第三話 残照の香(1)ゆびきりの日
朝の通学路を埋める小学生の群れに逆行し、住宅の屋根と塀を片足の先一つ分ずつ拝借しながら約束の交番の前に向かう。アスファルトの上を黒い頭が蠢く中に黄色い帽子がちらちらと見えているのは、この春入学したばかりの新一年生がなぜか夏休みに入るまでの期間限定で黄色い通学帽を被るというこの地域の学校特有のルールによるもので、もはや風物詩とも言える光景だ。
道行く小学生から「ハッピー・シャイニーだ!」と指を差されるくらいには知名度が上がったようだが、それはそれで何ともこそばゆく、足元の集中を削がれて何度か踏み外しそうになったのは内緒の話である。
刺さる視線のせいで体が痒いのを我慢しつつ、交番の前に佇むとある一人の少女の前に降り立つ。こんな朝の通学ピーク時間帯に通学路のど真ん中に自分を呼び出した問題の依頼主である。
「おはよう、チー……じゃなかった、シャイニー!」
まだ傷一つついていない牡丹色のランドセルに、皆とお揃いの黄色い帽子を被ったひなたが、その鍔の下から朝陽も顔負けの満面の笑みを覗かせる。
「おはよう。ひなた、早いわね。たくさん待った?」
「まったぁ。おそいー」
「ごめん。早く来たつもりだったんだけど」
いくら交番の前とはいえ、約束の時間より十五分も早く送り出すなんて真理子は一体何を考えているのだろうかと一瞬考えたが、腑に落ちず、もしかしたらひなたが勝手に早く家を出てきてしまったのかもしれないと思い直した。
前を通り過ぎていく小学生が皆不思議そうな顔をしてこちらを見ているのをひしひしと感じ、さすがに少し恥ずかしいのだが、ひなたはまったく気にしていない。『ハッピー・シャイニーと仲良くお話をしているあたし』を自慢したいのかもしれない。
「おはようございます! ご苦労様です!」
交番の外に立って児童の通学を見守っていた巡査が爽やかに敬礼してきたので、こちらも笑顔で挨拶を返す。似たもの同士、互いに持ちつ持たれつの職業であるため、関係は良好に保ちたいところだ。
「はい、じゃあ早速やろう。どれ?」
これ、と握りしめていた小さな手を開くと、ひなたが最近一番気に入っている頭飾りが姿を現した。帽子を外すと、いつもは既に結んであるはずの柔らかい髪が垂れたままになっている。
ひなた専用の特別なポケベル呼び出し番号を付与してからというもの、すっかり電話の使い方を覚えてしまったらしく、多い時は週に何度も呼び出しのベルが鳴るようになった。ヒーローは呼ばれたところに現れるものと言った手前、現れないわけにもいかず、自分から断る理由もないため毎回のそれには応じるようにしている。近頃のひなたがチーフを呼び出す用件のうちほとんどが『髪の毛を結んでほしい』で、たいてい訪ねていくと、結び方を教えてと言い出したり、最近では化粧にも興味があるらしくそれを教えてと強請ってきたりする。
葵曰く、それは懐かれているということらしく、「六歳であんたを使い倒すなんて将来大物になりそうね」と笑われた。たしかにそこは否定しない。何と言っても真理子の娘なのだから。ただ意外にも可愛い姫君にチーフ、チーフと追いかけ回される従者をやるのは、悪い気はしないのである。
それにあの暖かい家の雰囲気は相変わらず慣れないものの、姫の要望に応えた報酬として鈴木家の甘ったるいカレーが食べられるのを心のどこかで楽しみにしている自分がいるのもまたたしかなのである。そのせいで何となく最近太ってきたような気がするのは些か問題ではあるのだが。
しかし朝の登校前に、それもシャイニーに変身した姿で来てほしいというのは初めて言われたオーダーだった。昨日呼ばれて訪ねていった際に頼まれ、真理子に訊いたところ、どうやら今日は学校で何かのクラス発表があるらしく、おめかしをしたいということだった。変身して来てほしいというのは、この状況に置かれた今となっては納得である。
「後ろ向いて」両手に嵌めた手袋を外している間に、ひなたはくるりとこちらに背を向けた。「ママ何か言ってた?」
「ううん。ママ、おねぼうさんだったから」
「マジか」
「あたし、おねえさんだから、ひとりでおしたくしてきたの。すごい?」
「すごいわね、さすがひなただわ。ママはお仕事遅刻かなァ?」
「いっけないんだぁ」ひなたは戯けて頭をゆらゆらと動かしてしまう。「チーフおこる?」
「え、どうしよっかな……」どうやらこの短い期間のうちに、ひなたの中でチーフというのはドジなママを怒る存在という認識になってしまっているらしい。強ち間違いでもないが、あまり嬉しい立場ではなく胸中は複雑である。「……あぁちょっと駄目、動かないでよ。アンタも遅刻になっちゃうでしょうが」
「ちこくちこくー」
「駄目よ、遅刻は。先生に怒られる」ふざけているのはわかっている。きちんと遅刻しないよう確認してから時間設定をしているのだから。「まァ、本当にしそうになったら送ってってあげるけどさ……」
「それすっごくいいねぇ!」
「だぁめ、アナタは普通に学校に行くの。お友達にも会えるかもしれないでしょう」
「ええー……」ひなたはゆらゆらと体を揺らしながら笑っているようだったが、それだけは何となくいつもと違う、煮え切らない反応だと思った。「もうできるー?」
「待って、あとちょっと」
「まだぁ?」その割に、早く早くと足踏みをして自分を急かしてくる。自分の思い過ごしなら良いが、遠い昔の経験上、どうしてもそういう細かなところがいちいち引っ掛かってしまうのは悪い癖であろう。
「ひなた、学校楽しい?」
うん、と頷くまでに一瞬間が空いたのも気になる。最近夕方や夜に家に呼び出された際に学校の話を一切してこないところもずっと気になってはいた。
「パパやママにお話してる?」
出来上がりの合図に肩を軽く叩くと、ひなたはゆっくりとこちらに向き直った。せっかく可愛くしたのに、先程までの笑顔はすっかり雲隠れしている。
横で見ていた巡査がすぐさま可愛いと褒めてくれたが、それでもひなたの表情は明るくならない。その様子に巡査は気を利かせて、交番の中に鏡を探しにいってくれた。
「どうしたの?」シャイニーはその場にしゃがんで視線を重ねてみる。
「……パパとママじゃないと、だめ?」
「駄目じゃないわよ。でもひなたのことならパパやママにまずお話してあげたほうが、二人とも喜ぶんじゃないかしらと思って」
「うーん……」ひなたは唸りながら首を曲げて黙り込んでしまった。目を逸らし、しばらくは体をくねくねと捻ったり首を左右に傾げたりしていたが、じいっと待っているとそのうち小さい声で訊ねてきた。「……チーフはだめ?」
「アタシ? 良いわよ?」
「ママにゆわない?」
「ひなたが言ってほしくないなら言わない」
「ゆってほしくない」
「じゃあ言わないわ」
「ほんとう?」
「ええ、約束する。ママに言わない」と、右手の小指を立てて差し出したら、ひなたは不思議そうな顔をした。もしかして『指切り』の文化を知らないのだろうか。
それはそれでちょっとショックだ。
「こうやって小指と小指で握手するの。嘘をついて約束を破ったらひどい目に遭って地獄に落ちるから、絶対死んでも約束は破りませんっていう『誓いの儀式』ね」
改めて言葉にするととても物騒な儀式である。
首を傾げていたひなたは、差し出された小指とシャイニーの顔とを交互に見て、やがて自分の小指を出して重ねた。
そこへ巡査が戻ってきて、どこから持ってきたのか、飾りの一つもない無機質な四角い鏡を差し出してきた。後程返しに寄るので少し貸しておいてほしいと頼んだら快く許可してくれたので、鏡とひなたを抱えて跳び上がった。
再び家々の屋根を拝借しながら小学生の列を追い抜き、ひなたの通う学校の裏門から校舎の上まで跳ぶと、屋上にある大きな時計の上にひなたを下ろした。
「ごめんね、怖かった?」
「たのしかった!」声は高く、目は爛々としている。呆れてしまうほど肝の据わった娘である。
「それは良かったわ。秘密のお話をするなら、誰もいないところのほうが良いと思ったんだけど……ここ、本当は来ちゃいけない場所だから、内緒にしてよ?」
「ふたりだけのひみつ?」ひなたはなんだか嬉しそうに忍び笑いをして囁いた。子どもにとっては魔法の言葉に近い。
頷きながらも、怖いもの知らずのひなたが落ちてしまうとまずいので、ランドセルを下ろさせ、自分の脚の間に座らせて後ろから抱えることにした。「はい、お話してください?」
「ねぇ、ほんとにゆわない?」
「言わないわよ、さっき指切りしたでしょ? アタシ地獄行きは嫌だもの」
そう言っても、ひなたはしばらく自分の体を抑えているシャイニーの腕を掴んだまま黙っていた。近いし、チャイムがよく聞こえるからというのもあってこの場所まで運んでみたが、この調子だと割と本気で遅刻かもしれない。自分自身はその辺りのことは比較的ルーズな小学生だったから良いが、他人の子どもをそうするわけにはいかない。ただ、あの顔をされて「じゃああとで話聞くわね」と送り出すのは何か違うような気がしたし、話の内容によっては家に連れて帰ることも選択肢の一つとしては持っている。
もし遅刻させてしまったら真理子にどんな言い訳をしようかと考えていると、ひなたが漸く口を開いた。
「……あのね、ママはヒーローなんだよってゆったの」
「うん」
「そしたら、ひなちゃんは、かわいそうなこってゆわれた」
「可哀想?」
「ひな、——……あたし、かわいそうじゃないよってゆったの。でも、かわいそうっていっぱいゆわれた」
「それってどういう意味なの?」
「しらなぁい」ひなたはゆらゆらと左右に首を振る。「かわいそうなことはいっしょにあそべないんだって。ランドセルも、せっかくママがかってくれたのに、やすものだし、ヘンってゆうの。そうゆうのしかかってもらえないのは、ママがひなのこと、すきじゃないからなんだって」
正直、まったくその思考回路が理解できない。ひなたの説明が上手くないのもあるだろうが、それにしてもよくわからない。「それって……え? クラスの子が言うの? そういうこと」
「そう」ひなたはこくんと頷いた。口調はしっかりしていて、泣きそうというよりは怒っているという雰囲気である。
ひなたと同じように首を傾げてしまった。ひなた曰く、それらはごく一部のクラスメイトからの言葉で、仲良しの友達は別にちゃんといるらしく、今のところ特に実害もないと言うのでそこだけが救いだ。
これから自分は、こんなことを子どもに言ったらいけませんよ、というお手本みたいな返答をしそうな気がする。おそらくこんなケースに対しては模範的な建前があって、大人としてはそっちの回答を聞かせて諭してやるべきなのだろうが、あまりに阿呆くさい。これも遠い昔の経験上、大嫌いなのである。
「ひなた、可哀想じゃないよって言ったんでしょ?」
「うん。ゆった」
「このランドセルは?」
「うーん……あおくないけど、ママがいいいろってゆったし、——」ひなたはランドセルを開けて中の装飾を見せてくる。「ここがね、ふりふりしてるのが、かわいい」
「ほんとだ。アタシの時と全然違うわね、これ」
「チーフもランドセルもってたの?」
「むかぁしね」
「なにいろ?」
「茶色」遠い昔の話だが、これだけは覚えている。当時の男子児童は黒いランドセルが主流だった中、自分のだけが焦げ茶色——母の頭髪と同じ色だったからかなり浮いていた。「良いじゃない。可愛いと思うわよ、このランドセル。駄目?」
「だめじゃない。けど、いっつもゆわれるから、かなしいきもちになる」
「そうよね、それは悲しい気持ちになるわよね。引っ叩いちゃえば? って言うと、真理子が絶対怒るしねェ……」冗談のつもりだが、実際のところ自分なら殴っているかもしれない。「やり返すと先生も怒るから、やめな? ひなたがもっと嫌な気持ちになるよ」
理不尽なのである。こちらは何も悪くないのに、ちょっと反抗した瞬間、こちらのほうが悪者になってしまうのだから。
——昔から何も変わらない。
「ママ、ひなのことすきじゃないのかなぁ?」
「それはないわね。あの人、ひなたのことしか考えてなくて困っちゃうのよ。いつもいつも、世界を守るのも、ひなたのため。これは絶対」
「ほんとう?」
「ママから聞いたことだから間違いないわよ、安心して? それにお家に帰ってくると、いっつもひなたにチューしようとするでしょ」
「あれすごくいやなの」
吹き出してしまった。子どもは正直で残酷だ。たしかに嫌そうに拒否しているし、自分にも思い当たる節があるので気持ちはわからないでもない。「でもあれは、大好きの印だから。ひなたは心配しなくて良いわ。たぶんそのクラスの子、ひなたのことが羨ましいのよ」
「なんで?」
「ひなたのママはピンキー・マリーだから。強くて格好良い……かどうかはわからないけど、正義のヒーローでさ、モンスターやっつけてるの。すごくない?」
「すごい」
「可愛いランドセルも買ってくれて、朝も行ってらっしゃいって言ってくれるし、——」
「きょうはおねぼうさんだった」
「あー……たまには許してあげて? 疲れるのよ、年だから。でも美味しいご飯も作ってくれるでしょ?」
「ときどきおいしくないのもあるよ」
「それはしょうがないわ、誰にでも失敗はあるものよ」喋りながら、なぜ自分は今全力で真理子のフォローをしているのだろうかとふと疑問が湧いたが、気が付かなかったことにしようと思う。
「あとね、すぐわすれものするの。ゆきこママ、いっつもこまってたよ」
「それ、は……——」記憶では、人のことを偉そうには言えないはずである。「大丈夫、幸子ママも相当おっちょこちょいだったから」
「ほんとう?」
「ひなたが一番しっかりしてるわ」
この場所は日当たりも良くて暖かいはずなのに、なんだか寒気がする。もしかして、自分は怒られているのだろうか。
「でも、ひなた、ママのこと好きでしょう?」
「うん」
「そのクラスの子から見てるとさ、ひなたのママはきっとすごいママって感じがして、悔しいからひなたに意地悪言うんじゃないの?」
「そうかなぁ?」
「違ったらごめん。そうねェ……今日のこの頭、もしどうしたのって訊かれたら、シャイニーにやってもらったって答えてごらん? もしその子が意地悪言ってきたら、きっとアタシの言ってることは当たりだと思うわ」
「いってこなかったら?」
「そしたら意地悪されなくて済むんだから良くない?」
「そっか」
「大丈夫、今日はとびきり可愛いおまじないをかけてあるんだから無敵よ。自信持って行きなさい」
先ほど交番の巡査に借りてきた鏡をひなたに渡すと、ひなたはその中におめかしした自分の姿を見つけて目を輝かせた。「すごぉい!」
「特別仕様よ。これでひなたもモテモテねェ」
「ありがとう!」そのまま踊り出しそうな勢いで顔を左右に向ける。これだけ喜んでもらえるとこちらとしてもやり甲斐があるというものだ。「がっこういく!」
「行くの?」
「うん。行く」
「よし」
今度は明確に宣言したので横に立たせ、ランドセルを背負わせてやったが、ひなたはマントを掴んでまだ少し下を向いている。
「なぁに? まだ心配なことがある?」シャイニーはもう一度ひなたの前にしゃがんでそっと訊ねた。
「……チーフ、またおうちきてくれる?」
「呼んだ人のところに現れるのがヒーローですから」
「きょうは?」
「お家に帰ってからパパに訊いてごらん。パパが良いよって言ったら、呼んで?」
「わかった」
「でもね、ひなた、もしだけど、これから先、ひなたが学校とか、他の場所でも良いわ。もしもっと意地悪されたり、嫌だなって思うことがあったら、パパやママが良いよって言わなくても、アタシのこと呼んで?」
「……」
「絶対に行くから。約束するわ」
そう言って小指を出すと、ひなたはしばらくじっとそれを見つめ、それから再びシャイニーの顔に視線を戻した。
「……チーフも、ゆきこママのことすき?」
「え?」唐突に訊かれ、言葉に詰まる。ひなたはじいっとこちらを見つめて、その質問の答えを待っている。
『すき』?
すきって、何だろう? 嫌いは何となくわかるが、好きはよくわからない。いや、——。
——本当に自分はわかっていないのだろうか?
ひなたから返してもらった鏡にシャイニーが映っている。
「……」
家のブラウン管テレビの向こうにあの人を見て、いつかあんな大人になりたいと思った。そこにいるのが自分の母であることが、自分の誇りであって——。
——やめよう。
これ以上深く考えないほうが良い。少なくとも、今の自分は。
きっと自分の中でもう答えは出ていて、あとは認めるだけなのだ。でも、今それを認めてしまったら、自分は自分を苛む自分に勝てない気がする。
「……そりゃあね」ただ一つだけ、悔しくとも、これだけは認めざるを得ないことがある。「アタシのママ、最強のヒーローだったんだもの。今はアタシのほうが可愛いけど、世界で一番、格好良いママだったわよ」
鏡に映るその姿は自分であって、自分が最も憧れた人。
「ふぅん」
「内緒ね?」
「ふたりだけのひみつ?」
「そう、二人だけの秘密」
ひなたはニンマリと笑って、今度は自ら小指を出してきた。シャイニーがそこに小指を重ねると、覚えたての指切りの歌を口ずさみながら、指を切った。