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第二話 太陽を追う者(4)カレーライスの日

 ハッピー・シャイニーの復活から一ヶ月近くが経過しても、世の中のそれに対する騒がしさは収まらなかった。それはひとえに、数日に一度くらいのペースでモンスターが来襲し、討伐のために派遣されたヒーローの姿を都度マスコミが大々的に報じてしまうため、人の記憶からその話題が消えるということがないからである。

 シャイニーだけでなく、マリーや3号についても同様に取り上げられるため、三人は一躍お茶の間の人となってしまっていた。こうなると、世間からの扱いは売れっ子アイドルや有名俳優なんかと似たようなものになってしまう。ヒーローとして表に出ている際は顔を隠しているわけではないため、どんなに私生活で地味に目立たぬよう努めても、バレる人にはバレる。真理子自身、最近街中で声を掛けられたり、手を振られたりすることが多くなったと感じる。これまでもそういうことがなかったわけではないが、なんだか四六時中見知らぬ誰かに見られていると思うと落ち着かない。炎上していたSNSがいつの間にか沈静化していたのは良かったのだが。

 意外だったのは、3号である。3号もシャイニー同様、過去から蘇ったヒーローだ。シャイニーのほうに注目が集まりがちではあるが、3号にも昔ファンだったという層が一定数おり、初日の討伐任務のことがニュースで流れた時、彼らはそこに映っているのが三十年前と同じ人物であることに気付いた。ヒーロースーツの形状は違えど、昔と変わらぬその勇姿に人は喝采を送った。

 ところがそれを3号自身——葵は快く思っていないらしい。真理子からすると理解不能だが、葵は自分のことを「劣化している」と言う。

「スピードも落ちたし、体力も落ちたし、何より跳べないのが気に入らない」

 どこが、と真理子は目が点になってしまう。お茶の間の反応もきっと同じだろうし、今のところ誰も3号のことを咎めたりはしていない。むしろ今、最も戦闘能力が高く、前線において指揮を執ることができる重要な存在となっているのは3号である。おまけにこれで真理子より約一回りも年上だと言うのだから開いた口が塞がらない。

 しかし、葵は不服そうな顔を変えない。

「昔も釘を刺したのに、また同じ状況……もううんざり」

 そう言う彼女は開いたロッカーの扉に隠れてしまって見えないが、おそらく相当にむくれている。そんな様子を見ていて、彼女が本当に気に入らないのはこっちでは、と真理子は思う。

 真理子の記憶にはないが、葵の話によると、三十年前に幸子のシャイニーと組んでいた頃から、一部のファンの中にとある思想があったのだという。

 それは『ハッピー・シャイニーは史上最強のハリボテ』というもの。

「幸子さんはたしかに凄かったよ。それは一緒に前線に出ていたら誰でもそう思うはずだし、私以外のヒーローだってみんなそう思ってた。でもリアルな話、かなりドジだったし、一番ヤバかったのは、背中がガラ空きだったの。だからそのフォローをするのが私の務めだと思ってた」

 ヒーローにはヒーローの得意な戦法というものがあるし、当然だが苦手なものもある。元々遠距離型の武器が得意だったという葵は、常にシャイニーの背中を守る存在として後衛を務めており、真理子の記憶にあるイメージもそのとおりである。視界の外から攻撃されて、気が付いた時には勝負が決まっているような、ハンターみたいな戦い方をする人。

「私は私がそうしたいからそうしてた。でも、世間にはそう見てくれない人もいたのね。8号は3号なしではただのハリボテヒーローなのに何がそんなに凄いのかって、まァ要するに妬みよ。今で言うとさ、自分の推しより人気があるキャラが面白くないって感じ?」アホくさ、と葵は溜め息を漏らしながら頭を振る。「調子に乗るなって、面と向かって言われたこともあるわ。幸子さんは笑ってたけど、私は頭に来ちゃってね。なんか、()()品位を落とされたような気がして、腹が立ってしょうがなくてさァ、『ふざけんな。そんなファンならいらねェわ』って言っちゃった」

 全国版の生放送でね、と葵は笑っているが、実際にやられたらテレビ局も会社関係者も顔面蒼白ものである。おそらく幸子が止める間もなかったのだろう。昔から葵はそういう人だったのだなと安心はするが。

「英斗はさ……——」着替えを終え、ロッカーの戸をそっと閉めた葵は、そこに右手を添えたまま少し静かな口調で話す。「あの見た目だから目立つじゃない? だからちょっと、心配は心配なんだよね。シャイニーのほうはアレだけど……私生活のほうに、支障が出ないかって。あの子のことだからきっとそういうの言わないでしょうし」

「……そうね」

「ま、そのうちまた言うけどね。公式に、ちゃんと」

「え……『そんなファンならいらない』って?」

「だって本当にいらないもの」

 葵はあっけらかんと言い放つが、そこに浮かんだ笑みは、いつも討伐に出た時に3号がモンスターに対して向けているのと種類が同じだと感じて、寒気がした。彼女ほどの表と裏の能力があれば、容易く消し去ることもできてしまうような気がする。本当の意味で。

「真理子ちゃんは? 変わりない?」

 次の言葉が発せられた時、その顔は気さくな普段の葵に戻っていた。彼女はチーフと同様に元の黒衣としての立場を維持したままヒーローを兼任しているため、相変わらず変身を解くと全身真っ黒の服になってしまうが、黒衣としての仕事していない時は素の鷹野葵として真理子と話をしてくれるようになった。

 真理子は一瞬考えて、答える。

「まァ……何も変わってないわけじゃないけど、あたしは別に平気よ。元気だし。ただ……——」

 そこで口籠ってしまった真理子に、葵は小さく首を傾げる。「どうかした? どっか調子悪い?」

「ううん、違う違う!」慌てて頭と両手を左右に振る。「体は(すこぶ)る元気よ、ホント! じゃなくて、その……あたし、チーフと、ちゃんと話せてなくて……」

 葵はキョトンとしている。

 前線に出るようになって約一ヶ月、必ずと言って良いほど三人まとめて現場に送り出されるため、戻ってきてからの行動もたいてい同じで、葵とはこうして更衣室で着替えをしながらよくたわいもない話をするようになった。そのおかげで、自分の中で葵に対する印象がだいぶ変わったと感じている。非常に口が悪いのはひとまず置いておくとして、真理子にとって『訳のわからない怪人』から『頼れる葵姐さん』になったのは間違いない。

 が、チーフのほうはそういうわけにはいかない。

「アタシがそっちに入ったら捕まる」——それはそうだ。チーフはあれで男性だ、女性用更衣室で仲良くお着替えはマズい。もっとも、あの姿で男性用更衣室を出入りしているのを他の男性が見たらどう思うのだろうかという素朴な疑問も真理子の中にはあるのだが。

 そんなこんなで、真理子の着替えが終わる頃にはチーフはとっくに報告やら何やらという内側の仕事に追われるように戻ってしまっていて、この一ヶ月、まったく仕事以外の話をしていないのである。

 幸子のこともあるし、葵から聞いた話のこともあるし、どうしてもチーフと話をしなければならないという思いは持ち続けている。それなのに、言いたいことも、言わなければならないことも全部宙にぶら下がったまま、ひと月もの間消化不良を起こしている。

「店にいるよ」

「え?」真理子は目を丸くする。「店って、Eightのこと?」

「あら、真理子ちゃん、知らないのか」葵の声が上擦る。「結局あの子、あの店手放さなかったんだよね」

「そう、なの……?」

 ええ、と頷きながら葵は垂れた袖口を顎に当てて頭を傾ける。「ビルの賃料は入ってくるし? あと会社から近いから仮眠室にちょうど良いとか言ってたけど、本当のところはどうなんだか」

 喋りながらくすくすと笑っている彼女は、きっとその真意まで既にお見通しなのだろう。

 意外だった。あのチーフのことだからてっきりもう処分してしまったのだと思っていた。幸子の亡き後、今日まであの店には行けずじまいだったが、真理子にとってもあの店は特別な思い出が詰まった場所だ。可能なら最後にもう一度、お別れくらい言いに行きたかったと心残りはあった。

「……」

「今日もいると思うよ? 私は、行かないから」お先に、と左の袖を振って、葵は更衣室を出て行った。

 二人で話ができるよう気を遣ってくれたのだと悟った。ありがとう、と言おうとすぐに後を追ってドアを開けたが、既に彼女の姿は廊下になかった。

 真理子は急いで残りの着替えを済ませると、鞄を引っ提げて更衣室を飛び出した。




 季節はすっかり春を過ぎ、そろそろ気の早い夏の足音が聞こえてきそうではあるが、日が暮れた後の風はまだまだ肌寒い。真理子は着てきたパーカーを丸めて小脇に抱えながら久方ぶりのEightへの道を疾走した。あれだけほぼ毎日通っていたはずの道なのに、その景色はなんだかひどく懐かしいもののように感じる。

 葵の言ったとおり店だった場所はそのままそこにあったが、電気も点いていなければ看板も出ておらず、既に閉めた店というのは一目瞭然であった。

 上がった息を整えながら顔の両側に垂れてくる汗を拭い、迷わず店の扉に手を掛けた。ほんの少し戸を引いただけで、懐かしいドアカウベルの音が真理子を出迎えてくれる。幸子の代わりに、おかえりと言ってくれているような気がした。

 廊下は暗いが、その奥から薄ぼんやりと灯りが漏れている。本当に、葵の情報の正確さには感服する。

 胸元の衣服を摘んで仰ぎながら息を吐く。勢いでここまで来てしまったが、はてさて一体何から話せば良いのか。いきなりやってきて、チーフが怒って会話にならなかったらどうしよう——今さらそんなことばかり頭を(よぎ)っていくが、足だけは反して前に進んでいってしまう。

 そうだ、まずは幸子に線香をあげたいというところから入ろう。それならばチーフもまさか駄目とは言わないはず——そう懸命に考え、意を決して灯りの点いた空間に足を踏み入れた瞬間、真理子の思考は全部吹き飛んでしまった。


「……何、してるの?」


 これは見間違い?

 金髪の綺麗なお姐さんが、少しチャラそうな風貌の男性を床に捻り倒し、片足で彼を踏んづけながら電話をしている。

「はい、お願いします」

 耳に当てた電話に向かって発するその非常に冷淡な声は間違いなくチーフのものである。舌打ちをしながら電話を切ってポケットに突っ込んだチーフは漸く真理子のほうに視線を流す。「何しに来たの?」

「あ、いや……御線香を、あげたくて……」なんだかものすごく頓珍漢(とんちんかん)なことを言っている気がするが、チーフは会社でデスクに座っている時と何ら変わらぬ口調で平然と返してくる。

「ああ、ちょっと待っててもらって良い? 今手ぇ離せないのよね」

 それは見ればわかる。

 というかこの下敷きになっている人は誰? これはどういう状況なの? 考えたくはないけどそういうプレイなの? 線香なんてどうでも良いからその辺りをまず説明してもらいたい。

「イタタタタ……いやあ、参った参った。オネーサン強いねえ」

 腕をおかしな方向に曲げられながらも、床に伏したままの男はへらへらと笑っている。

「黙れよ、耳が腐る。喋んならポリ公と喋んな」チーフは驚くほど口が悪いし目つきが怖い。討伐に行っている時よりも怖いし、何なら真理子のことを叱っている時よりも断然、数百倍怖い。

「あ……あの……——」真理子は勇気を振り絞って声を出す。「お取り込み中申し訳ないんですけど、そ……その人は、誰……ですか?」

「変態不法侵入者」

「は?」

 さらに訳がわからなくなってしまった真理子をよそに、再び下敷きになっている男がへらへらと口を開く。「やだなあ、変態って、オレ何にもしてないじゃない」

「ああ、そうだったな。されるまで待ってたほうがテメェの罪が重くなって良かったかもな」

「待って待って。どういうことなの? お知り合い?」

「んなわけないでしょ」チーフは呆れたように溜め息を吐く。「そこで寝てて、起きたらコイツがいたから、とっちめただけ」

「はァ⁉︎」思わず声を上げてしまった。聞き違いかと思うほどチーフはさらりと答えたが、それって結構危ないというか、普通に犯罪では?

「だから間違ってないでしょ? 変態不法侵入者」

「いやあ、みんなあんたのこと『劣化版』って言うし、女の子なら大したことないかなって思ってたんだけど、やっぱヒーローは違うんだねえ」

「それでライター気取ってんの?」チーフは鼻で笑っている。「アンタ向いてないよ。弱いし。留置所で次の仕事考えな」 

「この仕事ラクで良いんだよ。目ぇ引きそうな見出しだけ考えといたら中身適当でもみんな見てくれるしさ」

「じゃあ二度とガセネタ書かねぇようにこのまま腕逝っとくか?」チーフはニコニコしているが全然目が笑っていないし、真理子が見たことのないくらいに機嫌が悪いのは醸し出すオーラでわかる。「アンタ他所(よそ)でもこんなことしてんの? そのうち死んじゃうよォ?」

「イタタタタ! ちょっ、勘弁して折れるからホント……なあ、オバサン! この人何とかしてよ!」

 急に男は真理子に助けを求めてきたが、呼び方が間違っているので相手をしないことに決めた。「折れる前にお巡りさんが来てくれると良いわね」

 チーフのことだから本当に折る気はないだろう、とそういう返事に留めたが、それを聞いたチーフは声を上げて笑った。そんな風に笑える人だったのかと驚くくらい、楽しげに。

「くっそ、ヒーローのくせに一般人に暴力振るって良いのかよ⁉︎」

「どの口が言ってんのよ!」悪びれる様子もなく開き直った男に、真理子は自分のお説教スイッチが入ったのを感じた。「だいたいあんた何しに来たわけ? ここもう営業してないってわからなかったの?」

「別に飲みに来たんじゃないから。オレは、噂を確かめに来ただけ」

「噂?」

「伝説の劣化版コピーがホントはどんな奴か載せたらバズり間違いなしだろ? だからずっと張ってたの」

 要するにこの男は、巷を賑わせる現ハッピー・シャイニーの正体を調べて面白おかしくネットに載せようという魂胆でチーフの周囲を彷徨(うろつ)き、最終的にここに侵入して鉢合わせたということだ。

「一番面白いのはあんたが男なんじゃないかって噂だったんだけど、普通に良い女じゃんね」

「きめェこと言ってんなよ、糞野郎、本気で潰すぞ?」

「ああぁ待って無理無理無理、アンタにはわかんないだろうけどさ、ホント痛いんだから、死んじゃうから!」

「アンタみたいな糞の遺伝子残す価値ないし、悪いけど男の『急所』のことくらい知ってんだわ」

 それはそうだ、ということを知っているのはこの場では真理子だけである。

「ずっと張ってたのはご苦労だったけど、アンタ才能ないよ。ちょっと前から周りウロウロしてんの、バレバレだったしね」

「へ?」予想外の言葉に、真理子は腑抜けた声を上げてしまった。「あんた気付いててほっといてたわけ?」

「そうよ。まァ頑張ってたしねェ、ご褒美に一発くらいヤらせてあげたら良かったかなァ?」

「やめなさい‼︎」

 ふざけて遊んでいるのはわかるが、個人的に、その可愛らしい人形み溢れる姿で言わないでほしいし、親が聞いたら泣く。

 真理子は組み伏せられている男の顔のほうに歩いていって腰を下ろした。よく見るとまだ三十にもなっていないくらいの若い青年である。「あのねェ、あんたがやってたのはただのストーカーよ? それに他人のプライバシーを根掘り葉掘り調べたり、好き勝手嘘の話作ってネットにばら撒いちゃダメ」

「なんで?」青年はキョトンとしている。「良いじゃん、別に」

「は? 良くないでしょ。嘘が本当みたいに一人歩きしちゃうのよ? それで嫌な思いする人だっているのよ?」

「だから? フィクションだよ? 小説とか新聞とか、同じだろ? エンターテイメントだよ。楽しんでくれる人たくさんいるし、ネタにされたほうは有名になれてさ、オレは金がもらえる。みんなハッピーじゃん」

 勝手に信じるほうが馬鹿でしょ、と平然と言ってのける彼は本当に何が悪いのか理解できていない様子で、真理子は唖然としてしまった。おそらくまるで話が通じていない。

 こういう子にはどう言い聞かせたら理解を得られるのだろう? 真理子が必死に次の言葉を探していると、先ほどから黙ってやり取りを見下ろしていたチーフがふっと息を吸ったのが聞こえた。

「……じゃあアタシも、キミの家族にちゃちゃっと稼いでもらおっかなァ」

 頭の上のほうから嫌な抑揚のついた声が降ってきて、真理子は一瞬で総毛立ってしまった。恐る恐る顔を上げると、チーフがニコニコしながら青年の顔を上から覗き込んでいた。おまけに真理子の位置からだとちょうど照明の影になって顔が暗いため、怖さが倍増している。

「は? オレの家族って……——」明らかにこれまでと聞こえてくる声の調子が違うからか、青年は急にあたふたし始めた。

「キミがアタシの周りをのんびり彷徨いてる間に、実はもう結構調べちゃってるんだよね」

「え……は? 何言って——」

「キミ、妹さんいるでしょ。可愛いよねェ、二十二歳? K大卒なんて頭も良いのねェ、お兄ちゃんと大違い。卒業式終わったからかなァ、最近ショートにしたでしょう。あれもよく似合ってるよねェ、アタシ結構好きよ?」

 突然ベラベラと並べられ始めた個人情報の数々は、それを聞いた青年の顔色がみるみる蒼くなっていくのを見るとすべて真実なのだろう。真理子でも驚いてしまうような些細なことまでチーフは調査済みで、おそらく情報元は葵だろうとすぐ察しはついたが、これが自分のことだったらと思うと恐ろしい。

「周りがみィんなパパ活してんのに、妹さんだけはしてなかったみたいねェ、バイトは近所のカフェと、塾講師? アンタ誕生日に時計貰ったんでしょう。健気な妹さんじゃない。それが今夜から犯罪者の妹になるわけだ? 可哀想にねェ、せっかく就職決まってんのに大好きなお兄ちゃんのせいでパァになっちゃって」青年は動揺と困惑を隠せずにいるが、構わずチーフはさらにグロテスクな方向に話を続ける。「ま、でもそういう生粋の清楚系優等生とかさァ……アハハ、()かせたらどんな顔するんだろうねェ? 楽しそうだよねェ、案外イイ顔しそうだし、きっと売れるよ? そういう(ツテ)もあるから、就職先困ったら紹介してあげても良いよ」

「テメェ、ふざけんな! なんでそんなこと——」

「ああ、名前もわかるけど教えてあげようか? ()()()()()。キっていう字は兄妹でお揃いなんだねェ。ご両親の嗜好かなァ?」

「おいやめろ‼︎」青年はどうにかして抵抗しようと身動ぐもののまったく抜け出すことができない。「——ッざけんな、関係ねェだろオレの家族はテメェに——」

「関係ないよ、()()()()()ね。でもキミの理論だとはたから見て需要があれば良いわけでしょ? 十分あると思うよォ、キミの妹さん」そう言うと、チーフはゆっくりと腰を屈めて青年の耳元で囁いた。「キミも男ならわかるよね? どうせヤるならカワイイ子とヤリたいじゃない? ……ギャップのある子は(たぎ)るよねェ……」

 本気じゃない。そう信じたいが、その子どものような無邪気なまでの笑顔が言葉のリアリティに拍車をかける。チーフの中身が男だとわかっているからなのか、余計に怖くて止めることもできない。いっそこの場から逃げ出してしまいたいくらいの空気だが、体が硬直して動くこともできず、ただ目の前で繰り広げられるその様子を傍観するしかない。

 青年の腕が震えているのがわかった。途端にチーフは抑えていたその腕を離して立ち上がり、青年の体を蹴り飛ばして仰向けにすると、一瞬のうちにその上に馬乗りになって両手で胸倉を掴み、ぐいと自分のほうに引き寄せた。

「あのさァ……」チーフは気怠そうに溜め息のような低い声を出した。「兄ちゃんならもうちょっと格好良く生きろよ。アタシ、アンタの妹なんかこれっぽっちも興味ないしアンタが何書こうとどうでも良いけど、他人(ひと)の恨み買うとそういう可能性もあるのは覚えときな。マジのヤバいとこに首突っ込んじゃったら、今頃妹ヤラれて山ん中だよ? アタシみたいに待っててくんないからね?」

 凄まれて、青年は何度も頭を縦に振る。しばらくその様子をじいっと見ていたチーフはやがて軽く舌打ちをして、胸倉を掴んでいた手を雑に離すとソファのほうに歩いていってしまった。

 僅かに流れる静寂の間は、直後に聞こえてきた数人分の足音で消し去られる。割れるようなドアカウベルの音と共に、警察の制服を来た三人組が店の中に入ってきた。

 それ、とチーフが青年を指し、三人組のうちの二人が青年を両側から抱きかかえるように立ち上がらせている。

「怪我はありませんか?」

 もう一人がそう言って、座り込む真理子に手を差し出してくれた。茫然としてしまい、何と答えれば良いのか悩んでしまった。ぎこちなく返事をしながら手を取って立ち上がろうとした時、自分の膝が笑っていることに初めて気付いた。

「通報していただいたのは?」

「アタシです」と、至って冷静なチーフは自分の身分証明書と思われるものを警察官に渡した。チーフより俄然がたいの良い警察官の視線が、その受け取った小さな証明書とチーフの顔との間を行ったり来たりしている。おそらくそこに書かれた真実と、自分の目が映し出す真実とが合致せず、困惑しているのだと思う。その反応にも慣れているのか、チーフには何の変化も見られないのだが。

「……ねえ」

 声を上げたのは、両脇を警察官に抱えられ、すっかり借りてきた猫のように大人しくなってしまった青年だった。

 ぬるりと振り返ったチーフに向かって、青年は質問をする。

「妹に何かしない?」

「しないわよ。興味ないし」してほしいんならするけど、とチーフが言うと、すぐに青年は犬みたいに頭をぶるぶると振って否定した。「ま、アンタがどっかでおかしなことしてたら考えるわ。ああ、妹可愛いのは本当だから、せめて虫払えるくらいは強くなんないと、アンタ今のままじゃ糞以下のただのゴミカスよ?」

「あんた本当に女なの?」

「……——」

「性別がどっちって、そんな大事?」

 おそらく、チーフは正直に答えようとしたのだと思う。だが、口を開きかけたその一瞬に、真理子が割って入ってしまった。

 話を遮られて一番驚いた顔をしていたのは、意外にもチーフだった。が、真理子は構わず続ける。「シャイニーは、アレがシャイニーだし、この人はこの人なの。男でも女でも、何なら馬でも鹿でも何も変わらないわ。何か問題ある?」

「……」

 警察官はチーフの身分証明書によってこちらがヒーローであることを認識したからか、非常に対応が良かった。二人がそのまま青年を連れて帰り、もう一人の警察官が残っていくつかの質問をしてきたくらいで、その彼も程なくして帰っていった。何も盗られていないし、何かされたわけでもないから大事にしなくて良いとチーフが言ったからだろう。

「たぶんね、少しは考えを改めてくれると思うんで……ただもし可能なら、一晩でも二晩でも良いので、できるだけ長く檻の中に入れといてビビらせてから帰してほしいんですよね」

 チーフがそんなことを頼むと、警察官は数回目をぱちぱちとさせてから笑い出した。堅物そうな顔をして、そういう冗談はきちんと通じる人だったようだ。

「申し訳なかったですね、こんな夜分に来てもらって」

「いえ、それが仕事ですから。お勤めご苦労様です」

「お互いにね」

 見送りのドアカウベルの音が静寂に吸い込まれ、一気に体が重くなる。チーフですら、その場に立ち尽くしたまま長く息を吐き、背中を少し丸めて項垂れている。

 妙な空気が滞留している。先ほどまでのやり取りをふと思い出してしまった真理子は急に胃の辺りを掴まれたような感覚に陥った。チーフがどんな顔でこちらを振り返るのかが、怖い。

 気まずさに耐えられず、カウンターの椅子に座ったまま辺りを見回す。とにかくまずは気持ちを落ち着かせてから、自分が今夜何をしにここへ来たのだったか順を追って整理したい。

 音を立てないようそっと椅子を下り、カウンターの中に入る。ホテルでよく見かけるミニサイズの冷蔵庫はほぼ空っぽ状態であったが、子ども用サイズ程度の一〇〇%オレンジジュースの紙パックが三つと、いつ挽いたのかわからない粉末状の珈琲豆が入っていた。両方とも、幸子が飲んでいるイメージのない飲み物である。

 チーフ、と呼んでみると、相変わらず立ったままのチーフがゆっくりとこちらを向いた。気が抜けてしまったのか、意外にもこちらを向いたその顔はなんだか眠たそうに見えた。

「……何にもないけど、何か飲む?」

 そう声を掛けると、チーフは少しあって、うん、と一つ頷いた。

 真理子が再びカウンターの下を覗き込んで冷蔵庫を開けていると、チーフのヒールが近づいてくるのが聞こえたが、足を引き摺っているのかぺたぺたという感触の音がして、聞き慣れた軽快さはまるでない。顔を上げるとカウンターの向こう側に無表情のチーフがカウンターの木目を見つめて立っていたが、本当に眠そうな目つきをしているし、いつも会社で真理子の前にいる時のような凛々しさはどこにも見当たらない。

「……ジュースもあるけど、チーフは珈琲よね?」

「オレンジ」

「え?」

「オレンジジュースが良い」

 想定外の返答に、真理子は戸惑いながらもオレンジジュースの小さな紙パックを冷蔵庫から出して渡した。

「ありがと」と受け取るとチーフは椅子によじ上り、無言でパックに貼り付いているストローを突き刺して行儀良くそれを飲んでいる。その姿は何かの小動物のようで、つい先ほどまで『変態不法侵入者』を相手に凄んでいた雰囲気は欠片も残っていない。それが何とも珍しく、見ていて面白くなってしまった真理子は、自分の分の茶を淹れることも忘れてぼんやりと見入ってしまっていた。

「……チーフはオレンジジュースが好きなの?」

 思わずそんな質問が漏れてしまったが、チーフはぼうっとしながらも首を一回だけ縦に振って、相変わらずストローを口に突っ込んでいる。

 真理子にじっと見られていてもチーフは飲み終わるまで一言も声を発しなかったが、やがて空になった紙パックを解体して小さくし始めた時に、漸く口を開いた。

「ありがとう、……ええっと……何しに来たんだっけ? ああ、御線香ね。どうぞ、もう、勝手にしてって」

 チーフは独り言のようにそう呟きながらぺしゃんこに潰した紙パックをゴミ箱に投げ入れると、店の奥にある細い木製の階段の電気を点けて上がっていった。そこに階段があることはずっと知ってはいたが、真理子がこれを上るのは初めてである。

 踏み代が思いのほか狭い昔ながらのとても急な階段に、ふと祖父母の家を思い出す。足を掛ける度にギシギシと音を立てるのが少し怖い。先に行ってしまったチーフを追って上がり切ると、そこには部屋が一つあるだけだった。ざっと見渡すと、ベッドとタンス、小さなドレッサー、そして間仕切りがわりの本棚がその空間に詰まっていて、決して広いとは思えないが一人でいるには十分だろう。一昔前の映画に出てくる屋根裏の秘密基地のようだと思った。何となく、幸子の匂いがする。

「ごめん、いろいろ面倒だから、御線香なんて買ってないのよ」そう言ってチーフが指したタンスの上に、位牌と写真が置いてあった。写真の中の幸子は、真理子の記憶にある姿より若干、若いような気がする。「本当は店に置いたほうが良いのかもしれないんだけど……あると、寝づらいのよね。アタシが」

 好きにして良いから、と言い残し、チーフは真理子を部屋に置いて先に下へ降りていってしまった。

 一人残された真理子は再び部屋を見回した。ここは『幸子ママ』ではなく『幸子』の空間だったのだなと感じる。ふと目に止まった本棚には数冊の本と共に古そうなアルバムや、二十年近く昔に創刊された雑誌が並んでいた。中を見ようとは思わないが、何となく、そこには幸子が生前ずっと「ない」と言い続けていた息子の写真や、その息子がヒーローとして活躍していた時の記事が収められているのではないかと、真理子は思った。

 位牌の前で静かに手を合わせ、心の中で思いの丈を語る。ごめんなさいも、ありがとうも、何も伝えられないまま旅立たれてしまったが、少しでも届いていることを願う。


 ——約束するよ。ママ。

 自分は、自分の欲しいものすべて、幸せにしてみせると。


 まず手始めにやらねばならぬことがある。真理子は気持ちを奮い、部屋を後にした。急な階段を降りていくと、チーフは椅子に座ってカウンターに突っ伏していた。

 何度か声を掛けてみたが反応がない。そういえばあの青年が現れるまで寝ていたと言っていたことを思い出した真理子は、もしかして本当に眠かったのかもしれないと思い直した。

 本当はもう少し話がしたかったが、想定外の事件もあったから仕方がない。気を遣ってくれた葵には申し訳ないが、幸子に挨拶だけはできたし今日はこれで引き上げようと、ソファの隅でくしゃくしゃになっているチーフのものと思われるスプリングコートを持ってきて上から掛けてやった。

 が、その瞬間、それに反応したチーフが飛び起きてしまった。あまりの驚きように真理子もひっくり返りそうになるほどびっくりしてしまい、声も出ない。

 二人して互いの顔を見合って硬直。ひたすらに、瞬き。

「あ……ごめん、もう、良いの?」しばらくの後、漸くチーフがぎこちなく言葉を発した。

「ええ、ありがとう……ごめん、起こした?」

「……いえ。大丈夫」チーフは小さく首を横に振り、長い髪を手櫛で整えている。「早く帰ったほうが良いよ、真理子。遅くなっちゃったし。ごめんなさいね、面倒に巻き込んでしまって」

「え? あー……それは大丈夫だから、心配しなくて良いけど……」

 真理子はそう答えながらもどこか気持ちが悪いと感じていた。というか、さっきからずっと気持ちが悪いのである。

 ——何だろう?

 ものすごく違和感がある。何だかわからないが、変な会話、不自然。あたしって、チーフと話す時こんなだったっけ? あたしが話をしているのはチーフなのよね?

 チーフってこんなだったっけ?

「あの、チーフ。あたし……——」

「ああ、どこか、近くまで送ろうか?」チーフは真理子の言葉も聞かず、椅子から立ち上がり、掛けてやったコートに袖を通している。「アンタには不要かもしれないけどこれでも一応男だしいないよりマシかも」

 その背中を見ていて、あ、これはダメだ、と思った。勘である。長い髪を巻き込んでしまっているらしく、なぜか自分のコートを着るのにすら苦戦している。

「……チーフ、こっち向いて?」

 真理子は小さな子どものようにまごついているチーフを振り向かせて、髪を整えてコートを綺麗に着せてやった。抵抗もせず大人しく言うことを聞いてくれたため、見た感じはとりあえず、いつもの美人な自分の上司にすぐ戻せたと思う。

 が、このままではやっぱり駄目だろう。真理子は相変わらず目をぱちくりさせてばかりのチーフに向かって言う。

「そうね、ちょっとついてきて」


* * *


 真理子から鞄を押し付けられ、店から強制的に追い出されたチーフは、勝手に戸締りをする真理子にどこへ行くのかと訊ねた。が、相変わらず話を聞いているのかいないのか、真理子は重たい鍵束を返してきただけでさっさと夜道に繰り出してしまい、チーフは後についていく他なかった。

 自分の少し前をずんずん歩いていく距離が全然『ちょっと』ではないと気付いたのは、大通りに出てすぐに真理子がタクシーを拾った時である。近くまで送ってほしくて連れ出されたのではないというのは最初に言われた時から察してはいたが、まさか車に乗せられるとは想像しておらず、正直戸惑った。

「ねェ待って、どこ行くの?」

 真理子はやはり質問には答えず、ドアの前で振り向くチーフを尻で無理矢理に中へと押し込むと、運転手に車を出すよう言った。誘拐とか拉致という言葉がぴったりである。

 告げられた行き先は三つ隣の駅の名前でさらに訳がわからず、車内でも再三質問をしたが、真理子は黙ってついて来れば良いとしか言わない。これから先自分の身に起こることがまったく想像できず、不安だけが募る。普段あんなにお喋りな真理子が口を利かないというのもそれを増長させる要因の一つだ。

 運転手に告げていた駅の少し手前から真理子は右だの左だのと指示を出し始め、人気も明かりもない住宅街の真ん中でタクシーを降りた。暗いせいもあるだろうが、まったく見覚えのない街並みである。

「早く、こっち」

 左右を見渡す暇さえ与えられないまま、真理子に腕を引っ張られて近くのマンションに連れ込まれた。問答無用でエレベーターに乗せられ、降ろされ、鍵の掛かっていない角部屋のドアを開けたところで『鈴木』の表札が一瞬だけ見えた。

 ——え、ここって……——

 口を開きかけたのに中まで引き摺り込まれてドアを閉められ、鍵を掛けられ、チェーンまで掛けられた。その一連の流れの早いこと。状況を飲み込むことすらできていない。

「ただいまー!」

 真理子は大声でそう叫びながら、靴を脱ぎ散らかして廊下に上がる。すると奥からパタパタと小さな足音が聞こえ、現れたのはこの夜分に到底ふさわしくないパジャマ姿の少女であった。

「おかえり、ママ」

「ただいま、ひなたぁー! 起きて待っててくれたのォ? ありがとォねェ」真理子はそう言いながら少女に抱きつこうとしているが、肝心の少女は眠そうな目を擦りながらもその熱烈な抱擁とチューを全力で拒否している。

 手を洗えという少女の指摘を受け、真理子はすぐに部屋の中へと消えていった。その光景をただただ玄関に立ち尽くしたまま呆然と見ていたチーフに、少女の視線が刺さる。

「……こんばんは」

「こんばんは」チーフが挨拶をすると、少女は可愛らしい声で挨拶を返してきた。それ以上近寄ってはこないが、細い両腕で大きなウサギのぬいぐるみを抱え、まじまじと自分を見上げる小さなどんぐりのような瞳は、自分の部下のそれとよく似ている。

 気まずい空気が邪魔をして頭が働かず、自分が置かれた状況を咀嚼できない。こういう場合、どうするのが最適解なのだろう?

「……ママを、呼んできてもらえる?」

 はい、と素直に頷いて部屋の奥に駆けていった娘は、程なくしてママを連れて再び現れた。

 が。

「なんでそんなとこに突っ立ってんのよ、早く来て」

 真理子は持ち前の話を聞かないスキルを発動させて、強引にチーフの手を引いて部屋の中まで連れ込むと、あろうことか娘に「コートを脱がせて手洗いうがいをさせてそこに座らせておいて」と指示を出し、またどこかへ行ってしまった。

 帰るにも帰れない。

「どうぞ」気が付くと娘が下からハンガーを差し出していた。

「……ありがとう」

「せんめんじょはあっちです」

 ハンガーに通したコートをくださいと言われたが、さすがに幼子に渡すには長すぎるため、指定されたところに自分で吊るした。案内された『せんめんじょ』で言われたとおりに手を洗って言われたとおりにうがいをして、「ここにすわって」と言われたところに大人しく座った。前々から娘は真理子よりしっかり者だと聞いてはいたが、本当にそのとおりである。本当にこれで小学一年生? 何だろう、弱冠六歳にして、この気迫。不思議と、この子には絶対に逆らってはいけないという気にさせてくる。

 漸く娘がどこかへ行って、ダイニングで一人になれたので、なぜこんなことになっているのかという疑問と改めて闘う。が、隣の椅子には娘が座らせていった大きなウサギのぬいぐるみがおり、何とも居心地が悪い。

 ——帰りたい。

 何もかもが経験不足である。帰ってきた家の中が暖かいことも、おかえりという返事も、自分ではない誰かが立てる生活音も、全部だ。

 ふと鼻をつく、他人の家の匂い。

 たぶん、自分は緊張している。息がしづらい。ここはお前の存在して良い場所ではないと、纏う空気すべてがそう言って全身を刺してくる。一刻も早くこの空間から消えたい。そうでないと自分がもたない。

「ねえ、ママ」椅子に座っていると、キッチンのほうから無邪気に訊ねる娘の声が聞こえてくる。「あのひとはだれ?」

「ママの友達」呑気に答えているのは真理子だ。行き先も告げずに強引に連れて来たくせに今度はほったらかしとは本当に良い度胸をしている。一体何を考えているのかまったく理解できない。人のことを何だと思って……——


 ——待て待て。

 友達って、何だ?


「あの人のおかげでひなの卒園式に行けたのよ」真理子は構わず喋り続けている。「ひなのお誕生日とかもさーァ? 去年の。あとひながお熱出した時とか、ママすぐお迎え行けたでしょ? あれもあの人のおかげだし、ママが悪い奴と戦って、ちゃぁんとお家に帰ってこられるのも、あの人のおかげ」

 ——なんでそんな余計な説明ばっかり……!

 心の声に耐えられなくなって立ち上がろうとしたその時、キッチンから小さな足音がやってきた。

「すずきひなたです。ママがいつもおせわになっています」

 ひなたは中腰のチーフの前に立って、明瞭にそう自己紹介をした。それを見て、喉元まで出掛かっていた文句や訂正の言葉たちは一瞬にして行き場を失ってしまった。

「……」

「こっちはウサギのサクラです」続けてひなたは隣の椅子に座っていたウサギのぬいぐるみを手に取り、そう言って紹介してくれる。薄らと青みがかった毛色で、片耳の付け根に白いリボンが付いている。

 よろしくと向けられる無垢な眼差しに、チーフはとうとう諦めて椅子に座り直し、娘のほうに向き直った。

「……はじめまして。ママの……ママと同じお仕事をしている人です」子ども相手に自分のことを何と説明すれば良いのかわからず、そう回答するのが精一杯であった。

「ママとおんなじ?」途端に娘は目を輝かせる。「ヒーローなの? へんしんする?」

「……はい。します。最近は」

「なにいろのヒーロー? おなまえは? つおい? このほんにのってる?」宝石のようなキラキラの瞳で前屈みになりながら次々に質問してくるその姿からは、先ほどまでの大人びた印象はすっかり失われ、年相応の子どもらしさが垣間見える。

 戸惑いながらも辿々(たどたど)しく回答していると、キッチンのほうからエプロン姿の男性が姿を現した。

「すみません、ご挨拶が遅くなってしまって」

 初めて見るが、これが真理子の旦那だろうことはすぐに察しがついた。筋骨隆々、とまではいかないが比較的がたいが良く、季節外れの小麦色の肌。自分が見上げるくらいだから一八〇センチ以上あるかもしれない。あと、十中八九、真理子のセンスのせいだと思うが、まったくエプロンが似合っていない。

 立ち上がって差し障りのない挨拶をすると、彼はとても腰が低く、何度も頭を下げてきて申し訳ない気持ちになった。頭を下げるのはこっちの役目だ。こんな夜中に家にやってきた訳のわからない人間のこともそうだが、それ以前の問題である。

 真理子をよろしく、と彼は再び丁寧に頭を下げると、娘とウサギを寝室に連行していった。

「またきてくれる?」去り際、父親に担ぎ上げられながらひなたはそう訊ねてきた。「こんどはひながおきてるとき」

「どうかな?」

 チーフは正直に首を傾げた。もう来ないという回答を精一杯遠回しに言ったつもりだ。が、それを聞いたひなたが綺麗な宝石の目を曇らせて眉尻を下げてしまったため、仕方なく代わりの返答を用意しなければならなくなった。

「呼んだ人のところに現れるのがヒーローですから」

 それが正解だったのかはわからないが、ひなたは再びニコニコと笑い、「おやすみ」と小さな手を振って寝室のほうに消えていった。その顔もどことなく部下の雰囲気に似ている。

 どん、という音で我に返ると、いつの間にか部屋には良い匂いが漂い、振り返るとテーブルの上にはカレーライスの皿が二つ置いてあった。

「この時間に食べるのもどうかと思うけどねェ、ま、良いわよね、たまには! 運動したし!」と、真理子は自信満々に向かい側の席につく。

 ん、とスプーンを差し出され、どうやらそれを食べなさいということのようだとチーフは理解した。真理子は全然運動なんかしていないし、どこからその自信が来ているのか(はなは)だ疑問ではあるが、とりあえず黙ってそのスプーンを受け取った。


* * *


 幸子に線香をあげたかったのは本当だ。あんな喧嘩別れのような最後になってしまって、あの日をやり直したいと何度も思ったし、それができなくてもせめて、お礼の言葉くらいは伝えたかった。だが、今夜の真の目的はそれじゃない。今夜Eightを訪ねたのは他でもなく、チーフと話をするためだったはずだ。

 シールドが崩壊して以降、無事にクビは撤回、ピンキー・マリーとして再び表舞台に出るようにはなったが、チーフがそれを自分より上からの命令だからと仕方なく了承しているだけなのは真理子も察していた。葵から聞いた話のこともそうだが、とにかく一刻も早く自分は大丈夫だからと伝えなければ、意外にも()()()()なチーフはそのうち綺麗な金髪が禿げてしまいそうだし、真理子自身もいい加減言いたいことを言ってスッキリしたい。だから今日、葵からこの時間をもらって本当にありがたかった。急ではあるが、Eightなら誰にも邪魔されずに話ができる。

 そう思っていたのに、なんてタイミングが悪いのだろう。

 いや、逆に考えれば良かったのかもしれない。兎にも角にも行き先を告げたら絶対に逃げられると思ったから、半ば拉致するような形で無理矢理に連れてくるしか咄嗟に思いつかなかった。チーフ自身が気付いているのか知らないが、様子が普通でない。真理子がEightで感じていた気持ち悪さの正体はそれだったのだ。真理子に対して「近くまで送ろうか」なんて台詞、正常な状態のチーフなら絶対に言うはずがないから。

 そりゃそうだ。いくらチーフが本当は『いい年のオジサン』だからって、見知らぬ人から危害を加えられそうになって普通でいられるわけがない。ただヒールの音を鳴らすだけの意地悪な人形ならともかく、あんなことがあって何も感じないなんてそれこそおかしいし、少なくとも今の真理子が思うチーフはそんな化け物じゃない。強がりで、人よりだいぶ不器用なだけの、ただの人間である。

 まさかチーフを自宅に連れてくる日が来るなんて夢にも思っていなかったが、あんなおかしな状態で一人帰してしまったら、今度は真理子自身が気になって気になって、睡眠負債でおかしくなってしまう。

 なぜか、チーフは子どもに逆らえないという確信があった。だから家に帰る道すがら、引き止めておく役はひなたにお願いしようと決めていた。ひなたがチーフの話し相手をしてくれている間に、健一にはキッチンでこっそり話をした。自慢じゃないが、健一は人を見る目は優れているし、ブラックホール並みに器が大きくて真理子は本当に尊敬している。今日の真理子の話もすぐ理解を示し、ひなたと話すチーフの姿を横目に見ながら『たぶん良い人』という評価をしてくれた。ただ一つだけ、チーフの正体が男性であることは見抜けなかったようで「美人な上司だね」と言っていたため、真実を教えてあげたところかなりのショックを受けていたが。

 ひなたを拾いがてら挨拶をしてくると張り切ってキッチンを出て行ったので、おそらく何か探ろうと企んでいるのだろう。あとでその収穫を訊いてみようと思いつつ、カレー鍋をかき混ぜる。

 食べてくれるかくれないかは五分五分だが、話さえできれば合格だと割り切り、カレーの皿を二つ用意してダイニングテーブルへ向かう。ヒールを履いていないチーフは普段の印象よりだいぶ小さく見えた。

「この時間に食べるのもどうかと思うけどねェ、ま、良いわよね、たまには! 運動したし!」

 カレーの皿をテーブルに置き、席に座ってスプーンを差し出す。チーフは真理子のほうをしばらく見て、やがて黙ってそれを受け取ると向かいの椅子に腰を下ろした。

 何か言いたそうなのは伝わってくるがまったく喋らず、しかし怒っているわけでもない。ただ黙々とカレーを食べているだけ。しかしよく考えてみると、真理子はチーフがものを食べているところなどこれまで見たことがなく、初めて人間らしい行動をしている様子を垣間見ることができて嬉しかったのと同時に、無機質な人形ではないことの裏付けができて安心している自分がいる。

 自分の皿を先に空にしてから、真理子はいよいよ本題を口にする。あれだけ覚悟を決めていたくせに、いざ切り出すとなると第一声に迷う。

「葵ちゃんから全部聞きました」

 唐突過ぎたかもしれない点は反省する。チーフはスプーンを持つ手を止め、少しあって視線をこちらに向ける。

「……全部って?」いつもお断りしたいくらい聞いていたはずのその声が、なんだかとても久しぶりに思える。

 話し出してしまうと不思議と頭の中は冷静で、言葉はすんなりと出てくる。「あたしをクビにしようとした本当の理由も、幸子ママや葵ちゃんが何をしていたのかも、新しいヒーロースーツのことも、全部よ」

「黒衣のくせにお喋りね」チーフの口調は少し苛ついているようにも聞こえた。「誤解しないで? アンタのことを早く辞めさせなきゃいけないと思ってたのは事実だし、その体型を何とかしてほしいと思ってるのも事実よ?」

「自分のことを悪者にしようとするのやめなさい」これも不思議な話だが、あれだけチーフは怖いと思っていたのに、今では全然感じない。「あのね、あたしは誰のことも恨んでないし、恨むつもりもない。幸子ママも葵ちゃんも、あたしのことを心配してやってくれたことだっていうのは、ちゃんとわかってるわ。あんたも」

「呆れた」チーフは鼻で笑って、完全に皿の上にスプーンを置いてしまった。「お人好しがすぎるわ」

「よく言われる」

 真理子はあくまで淡々と返す。チーフのほうが必死で、どうしたって自分が悪いことにして終わらせたがっているのは感じる。

「アタシはアタシがそうしたかったからそうした。誰のためでもない、勘違いしないで」

「それはもうわかった」

「それにアタシが心配してるのはアンタじゃなくてアンタの娘だから」

「それでも、ずっと気に掛けてくれてた」

「違う、アタシはただ——」

「良いんだってば」真理子はそこで静かに言葉を制した。何を言ったところでチーフは絶対に認めないとわかっている。だから、「あんたにとっての真実がどうであれ、あたしは勝手に、そう思うことにしたの」

 あんたが何と言おうと、もう決めたの。

「……」

「ありがとう。これだけは、チーフにちゃんと言わなきゃいけないって思ってた。あと……ごめんなさい」

「何が?」

「幸子ママの最後のお願いを、あんたに叶えさせてあげられなくて」

 己の正体を明かし、決して公になってはならないヒーローの秘密も明かし、最終的に自分がすべての黒幕として怨恨の対象になってでも叶えてやろうと決めていた、()()()()母親の願いを叶えさせてあげられなくて。

 でも、今だから思うのだ。幸子はこうしてすべての真実が知られたことを良かったと思っているのではないか。

 だって自分は、チーフのことを嫌いにならずに済んだ。

 幸子はチーフのことを世界で一番愛していた。これは絶対にそう。どんなにチーフが否定しようと真理子にはわかる。だからこそ、自分の子が自分のために悪者になって責められたり恨まれたりするところなんて、見たいはずがない。

 そうならずに済んだもの。

「あたしは大丈夫よ、チーフ。ヒーローもやるけど、家族のこともちゃんと幸せにするし、娘が大人になるまで死なないわ。あんたや幸子ママが心配しているようには、絶対にならないって約束する」

 だから、心配しないで。

 チーフは随分と長い間黙りと俯いて、やがて諦めたように溜め息を吐いた。

「……どうでも良いわ。もう」その一言で、何かを吹っ切ったのだろう。チーフは皿の上に置いていたスプーンを再び手に取った。「上が決めたことよ。この話はおしまい。カレーが不味くなるからやめて」

「美味しいと思ってるの?」

「不味いって言ってほしいの?」

「おかわりあるわよ?」

「ありがたいけどさすがにいらないわ。今何時だと思ってんのよ」

「男の子のくせに少食なのね」

「アンタと一緒にしないで。忘れてそうだから言うけど、その腹と尻を何とかしなさいって散々言ってるでしょ。新型スーツになったからって何もしなくて良くなったわけじゃないのよ?」

「そのために作ってくれたんじゃないの?」

「そんなわけないでしょ! アンタのあのダッサい着崩しは世の子どもたちに悪影響だし、何よりあのスーツが可哀想だからよ!」

 やっぱり怒っているチーフは怖いが、漸く返しがいつもの調子に戻ったなと感じた真理子はふふと笑い、「ちょっとは落ち着いた?」と訊ねてみた。

 チーフはほんの一瞬驚いて押し黙り、それから沸々と笑い出した。

「……そりゃあ起きていきなり知らない奴がいたらビビらないわけないわよね」

「いくらあんたが男の子でもね」

 チーフとの論争に勝ったお祝いに、真理子は自分の分のカレーをおかわりしてきて再び席に着いた。そしてスプーンを片手に、もう一つ言ってやろうと思っていたことを話し始める。

「チーフは不用心すぎなの」

 そう。チーフは自分で好き好んで『可愛い女の子』や『美人』で『良い女』の姿を作り出しているくせに、そういう人が何を気を付けなければならないのかをまったく理解していない。

「まず戸締まりしないで寝るとかあり得ないから。それは可愛いとか可愛くないとかの問題じゃないから。やめて。わかった?」

「はい」

「一人で暗いところも歩いちゃダメ」

「え、なんで? アタシ、喧嘩なら結構強いと思うんだけど」

「ねェやめて、馬鹿なの? 喧嘩するならモンスターとだけにして。人間はダメ。わかった?」

 チーフは不服そうにカレーを突いている。事実、喧嘩はそれなりに強いのだろうが、その綺麗な顔に痣でも作ってこられたらたまったものではない。『ヒーローはアイドル』なのだから。

「……ッとに、その格好してるならもう少し考えてよ! あと、女の子が糞野郎とか言っちゃダメ!」

「それもダメなの⁉︎ なんでよ⁉︎」

「ダメなものはダメなの‼︎ わかった⁉︎」

 チーフにその外見に見合った価値観を教育するのはかなり骨の折れる作業かもしれない。とりあえずカレーは食べてくれることがわかったから、また仕事終わりに拉致してきて地道に教育しようと考える真理子なのであった。


 しかしその後、意外なことに、チーフは真理子が拉致しなくても度々真理子の家にやってくるようになった。

 その理由は、ひなたがチーフのことを度々呼びつけるようになったからである。あまりに頻繁に真理子に連れてきてと言うようになったため、さすがの真理子も恐縮してしまい、どうしたものかと考えあぐねていると、ある日家にやってきてひなたの髪を結い上げたチーフは一枚の付箋紙をひなたに渡した。

「どうしても必要な時があったら、電話にこの番号を入れて呼び出して」

 それはひなた専用のポケベル呼び出し番号であった。「ママを通すと面倒臭い」とチーフは言ったが、おそらく真理子が最近申し訳なさそうに自分のところへやって来て頼むのを見て、策を講じてくれたのだと思う。

 ただし呼び出す時はパパに訊いてからとチーフは一つだけ条件を付けたが、娘に甘すぎるパパは大して防波堤の役割は果たさず、チーフが鈴木家のカレーを食べるのはさして珍しいことではなくなった。

 さらに、真理子が広報部にハッピー・シャイニーの公式情報を出せと掛け合ったため、謎の存在として世間を騒がせ続けたオレンジ色のヒーローは、ホームページ上に『ゼロ号』として『プロフィール』が掲載される運びとなった。これに関しては公開前、真理子が記載内容の聴き取り調査を行なおうとしたが、チーフが面倒臭がって最後まで前向きな回答をしなかったため、葵がバラしたことを除いては真理子が勝手に作って広報に伝えたその内容がそのまま公式情報として載っている。

 ちなみに、現・シャイニーの『プロフィール』上の好きな食べ物はカレーライスになっている。



To be Continued...

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