愛のない結婚ですね! 承知いたしました!
この結婚に愛はない。
それでも私は――決して後悔などしていない。
「お初にお目にかかります、フレア王女殿下」
公邸の応接室。
ソファにも座らず、目の前で仰々しく跪いているのは、これから私の夫になる人物だ。
名はロイ・フェンネル。庶民階級の出自でありながら、その卓越した頭脳と手腕を認められ、二十五歳の若さで内務省の一等書記官にまで上り詰めた傑物である。
「初対面ではありませんよ。あなたが入省して間もないころ、廊下で挨拶させていただいたことがあります」
「なんと、覚えておいででしたか。恐縮です」
「はい、貴方は目つきが特徴的ですから」
余人がロイ・フェンネルを語るとき、まっさきに挙げるのはその眼である。
狼のように鋭い紫紺の瞳。煌々と燃えるその眼光は、見る者を震わせる迫力がある。
「特徴的――ですか。眼鏡で少しは和らげているつもりなのですが」
「あっ、別に怖いとかそういう意味では……」
「気になさらず。そう言われるのは慣れています」
ロイは眼鏡を指で弄り、自嘲気味に微笑した。
実際にロイを『怖い』と評する者は宮中にも省内にも多い。彼は現国王の懐刀として数々の不正を摘発し、多くの汚職役人や腐敗貴族を失脚に追い込んできたのだ。ひとたび彼が『視察』に訪れるとあらば、視察先の役人は夜も眠れぬ日々を過ごすという。
「王女殿下。此度は望外の栄誉として貴方様の伴侶とならせていただくわけですが、所詮私は一介の文官に過ぎません。立場は弁えておりますので、ご安心ください」
「弁えている……とは?」
「あくまで形だけの婚儀、と存じております。陛下の思惑もきっとそうでしょう。王族に婿入りしたとあらば、私の仕事を進める上でこれ以上ない後ろ盾となりますから」
なので、とロイは続ける。
「私はあくまで書類上のみの伴侶です。当然ながら寝所も分けますし、手を触れることもありません。夫ではなく臣下とでも思っていただけましたら」
おおむね、その通りなのだとは思う。
なんせ今回の婚儀に際し、正式な式典もパーティーも開かれていない。いくら私が王位継承権もない側室生まれの第八王女だとしても、普通は王族の婚儀となればそれなりの場を設ける。
父である現国王がロイに後ろ盾を与えるために私との縁談を整えたが、他の王族たちが伝統や血統を理由に反対し、このような書類上だけの結婚になったという感じだろう。
だが――
「臣下だなどと、そんなことを仰らないでください」
私は彼に手を差し出した。
「確かに私はあなたのことをよく知りません。今すぐに夫として愛するというのは難しいかもしれません。ただ――ロイ様。私はあなたのことをとても尊敬しているのです」
「……尊敬?」
「はい。父上からあなたの仕事ぶりは聞いております。誰に恨まれようと嫌われようと、世のため民のために滅私で動くことのできる稀有な人材だと」
たとえば、この国は周辺諸国に比べて軍備が脆弱である。
そのため数年前から軍備の増強を図っているのだが、財源調達に大きく貢献したのが他ならぬロイである。貴族らの免税特権の見直しや、汚職による放漫財政を厳しく正すことで、国民への大規模増税なしに予算を確保したのだ。
その最中に幾度も暗殺されかけたらしいが、彼は決して挫けなかった。
「あなたのような信念ある殿方を伴侶に迎えられることを、私は妻として誇らしく思います。たとえ形式上の妻だとしても、あなたの後ろ盾としてどこまでも背中をお支えしましょう」
私が差し伸べた手を、ロイはすぐには握り返さなかった。
しかし数秒の沈黙ののち、恭しく手に触れて立ち上がる。
「勿体ないほどのお言葉、光栄でございます。その期待に必ずや応えてみせましょう」
「夫婦になるんですから、もっと砕けた言葉遣いでもいいんですよ?」
「いいえ。とてもそのような無礼は――」
そこまで言って、ロイは己の膝に目を向けた。
床に付けていたせいか、白い礼服がほんの僅かに汚れている。
「失礼します。少し衣服を汚してしまったので、手洗いにて整えて参ります」
「え、そこまで気にするほどの汚れでは……」
「初の挨拶の場なのですから。身だしなみは徹底させていただきます」
そう言ってロイは一礼し、応接室から出ていった。
その背中を見届けて、私は感嘆の息を吐く。どんな状況でも完璧にあろうとする姿勢。庶民の生まれであっても、彼はどんな王侯貴族よりも高潔な心を持っているのだろう。
「きっとあのような方が、未来のこの国を率いていくのでしょうね……」
―――――――――……
手洗い場の姿見の前で、ロイは頭を抱えてしゃがみこんでいた。
(……………………………なんてことだ)
今日この日をもって、彼は最終目標を遂げたはずだった。
身を粉にして働き、暗殺の危機すら乗り越えて、国王の覚えめでたくなり――かねてからの想い人であるフレア王女殿下と結ばれることができた。
まさに満願成就。後は危険な仕事からきっぱりと手を引いて、愛する人とともに幸せな家庭を築いていく算段だった。
(だが、誤算だった……!)
まさかフレア王女があそこまで自分の仕事っぷりを評価してくれていたとは。
国家国民のために滅私の志で働く忠臣? 否。出世しまくってあなたと結婚したかっただけである。
(まずい。今から露骨に仕事をフェードアウトしたら、地位を得て日和った卑劣漢だなどと軽蔑されるのでは……?)
頭を抱えつつも、しかしロイの口元はニヤつきを抑えるように歪んでいる。
事態は最悪だ。危険な仕事から手を引きたいのに、手を引いたらフレア王女から軽蔑される恐れがある。最悪の苦境だというのに――
(ずいぶん褒められたぞ……!)
尊敬している。妻として誇らしい。全力で後ろ盾になりましょう。
これらの言葉を聞いたとき、ロイは危うく小躍りしそうになった。
本当はこれから数年がかりで少しずつ好感度を高めていこうと思っていたのだ。初日からガツガツと下心を見せてはドン引きされるだろうから、まずは『身分を弁えています』と控えめな姿勢から入って、徐々に接近を図っていこうと。
(もしかしたら、もうちょっと距離感近めでいいのだろうか……?)
案外、前評判だけで既にそこそこの好感度を稼げているのではないだろうか。
それならあそこまで他人行儀になることもなかった気がする。
(よし……!)
一気に高揚してきた気分のままに、ロイは応接室へと舞い戻った。
「お待たせしました。フレア王女殿下」
扉を開くと、王女殿下はぱっと花開くように表情を明るくした。可愛すぎる。
「少しばかり提案があるのですが、よろしいでしょうか?」
「はい。構いませんよ?」
「婚姻が正式に成立しましたら、夫婦旅行にお誘いしたく思うのですが」
フレア王女がきょとんと目を丸くした。しまった、少し気持ちが浮かれて焦りすぎた。さっきまで手も握るまいとか言っていたのに。
慌ててロイは軌道修正を図る。
「形式の問題です。我々の婚姻は書類上だけで、それ以外には式典もパーティーもありません。対外的に正式な結婚をアピールするためにも、何かしらの婚姻行事を踏んでおく必要があるかと」
「なるほど、そういうことですか!」
と、一旦納得しかけたフレア王女だったが――
「あれ。でもそれなら旅行よりも、小規模でも教会で宣誓式をする方が有効なのではありませんか?」
ぎくりとした。
それはそうだ。教会という第三者が証明するのだから旅行などよりもよっぽど結婚の傍証になる。
だが、王族が行う宣誓の儀式は夫婦両者が聖典に手を付いて祈るだけで、ひどく地味なのだ。それはそれで大事なのは分かるが、旅行に比べたら大して思い出にならない。それより新婚旅行したい。
「それは――」
ロイは焦りつつ適当な言い訳を並べようとしたが、
「もしかしてロイ様」
フレア王女がゆっくりと身を乗り出してきた。
「夫婦旅行という名目で、内密に『視察』したい土地があるのではないですか?」
彼女は声を潜めつつ、しかしどこか興奮気味に言った。
夫たるロイへの期待にキラキラと目を輝かせて。
その輝きを前につい見栄を張りたくなってしまったロイは、
「――見透かされてしまいましたか。流石は王女殿下」
「やはりっ!」
誰か自分を止めてくれ。
動揺のあまり、眼鏡をクイックイッと何度もいじってしまう。
「して、旅の行き先はどこなのですか!?」
「ベローズです」
「あのリゾート地として名高い! そこに人知れぬ闇が渦巻いているわけですね……!」
やばい、リゾート地に行きたかっただけで何も考えてない。
今から徹底的にリサーチして何かそれっぽい汚職疑惑とか探さないと。
「もっとも、あくまで噂程度の懸念ですがね。何事もなければそれに越したことはありません」
何も見つからなかったときのためにさりげなく予防線も張っておく。
これ以上この方向性の話を続けていると墓穴を掘りそうなので、ここで強引に話題を転換。できるだけ穏便に仕事をフェードアウトできるように、
「ですが、王女殿下。今一度よくお考えください。本当によろしいのですか?」
「何がですか?」
「私と志を同じくすれば、いつか貴女様の身にも危険が及ぶかもしれません。もしそれが不安とあらば、私も少しばかり自重することはやぶさかではありません」
頼む、自重させて欲しい。
命懸けでフレア王女との婚姻を勝ち取った今、ロイには仕事への熱意などもう欠片もないのだ。
「――私を試しているのですね?」
ふふっ、と。
口元に手を添え、楚々とした仕草でフレア王女が笑った。美しすぎる。
「もし私が我が身可愛さにあなたの足を引っ張るような女なら、今すぐに縁談の撤回を求めるつもりなのでしょう?」
そんなつもりはない。絶対にあり得ない。
せっかく辿り着いたフレア王女の伴侶という地位を擲ってたまるものか。もし火炙りにされて「縁談を撤回しろ」と脅されようが、黒焦げになるまでロイは撤回などしない。
「ご安心ください。この私の命は既にあなたに捧げたも同然。国と民に尽くすため、どこまでも道行きを共にさせてください。たとえ道半ばで果てようとも決して悔やみません」
まっすぐな瞳で語り掛けてくるフレア王女。
非常に困った状況ではあるのだが、参ったことにとても嬉しい。惚れた女性が一生を共にすると目の前で宣言してくれたのである。感涙で泣き崩れない自分を褒め称えたい。
「もし――もしもです」
ロイは平静を装って尋ねる。
ほとんど本音の吐露にも近い内容を。
「仮に私が、互いに愛を語らうような普通の夫婦になりたいと言ったら、如何なさいますか?」
「そうですね」
くすりと笑って、フレア王女は続けた。
「きっと、それはそれで幸せな日々が送れると思います。ただ、時折ふと勿体ない気持ちになってしまうでしょう」
「勿体ない……?」
「ロイ様は遠く向こうの理想を見つめているときの横顔が一番凛々しくて素敵だと思うのです。私の方を振り向いてしまっては、そんな横顔が二度と見られなくなってしまうではありませんか」
ロイは片手で眼鏡を覆い、天井を軽く仰いだ。
それから背筋を伸ばし、最敬礼の姿勢を取る。
「貴女を侮っていました。愚問を述べたことをお許しください」
「いいえ。私に相応の覚悟があるかどうか確認してくださったのでしょう?」
「言い訳は致しません。が、」
ロイは己に言い聞かせるように、断腸の思いでこう宣言した。
「決して脇目を振らず、必ずや横顔を見せ続けると約束しましょう」
――――――――――……
この結婚に愛はない。
だけど使命と大義はある。
だから私は少しも後悔していない。
「王女殿下。少しばかり御力をお借りしたく思います」
「どうなさいましたか?」
結婚してしばらく経つというのに、相変わらず夫のロイは堅苦しい敬語を崩さない。最初はもっと気安く接していいのに――と思ったが、彼にはこの方が気楽なのだろう。
「王立美術館の非公開収蔵品が贋作とすり替えられ、裏のルートに横流しされている疑惑があるのです。ついては現地で真贋の確認をしたいのですが、内務省から正式に照会をかければ『疑っているぞ』と宣告するようなものです。証拠隠滅に美術館に火でも放たれれば目も当てられません」
「確かにそうですね」
「なので、我々が夫婦のプライベート外出を装って潜入しましょう。たとえ通常では見られぬ非公開の所蔵品であっても――」
「王族の私が我儘を言えば、無理が通るというわけですね」
「その通りです。収蔵品は王家の所有物ということになっていますから……真贋の見定めは私にお任せください。王女殿下はただ堂々とお振舞いを」
ロイが鋭く眼を光らせる。
「幸い、王族や貴族がああした場で特別待遇を求めることは珍しくありません。怪しまれることはないでしょう」
「分かりました。喜んで協力いたしましょう……しかし、私はともかくロイ様が警戒されるということはないのですか?」
「宮中や政界ではともかく、外部では私の名など大して有名ではありません。ただ念には念を入れ、怪しまれぬための演出は整えます」
「演出?」
私が首を傾げると、夫は眼鏡を軽く持ち上げた。
「いかにも『調査』という雰囲気を出しては危うい。『浮かれた新婚夫婦がお忍びデートで美術館に立ち寄った』という雰囲気を意図的に演出していきます。美術館に立ち寄る前にまずは観劇でもして緊張を解き、しかる後に百貨店で買い物をして手荷物をぶら提げていきましょう。美術館に隣接したカフェもありますから、そこで優雅に一服することも『調査』感を消すために有効かと存じます」
「なるほど。それは妙案ですが……大丈夫でしょうか? 私はおそらく大丈夫かと思うのですが、ロイ様が『浮かれた新婚夫婦』のように振る舞えるイメージがなく……」
「ご安心ください」
夫がまたも眼鏡をくいっと上げる。
「当日はどんな名優にも劣らぬ至上の演技を披露してみせましょう」
―――――――――……
後日、収蔵品の横流しの主犯として美術館の副館長を筆頭とした複数の職員が逮捕・拘束された。
捜査の決め手となったのは内務省一等書記官ロイ・フェンネルが独断で行った密偵調査である。彼の妻である第八王女フレアとともに美術館に潜入し、首謀者の特定に繋がる多くの有力な情報を持ち帰ったのだった。
なお、副館長はロイ・フェンネルを要注意人物として知っていたようだが、調査に際してまったく警戒心を働かせることができなかったらしい。
曰く『ただの浮かれた馬鹿』にしか見えなかったそうである。
最後まで読んでくださってありがとうございます!
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また『二代目聖女は戦わない』という長編作品も現在連載中です!
本短編と同じくコメディ要素多めの作品となっておりますので、こちらもぜひ読んでみていただければ!
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