第二話 太陽を追う者(2)洗礼の日
久しいね。また、一緒に跳んでくれるかい——?
自然と手に取ったのは三十年前に愛用していたのと同じ型の遠距離型狙撃銃だった。おそらくこれは癖みたいなものだろう。久方ぶりに拝んだ対モンスター用の武器の数々は、三十年前シールドが完成して以降、各メーカーが新規開発から次々に手を引いてしまったためか、特に変化の見られないラインナップだった。
元々は世界各国で使われている対人対物用の武器だったものをさらに改造して強化しているだけだから、もしかしたら最新型の元祖を借りていったほうが良かったのかもしれないと途中で考えたが、時既に遅し。今日のところはコイツで何とかするしかない。それに自分のような古参兵にとっては、得体の知れない新参者より幾多の戦場を共に跳び回ってきた相棒のほうが信頼できる。
「片腕でいけますか?」
武器庫番の自衛隊員は皆似たり寄ったりの顔を顰め、口を揃えてそう訊いてきたが、行くしかないだろう。何たってこれは、普段滅多に人に頼み事なんかしてこない強がりで意地っ張りな可愛い統括からの、たっての要請なのだ。正直なところ片腕になってから出陣したことがないから自分でも不安なのに、それを煽るようなことをしないでもらいたい。
「あとでで良いんで、死んだら体は回収してください」冗談で言ったつもりだったが、そうは受け取ってもらえなかったようだ。
後から追ってきたシャイニーは両手にごつい中短距離銃を携えている。そのスタイルが記憶と違って一瞬混乱した。そうか。このシャイニーは両利きだ。
その姿を見ているうちに、銃身の色が白くなるだけでオモチャ感が増すのは相変わらずだと可笑しくなった。ヒーローのビジュアルの問題とか、子どもが見るには少々刺激が強すぎるからとか、そういうくだらない理由で本来黒や迷彩色だったはずの武器が白色に塗り替えられたのは、まだ3号自身がヒーローになって間もない頃の話である。性能は同じはずなのに、白くなった途端にそれを使うのが不安になったことを覚えている。
「……ごめん。役に立たない。たぶん」自分のほうを見た3号が不敵な笑みを浮かべたまま黙っているのを、自身が頼りなくて呆れられていると取ったようだ。姿こそ瓜二つだが、その後ろ向きな姿勢は伝説とは似ても似つかない。
悲しそうな顔をして下を向くシャイニーの背中を叩き、共に最前線に向かって駆け出す。誤解の内容については弁解も慰めもするつもりはない。その解釈も完全な間違いではないし、初陣で大活躍なんてされたらこっちは商売あがったりなのである。
「大丈夫よ、期待してないから」
役に立たなくて良いからせめて死なないでくれと思う。仕事柄、死んだら死んだで致し方ないことではあるが、やはり目の前でよく知る人がバラバラになるのを見るのは昔から気分の良いものではないし、何よりあの世へ行ったばかりの幸子に面目が立たない。
一般人の避難は完了していると先ほど報告があった。立入禁止ラインの中に足を踏み入れると、人どころか野良猫すら見当たらない。
体が疼く。好き放題やっても問題ないってことだ。
徐々に街があるはずの景色が変貌を遂げていく。地面を踏む度、散乱したガラスの破片がパキッと音を立てる。小学生の頃に社会科見学で行ったゴミ処理場みたいだ。地響きに近づいている。この独特の熱気、湿度、空気感——久々に込み上げてくる笑いを抑えられない。自分は興奮しているのだ。
まだ新しそうな鉄骨のオブジェを踏み台に跳び上がる。たぶんこれはついこの前竣工してオープン記念のセレモニーが中継されていた高層ビルだったものだろう。建主はお気の毒様である。
「やっほーぅ、久しぶりィ! 元気してたァ⁉︎」
瓦礫の山の頂上から巨体に向かってご挨拶。臭いとか、風格とか、本当に久しぶりで懐かしい。同窓会に来た気分だ。
全力で叫んだ甲斐あって、こちらの存在には気付いてくれたみたい。周囲の瓦礫を吹っ飛ばす強烈なパンチが飛んでくる。大きさのせいか、動きはそれほど速くない。
「ワーァ、相変わらず豪快だなァ。そういうとこスキだよー?」
現れたのが新種でなくて幸いだった。大きさは目を見張るが、進化していなければこの子は光線を打ってこない種だ。単体だし、物理攻撃だけ交わしていれば良いから三十年分のリハビリにはちょうど良い。
見える景色のすべてがスローモーションみたいに流れていく。一帯の折れたビルのものだろう、ひらりひらりと舞い落ちる個人情報の山がまるで紙吹雪のようで美しい。後先考えず鉛筆みたいなビルばかり建てているからこういうことになる。
滞空中にマリーとシャイニーの位置を確認。想像してはいたがやはりマリーは動きが鈍い。シャイニーはシャイニーで、あれでは敵に近づきすぎだ。危なっかしくて冷や汗ものである。
——まあ鍛え甲斐のあること。
マリーのフォローはシャイニーに任せるとして、自分は狙撃ポイントを探す。モンスター自体がデカいから、それなりの高さがないと仕留めるのは難しい。射程範囲の感覚が錆びついていないことを祈る。
「シャイニー!」
金髪の長いツインテールが鞭みたいにしなる。あんなに嫌がっていたのに、その名前で呼ぶとすぐに反応してくれる。「進路を変えたいの!」
「どっち⁉︎」
「十一時! あとできるだけ撃ち込んでおいて。いける?」
「アタシを誰だと思ってんの」先ほどまで悲壮に塗れた顔をしていた人の台詞とは思えない。
近づきすぎるな、と言うより先にシャイニーはマリーを連れてあの巨体に向かって駆けていってしまった。
——……仕方ない。
折れた電柱をジャンプ台代わりに跳び上がる。地面に立っていると、下から突き上げてくるような振動が不快極まりないし、早くポイントに行ってあの子たちを援護しなければ。
「マリー、煙幕ちょうだァい! いっぱい焚いてねェ」
そろそろ終わりだ。お約束の三分が経とうとしている。
ああ、本当にゾクゾクする。どうしたら一秒でも長く自分が生きていられるかってことを体が必死に探してるこの感覚。
——ああ、楽しい。
指示のとおりマリーが投げた弾薬が破裂し、辺りに白い煙が充満していく。
残っているものの中では一番高いビルだと思って選んだが、案外簡単に上れてしまって拍子抜けだ。
ビルの縁に腰掛けてスコープを覗く。下にいる危なっかしい二人は相変わらずだ。放っておいても問題はないだろうが、そろそろ自分の言った『三分』の意味を理解する頃だろう。
射程に入るまでこうしてのんびり照準を合わせていられるのだから本当に楽なケースである。正直もう少し遊んでいたかったが、そろそろお開きの時間だ。
どこに何をどう撃ったら良いのかも鮮明に覚えている。考えなくても、勝手にそうすることを選んでいる。自分の頭と体が実に優秀であることを率直に褒めたい。
風が強い。
風速はおおよそ、十二メートル。
煙が流されるのが早すぎる。
スコープから視線を外す。作戦変更だ。
伸縮ケーブルを出そうとして自分が片腕なことを思い出す。昔はよくそのケーブルをビルやら橋やらに引っ掛けて振り子のようにして飛んだりしては、用途外使用だとお偉いさんから叱られたものだ。文句なら一度その足で現場に出てみてから言えといつも思っていた。
だが、安心してくれ。現状の装備では、片腕でそれをするのは難しい。
——……仕方ない、ナシで飛ぶか。
遥か下にいるシャイニーを呼ぶ。反応があったかはわからないが構わない。
屋上を蹴り飛ばし、空中に身を投げ出す。
景色がくるり、くるり。舞い落ちていく桜は、最期にこんな景色を見るのだろうか。
スコープを覗く。照準はバッチリ決まっている。
引き金を引いた時、指先から伝わってくる衝撃も、昔のままだった。
軽い破裂音と、追えるはずのない弾道が見えそうなほどのスローモーション。
——楽しかったよ。バイバイ。
命中したのはわかっていた。そういうのは発射した瞬間にもう決まっている。そういう手応えがあるのだ。
大きな体に、小石のような小さな風穴。
それがさらに大きく、大きく膨らんで。
パァンと風船が弾けるように音を立てて。
やがて、小さな粒子は風に乗って舞い上がる。
キラキラ。
ふと、思い出した。
そうだ。この景色だ。
覚えているのは戦闘中のことばかりと思っていたけれど、違った。
モンスターが散る際に発生する微細な粒子は、夕陽に照らされると本当にキラキラと煌めいて、まるで銀世界のダイヤモンドダストのよう。
崩壊した街に降るそれを、自分は世界で最も美しいものだと思っていた。
そして、今も、——。
ガクン、と急激な重力がかかり、落下が止まる。
引き続き落ちていこうとする相棒を咄嗟に掴んだ。
逃しきれない力が遠心力に変わり、オレンジ色のマントが視界の隅にはためいている。
「ナーイスキャッチ、シャイニー!」
自分を小脇に抱えて宙を舞うシャイニーは、教えてもいないのに伸縮ケーブルを用途外使用している。
「ナイスじゃねぇよ、馬鹿が! 死にてぇのか⁉︎」風を切る音の中に怒号が響く。
「そう怒んないでよォ。ちゃんと討伐できたんだからさーァ」
「ふざけんな! 間に合わなかったら死んでるぞ⁉︎」
その時はその時よ。「だってちゃんと呼んだし、間に合ってるんだからオッケーオッケー!」
周囲のビルを周回しながら徐々に高度を下げていき、やがて地面に降り立つと、シャイニーは両手を膝について項垂れた。
下からその顔を覗き込んで訊ねる。「ねェどう? 興奮した?」
「寿命が縮んだよ……」
「アッハハ、笑えない話ね」
「やめてよ、もう——……ッ」溜め息と共に舌打ちが聞こえる。それ以上怒り返す気力はないらしい。「アンタがそんな変態だと思わなかったわ……」
遠くからマリーが走ってくるのが見えたが、あちらもどうやらヘロヘロのようだ。
「マリー、煙幕ありがとう」
「いえ、ど、どういたしまして……」こちらも両手を膝について喘いでいる。「すごいわね、やっぱり……ママ仕込みなの、納得、ていうか、普通に跳んでたじゃない……」
「そうかな? ま、今日のはすごく簡単だったからね」
「「ええ?」」
シャイニーとマリーが同時に顔を上げたので、3号は思わず吹き出してしまった。
「まァ、初めてなんだから仕方ないよ!」
3号は腰に手を当て、唖然とする二人を笑い飛ばした。二人とも無駄な動きが多くて力が抜けないから余計に体力を消耗するのだ。こればかりは実戦を積むしか解決する道はないから気に病むことはない。
手に取るようにわかる。だって自分もそうだったから。
——「初めてなんだからしょうがないよ!」
感じる。
あれから、随分と長く歩いてきてしまった。見ないようにしていたけれど、たしかに自分は、歩いてきてしまったのだ。黄昏れ色の夜明けを背負い、マントを翻しながら豪快に笑う彼女は、まだこんなに近くにいるのに。
そうか。もう、叶わないのか。
あの眩い太陽の光を浴びることは、もう二度と、——。
* * *
一階の玄関は表も裏も使わないほうが良い、という帰り道での3号の指示により、裏側に回って社屋の屋上から本部に帰還した。なぜそのような忠告じみたことを言うのかと思っていたが、途中でちらりと見た正面玄関の様子でその訳はすぐに理解した。ロビーの自動ドアの前には黒山の人だかり——三十年ぶりに襲来したモンスターの考察と、戦ったヒーローを取材しようというマスコミの群れで溢れかえっていた。ただでさえ疲れているというのに、この上あの中で揉みくちゃにされるなんて苦行は勘弁してもらいたい。社屋の上空を旋回するヘリに向かって両手を振るほうがまだマシだ。
しかし滅菌室に放り込まれて徹底的に洗浄された後、『帰還口』と呼ばれる特別な通路から社内に入ってギョッとした。自動ドアの周りにも人だかりができていた。そこにいる全員が一斉にこちらを振り返り、時が止まったかのような静けさが広がる。何事かとマリーは一瞬怯んだが、シャイニーが構わず群衆の中に足を踏み出すと、真ん中に自然と通り道ができた。
「ほぅら、ヒーロー様のご帰還よ。みんな歓迎してくれてるのねェ」3号はわざとらしい口調でマリーに囁き、笑顔で周囲に手を振っているが、とても歓迎されているような空気ではない。
これは洗礼だ。ここにいる野次馬は皆社内の人間だが、おそらく顔を拝みに来たのだ。もはやアイドルではない、未知の外来生物と戦ってきた、本物の『ヒーロー』という名の異物の顔を。
一歩進むたびにヒソヒソと、次々にこちらを見ては逸れていく人々の視線に、マリーは徐々に恥ずかしくなり、同時に後ろめたい気持ちが生まれた。悪いことをしてきたわけでもないのに、どうしてそんな風に感じるのかわからない。注目を浴びることには慣れているが、なんだか種類が違うし嬉しくない。シャイニーの後ろに隠れるようにぴったりとくっつき、視線はひたすらに足元でひらひらと揺れ動くオレンジ色のマントの先だけを見ていた。
やがてシャイニーの歩速が落ち、廊下の途中で立ち止まった。こんな視線の真ん中でなぜ止まるのかとゆっくり顔を上げると、目の前に赤と黒のヒーロースーツ——先に偵察に行って戻っていた1号と4号がいた。
「お疲れ様です、シャイニー」
1号が両足を揃えて挨拶をする。久方ぶりに会う気がするが、相変わらず生真面目な気質をよく表した堅苦しい口調と身のこなしである。皆と違って色眼鏡でないし、この空気の中でこの落ち着きよう、さらにまだ若いのにチーフを一目でハッピー・シャイニーと認識するところもさすがと言わざるを得ない。
その横で、黒鳥のような姿の4号があからさまに不機嫌な顔をして気怠そうに立っている。絶えず口が動いているからガムでも噛んでいるのかもしれない。
「申し訳ないけど、その名前で呼ばないで」せっかくの気遣いをシャイニーは冷静に拒否する。「報告した?」
「はい。既に緊急会議が開かれています。政府の代表もお見えです」
「今さら慌てても遅いのよね」
「本部長が、すぐに議場へ出向くようにと仰せです。えっと……チーフ」
「うん、わかった」今度は何も指摘せず、平然と頷いた。「二人とも怪我がなくて良かったわ」
「皆さんも。……まさか、自ら前線に出られるとは思いませんでした。お似合いですよ。えっと……ソレ」
1号は真顔でそう言ったが、目線はシャイニーのヒーロースーツを指している。後ろで聞いていたマリーは嫌味でも何でもなく本心であろうと感じたが、おそらく1号は本当のことを知らないと思うと複雑だ。
「ありがとう。でもジジイ共に見せるつもりはないのよ。悪いけど、何か言ってきたら着替えくらいさせろって言っておいてくれる?」
「承知しました」
「よろしく」シャイニーはそう言うと、横にいる4号に視線を動かした。「4号も、ご苦労様」
「どーもぉ」肝心の4号のほうはくるくるの真っ黒いハーフツインの頭をやや傾けたまま、視線は自身のマニキュアのことが気になっている様子だ。「あたし、もう帰って良いですよね? この後友達と約束しててぇ」
咄嗟に1号が窘めようとするも、シャイニーがそれを止める。「ええ、良いわ。気を付けて楽しんできて」
4号は特に何も言わないシャイニーの顔をチラリと上目に見て、それからニッコリと笑った。
「ハァイ、お疲れでぇす」
その舐め腐った態度にはさすがのマリーでも腹が立ったが、意外にもシャイニーは最後まで何も言わず、どこかへ歩いて行ってしまったその後ろ姿に小さく溜め息を吐いただけだった。
「アナタが気にすることじゃない」残された1号が申し訳なさそうに肩を落としているのを見て、シャイニーは苦笑いを浮かべる。
「ですが……」
「良いのよ。今しかさせてやれないから。もう」
賢い1号はその言葉の意味を一瞬で理解したのだろう。深々と息を吐いて何度も頷きながら、自分を納得させていた。
「アナタもゆっくり休んでね」そう言うと、シャイニーは1号をかわしてエレベーターに乗り込んだ。
後を追ってマリーと3号がエレベーターに滑り込むと、シャイニーは即座に閉じるボタンを連打した。その上で『5』の数字が書かれた丸いボタンが既に点灯している。普段ならせっかち極まりないと思うところだが、とにかく周囲の視線が痛く、今日に限ってはさすがのマリーも早く閉じてくれたほうがありがたいと思った。
扉が閉じ、突然訪れる静寂に耳鳴りが聞こえた。体が浮く感覚がして間もなく、小さな箱の中いっぱいに張り詰めた沈黙を3号の豪快な溜め息が破る。
「みィんなケチねェ! 街の平和を守ってきたっていうのに。拍手の一つもあったって良いと思うんだけどォ」3号はエレベーターの壁に凭れながら不服そうに髪の先を弄んでいる。
黒衣ではないので教えてあげます、と先ほど彼女自身が教えてくれた3号、スカイ・ハークの本名は鷹野葵というらしい。黒衣の時とはほぼ別人格であり、本当にEightで会ったのと同一人物なのかと何度も疑ったが、シャイニー曰く、こっちが本性なのだそうで、まるで壮大な詐欺にでも遭った気分である。ヨロシクネ、と握手まで交わしたが、未だに腑に落ちず、マリーの頭はショートしてしまいそうである。
シャイニーは相変わらず点灯する『5』を見つめたまま、固く口を噤んでいる。五階に更衣室はない。つまり、着替え目的でそのフロアへ行くのではないということだ。
何となく察している。マリーはあまり行くことがないが、五階には備品を管理する部署や倉庫、書庫などがあり、その並びに衣装庫がある。ヒーローたちはそこで各々のヒーロースーツを支給される他、そこにいる『番人』に名前や口上などを授けてもらっている。先ほどの様子からしても、シャイニーは番人に会いに行くのだろう。
「ねェ、あの……本当に変えちゃうの?」
しんと静まり返ったエレベーターの中で、マリーはおずおずと、何度目かの同じ質問をした。しばらく盤を見つめたまま黙っていたシャイニーは、やがてぬるりとこちらに視線をやると、たった一言「変える」と答えた。これも何度目かの同じ回答である。
「あの……別に変えなくても——」
「ついて来なくていいから」と、シャイニーはマリーの言葉を遮り、素早く『2』のボタンを点灯させる。更衣室へ行け、邪魔するなという意味だ。「早く帰って。サヨナラ」
マリーを冷たくあしらい、まもなく開いた扉からさっさと降りていったシャイニーは、大股で廊下をずんずん歩いていってしまう。
「ま、待ってよ、チーフ!」シャイニーが押していった閉ボタンに応じようとした扉を咄嗟にこじ開け、マリーはその後ろに食らいつく。「待って待って! 良いじゃない、そのままで。可愛いわよ?」
「ヤダ」何を言ってもシャイニーはこちらを見向きもせず、ただぶっきらぼうにそう返ってくるだけだ。「なんでついて来んの? 帰ってって言ったでしょ」
「だって……——」
「ストーカーしないで」
たった一言に込められた威圧感がマリーを黙らせる。シャイニーはさらに速度を上げて廊下を歩いていってしまった。
その背中を見ながらしょぼくれていると、後ろから左肩を叩かれた。振り返ると、先ほどからのんびりとついてきていた3号が廊下の先を見据えてニヤニヤしている。
「鷹野さん、——」
「葵で良いわ。真理子ちゃんは、改名反対派なのね」3号はふふと笑っている。先ほどよりはいくらか落ち着きを取り戻したようだが、戦闘時の名残りか、頬はまだほんのり紅潮している。
別人なのはわかっているし、マリーの知っている『ハッピー・シャイニー』はあんなに無愛想ではない。が、あれでシャイニーじゃないと言われても、マリーの脳内ではバグが起きてしまう。
「大丈夫よ。たぶん、変えられないから」
前方の不機嫌な背中の上で踊るマントに向かって余裕の笑みを浮かべる彼女には、これから起こることがすべてお見通しのようで、その口調はどこか楽しそうですらある。
シャイニーが入っていったドアをそっと開けて中に続くと、久々に見る光景に圧倒される。右も左も、歴代のヒーローたちの衣装が入った透明の袋が天井に届くまでみっちりとぶら下がっていて、天井にあるはずの蛍光灯の光が遮られてしまって薄暗い。
半ば埋もれるような形で設置されているカウンターの前にシャイニーが立っており、その向こう側に小柄な白い髭の老人がいるのが見える。あれが皆から『爺』と呼ばれるこの衣装庫の番人である。本名は聞いた覚えがない。
「こりゃあたまげたな……幸子ちゃんが来たのかと思ったよ」
突然部屋に現れたチーフの、それもシャイニーの姿を見た爺は、掛けていた老眼鏡を押し上げて両目をまん丸に見開いた。その口ぶりから察するに、どうやら彼は幸子ママ——初代・シャイニーのこともよく知っているらしい。
呆然と、しかし舐めるように上から下までを何周も彷徨った爺の視線は、やがて薄らと細くなり、不機嫌度マックスのシャイニーの顔のところで止まる。
「名前を変えてほしい」
目が合ったのを確認してから、真剣に、はっきりと、至極簡潔にシャイニーはそう要望したが、爺は一瞬ぽかんとした後で大声で笑い出した。
「何を言ってる。そんなモン、ダメに決まっとろうが」即答だった。
「なんでよ⁉︎」
「その衣装は誰のモンか、おまえさんが一番よく知っとろう」
シャイニーが子どもみたいな声を上げたのでマリーは少し驚いてしまったが、対する爺は平然と質問を返す。「変えたい理由を言ってみろ?」
「う、それ、は……——」それまでの勢いはどこへやら、シャイニーはもごもごと口籠り、やがてとても小さな声で答えた。「……ダサいし、親と同じ名前を使うなんて嫌」
「ハッ! それだけ姿を似せておきながらよく言うわ」
まるで臆することなく椅子に腰掛けたままふんぞり返り、声を上げて笑っている爺を見て、マリーは困惑していた。そこにはこれまで真理子がずっと苦手だと恐れていたチーフの姿などかけらもない。
「『シャイニー』はともかく『ハッピー』だけでも何とかしてよ!」鼻であしらわれてもシャイニーはそう食い下がる。「そこは母が『幸子』だったから付いてるんでしょ? それに、母はオレンジは幸せの色とか言っていたけど、アタシは全然そう思ってない!」
「なら、おまえさんはどう思ってるんだ?」
早口で捲し立てられても、爺は終始落ち着いてびくともしない。双方譲らず、話は平行線のまま。真理子にはその様子が段々と、子どもが駄々を捏ねているようにしか見えなくなってくる。
「かぼちゃか、みかんか……ああ、ニンジンか?」
「やめて! 冗談じゃない!」必死なシャイニーを尻目に、背後で3号がくすくすと笑いを溢しているのが聞こえる。「……夕方の色? ヒグラシが鳴いているような」
「真逆だなァ」一瞬腑に落ちたように頷いた爺だったが、次の一言はまるで逆である。「それなら尚更改名はダメだ」
「どうしてよ⁉︎ 正直に答えたのに何なの⁉︎ 良いじゃない、アタシは——」
「百歩譲って——」爺はシャイニーの言葉を遮って首を横に振る。「昔おまえさんが2号だった時の名前なら許す」
「絶ッ対に嫌‼︎」今日イチの拒絶反応かもしれない。本当にこれがいつも偉そうに自分に給料袋を渡してくるのと同一人物? 自分の腹や尻を散々こき下ろしていたあのチーフと?
到底信じられるものではない。
「あれだけはやめて、本当に嫌、あれに戻るくらいなら死んだほうがマシ」
人がせっかく考えたのに、と爺は立腹しているが、シャイニーのほうはもはや怒りを通り越して半泣きである。
そんなに嫌がる2号だった時の名前とは一体何なのだろうとマリーは首を傾げた。チーフは現場に出たことがないのかと思っていたが、そういえば幸子ママが息子は昔ヒーローだったことがあると言っていた。息子がチーフなのだからおそらくそれが2号というわけだが、当然ヒーローネームまでは聞いたことがない。ここまでの様子だと逆に気になってしまう。
「真理子ちゃん、会ったことあるわよ?」真理子の心の内を読んだのか、後ろから3号が耳打ちしてきて思わず振り返る。
「え、嘘? どこで?」
「黄色いの」3号は質問に答えない。「可愛かったんだけどなァ、覚えてないかァ」
「え、え、いつ? 名前は?」
「おい、マジでやめろ」
聞いたことのない低い声にマリーは一瞬で縮み上がってしまったが、3号は相変わらず意地悪な笑みを浮かべているし、爺はやはり平然と椅子に座って溜め息をついている。
「……おまえさんは暗すぎる。明けない夜を呼ぶヒーローなんて聞いたことがない」ゆっくりとそう言うと、カウンターの向こうからシャイニーの顔を覗き、視線を合わせようとする。
が、それに気付いたシャイニーがすぐに嫌そうに目を逸らしてしまったのを見て、爺はとうとう椅子から立ち上がると、カウンターから身を乗り出し、素早くシャイニーの左腕を掴んで自分のほうに引き寄せた。
「良いか? 英斗」決して怒っているのではないが、爺の視線はまっすぐにシャイニーの目を捉え、その声は先ほどよりも些か熱を帯びているように、マリーには聞こえた。「気に入らないのなら、新しく、おまえ用のヒーロースーツを作ってやることは、できる。だが、おまえそれじゃ嫌なんだろう?」
「……別に……嫌、なわけじゃ……」
「後悔するぞ?」
「……」
「名前は、贈り物だ。そう簡単に変えて良いもんじゃない。その姿でいる限り、シャイニーの名前は御守りと思っておまえさんが持ってろ。これから先、たとえおまえさんが暗いところで道に迷っても、必ず助けてくれる」
「……」
「わかるな?」
シャイニーはしばらく納得がいかない様子で押し黙っていたが、やがて消え入りそうな声で一言、もういい、と言った。それを聞いて、爺は漸く掴んでいた腕を放した。
カウンターの中へ戻ると、彼はパッとマリーのほうに顔を切り替える。
「さて、久しぶりだね、真理子ちゃん。元気にやっとるか?」ほとんど来たことがないのに自分の名前を覚えられていることに感動した。「君に新しいヒーロースーツが出来とるよ。持っていったら良い」
「ありがとうございます!」
「いつ取りに来るのかと思っとったところだ。漸く日の目を見られるな」そんなことをぶつぶつと独り言ち、機嫌が良さそうに頷きながら衣装庫の奥へと消えていった。
シャイニーの名前が変わらずに済んだことに加え、新型のヒーロースーツをもらえるとあって、マリーは湧き上がる嬉しさが顔に出るのを抑えきれないでいた。が、隣にいるシャイニーはそれが面白くないらしい。
「アンタにはもう必要ないの! 今回だけって言ったでしょ、さっさとポケベル置いて帰んなさいよ!」そう声を上げると、シャイニーは衣装庫を出て行ってしまった。
いくら姿が可愛らしかったり、爺に言いくるめられて半泣きだったりのシャイニーでも怒っているのはやはり怖くて、バタン、と大きな音を立ててドアが閉まった時は肩が震えた。その向こうから遠ざかっていく足音が聞こえる。
「ごめんね、真理子ちゃん」呆れた様子で閉まったドアのほうを見ていた3号が申し訳なさそうに謝ってきた。
「ううん……」マリーは頭を振りながら思い出した。今回だけだからと、シャイニーはポケベルを返してくれた時、たしかにそう言ったのだ。
徐ろに、自分のポケベルを取り出す。十八年前に初めて受け取り、自分であれこれ考えながら飾りつけたピンク色キラキラのポケベル——『今回』が終わったら、全部元に戻して返却する。それがシャイニーとの約束。一旦の災厄も去った今、マリーは今度こそ鈴木真理子に戻らなくてはならない。
「さあさあ、これだ!」爺が弾むような声と共に衣装ジャングルから戻ってきた。カウンターの上に差し出されたのは、8号用の新型ヒーロースーツである。
「あ、あの、お爺ちゃん、あたし、——」
「気に入らないなんて言わせないぞ?」爺は喋る隙を与えてくれない。「君の希望は全部叶ってるからね」
「あたしの?」そんな希望を伝えた覚えはない。
「パンツルックが良かったんだろう? 君の上司から聞いたよ。これは袖も丈も長いからね、冷え性には優しいぞ。あと、靴はこっちだ」ヒーロースーツと共に差し出された靴はスニーカーのような形状をしている。「ティアラは今のままで良い。ヘアスタイルもだ。もし着てみてサイズが合わなかったら直すからすぐに持ってきなさい」
爺は気分が高揚しているのか、つい先刻シャイニーとやり合っていた時とは段違いに早口で、一方的に説明されたマリーは頭が混乱してしまった。そのせいだろうか。自分の上司というのは先ほど怒って部屋を出て行ったアレであるが、爺に8号用の新型ヒーロースーツの製作を依頼したのはまるでその人であったかのように聞こえた。
「何か質問は? なければ以上だ。すぐ更衣室へ行きたまえ」
展開が早すぎて、頭の中で質問を整理する間もなく会話は終了した。まるで不完全燃焼であるが、爺は満足げな表情を浮かべて立っており、これ以上何か訊ねられる雰囲気ではない。
3号に促され、マリーは受け取ったヒーロースーツ一式をがっさり抱えて衣装庫を後にした。
* * *
「近々、出ることになると思う」
数週間前、久方ぶりに衣装庫に姿を見せたチーフは、抑揚のない低い声でそう告げた。近頃会社の空気が騒がしいと思っていたが、なるほどそういうことであったかと、爺は合点がいった。ここにいると吹き溜まりのようにそこかしこから噂話が流れ着いてくるが、その噂については、噂ではなかったということだ。
ヒーロー部門に所属してはいるものの、立場は統括という完全に内側の人間であるチーフがもし本当に表に出るのであれば、それは異例中の異例だ。前例がない。当然、現状は出るために必要となる専用のヒーロースーツもない。昔々、まだ彼が統括になる前の、今よりもさらにヒヨッコであった頃に、一度名前と共に黄色いヒーロースーツを授けてやったことはあるが、それもほんの少し使っただけで内側に入ってくる時に一式返上されている。
「足りないからね。人が」
「それはおまえが補填をしなかったからだろう」
自業自得だと言いたいところだが、彼自身はそうしてきたことをまるで悔いていないのだから、その言葉は相応しくない。本来九名で構成されているはずの本部所属のヒーローを現状の四名にまで削ったのは、彼の意思に他ならない。
はじめから、そうするつもりだったのだろう。
その顔にたたえた微笑みは、ずっと昔に見たよく知る人物のそれに似ている。口で言うような困っている風など微塵も感じられない。
「ほとほと呆れるな」首に掛けているメジャーを外しつつ、溜め息を漏らす。「後ろを向け。測ってやる」
「作ってくれるの?」
生意気な。そうしてもらうためにここへやって来たんだろうに。「時々おまえがスーツのサンプルを持ち出していることに、この爺が気付いていないとでも思っていたか?」
自分はもう何十年も前からこの部屋に棲んでいるのだ。ここにあるものの位置は細部に渡るまで把握している。使っていないサンプルの棚に入っているはずのヒーロースーツに使用した新しい形跡があることくらい、とっくにお見通しである。正式なヒーローならばサンプルを着る必要などないし、かと言って経験者でなければ着こなせない代物、そして、使われるのはいつも決まって同じようなサイズの『男性用』——。
「そこまで耄碌しとらんぞ」
丸腰では訓練すらできない。ヒーロースーツがないから、こっそりここへ来て拝借していたのだろう。
とうとう観念したのか、彼は黙って着ていたジャケットを脱ぎ、長い金色の髪を前に送って、爺に背中を向けた。
一度でも採寸したことがあれば、おおよそのサイズは頭に入っている。だが、約二十年前に当てた時に目盛りが示した寸法と、今目の前にある背中は、思っていたよりも差異が大きかった。
「おまえ、痩せたなあ」
「そう?」彼は向こうを向いたまま小さく笑っている。「年を取ったってことね」
「ヒヨッコが生意気に。ワシの半分じゃないか」
「もうちょっといってる」
「何だって? おまえいくつになった?」
「ナイショ」
ヒーローになった者は必ずここへやって来るから、爺はこれまでヒーローに従事した全員の顔と名前を記憶している。だが、その中でも彼のような存在は他にない。一人の子を贔屓目に見るのは良くないとわかってはいるが、見るなと言うほうが無理がある。彼のことは、その母親がヒーローとしてここへ通っていた頃——それこそ彼がまだ物心もつかない赤子だった頃から知っていて、同じ会社の人間というよりはもはや孫にも等しい存在なのだから。
「欲しいなら早く言いに来れば良いものを。おまえは昔からそうだからな」
まだ碌に分別もつかぬであろう幼い頃から、こちらが心配になるほど欲のない子どもだったことを爺は覚えている。いや、欲はあるのだろうが、要求しないのだ。それこそ喉が渇いても、ジュース一つ欲しいと言わない。きっと母親にアレを買ってくれなどと駄々を捏ねたことなど一度もなかったろう。
強請り方を知らぬまま大人になったせいか、人に何かを頼むのも相変わらず下手で、何でも自分一人で何とかしようとするところがある。そんなでよく統括などという仕事をやっていられると思って遠目で見てきたが、まさか前線に出ることまで自分でこなそうとするとは。
いい加減、この老いぼれの気を揉ませるのは勘弁してもらいたい。
「サンプルなんぞ、着心地が悪くて敵わんかったろ」
「まァ、でも、着られたから……」
訓練は機械相手だからまだ良いかもしれないが、人外な力を駆使して戦うヒーローたちにとって、着心地が悪いとか動きづらいとか、着衣に意識が取られるようなことはあってはならないし、彼らの動きについていける耐久性も必要だ。だから一人ずつの特徴に合わせてそれ専用のものを作っているのに、ただ大きさが入ったからといってサンプルを着ているなんて論外である。
「馬鹿モンが。ちゃんと言えとあれほど言ってるだろう。どうしておまえはそうなんだ」
「ごめんなさい」
溜め息が漏れる。いくら言ってもこの子はそういう子だ。今日こうして作ってほしいとここへやってきたことだけでも褒めてやらねば。
しかしあんなに小さかったガキンチョがこんなになってしまうのだから、時間というのは本当にせっかちなものである。しかも大きくなっただけでなく、くるりと反転してこちらを向いた彼は、髪の色こそ違えどすっかり母親と瓜二つの良い頃合いの娘である。あの頃に戻ったかのような錯覚に陥ってしまうくらいに。
「それで? 勘は戻ったのか?」
「どうかしらね?」
「おいおい、——」わざとらしく首を傾げるチーフに、思わず声が大きくなってしまう。「ワシに死装束を作らせんでくれよ?」
「そうならないようにしたいけどね」彼は力なく肩を竦める。「実戦はきっと、違うでしょう」
どんなに練習したところで本物には程遠い。所詮、機械は機械だ——それは過去に前線で散っていったヒーローたちが証明している。この部屋で、着る人を失い戻ってきたヒーロースーツを見る度に、それを実感してきた。この子がそうなるくらいなら、こんな頼みなど聞いてやりたくはないというのが、本音だ。
この仕事はそういう仕事で、死はすぐそこにある。皆それをわかっている。わかってはいるが、それでも、行かせたくないと思ってしまうのはたかが衣装番としてではない。
——幸子だって、きっと……——。
「……黄色は今、2号がいるからな。作るなら、他の色になるぞ」
「ええ。構わない」両腕を横に上げたまま、チーフはさらりと即答した。「嫌いじゃないけど、良い思い出がないの」
少しは残念がったりもすれば可愛げがあるものをまるでその気がないところがまた小生意気な娘だ。
数歩下がりながらメジャーを首に掛けつつ考える。通常なら、新規のヒーローは空いた席に入るだけだ。色なんてほとんど選択肢がないものだが、空席だらけの現状では選びたい放題である。
「希望は? あるのか?」
素直に言うとも思えないが、一応訊くだけ訊いてみた。というのも、彼の場合、どうしたって浮かぶ色というと既に決まっていて、特にこの姿で着るともなれば爺の頭の中ではもはやそれ一択しかないのである。ただ、本人が嫌がる可能性がある以上、提案するのも——
「オレンジ」
口にしたのは、チーフのほうだった。顔を見やると、ぎこちなくはにかんで視線を逸らす。
——ああ、そうか。
決めていたのだ。この子の中にははじめから、ヒーローというのはそれしかなかった。
ずっと昔の、ヒヨッコの頃から。
「……そうか」
「ダメじゃなければ、だけど……」
「いいや、——」爺は小さく頭を振りながら、カウンターの中に戻っていった。そうだとするなら、もはやデザインは考えるまでもない。頭の先からつま先まで、すべて決まっている。昔々、それを着ていた人がいるのを爺はよく知っている。すぐボロボロにして帰ってくるから何回も直したし、何着も作り直した。その手順を体が覚えてしまうくらいに。
「わかった、考えておく。その時が来たら、取りに来なさい」
それを聞いたチーフはやはりぎこちなく、それでもとても嬉しそうに、笑った。
* * *
先ほどのエレベーターホールに戻ると、エレベーターは二階で止まっていた。両手が塞がっているマリーの代わりに3号が呼んでくれ、爺に言われたとおりそのまま更衣室へ向かう。もしかしたらチーフとすれ違うかもと思ったが、それはなかった。
勧められるがままにもらってきたばかりの新しいヒーロースーツを早速試着してみる。今までのものと形状はまるで異なるが、雰囲気はとてもよく似ているデザインとなっていた。3号に手伝ってもらって漸く全身の着替えを済ませ、高鳴る胸を抑えながら大きな鏡の前に立つ。そこにあったのは新生8号、ピンキー・マリーの姿だった。
「ねェねェ! どう、葵ちゃん⁉︎ 似合ってるかな⁉︎」
新しい服を着て鏡の前ではしゃぐなんて何年ぶりだろう? ぐるぐると自転しながら浮かれた声で訊ねると、3号は嫌がりもせずファッションショーに付き合ってくれる。
「うん、可愛いよ」
「ありがとう! すごォい、これ今までのと全然違うけど、マリーって感じがする! お爺ちゃん、天才ね!」
嬉しくて、心は躍る。飛び上がりたいくらいに嬉しい。しかしだからこそ、急激に寂しさが込み上げる。
——ポケベル……。
ポケベルを返却したら、もうヒーローにはなれない。だが、それが約束であることも頭ではわかっている。
本当、なんでもっと早く教えてくれなかったのかしら。
たしかに以前のものを修理しながら着続けていたのは真理子だが、一言でも存在を教えてくれていたらきちんと衣装庫に行ったのに。そうしたらもっと怒られずに済んだし、せっかく作ってもらったこれも、もっとたくさん着られたのに。
もう、着られないじゃない。
「……あたしがこれを着てマリーをやることなんて、もうないわよね……」
楽しかった。たしかにモンスターは気持ち悪いし怖かった。戦況では全然役に立たなかったのも自覚している。でも、楽しかった。幼い頃に見たあの背中——やっと、本物のヒーローとしての第一歩を踏み出せたような気がした、のに。
まるで小さい頃に連れて行ってもらった、夕暮れの中の遊園地に立っているような気分。その場のノリでこの新しいヒーロースーツをもらってきてしまったが、次がない真理子がこれを着て出動することはない。
「どうして?」
自分のロッカーの前で着替えをしながら、葵が訊ねる。全部知っているくせに、まるで何も知らないかのような軽い口ぶりである。
「だってそういう約束だったし、ほら、元々あたしクビって言われてたのよ? なのに我儘言って、無理矢理行かせてもらったわけだし……——」今になって冷静に考えてみたら、随分と滅茶苦茶なことをしたと思う。上司の命令をことごとく無視して、あろうことか討伐に出るなんて。「今日のことだって、チーフ、きっと怒ってるわよね……」
いや、きっとじゃない、絶対怒っている。怒らないほうが無理があるし、実際怒っていた。それは今になって平静を取り戻した真理子にはわかった。この状況になってしまってはクビの撤回なんてあり得ないし、もしかしたら有給を消化し終わる前に即刻辞めろと言われるかもしれない。
考えるほど気分が落ちていく。新しいヒーロースーツまでくれておいて実際はお預けだなんて、何という非情だ。
だが、葵からは意外な反応が返ってくる。
「そんなことはないよ」
「そうよね……え?」何の迷いもなくさらりと即答されたものだから、真理子はその意味を理解できず、葵のほうを二度見する。「え……、え? でも、怒ってたじゃない?」
「うん。あなたのことは怒ってないと思う」葵は首を傾げながら片手で器用にシャツのボタンを閉めている。「怒っているとしたら自分に対してじゃない? あの子はね、あなたのことを本当にずっと心配してた」
——心配?
誰が? 誰を?
訳がわからず、答えを求めて視線は彷徨うが、すっかり黒い姿に戻ってしまった葵は近くの椅子に座って脚を組み、またあの貼り付けたような微笑みを浮かべて真理子のことを見ているだけで明確な答えは口にしようとしない。
「……まさか」
やがて真理子が行き着いた可能性は到底信じがたいものだったが、葵は小さく笑った。それが答えなのだと悟る。
「いやァ、もう本当、大変だったんだよ。あの子、あなたのローテーションすゥぐ変更するんだもの」
「え?」
「私も協力してあげるとは言ったけどさァ、こっちにもこっちの都合ってモンがあんのよ。なのにお構いなしだもんねェ」参った参った、と葵はわざとらしい口調で愚痴を吐き続ける。
それを聞きながら、ふと脳裏にある光景が蘇る。真理子が時々話す若いヒーローたちが、チーフが直前になってコロコロとローテーションを変えるのがうざいと文句を言っていたことを。そしてその時、決まって自分は都合の良いほうに変更になって、助かったと思っていたことを。
不思議に思ってはいた。娘が急に熱を出した時、保育園の運動会、娘の誕生日——自分には無理だと思っていたことが、直前になって叶う。すべてとはいかなかったが、そういうことがよくあった。けれど深追いする余裕はなくて、ただ自分は運が良いのだなと、その程度にしか考えていなかった。
——あれは、マリーの玉突きだったってこと……?
「結局、あなたの手を借りる選択しかできないことが不甲斐なくて、あの態度なだけよ。怒ってるんじゃないわ」葵の口ぶりは何か明確な根拠でも持っているかのように迷いがない。「本当はね、ずっと、あなたの気の済むまでやらせてやりたいと思っているよ。でなきゃそんなもの、今さら新しく発注したりしないでしょ」
彼女が顎で指したのは、まさに真理子が着ている新型ヒーロースーツである。
再び鏡に向き直る。今までと同じ桜のようなピンク色、長く広がった袖に、袴を模したデザインのボトムス——これならもう下にジャージを穿かなくても良いし、タイツを穿いていたって見えない。スニーカーでも十分可愛い。
爺の言葉は聞き違いなんかじゃなかった。いくら叱っても一向に直そうとしない聞き分けの悪い部下のために、チーフはきちんとこれを用意してくれていたのだ。
「あ、これ私が言ったって内緒ね?」それこそ怒るから、と葵は悪戯に笑う。
しかし、真理子にはよくわからない。ならば矛盾するではないか。自分を辞めさせるためにアレコレと画策していたのはチーフ自身のはずで、辞めさせようと思っている人間のヒーロースーツを新しく発注して何になる?
本当にわからない。真理子にとってチーフというのは、ただひたすらに怖い上司で、自分に給与袋を渡してくれる人。ダサいジャージと汚い靴を脱げと常に怒っている人。自分なんかよりずっと優秀で、綺麗で可愛くて、自信があって、ちゃんと自分を持っていて、だからきっと真理子を見てはいつも呆れている。オバサンだなって、早く辞めたら良いのにって、SNSの向こうでマリーを嘲笑する人たちと似たようなものだと、そんな人だと思っていたのに。
あの幸子の葬儀の時からわからなくなった。おまけに真理子を心配していただなんて、俄には信じがたい話だ。
しばらく真理子が黙りしていると、葵が再び口を開いた。
「あの子の名誉のために言うけど、——」その静かな声は不思議と抵抗なく自分の中に滑り込んでくる。「あなたのことを辞めさせたいと最初に言い出したのは、英斗じゃなくて、幸子さんよ」
耳を疑った。
幸子ママが依頼って、何?
返す言葉を見失い狼狽えていると、葵はゆっくりと、静かにその続きを話し始める。
「あの依頼は元々、幸子さんから始まったの。あの子が……——」葵はほんの少しだけ目を伏せる。「英斗が、ずっとあなたのことを心配して、迷っていたのは本当。だけど、結局のところ、あの子は、本当は何にもしていない。英斗はただ『チーフ』として、最後に判断をしただけよ」
「どういうこと?」
まったく混乱が解けない真理子に、葵は表情を変えないどころか、淡々と、さらに衝撃的なことを口にする。「怒っても良いわ。ピンキー・マリーのSNS……あれ燃やしたの私よ」
「ええッ⁉︎」
思わず声が大きくなり、咄嗟に両手で口元を覆う。が、葵は構わずさらに続ける。「あなたに碌でもない依頼ばかり割り当てていたのも私。わざと意味のない依頼を作り出したこともある」
例えば、お弁当とかね、と言われて真理子はハッとした。チーフにクビ宣告をされたあの日、待合室で食べた、あの強烈に酸っぱい梅干し入りすぎのおにぎりを思い出す。
勢い余って口を開きかけたところを葵に制止され、言葉は出る前に喉の奥へと戻っていく。心臓だけがまだ音を立てている。
「そうやって、私が作り出したよろしくない状況を見て、会社の運営上問題のある8号に対して『チーフ』として『解雇』っていう処分を下しただけよ。そうなることを、幸子さんが望んだ」
「待って、でも……幸子ママは、息子さんとはうまくいってないんだって——」
「そうねェ、ほんと呆れ返るくらい最悪だったわね。でもあの子は最終的に手を貸すことにしたのね。自分の母親がそれを望んだから」
「……」
改めて言われると正直凹む。最後に幸子に会った時、引退には賛成だと言っていた。そして、その状況を受け入れるよう諭されたことも覚えている。あの言葉の裏側にはそういう思惑が既に存在していたということ——いや、実際にはもっと前からそうだったのだ。ヒーローをクビになるのだと報告した、あの夜も。
何を信じて良いのかわからなくなる。いつだって、幸子は自分のことを応援してくれた。でもそれも、全部偽物だった。自分が今まで見ていたものは一体何だったのだろう?
「悪くとらないで? 幸子さんはあなたに、自分と同じ道を辿ってほしくなかっただけよ」
「同じ道って……——」
「同じならまだ良いけど、あなたの場合、このまま行くと娘さんが大人になる前に死ぬわよ?」
葵の言葉はまっすぐに刺さる。何の飾りもなければ回り道もしない。大袈裟だと反論する寸前、なぜか火葬場にいたチーフの顔が浮かんだ。
——「自分の娘に同じことを味わわせるつもりか?」
その言葉が、喉元まで出かかったそれを押さえつけてしまう。
「あなたほど長い間、ヒーローをやっていた前例は、ない。寿命の話は聞いたでしょう? たとえ『マスコット』だったとしても劣化はするし、いつまで保つのか正直私にも見当がつかないわ。今晩眠って目が覚めたらあの世ってこともあり得るかもね」
冗談みたいな話だ。でも、実際に幸子は亡くなった。三日前、あんなに元気そうに話をしていたのに。
それを知っているのに反論なんてとてもできない。
「英斗はずっと困ってた。あなたの娘さんのことがあるからよ。あなた、何度も英斗からそういう話振られてたのに、気付いてなかったでしょう」
たしかに考えてみれば、そうも取れる話をされたことは何度もあった。体力的にキツくないのかとか、子育てが忙しくないのかとか——あれは自ら引退するという選択を視野に入れろと、かなり遠回しに気付かせようとしていたのか。
なんと回りくどい誘導だ。
「優しすぎるのよね」葵は呆れている。「『夢は扱いを間違うと亡霊にもなる』って、幸子さんの言葉、覚えてる? あなたにはきちんと、最後は自分で決断させたかったのね。幸子さんは自分がその亡霊に憑かれている自覚があったし、英斗も、そのことに気付いていたからね。でもタイムリミットが迫って、とうとう英斗は強制的に終わらせることを選んだ。あなたのクビを切るためにはどうやったって最後は自分が手を下さなきゃならない。逆に、自分がそれさえすれば、全部終わらせることができるって、わかっていたんでしょう」
母の最後の希望を叶えてあげることにした——あの言葉の本当の意味を今になって理解する。
真理子が聞いたチーフの話には、幸子も葵も一切登場しなかった。葵が真実を語ってくれなければ、真理子は絶対に知ることはなかっただろう。
「……チーフが一番辞めさせたがってると思ってた」
「間違いではないわ。本人も、一生そう思っていてほしかったはずよ」
「どうして——」
「あの子はそういう子だから」葵はさらりと即答した。「でもね、私はごめんだわ。それにあなたには悪いけど、私、あなたにしたこと後悔してないから」
ごめんね、という言葉には謝罪の意などかけらも感じられない。彼女には本当に悪気がないのだろう。
「……どうして教えてくれたの?」
「私がそうしたかったからよ。英斗に借りなんか作りたくないしね。だから真理子ちゃんは私のことを怒って良いし、恨んで良い。でも、英斗のことは、許してやって」
その瞬間の葵の顔にはやはり微笑みが貼り付いていたが、どこか寂しそうで、見ていると心臓の当たりが痛む。なぜか、彼女がそのまま泣き出してしまうのではないかと思った。
恨むとか、許すとか、そんなこと、何も——。
ずっと母のことが嫌いだった、とチーフは言った。全然違うじゃない。チーフは自分の母親に、生きていてほしかったんだ。もっと長く、年を重ねて。たとえ自分と分かり合うことがなかったとしても。
嘘つき。結局、一番お母さんのことしか考えてなかったってことじゃない。自分が永遠に悪者になるかもしれないって思わなかったの? それとも、それすらも構わないと思っていたの?
「……あの人、コミュ障すぎじゃない?」
「極論、そうなんだよね」葵は苦笑いをしている。「そういう子なの。もし良かったら、覚えておいて」
そこまで話して、すっくと立ち上がった葵は、体を左右に捻りながら伸びをして、首を左右に折り曲げたりしている。いつの間にかすっかり着替えを終えて、あとは帰るのみという格好だ。
「さあさあ。早く顔見せに帰ったほうが良いよ、真理子ちゃん。心配されてるでしょう」
餌に群がる蟻の大群のような一階ロビーの光景はもう落ち着いているだろうが、念のために裏口から出ることが経験者としてのオススメだそうだ。フリーのライターのような暇人はまだいるかもしれないが、それは真理子が着替えている間に自分が撒いておいてあげると言ってくれた。
「真理子ちゃん」
ふと葵を見ると、先ほどまで柔らかな微笑みをたたえていた顔はいつの間にか真剣そのものに変わっていて、吸い込まれそうなほど深い漆黒の瞳がまっすぐに真理子を見つめていた。
「死ぬのは結構マジだから。それだけは忘れないで」
真理子が頷くのを見た葵は、今後ともよろしくと告げて更衣室を出ていった。
* * *
本当に、英斗の天邪鬼にも困ったものだ。
マリーがヒーロースーツの下にジャージを穿いたり、ブーツを勝手にスニーカーに変えたりしていることはずっと見ていたし、それに対して英斗が腹を立てていることも知っていた。そしてその怒る理由が、着崩すことによって見た目が悪くなるからではなく、「どうして元は可愛いのにちゃんとしないのか理解できない」というものであることも。
いよいよもってあれは改善しないと判断し、英斗が衣装庫の爺に「8号用の新型ヒーロースーツを作ってやってほしい」と発注をかけに行ったのはもうだいぶ前の話だ。本当に馬鹿。素直に、もっと早く言えば良かったのに。口下手にも程がある。
新しく買ってもらった大切な服を抱く子どものようなあの真理子の姿を見たらどんな顔をするのだろうか。想像すると笑いが止まらなくなる。そして同時に、そんな英斗が今どんな気持ちであのクソオヤジ共に囲まれて議場に立っているのかと考えると吐き気がしてくる。
いくら英斗が駄目だと言っても、この状況に陥ってしまった時点で上層部がピンキー・マリーの引退を簡単に了承するとは考えにくい。幸子や英斗が心配していた寿命の話も、結局『人体兵器』としての価値に戻ったヒーローの命など尊重してくれるとは到底思えない。
元来、ヒーローとはそういう存在だ。
——私だって、どうなることやら……。
現場に出るのは歓迎だが、それなら給料は倍額出してもらわないと割に合わない。黒衣もやって、3号もやって、教育係? 冗談じゃない。『私を誰だと思っているんだ』。
薄暗い廊下を駆け出す。自分も、今すぐにでも顔を見たい人がいる。だから、出動前に放り出してきた黒衣としての仕事を早いところ片付けなくては。
* * *
「お母様からです」
生前の母の世話をしてくれていた病院のスタッフから渡されたのはあの店の鍵だった。私物はすべて処分してくれと頼んでおいたのだが、これだけは捨てるわけにはいかないからと、看護師の厚意で取っておいてくれたらしい。鍵と安っぽい飾りが束になっているもの——いや、飾りの束に鍵がいくつか付いている、という表現のほうが正しいくらいに、揺れる度じゃらじゃらと音を立てる楽器のようなものだったが、手紙の一つも付いていないため何がどこの鍵だかさっぱりわからない。そういうところが最期まであの人らしいと思った。
夜明け前、まだ地平線の向こうが薄らと明るくなり始めたばかりの頃、人通りのない街中をふらふらと歩き回り、やがて白い息を携えてチーフが帰ってきたのは自宅ではなくEightであった。コートのポケットが重いと感じるほどの鍵束を引っ張り出して入口の鍵を探す。束の中で最も大きく、形状からして想像がついたので当てるのは容易だった。
ドアカウベルだけはこんな時でもきちんと仕事をする。訪れる度に、なんてオレンジ色が煩い店だろうと呆れてはいたが、意外にも灯りが点いていないと気にならない。或いはもしかして、あの奥のカウンターのところにいつも立っていた、気の利いたこと一つ言えない主がそこにいないからなのかもしれない。
テーブルの上に鍵束を放り出すと、ガシャン、と思いの外大きな音が響いてびっくりした。プラスチックのオモチャのようなキーホルダーの数々——その中に、一際物騒なシルバーの小さなプレートが光っている。母がシャイニーだった頃の、ドッグタグだった。
そうっと置きなさい、と怒られている気分だ。今日くらい大目に見てくれたって良いじゃないか。母親を骨にして、前線に出てモンスターと戦い、社内で熱烈な歓迎を受けてからの緊急会議——それが全部たった一日の間に起こったというのだから、本当に二十四時間というのは長い。そんな些細なことに気を遣えるほどの余裕なんて、今の自分にはもう残っちゃいないのだ。
長い息と共にソファの上に倒れ込む。どうしてこんなところに来てしまったのだろう。たまに自身の考えていることがよくわからない時がある。今みたいに、自分が持っているはずの感情と体がまるであべこべな行動をしていると困惑する。その理由を突き詰める気力はもうないから、今日はこのまま体のほうに従うことにする。
ソファの上から薄暗いカウンターを見ていると段々と腹が立ってくる。ヒーローへの未練垂れ流しのこの店は、もしや自分への当てつけのつもりで作ったのかとさえ思った。
言われたとおりに最後までしてやったのだから文句を言われる筋合いはないが、あの姿を見ることはもう二度とないのだなと思うと喉の奥のほうがヒリヒリする。その感覚が気持ち悪いことこの上ない。
両手に感覚が残っている。発砲した時の芯に来る衝撃って、あんなに大きかった? じんわりと、今になって、その痛みが掌に浮いてくる。
頭の中に響く瓦礫の崩落していく音が、段々と大きくなって、地面から伝わってくる衝撃や風の感触、そのうち臭いまでも漂ってくる。寝覚めの悪い夢だったような気がしてしまうがこれは現実だ。
——「本物は違うからね。それだけは忘れるんじゃないよ」
ああ、違った。たしかに言うとおりだったよ。自分は自分が思っている以上に臆病だった。
昼間、三人で討伐に出ている間、本部ではシールドの崩壊を受けて上層部の緊急会議が開かれていた。呼び出しを喰らっていたチーフは衣装庫を出た後、討伐の報告と今後の方針を聞くためその議場に赴いた。そこで聞かされたのは、シールドの修繕が完了するまでの間にモンスターの相手をする討伐チームを育成すること、そして今後当分の間、基本的にそれに当たるのが自分と3号、そしてマリーだということだ。
溜め息しか出ない。自分は良い。そうなるだろうとわかっていたし、そうなっても良いようにやってきて、そうなることを望んでいる自分もいた。でも、葵と真理子は駄目だ。
可能な限り面倒を避け、平穏に、上との関係を上手く保つのに重要なことはとにかく反論せず愛想良くすること。これに尽きる。特に自分の足元を見向きもしない阿呆どもには最も効果があるやり方だと学んできた。だが、今回だけは素直に「承知しました」なんてどうしても言えなかった。そういう結論に至った理由を訊ね、何とかして二人を外すための言い訳を考えようとした。
しかし上層部は決定を覆さなかった。他に適任がいないだろうというのが理由だ。適任というのはつまるところ、この現代において『本物』と戦うという貴重な経験をしたヒーローが他にいないから——というのは表向きで、その真意は、年寄りはどうせ早死だから消耗するならそちらからにしたい、である。
三十年ぶりの討伐成功を祝い、皆で食事会をしようなどと楽しげに帰っていったアイツらの顔を思い出すと反吐が出る。モンスターより何よりそっちを先に討伐してやりたい。温室の椅子に座っているしか脳がないくせに、人の命を何だと思っているんだ。
こんなことなら真理子に有給なんかやらずさっさと辞めさせておけば良かった。葵のことも、どうしてあの時呼び戻したりなんかしたのだろう? 討伐なんて自分一人で何とかすれば良かったじゃないか。あの瞬間に戻れるのなら自分を殴ってやりたいくらいだ。
葵がいると、自分は甘える。駄目だとわかっているのに甘えが出る。なぜ? 自分一人しかいない時は、きちんとやらなくてはと立っていられるくせに、本当に駄目な奴。
考えても考えても後悔しか出てこない。今さらそんなことをいくら顧みてもどうしようもないことはわかっているのに。
こういう時、決まって思い出す言葉がある。昔、ヒーローになることを報告した時に母から言われた、——。
その時突然ドアカウベルが来客を告げ、一瞬思考が止まる。
咄嗟に隠れられる場所なんてない。寝返りを打って背凭れのほうに体を向け、丸まって耳を澄ます。聞こえてきた微かな足音が客の正体を教えてくれる。
タイミングが悪すぎる。どうしてこの人は、今みたいな時に限って目の前に現れるのだろう?
「寝てるの?」
足元に気配がある。寝ていないとわかっているはずなのに、敢えて訊いてくるところが本当に性格が悪いと思う。
「……起きているよ。頭が痛いし、筋肉痛がひどくて」
本当は頭も痛くないし筋肉痛にもなっていない。ただ起き上がりたくない言い訳が思いつかなかっただけだ。声だけなら何とか作れるが、今起き上がって顔を見られたら、たぶんこの人には全部悟られてしまう。
「あら、もう?」葵の笑みを含んだ声が聞こえる。「思ったより若いのね」
「思ったより、って何? 少なくともアンタよりは若いつもりなんだけど」
「ねェ、殺されたいの?」
思わず笑みが溢れてしまう。いつも意地悪ばかりされるから、こういう時でもないと仕返ししてやれないのである。さっきだって、人が衣装庫で困り果てているというのに助け舟の一つも出してくれなかったではないか。
わざとらしい溜め息と、取ってつけたような抑揚の声が聞こえてくる。「わかってんならさァ、もうちょっと労ってちょうだいよ。人使い荒すぎなんだけどォ」
「……ごめん」
葵の言葉が本気じゃないことはわかっている。だが、自分のほうは本音だ。きっと彼女のところまでは届いていないだろうけれど。
一度に降ってきたものが多すぎて頭の容量がまったく足りていない。雑然としすぎていて、本当は何がそこにあるのかさえも正しく認識できていない気がする。本当に、どうしたら良いのだろう? 整理しようにも何から手をつけたら良いのかわからず、ただ茫然とするばかりだ。
「喜んでたよ? 真理子ちゃん、あの新しいヒーロースーツ。似合ってた」葵の明るい声が聞こえる。「良かったじゃない。あんなに嬉しそうにしてくれたら、発注した甲斐があったってモンでしょ。あんたも見てやってよ」
「……うん」
「ああ、あと今度、幸子さんに御線香をあげさせてほしいって。店に来るって言っていたよ」
「……うん」
その声をぼんやりと聞きながらどうにか相槌を打つ。彼女の言葉を噛み砕いて記憶するだけのメモリーがない。せっかく話してくれているのに何の話をしているのかも理解できないまますり抜けてしまって、それがまた、とても申し訳ない。
と、急に自分のすぐ横のソファが窪んでハッとする。気付けば葵の気配はいつの間にか足元から頭のほうに移動していて、すぐ隣に腰を下ろされ、頭の上に葵の手が載っていた。
「……名前を変えられなかったのがそんなにショック?」
その静かな口調だけはなぜか、自然と体に入ってきた。ふと何か、寸前で堪えているものが溢れてしまいそうになる。
やめてくれとその手を払い退けてしまいたいのに、それもできない。一体いくつになったと思っているんだ、いつまでも人を子ども扱いして——そう思うのに、もうしばらくそこに置いておいてほしいとも思ってしまって、どちらが本当なのか、感情が喧嘩する。
たしかなのは、昔からこの人の手は頭に載っていると、滅茶苦茶に騒がしかった頭の中が落ち着いたり、吐きそうなくらいの胸焼けが治ってしまったり、実に悔しいが、不思議とそういう効能があるということだ。子どもの頃、葵というのは本当に魔法が使えるのかもしれないと考えたこともある。
しばらくの間、溢れないよう鎮めるのに必死で、何も返せず丸まっていた。それでも葵は黙ってただ頭を撫でながら待っていてくれる。この散らかった感情を早くどうにかしないと息ができない。息をしたらそのギリギリの表面張力が決壊してしまいそうで、とても怖い。
「大丈夫よ」
ぽつんと滴るように、葵の声が落ちてくる。それは静かに、張り詰めた水面を揺らす。
悔しい。何が大丈夫なんだ。こっちはまったく大丈夫なんかじゃない。それなのに、彼女にそう言われると本当に全部大丈夫なんじゃないかと思ってしまう。
駄目なのに。駄目なのに、——。
たぶん彼女には、途方に暮れている自分の姿さえも見透かされているのだろう。全部見えていて揺らしてくるのだから、本当に性格の悪い奴だ。
「……わかんない」
「うん。何がわからないの?」
「全部、全部……だから、どうしようって、困ってる」
「うん」ぽたん、ぽたん、と、声は雫となり、ゆっくりとゆっくりと垂れてくる。「全部って、例えば、何か思いつくもの、ある?」
「……」
なんだか遠い昔にもこんな話をしたような気がするが、気がするだけなのかもしれない。
「……母に、何か……言わなければならないことが、あったような気がするのに、考えても、考えても、どうしてもそれが思い出せない」
でも、きっとそれを知ってしまったら、自分は駄目になる。
そんな予感がする。
「思い出したところで、もう伝える相手はいないんだから、思い出さなくても良いんじゃないの?」
ふと、もしかしたら葵は、その答えを知っているのかもしれないと思った。そして、だからこそ、そう勧めている。だってたしかにそのとおりなのだから。
自分でもわかっている。その答えを知ったら駄目なのだ。喉の辺りに何かが痞えてもどかしいが、それでも決して探求してはいけない。そしてきっとこの感情はもう二度と、永遠に昇華されることはなくて、どんなに葵が魔法の手で頭を撫でてくれたところで絶対に解けることのない、呪いみたいなものなのだということも。
だからもう、諦めろ。自分にできることはただ、ふとした瞬間に三度現れるであろうそれに耐えられるだけの何かを手に入れておくことだけだ。
ゆっくりと体を起こしてソファに座り直す。一つ静かに息をついて、背後に座っているであろう葵に伝達事項だ。
「上からの命令を伝えるよ」可能な限り、淡々と。「すぐ辞令が出る。葵は3号として、このまま前線部隊に残って。役割は討伐の補助、それからアタシと……真理子の指導係」
「了解」即座に、葵は頷いた。改めて言われなくとも、こうなることはきっとわかっていただろう。
だから、そうではない未来を与えてやりたかったのに。
「……ごめん」
「なんで? 私、現場出るの好きだからありがたいくらいだわ」
背後から聞こえてくる葵の声は言葉のとおりどことなく嬉しそうで、何も言えない。どう返すのが正解なのかわからず、それどころか何かすると途端に全部溢れてしまいそうな気がして動くこともできない。
それを知ってか知らずか、やはり彼女はとことん性格が悪いのである。
「まさか、あんたと組む日が来るとはねェ……」
完全に油断した。溜め息のような声と共に背中に重みがゆっくりと乗ってきて、耳元で葵が静かに息をしているのが聞こえる。首元に巻き付いている両腕のうち、片方は袖口が途中で不自然に垂れ下がっている。
咄嗟に、葵の顔がないほうに目を背けたが、無駄な悪足掻きだ。一度破られた表面張力は元には戻らない。
「……碌なことにならないんじゃないかって。アンタも、真理子も」
「そんなことないわ」
「あるんだよ、あるの、僕はさ……——」せめて声が震えないようにするにはどうしたら良いんだろうかと、そんなことだけを考えている。「結局、何にもできない。何かしようとすると絶対に良くないほうに行く。ずっとそう。三十年前、僕が風邪をひかなかったら葵は今でも両手が使えたよ。あの日僕がわざと風邪ひいたこと、とっくに気付いてるでしょう」
「……」
「出したくないの、葵のことも、真理子のことも。傷ついてほしくないし、けどそれを望むことも、駄目なんじゃないかって思うと、何も言えない」
「英斗」
「何のためにここまで上がってきたんだか……本当に自分が嫌で嫌で、どうしようもない」
「あんたのせいじゃない」葵はそう言って、巻き付いている腕にぎゅっと力を込めた。「大丈夫。私、ちょっとやそっとじゃ傷つかないし、あんた程度に何されたって、どうってことないわ」
「嘘だよ。葵はちゃんと傷つくし壊れるよ。人間だもの。それくらい、もうわかる」
「じゃあ、あんたが守って?」葵は背中に顔を埋めたまま囁く。「あんたの後ろは私が守ってあげるから、あんたが、私を守って?」
「……」
「大丈夫、あおいがお願いしたんだから、悪いほうには行かないよ」
大きくなったね、と呟きながら、葵の手が頭の上に載っている。扱いは昔とまるで変わっていないのに、矛盾している。
葵のお願いは断れないと、知っているくせに。
本当に、本当に、嫌な奴。