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第二話 太陽を追う者(3)謎の新参者の日

 粉塵の舞う視界が徐々に晴れる。黄昏の日差しが照らすのは、崩れ落ちた、かつて街だったもの。

「……目標消滅、確認、レーダー異常なし」

 立ち上がった全身を撫でていく生温い風が、背中を伝い落ちていった汗の跡を冷やすと共に、街を破壊した張本人の亡骸も跡形もなく(さら)っていってしまう。何十年経ってもモンスターの研究が進まない原因の一つがそれだ。三十年前も、今も、『何者でもない何か』に怯える日常は変わっていない。 

「——、死傷者は?」右耳に当てたヘッドホンから荒く変質した音声が聞こえてくる。

「こちらはゼ……死傷者なし。一般は、これより確認に向かいます」

「——、ご苦労だった、3号。後程報告を」

「了解」

 ぷつん、と音を立てて通信が切れる。漸く一息ついてマイクのスイッチを切り、ヘッドホンを首元まで下げる。

「今日も良い仕事だったよ、相棒」3号は愛用しているライフルの銃身を撫でながら礼を述べると、それを背中に担ぎ上げた。がたいは大きいが、何だかんだコイツが一番自分にしっくりくる。三十年のブランクにも問題なくついてきてくれる頼もしい奴だ。

 と、後ろから足音が近づいてくる。

「3号ォー」

 緊張感のない声に振り向くと、嬉しそうな顔でこちらに駆けてくるマリーの姿があった。危なっかしい足取りで瓦礫の山の上を進んでくる。

「お疲れ。怪我ない?」

「大丈夫!」得意げに親指を立てながらも息切れをしているのは、つい先ほどまでシャイニーに囮役をやらされていたせいだろう。

 手元にあった携帯用の酸素缶を渡してやると、すっかり慣れた手つきで封を切り、口元に当てている。「相変わらずスゴいねェ、3号は。あの距離でよく当たるよォ」

「ありがと」自分にとっては大したことではないが、マリーはいつでもどんな時でもそんな風に褒めてくれる。未だにそれが慣れずこそばゆいが、悪い気はしない。「だいぶ(サマ)になってきたんじゃない? マリー」

「え、そっかなァ?」

「頑張るのは良いけど、あんまり無理しちゃダメよ」

 大丈夫大丈夫、とマリーは笑うが、酸素吸入しながらそう言われてもあまり説得力はない。十八年もの下積みを経て本物のヒーローとして前線に出る道を選んだ彼女のことは、絶対に無理をさせないでくれと英斗からキツく言われている。本物になる以上無理な話だというのは誰しもわかり切ったことではあるが、それでも何とかしようと奔走しているのは痛いほど感じる。如何にも英斗らしい。

「さァて、帰ろう」と辺りを見回すが、一人足りない。噂に聞く、何世代も前の流行遅れとも言えるヒーロースーツを今なお着続けている夕焼け色の変人のことだ。「シャイニーは? どこ行った?」

 てっきり一緒にいると思っていたが、姿が見えない。あまり前に出るなと散々言っているのにすぐ最接近するから、つい先ほどまでスコープを覗きながらハラハラさせられっぱなしだったのに、今度は一体どこへ行ったのか。

「ああ、——」マリーは思い出したように声を上げる。「なんかね、寄り道するから先に戻ってって」

「はァ?」マリーに怒っても仕方がないのだが、つい声が大きくなってしまった。「どこに?」

 マリーはオロオロと首を傾げる。そこまでは聞いていないらしい。「も、もちろん、止めたよ? 3号に怒られるよって。でも……——」

「うん、わかってる。聞かないんでしょ。わかってるよ、ごめん」

 ごめんね、とマリーは眉尻を下げるが、彼女は何も悪くない。

 また勝手なことばかりして。3号は溜め息を吐いて、背負っていたライフルをマリーに預けた。「……ごめん、これ持って先戻っててくれる?」

「任して!」

 マリーの満面の笑みを確認した3号は、すぐ連れて戻るから、と地面を蹴った。頼りないが、頼りになる。真理子はヒーローに向いていると英斗が言うのが、最近なんだかわかるような気がする。

 英斗が前線に出るようになってすぐ、一つ言いつけたことがある。それは『シャイニーの姿のまま一人で現場エリア外へ行ってはいけない』ということだ。そして、もし所用があるのならば必ず自分を同行させることという条件を付けている。

 もちろん、いつかはそんな言いつけは解除しようと思ってはいる。ただ、まだ駄目だ。()()シャイニーは特殊すぎるのである。それなのに英斗は「わかった」と返事をしておきながらふらふらと一人ですぐどこかへ行ってしまう。いつも真理子のことを「人の話を聞かない」と怒っているのに、だ。

 自衛隊が設営しているテントに寄ってみたが、案の定姿はない。携帯用の酸素缶を一つもらって再び外に出る。先ほど戦闘体制に入る前、現場エリア付近での僅かな記憶を辿り、何となく行き先に目星をつけてそちらへ向かうことにする。

 ——本当に、何を考えているのだか。

 現場で3号が少しでも危なげな動きをするとシャイニーは半泣きになって怒る。それが嫌だから、最近は我慢して極力控えめな行動を心掛けるようにしているというのに、言っている本人がこれとは。こちらは既に欲求不満なのだ。次に現場に出た時、何か仕返しでもしてやらないと気が済まない。

 そう思うのに、どこかで倒れていないだろうか、などと案じている自分がいることに気付くと、余計に面白くない。

 ヒーローの力というのは個人の基礎的な体力に依存しており、ヒーロースーツはあくまでそれを補い、増強しているだけにすぎない。だから当然、いくら訓練を積んでも人によって得手不得手があるし、能力の優劣もついてしまう。

 英斗の場合、見た目はあのとおり女性であるが、体そのものは歴とした男性である。その分、真理子や葵に比べれば力は強いし、ジャンプも高く跳び上がることができるが、逆に女性特有の柔らかさは持ち合わせていないため、しなやかな動きはできない。いくら見た目を初代シャイニーに寄せても、まったく同じには絶対にならない。

 それで良い、と葵は思っている。英斗は英斗だ、関係ない。そもそも戦い方自体も幸子と英斗ではまるで異なる。攻撃は最大の防御という言葉があるが、英斗はその言葉のとおり最前に出て突っ込んでいってしまう傾向がある。幸子も前衛派ではあったが、英斗ほど常に前に出ていることはなかったし、敵に最接近するのはいつだってトドメを刺す時だけだった。そして何より、幸子と英斗それぞれのシャイニーの決定的な差は、スピードである。

 幸子は本当に動きが速かった。それについていかなければならないから自分も相当に訓練をしたが、それでも間に合わない。あれでは殺られたことすら気付かないのではと、今でも思い出す度に思う。が、英斗は違う。経験の差は当然あるだろうが、そんなものでは到底補い切れない。幸子のあれは、天性のものである。

 もちろん戦闘に支障があるほど鈍いわけではないため、英斗単体なら今のままで十分だ。しかしあの姿でいる以上、初代シャイニーを知る人からすれば劣化版と言われても致し方ない。おまけに時の流れが人々の記憶に『最強の伝説』というフィルターを掛けてしまったため、現在の人々の頭にあるのは実際の幸子の実力以上の『スーパー・ハッピー・シャイニー』なのであるから余計に劣化したように見えてしまう。

 英斗があの姿になった時、それがなぜなのかすぐに察しはついた。そしてむしろ英斗は、あの姿でなければヒーローとして討伐の最前線に行くことすらできないだろうと思った。だから、エリア外に出るなと言っている。外にはあのシャイニーを壊そうとする(モンスター)がうようよしている。そんなものに英斗が傷つけられるのは、葵としてはどうにも我慢ならないのである。

 加えて、葵にとっては耐え難い事実がもう一つある——。

「お疲れ様です。差し入れどうぞ」

 テントの前で悶々としていると、配給係からどら焼きを差し出された。いつもの調子でいらない、と断ろうとして、一瞬で考えを変える。

「……ありがと。ねェ、もう一個貰っても良い?」


* * *


 指定避難所の一つである体育館——その入口脇のコンクリートの階段の上でミニチュアカーを走らせている少年がいる。名前は知らない。たぶん見たところ七、八歳程度ではないかと思う。シャイニーにわかるのは、この少年には妹が一人いて、その妹が自宅に大切なぬいぐるみ(おともだち)を置いてきてしまったと泣いていたこと。そして、もう危なくて取りに帰れないから諦めろと両親から叱責されていたことである。

 ねェ、と声を掛けると、少年はミニカーを走らせる手を止めてこちらを向いた。

「キミの妹のともだちって、この子?」

 シャイニーは先ほど瓦礫の街の中で探してきたクマのぬいぐるみを少年に見せた。あっと声を上げてすぐに駆け寄ってきたから、おそらく正解だ。

「どこにあったの?」

「キミの家だよ。妹に渡しておいて」

 少年の自宅は半壊だった。自分は入れるが、一般人の立入りは今後もやめたほうが無難だろう。もっとも、それをこの少年に伝える気はないが。

 ぬいぐるみを受け取った少年は、まじまじと自分のことを見上げて不思議そうな顔をしている。

「……何?」

「オレンジのヒーローなんていたっけ?」

「いるのよ、それが」

「ウソだ。おれヒーローのこといっぱいしってるけど、どこにものってないよ。ニセモノだろ」

 思わず笑ってしまった。子どもは残酷で正直だ。が、たしかに少年の言うことは正しい。現状()()ハッピー・シャイニーは一般人が目にすることができるどこにも情報が存在していないし、ある意味、自分はニセモノだ。

 それで良いと言ったのは自分だ。あくまで自分の本業は『内側』であってこれは臨時対応である。だから通常ヒーローが持つ号数だって振られておらず、社内では番号なし=ゼロという『あだ名』が付いている。会社のホームページにあるヒーロー紹介コーナーにも一文字も、名前すら掲載されていない。ただ馬鹿なマスコミが、初日に自分の姿を捉えた映像を全国ネットで流してしまったからおかしなことになった。それが原因で世の中が少しざわついているのも認識している。

 意外だった。正直、()()()のシャイニー——母のことなんて、誰も覚えていないと思っていた。母はあんな辞め方をしているし、覚えているのは真理子くらいなもので、他の誰かの記憶になんかもう残っていないと思っていた。でも、違った。その世間の反応が、三十年前、たしかにハッピー・シャイニーというヒーローは存在して、人を魅了していたということを証明している。

 それが、何となく嬉しいと思っている自分もいるのだ。

「名まえは?」

「ハッピー・シャイニー」

「ふぅん。ダッセェ名まえだな」

「うるせぇな、クソガキ」最近のガキは躾がなってない。「ほら、早く妹んとこ行ってやんなよ。兄ちゃんだろ」

「わかったよ」しょうがねぇな、と駆け出そうとする少年は、妹のともだちのことばかり気にかけて自分の大切なミニカーを階段に忘れており、シャイニーはそれも慌てて手に握らせて体育館の中に送り出した。

「ありがと、ハッピー!」

「おい、やめろ! 犬じゃないんだっつの!」

 最後に礼を言って去っていったところは褒めてやっても良いが、去り際の訂正が届いていることを切に願っている。まだかなり頼りないが、今日彼は妹にとって最高のヒーローになるだろう。

 さて、あまり人目につかないうちに退散しよう。実のところ3号からは、この姿で現場以外の場所へ一人で行ってはいけないと言われている。それを勝手に離脱して来てしまったから、今頃はマリーが矢面に立たされて困っているはずだ。

 が、ここに来て若干見込みが甘かったと痛感している。先ほどから膝が笑っていて足に全然力が入らない。自分の予測だが、たぶんこのまま力を使って戻ろうとすると確実に落ちる。

 ——お腹空いたなァ……。

 せめて酸素缶くらい持って来れば良かったと反省しながらもこんなところで行き倒れているわけにもいかず、どうやって帰ろうか考えていると、後ろから思い切り背中を叩かれて慄いた。

「何やってんのよ、こんなところで」

 見事なまでに膨れっ面の3号が腰に手を当てて立っている。感激だ。なんて良いタイミングだろう。

「ああぁ良いところに来たじゃァん、タクシー……」思わず3号に抱きつく。まるで神様が降りてきたみたいだ。

「ふざけんな、私はタクシーじゃない!」

 全力で嫌がりながらも、シャイニーの足元が本気で覚束ないのを悟った3号は、シャイニーが抱きついたままの状態で体育館の屋根の上まで跳び上がった。おそらく人の目を気にしたのだろう。

「……っとにもう! 何やってんの⁉︎」冷たい屋根の上でひっくり返っていると、怒りながらも持ってきた酸素缶を開けて口に当ててくれる。「脚は閉じなさい!」

「真理子みたいなこと言わないでよォ……」

「言うよ! 目のやり場! 何のためのマントなの、それは!」

 大昔にマント付きのデザインを考案したのは自分ではなく爺だと言いたいし、少なくともスカートの中を隠すために付いているのではないと思うが、3号は体の下敷きになっているマントを引っ張り出して上に掛けてくれた。ついこの前まで自分で捲って遊んでいたくせに、ひどい矛盾である。

「自分から見せてたんじゃ意味ないの!」

 3号曰く、恥じらいがないと価値が下がるのだそうだ。男心がわかっていない、と3号は怒るが、なぜ彼女はそんなことを知っているのだろう?

 一応下には穿いているし、オジサンのスカートの中なんてどこに需要があるのかわからないが、どうやらそういうことではないらしい。

 口煩いし扱いはぞんざいだが、怖くはないところを見ると本気で怒っているわけではなさそうで安心する。

「何してたの?」

「うん……拾得した遺失物の配送」

「ねェ馬鹿なの? そんなの他の人にやらせたら良いでしょう、討伐行ってふらふらの人がやる仕事じゃない」

「んふふふふ、だってさァ……」頭がぼーっとしていてテンションがおかしい。たぶん3号が来たから張っていた糸が切れたのだと思う。そこまで言ったのに続きを何と喋ろうか、考えるのすら面倒くさい。自分は酒を飲まないが、酔っ払っている時の感覚によく似ている。

 ぼんやりしたまま天上に広がる黄昏の空を眺めていると、3号の長い溜め息が聞こえた。酸素缶が外された直後、代わりに視界が何かに遮られる。

「あ!」反射的に飛び起きる。「どら焼き! どうしたの、これ?」

「自衛隊の人にもらった」

「二個もくれるの⁉︎ ありがとう、これ美味しいやつじゃん!」

「え、そうなの? 一個返して?」

「半分なら良いよ」

「あんた持ってきてやったのにケチね」

 呆れ返っている3号を尻目にさっさと開封する。前線に出るようになってから、これまでと同じ食事量だと全然足りなくなった。間食なんかまったくしなかったのにこの有様だ。真理子が小さくならないのが不思議で仕方がない。おかげで葵とのラーメンは何の罪悪感もなく食べられるようになって良かったのだけれど。

「……落とし主は喜んでくれたの?」

「どうかなァ?」水分が欲しいと思いながらどら焼きを頬張る。甘ったるい餡子の味がする。

 直接落とし主本人には手渡していないからどんな反応をしたのかまではわからない。口を動かしながら、シャイニーは先ほどの少年のことを思い出していた。「ありがとって言われた」

「そう。なら、良かったじゃない」

「うん」

 良かったと言う割に、3号の声は浮かない。その理由はわかっているし、それが変身した姿で出歩くことを禁じている理由と同じであることも知っているが、わかっていないふりをして二個目のどら焼きの封を切った。

 ()()ハッピー・シャイニーが世間を賑わせているのは、決して良い意味で、というわけではない。

 三十年前、モンスターの襲来に怯える時代の終焉と共に忽然と姿を消したはずの伝説が、今になって再び現れてモンスターを討伐している——もっとも、三十年前のシャイニーと同一人物ではないということは、よほどの馬鹿でない限りは深く考えずともわかるが、ならば瓜二つのアレは一体何なのだ、という疑問が生まれるのはごく自然なことである。しかしその答えを示すものが現状どこにもない謎の存在となってしまっていることが妄想を必要以上に掻き立て、ネット社会で想像力が豊かになりすぎた人々の中には笑いの出てしまうような持論を展開する輩も多い。

 そしてその状況を最も危惧しているのが、3号なのである。

 自分としては、それはそれで別に良いではないかと思っている。はっきり言うが、自分は本当に使えない。内側にいる間も訓練はしてきたし、今も当然しているが、現場はまるで違う。3号が出す指示についていくのがやっとで、自分でもこんなに使えない奴だったのかと嫌になるくらいにひどい。

 3号は「実戦は慣れだから大丈夫」と言うが、どこまで本気で言っているのかわかったものではない。だから、誰にどうなじられようと構いやしないし、仕方のないことであると理解している。特に、本家シャイニーを知っている人間なら、尚のこと。

 この姿で表に出てみてつくづく思った。母は本当に、史上最強の伝説だったのだと。

 よりにもよってそんなものに似せてしまったから良くなかった。自分の想像していた以上に、良くも悪くも、話題性がありすぎだ。

 3号は、そういう現状を珍しいくらいにありありと嫌がっているし、たぶん結構本気で怒っている。シャイニーを攻撃する人間の中で最も多いのが、3号自身のファンだとわかっているからだ。

 怖いから訊けないが、シャイニーが一人で勝手に現場の外を動き回ることを許さず、一般人の中に入っていこうものなら全力で止めにくるのはおおかたそのためだ。今日も、それがあるから迎えに来てくれたのだろう。

「頭冴えた?」

「うん……あ」頷きながら、ハッとする。考え事をしながら食べていたから、半分残そうと思っていたどら焼きを全部食べてしまった。

 シャイニーが何を思ったか察した3号は諦めたように息を吐く。

「……良いよ、もう。あんたが飢え死にしなくて済んだんならそれで」

「ごめん……」

「私も『ハッピー』って呼ぼうかなァ」

 思いきり怒っているではないか。

「ねェごめん、本当にごめんなさい、許して。それだけはやめてください、お願いします」

「冗談だよ、馬鹿」3号の楽しそうな笑みを西陽が照らしている。この人は本当に時々冗談なのか何なのかわからない時があるから恐ろしい。

「……あんたね、——」3号の右手がぽんと頭に載る。「マリーのフォローをするのは良いけど、自分の体力も考えなさいよ。途中で()()()()死ぬからね?」

 私は助けに行けない、と3号はよく言う。袖に隠れた左手は、彼女の言葉の信憑性を高めるには十分すぎる。

「……うん」

 勝手に死ねともよく言うが、それなら私は助けに()()()()と言えば良いのに、矛盾している。

 3号の手が頭に載っているのは昔から好きだが、恥ずかしくて気持ちがむずむずして顔を上げられない。でも想像はつく。シャイニーであろうと英斗であろうと、頭を撫でてくれる時の彼女はいつだって同じ顔をしているのだ。

「ほら、もう帰ろう? マリーも待ってるし。歩ける?」

「無理」

「ほんとふざけんな。勝手にどっか行くし、どら焼き全部食べちゃうし、あとで絶対ただじゃおかない」

 背中を冷たいものが伝っていく。葵はほとんど怒らないけれど、怒ると本気で怖い。食べ物の恨みはもっと怖い。今も昔も、それはよくよく知っている。

 どうしたら機嫌を治してくれるだろうか。どら焼きを買ってあげたら良いんだろうか。それともやっぱりラーメンを奢ったら良いのだろうか——そんなことを必死に考えながら、今日もあたかも何事もなかったかのような顔をして地平線の彼方へ沈んでいく夕陽を見送った。


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