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第二話 太陽を追う者(1)誕生の日

 鷹野(たかの)(あおい)桜庭(さくらば)幸子(ゆきこ)が出会ったのは今から三十二年前——幸子は二十八、葵はまだ十八になったばかりの頃であった。

「ヒーローになると言うのなら、もう二度と、うちの敷居は跨ぐな」

 進学はしない、自分はヒーローになる——葵が告白した時、父はそう言って、母は隣で泣いていた。ヒーローという仕事は()の人間がやるものというのが、両親の価値観だった。今まで何事にも従順だった娘が突然そんなことを言い出したものだから、動揺したのは間違いない。

 おそらく、そう言えば諦めると思ったのだろう。十八年間、自分たちの目の届くところで大切に何不自由なく育てられてきた箱入り娘に、そんな蛮人の仕事が務まるわけがない。或いは、たとえここで啖呵を切って家を飛び出したとしても「やっぱりお父さんとお母さんの言うことが正しかった」と許しを乞うて、すぐに戻ってくるに違いないと考えていたのだろう。だが、葵はその期待を裏切り、一度も家には帰らなかった。あれから三十二年経った、今でも。

 葵の家は、言ってしまえば『上流階級』というやつで、葵は一般的に言う『お嬢様』だった。周りの友人たちに比べて家も大きかったし、小さい頃から優秀な家庭教師がついていて、ピアノやヴァイオリン、書道に華道、舞踊やら水泳やら——とにかくあらゆる稽古事をさせられた。どれも葵が自らやりたいと言ったのではなかったが、やるのが当然のことなのだと思っていた。今はもう忘れてしまったが、幼少期は外語も二つくらい話せた。金が云々なんて話は聞いたことがなく、幼稚園からそれなりに名の通った私立に通い、欲しいと言えば何でも買ってもらえたし、子ども服の頃からブランド物は当たり前。モンスターの侵攻が激しい時はいの一番にシェルターに退避させてもらえるような、そういう家柄だった。だから、ヒーローなんていうものはテレビの向こう側にあるファンタジーの世界にのみ存在する幻の類に近かった。

 今思えば、そんな環境で多少なりともまともに生きてこられたのは学生時代の友人のおかげだろう。それは当たり前のことではないのだと、彼女が葵に教えてくれたのだから。

 高校二年の夏、学校からの帰り道、いつものようにその友人とたわいもない話をしていた時、不意に友人が言った。

「私たちって、何のために生きているんだと思う?」

 質問の意味が理解できなかった。そんなことを考えたことすらなく、返答に困っていると、気にしないでとすぐに友人は笑って質問を取り消した。なぜそんなことを訊いたのか、一瞬疑問には思ったものの、答えのわからない質問を深追いする気にはなれず、甘えてそのまま流してしまった。しかしどうしてか、黄昏れに照らされたその笑顔はいつもとどことなく違って見えて、友人と別れた後もその光景が脳裏にこびりついていた。

 一体何が違っていたのか、その夜眠りにつくまでぼんやりと考えたが、結局葵にはわからなかった。靄々(もやもや)としているのが不快で、やはり明日、学校で訊いてみよう——そう思いながら朝を迎えたが、友人は学校に現れなかった。

 次の日も、その次の日も、その日を境に友人は学校へ来なくなった。風邪でもこじらせたのだろうかと思っていたが、数日後、自宅マンションのベランダから飛び降りて亡くなったと聞かされた。

 あまりに展開が急すぎてついていけなかった。葬儀にも行ったが、夢を見ているのではと思うほど実感がなかった。ただ、白い花に囲まれた遺影の中にいるその友人は、あの日黄昏れの帰り道で見たのと同じ顔で笑っていた。


 ——「私たちって、何のために生きているんだと思う?」


 その問いだけがぐるぐると、いつまでも留まり続けていた。誰かにその質問をぶつけてみたら、「お前()『厨二病』を(こじ)らせているのか?」と相手にもされなかった。真剣に訊いたつもりだったのに、まさか嗤われるとは思わなかった。どうやらあの友人が死んだ理由は結局、そういうことになっているらしかった。

 皆、自分が何のために生きているのかもわからないで、どうして平気な顔をして生きていられるのだろう?

 友人が死に、それでも何も変わらず世界は回っていくのだと知って、その疑問は葵の中で日に日に大きくなっていった。あの友人はこの世界にとって、一体何だったのだろう?

 自分はこの世界にとって、一体何なのだろう、と。

 人は生きているだけで価値があるのです、という台詞をこの頃よく聞いたが、具体的にどんな価値があるのかは誰も教えてくれない。だが、少なくともあの友人は自らの死によって、葵に大きな価値を遺した。

 何のために? ただ両親に言われるがまま、期待されるがまま、いろいろなことができるようになったが、それができるからといって何になる? 何のためにそれができる?

「あなたのためよ」

 自分のため?


 ——『私』は一度も望んでいないのに?


 たしかに何かができるようになると、両親は喜ぶ。勉強ができれば先生の機嫌は良くなるし、褒めてもらえる。君は将来何にでもなれる、とよく言われるが、ならば一体自分は何になりたい? 何になれば良い?

 自分はコレになりたいと言ったら、皆は賛成してくれるのか?

「あなたのためにならないから、それはやめたほうが良い」

 どうして?

 自分は自分のためにコレになりたいと言ったのに、なぜ他人がそれを決めるの?

 誰かの理想の『私』になれないから?


 鷹野葵って、一体誰なの?


「ヒーローになろうと思ってる」

 それは葵が初めて両親に向かって、自分の意思を提示した瞬間だった。誰かの人形としての価値ではなく、鷹野葵そのものとしての価値が欲しかった。そして、それはいくら人に強請(ねだ)っても、金を積んでも、決して手に入らないものだと気付いた。自分で、自分の足で、それを探しに行くのにヒーローはうってつけの仕事だと思った。

 幼い頃から英才教育を施してくれたことと、この容姿に産んでくれたことは、両親に感謝している。「あなたのため」と言われてやってきたことは、たしかに自分のために大いに役立ち、試験は何の苦労もなく合格した。

 言われたとおり、本当に家を出た。社宅に入って訓練を積んで、給料をもらいながら一人で生活した。訓練はキツいし、身の回りのことなんて何一つできなくて苦労はしたが、実家にいる時よりもよほど『生きている』と感じたし、自分自身が『できていく』感触があった。途中で多くの同期が辞めていったが、葵には何が気に入らないのかわからなかった。そうして「お前は今日から3号だよ」と青色のヒーロースーツを渡され、出会ったのが幸子だった。

 8号、ハッピー・シャイニー——既にこの頃彼女の人気は絶大で、討伐に行かせたら右に出る者はいないとまで言わしめる最強のヒーローだった。色素の薄い長い髪を顔の横で二つに結って、体と同じくらいの大きなオレンジ色のマントを背負った彼女は、テレビや新聞で見るよりずっと可愛らしくて凛々しかった。

「今日からアタシ、先生なんだって! よろしくね!」

 テレビの向こうにしか存在しないはずの御伽の国の住人が、今、目の前にいる。

 そう言って右手を差し出した彼女はとびきりの輝きに満ちた笑顔で、太陽の化身と言われるその理由は初対面で即時理解した。これから最強の師の元で鍛錬に励むというプレッシャーはあったものの、葵の中では期待のほうがずっと大きかった。彼女のとそっくりなヒーロースーツを纏えるのが嬉しくて、早くこれに恥じない一人前のヒーローになって彼女の隣で戦いたいと、心が震えた。


 ところが、である。


 8号はそれを見事に裏切った。まず彼女には人に教える才能がまるでない。ある意味天才なのだろう。すべて感覚でこなしているからそれを他人に伝えられないし、そもそもなぜ自分にそれができるのかもわかっていない。そして、葵が呆れ返ってしまうほどに、ドジ。特に背面についてはいつ攻撃を受けてもおかしくないくらいに隙だらけなのである。

 なぜ、この人は今までいくつもの戦場を生きながらえることができたのだろう?

 その疑問に対する答えはいくら考えても、ひとえに『運が良かったから』としか思いつかない。現場に出ても危なっかしくて、新人の3号がフォローするような場面も度々見られた。

「助かったァー! 3号はすごいなァ!」

 ——いやいや、だって、困るじゃない。目の前で師匠が死んじゃったらさ……。

 とにかく必死だった。現場に出たら新人だろうが玄人だろうが関係ない。一日も早く彼女を完璧にフォローできるようにならなければ、共倒れである。せっかくここまで来たのに、何もなさずに無駄死になんてまっぴらごめんだ。

 必死に鍛えて、訓練して、経験を積んで、目が回るくらいの日々を送った。弱音を吐いている暇などない。早く一人前になりたい。もっと速く駆けて、高く跳んで、彼女についていけるようになりたい。そう思って過ごす日々は楽しくて、疲れれば疲れるほど心は高揚した。

 幸子は飾り気のないざっくばらんな性格をしていて、葵とは馬が合ったから公私共に仲良くなるのも早かった。プライベートでもよく可愛がってくれ、年の離れた姉がいるような感覚だった。一人で暮らしていても縁を切った家族が恋しくなることがなく、自分はとてもドライな人間だったのだなと思ったが、それは幸子が一日のほとんどの時間を共に過ごしてくれていたからかもしれない。

「葵、最近無理してない?」

 だから、幸子はきっと見ていたのだろう。葵自身よりも、葵のことを。

「大丈夫ですよ?」

 なぜそんなことを訊くのかと、その時の葵には理解できなかった。だが、体は気持ちより正直だ。ある時討伐に出て、現場で初めて脚が動かなくなった。いわゆる『フリーズ』と言われる症状だ。

 ヒーローは魔法使いではない。ヒーロースーツを着ることで各々の身体能力を一時的に極限まで引き出しているだけだ。だから当然稼働できるのは個人の体力が続くまで。使い過ぎれば限界が来る——その状態を業界用語でそう呼ぶ。

 フリーズ状態に陥ると、単純にまず体が動かなくなる。個人差や状況によるが、たいてい脚から駄目になることが多いと聞く。重症化すると意識障害を引き起こし、それは休息しなければ決して回復することはないため、戦闘中にこの状態に陥った場合は自力でその場から離脱することはまず不可能であり、それは即ち死を意味する。だから、ヒーローは皆まず絶対に現場でフリーズしないことを最優先に、己の体力を見極めながら力の加減をコントロールして戦っている。

 葵もまだ不慣れな頃、訓練中にフリーズしたことはあったし、その状態に陥ってしまったら自分ではもはやどうしようもないということも知っていた。しかし実際の戦闘中にそうなると、諦めの気持ちなどそっちのけでパニックになるらしい。なぜ動けないのかという疑問だけが一瞬で頭の中を支配して、自分が今フリーズ状態に陥っているのだということを認識することすらできない。

 攻撃されると感じて、それでも脚は動かなくて、途轍もない恐怖心が自分の中に広がる。だがその時、ほんの数秒目を閉じただけなのに、目の前にいたモンスターは砂屑になって風に吹かれていた。

 何が起こったのかわからず呆然とへたり込んでいると、8号が目の前の地面に着地して、すぐこちらを振り向く。

「3号、大丈夫⁉︎ 怪我してない⁉︎」蹴躓(けつまず)きながら駆けてきた8号はいつもの腑抜けた調子で訊いてくる。

 瞬きをしたくらいの間だったはずだ。でも3号にはわかった。あれは、間違いなく8号がやったのだ。

 まったく見えなかった。何をどうしてそうなった? 混乱するばかりで言葉すら出てこない。その様子を見た8号はああ、と唸り、気恥ずかしそうに視線を逸らした。

「アタシ、かけっこだけは得意なんだァ」ハハハ、と照れ臭そうに笑いながら頭を掻いている。

 得意なんてもんじゃないだろう、と思わずツッコミを入れたくなった。普段はドジで、そそっかしくて、危なくて目も当てられない彼女が最強と言われる所以を3号はこの時漸く理解した。そして同時に、体の奥がゾクゾクして、笑いが止まらなくなった。

 8号はそんな3号の様子を見てひどく心配し、狼狽えていたが、3号は愉快で仕方がなかった。おそらくそれまで生きてきた中で一番愉しい瞬間だった。死ぬかもしれないという極限の恐怖心から解き放たれ、今この瞬間自分は生きているのだと実感する。息をして、酸素が体の中を巡っていくその感覚が、自分にとってこの上ない幸福と充足感をもたらす至極の快楽であることを知ってしまったのだから。

 その後、8号からは無理に前に出なくて良いと言われた。元々3号が接近戦をあまり得意としていないことには彼女も薄々気付いていたそうで、止めなかったことを謝られたが、彼女が気にすることではない。代わりに、自分が守るのは背後だと確信が持てた。彼女の踏んだドジをリカバーし、相変わらずがら空きな彼女の後ろを守ることこそが自分の——3号の価値であり、たとえその結果自分が死ぬことになったとしても構わない、と。

 こうして史上最強の背中を預かる3号、スカイ・ハークは誕生し、8号と揃って負けなしの有名コンビとしての階段を駆け上がっていくことになる。

 そんな日常の中で唯一、弟にだけは悪いことをしたという罪悪感があった。家を出てきた当時弟は十二歳だったが、父は長男である弟に家を継がせると息巻いていて、その重圧を彼一人で背負わなくてはならなかった。挙げ句の果てに姉が家出同然にいなくなってしまったため、ますます父は厳しく弟に当たるに違いない。

 母は優しい人だったが、厳格な父に逆らえるとは思えない。だから弟がそのプレッシャーに潰されそうになった時、守ってくれるのかは正直わからない。今の自分なら力になってやることもできるだろうが、家に帰るわけにもいかないし、どうしようもない。

 弟はそのうち、自分勝手に自由を求めて消えてしまった姉のことを恨むかもしれない。が、それも仕方のないことだし、そうなったとしても後悔はない。ただ、彼の人生をさらに窮屈なものにしてしまったとしたら、とても申し訳ないと思う。

 食事をしながら幸子に自分の家族のことを訊かれ、何気なくそんな話をした時に、知ったのだ。彼女に、子どもがいることを。

「……え? 幸子さんって、結婚してた、んですか……?」

 それは葵が幸子と組むようになって半年以上が経過した頃のことだった。既に残っている同期の中では頭一つ以上抜きん出た実力を持ち、会社内でも巷でも3号は優秀だと有名になりつつあった、とある日。

 食べていたラーメンを吹き出しそうになりながらも、それを懸命に堪え、やっとのことでそう訊き返した。冗談だろうと思ったが、どうもそうではないらしい。

「結婚はしてないんだけど、勝手に産んじゃった」と、幸子は平然と答えた。

 ——何なの、それ?

 子どもって、この洋服可愛いから買っちゃった、というテンションで産んで良いものだったっけ……?

 さらに衝撃的なことにその子どもは赤子なんかではなく、もう九つになったのだという。

「アタシなんかよりすっごいしっかりしててね、信じらんないくらい良い子なんだよ! ほんと、誰に似たのかなァ? もォ可愛くて可愛くて……」

 その口ぶりから、幸子が子どもを溺愛しているのは感じ取ったが、幸子がほとんど家に帰っていないというのは一緒に行動している葵にはすぐにわかった。結婚もしていないというなら、その子どもは普段どうしているのだろう?

「家でお留守番してくれてる」

 唖然とした。弟よりも幼い子が、一人で留守番? それもちょっとやそっとの時間じゃない。幸子が家に帰るのはほぼ毎日夜中で、帰れない日だってある。そんなの留守番ではなくて一人暮らしではないか。

 小さい頃、家に帰れば必ず誰かがいて、一人になることなんてまずないという生活を送っていた葵にとって、それはまるで想像がつかない別世界の話だった。

「ホントに可愛いんだよ。今度葵にも会ってもらいたいなァ」

 目を丸くして言葉を失う葵に、幸子は頬を紅くして嬉しそうに笑った。一体どれほど我儘放題育っているのやらと戦慄する葵がその子どもに——九歳の桜庭英斗に出会うのは、それからまもなくのことである。


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