺は、腹を括った。
そして、慣れない手つきで腰の剣を抜いた――その瞬間だった。
――すう、と世界が静まった。
さっきまで胸の内で暴れ回っていた鼓動が、嘘のようにおとなしくなる。
霧が晴れたように視界が広がり、客席の冒険者一人ひとりの表情さえ見分けられるほど鮮明になる。
脳のどこかが急に研ぎ澄まされ、指先の神経一本一本に意識が通うような感覚。
まるで、自分ではない“何者か”に入れ替わったかのようだった。
足裏は大地をしっかりと掴み、猫背気味だった背筋は自然と伸びる。
構え方など知らないはずなのに、身体が迷いなく剣を構えていた。
まるで――ずっと昔から知っていたかのように。
どうして、こんなにしっくりくるんだ?
自分の身体が、初めて本来の位置に戻ったような感覚。
その奇妙さに驚くより先に、心がやけに落ち着いていることが恐ろしくなる。
「へぇ……剣を振ったことがない割には、ずいぶん様になってるじゃないか」
ミネルバが目を細め、口元に嗤いを浮かべる。
彼女の声音には、先ほどまでの暇つぶしめいた軽さが消え、ほんの僅かに興味が混じっていた。
彼女だけじゃない。
ギルドマスターは「妙だな」と言いたげに眉間へ皺を寄せ、客席にひしめく冒険者たちは、ざわめきを吸い込んだように一斉に黙り込んだ。
「おい……あいつ、本当にド素人なのか?」
「知らねぇよ。でも、自分で“剣を振ったことがない”って言ってたよな?」
「……あれが、ド素人の構えに見えるか?」
「むしろ、そこらの奴より様になってねぇか……?」
「ていうか、立ち姿だけならお前より強そうだぞ?」
「うるせぇ!! 見た目だけに決まってんだろ!」
ざわり──
声なき何かが肌を撫でていく。
奇妙な感覚だった。
胸の奥底――もっと深く、骨の髄のあたりから、理由のわからない自信がせり上がってくる。
それは傲慢とも違う、静かで冷たい確信。
――もしかすると、俺はあの女に勝てるんじゃないか。
そんな馬鹿げた錯覚すら、今の俺には疑いようのない現実味を伴っていた。
「早く、合図を出しなッ!」
ミネルバの荒い声が、張りつめた空気を打ち破った。
ギルドマスターが小さく息を吐き、試合開始の声を響かせる。
「始め──」
その瞬間だった。
「――っ!」
ミネルバが、視界から消えた。
否。目で追えないだけで、彼女は地を這う獣のように姿勢を極限まで低く落とし、床を滑るように迫ってきていた。
影が跳ねた。
閃光が走る。
――カキィィンッ!
横薙ぎに振るわれた一閃を、俺はいつの間にか下段で受け止めていた。
刃と刃が噛み合い、鋼の悲鳴が耳奥を痺れさせる。
衝撃が手の骨を伝い、腕の奥で震える。
「なっ……!? あたしの一撃を、防いだ……だと!?」
ミネルバが驚愕に目を見開き、跳ねるように距離を取る。
その顔には、もはや嘲笑も挑発もない。ただ純粋な驚き――いや、困惑と言った方が近いかもしれない。
だが驚いているのは、俺も同じだ。
あの一瞬、確かに両足を持っていかれると覚悟した。
それなのに、気づけば剣を振り上げ、火花を散らし、攻撃を受け止めていた。
自分がやったとは、とても思えない。
……なにが、どうなっているんだ?
胸の内で言葉にならない疑問がぐらりと揺れた。
:キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!
:さすが剣士スキル!
:雑魚でもそれなりの使い手になれる有能スキル!
:ミネルバちゃん、目ひん剥いてて草
:ちゃんと刃裏返していたところはポイント高い!
:え、マジ?
:まじまじ
:思ったより優しいじゃんミネルバ
:イカれサディストかと思ってたのに
:両脚ぶった切りは普通に死ぬからなw
:ミネルバお姉さんセクシーでタイプだわ
:誰もお前のタイプなんて聞いてねぇw
:ロイド、ポカーンとしてて草
:やっと剣士スキルのやばさに気付いた感じだな
:剣を抜かないと発動しねーから覚えとけ馬鹿
視界の端で、川のように文字が流れていく。
その奔流を見ているうちに、胸の奥がじんわりと温まり、口元が勝手にほころんでいた。
――神々は、俺を嘲っていたわけじゃなかったんだ。
剣士スキルを習得した俺は、ちゃんと戦えるんだ。
強くなれる。
冒険者にもなれる。
そして、ユリアナにだって追いつける。
考えるほどに胸の奥が熱を帯び、堰が切れたようにこみ上げてくる。
鼻をすすった瞬間、演習場の空気がすっと揺れ、皆の視線が刺さった。
「ロイド……あんた、なんで泣いてんだい?」
「おれ……強くなれるんだって思ったら、嬉しくて……」
情けない声が震えた。
ミネルバは俺の顔をまっすぐ見つめ、ほんの一瞬だけ眉をひそめる。
「……一つ聞くよ。あんた、本当に剣を握ったことなかったのかい?」
「うん。ないよ」
「……嘘をついてる顔じゃないね」
ミネルバはゆっくりと息を吐き、剣を下ろした。
それから、ギルドマスターへと身体ごと向き直る。
「ベルガ――ちょっとだけ、本気を出してもいいかい?」
その声音には先程までのからかいも軽口もなかった。
ミネルバの目が、初めて真剣なものへと変わっていた。




