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第一話 ママはヒーロー(2)ママの日

 数日後、ネットで調べて見よう見まねで履歴書を仕上げた真理子は、勇気を振り絞って職業斡旋所というところへ行ってみた。いろいろと考えたが、やはりたとえヒーローを辞めても家庭に入って専業主婦になるという選択肢は自分の中にはない。金銭的に云々ということではなく、ただ自分が人の中で何かしていたいのである。

 高校を卒業してすぐに今の会社に入社し、それからずっとヒーローをやっていたため職業斡旋所なんて来たことがなかった。そもそもの仕組みがわからずオロオロするばかりだが、さすがに『ハローワーク』なんていうくらいの場所なのだから、ここに来れば何かしらすぐに仕事が見つかってひと安心——となるのかと思っていたら、全然違った。

 待合の椅子に腰掛けたまま眠りこけてしまうほど待って、やっとのことで窓口に通してもらったまでは良かったが、少し話して真理子がヒーローをやっていたとわかると、担当の女性はコロッと態度を変え、就職先を勧めなくなってしまった。

 話を聞くに、ヒーローを引退、退職した人はあまり真面目な職に就かないらしい。たしかに思い返してみると、真理子の知る人でも辞めてから会社員のような安定感のあるお堅い組織に再就職したという話は聞かない。皆、ヒーロー時代の知名度を活かして動画配信をやったり、趣味の延長で自営業をしているとか、身体能力を活かして体操教室や地域の運動系クラブのコーチをしているとか、そういう人ばかりだ。中には金銭的な契約はせずにボランティアに徹しているなんて人もいる。それは、ヒーローを経験した人に対しては国から多額の補償金が支給される制度があるため、仕事が安定しなくても経済的に困らないというのが理由の一つになっているらしい。

 そして真理子の場合、就職を勧められないもう一つの理由があった。それは、真理子が何もできないポンコツであるということだ。

 車の免許もなく、特にこれといって資格を持っているわけでもない。勉強ができるとか、パソコンが得意だということもない。自信があるといえば体力くらいだが、いくら元ヒーローであっても、ヒーロースーツを着ていないただの三十七歳女性の体力など、たかが知れている。真理子は本当に、ヒーローしかやってこなかったのである。

「今の時代、それじゃあね……」

 年齢も年齢、子持ちで、残業も転勤もできない。即戦力にもならない中年を雇って一から教育してくれるような零細企業など、このご時世にあるはずもない。

「まあ……何かあったら取っておいてあげるから、また来てちょうだいよ」

 そう言われて面談は終わったが、きっと取っておいてくれることはないだろうと思った。何となく、勘である。

 スーパーでレジを打つ? レストランで接客? それともどこかのビルで警備するとか? 駅に並ぶアルバイト募集の冊子も眺めてみたが、どれもこれもピンとはこない。「主婦が大活躍!」「アットホームな職場です!」「初心者歓迎! 一から丁寧に教えます!」——どれもこれも、胡散臭い。そうこうしているうちに一日、また一日と月日は流れ、あれだけ溜まっていたはずの有給休暇はみるみる消化されていく。

 ランドセルも買いに行った。真理子の子どもの頃とは違い、今は色とりどり豊富なデザインのものが所狭しと並んでいるのに、ひなたが最終的に選んだのは牡丹色のシンプルなランドセルだった。

「おねえさんになったとき、はずかしいのはいや」

 奇抜なランドセルの前であれがイイ、これはイヤ、と泣き喚き両親を困らせている同い年を前に、ひなたは平然とそう言ってのけた。

「ママはこのいろ、きらい?」

 挙げ句の果てにこちらが気を遣われる始末。本当に良くできた娘である。

 展示棚に並ぶ見本のランドセルはまだまだひなたには大きく、これからこれを背負わせて毎日一人で学校に行かせるのかと思うと今から気が気でない。この子には不要な心配ではあるが。

「ママ好きよ、ピンク。ひながそれが良いなら、それにしよう?」

 真理子がそう答えると、ひなたは安心したように笑った。

 ずっとサボっていたマンション組合の清掃活動にも参加するようになった。小学校入学準備として持ち物すべてに名前を書く作業はさすがに腰にくるし、初めてペンダコというものにも出会った。合間に職業斡旋所にも通ったが、案の定真理子に紹介してもらえるような企業は一向に現れる気配がない。

 そして、いつの間にやらひなたは誕生日を迎えて六歳となり、保育園を卒園。海外にいた健一は予告どおり、長い長い空の旅を経て帰国してきたのであった。


* * *


 三十年前、後の人々が『決戦』と呼ぶことになるモンスターとの大きな戦があった。これは現在の学校教育の中にも必ず登場する重要な歴史の分岐点となっている出来事で、おそらく過去類を見ないほど多くのヒーローが投入されたし、この戦いによって出た死傷者も数知れない。もちろんその中には、前線に行ったまま帰ってこなかったヒーローたちも含まれる。

 その決戦に、唯一参加しなかったヒーローがいる。史上最強と言われ、社会現象にもなっていた当時の8号、ハッピー・シャイニーである。そしてその理由を知る者は本人を含め、この世に三人しかいない。

 世の中の人々はなぜ戦いの場に8号が出てこないのかと憤り、決戦の後も暫しそれは続いた。しかしそれからまもなくして、モンスターが物理的に入ってこなければそもそも戦いになどならず平和な世が訪れるという理想が現実となった。それが防護壁——通称『シールド』の完成である。急速に平和になっていく世界の中で、同時に8号を叩く者もなくなった。

 それから三十年、シールドは期待どおりに世界の平和を守り続けている。人々が戦乱を忘れ、本物のヒーローを忘れ、あのハッピー・シャイニーという最強が存在したという記憶をも消し去ってしまうくらいに。

 ところが、もはやシールドを張っていることすら忘れているのではないかというほど平和に溺れきってしまった世界に、密かに亀裂が生じ始めている。上層部も政府も深く考えていないようだが、近々あれはかなりの確率で決壊するだろうと、チーフは予測していた。その状況を現実のものとして直視したくないだけなのか、はたまた加齢による視力低下で見えないだけなのかは知らないが、今日の会議も無駄に時間を消費しただけで特に何の収穫もなく終了した。

 アイツらは良い。有事には我先にと逃げ出して、安全なところから高みの見物だ。被害を被るのはいつだって一般人と、前線に送られるヒーローなのだから。

「おや。珍しい客が来たもんだね」

 声を聞くのはいつぶりだろうか。

 その人はやはりいつもと同じようにそこに立っていて、いつもと同じような挨拶をする。いつ来ても、何度来ても変わらない、派手な(なり)をして。

「……相変わらずオレンジな店ね。ここは」

 どうして今夜Eight(ここ)に来てしまったのだろう? どうにもならないことで頭が割れそうな時はさっさと家に帰って風呂に入って寝てしまうのが一番良い。それなのに、何たって自分は、わざわざ見たくもない顔を拝みにこんなところまで?

「久々に顔を見せたと思ったら、そんなケチをつけに来たのかい」

 ケチもつけたくなる。何が良くてこんな夏の夕暮れの中にいるような内装にしているのか甚だ疑問だし、その店を擬人化したようなその服装もセンスがなさすぎる。オレンジ色が嫌いなわけではないが、ここまで主張されると本当に、来る度に気分が悪い。自覚していないとしたらよほど良い性格をしている。

「……調子はどう?」

 相変わらず口は達者がすぎるが、それ以外のところはそうでもないだろうことは何となく察している。が、それを気に掛けているということを悟られたくない、というのは贅沢だろうか。

 一般的な『残り時間』を鑑みても、もうまもなく彼女にもその時がやってくることは間違いないだろう。それでも、半年ほど前に還暦の誕生日を通り過ぎたことは、チーフ自身にとっても予想外だったのだが。

「まァ、それなりだね。良くも悪くも」珍しくカウンターの中から出てきた彼女は、背の高い椅子に腰掛けながら短く息を漏らす。「アンタ、マリーを切ったんだってねェ」

「やっぱり知ってたのね」あまりに唐突に言われたものだから思わず鼻息が漏れてしまった。当然そうだろうとは思っていた。この人には昔からたいそう優秀な『情報屋』がついていて、誰のことでも何のことでも、時にはチーフより詳しく知っているのだ。他人のプライバシーなんてものはお構いなしに何でもかんでも伝えてしまうものだから、その情報屋には本当に、迷惑している。

「当たり前だろう。アタシを誰だと思ってんだい」

 そうだ。どう考えたって、こうして自分が来てやることなんてなかった。なのにどうしてわざわざこんな不快な場所に足を運んでしまったのか。

「何か飲む? お腹空いてんの?」

 チーフはごく稀にしかここに来ることはないが、この人は来るといつも決まってそう訊く。そしてそれに対してチーフが何と答えようと、勝手に何かが出てきてしまう。

 何かって、何だ。その傷だらけの手で作れるものなんて精々おにぎりくらいしかないくせに、何を言っているんだ。

「……いらない」

「そうかい」

 彼女がそう軽く頷きながらカウンターの中に戻るのを見て、チーフは項垂(うなだ)れた。そうやってあたかも承知したかのように返事をしながら炊飯器の蓋を開けるな、と毎度言いそうになるのを今日もやめる。言ったところで、やっぱりそれも承知したかのように頷きながら手は止めないのだから言うだけ無駄なのである。

 いつの間にかカウンターの上にグラスが出ていてストローが突き刺さっている。中に入っているのはただ注いだだけのオレンジジュースだ。酒じゃない。

 溜め息が出る。オバサンという人種は本当に人の話を聞かない。

 おずおずとカウンターまで寄ってグラスを手に取る。だいたいここは飲み屋(バー)だろうに、どうしていつ来ても白飯が炊いてあるんだよ、おかしいだろう——そんなことを思いながら吸うオレンジジュースは今日も酸っぱい。

 ストローに口をつけたまま、ふと目線だけをカウンターのほうにやる。向こう側に立っている彼女は、しばらく見ない間に、なんだかすごく小さくなったような気がする。

 何となくそのままじっと、動き続ける手を見ていた。パッと見は実際よりもだいぶ若いような気もするが、手は正直だ。要するに老けたのである。その速度が極端に早いと思うのは、自分がここへ来なすぎるからなのか。

 或いは、もっと、別の理由か。

「ほれ」

 目の前に丸いアルミホイルの塊をずいと差し出され、我に返る。自分でも驚くくらい彼女がすぐ近くにいて戸惑った。手元でいつの間にか空になっていたグラスを素早くカウンターに戻し、代わりにそれを受け取ると背中を向けた。中身の熱が伝わって、手の上が温かい。

 後ろにいる彼女に何かを言おうとしたが、それよりも一瞬早く彼女のほうが口を開いてしまった。

「で……、——」手を拭きながら、再び彼女はカウンターの外に出てきた。「本題を言いな。何しに来た?」

 こっちが知りたい。そんなこと。

 間違いないのはジュースを飲みに来たわけでもおにぎりをもらいに来たわけでもないということだ。

 ラジオから流れてくる古臭い曲が多少の雰囲気は誤魔化してくれていたが、何を思ったのか彼女がそれを止めてしまったため、そこに横たわる沈黙がもろに露呈するようになってしまった。いよいよそちらを見るのもしんどくなってきて、どうしたら良いかわからない。とりあえずカウンターに片肘をついてこちらに視線を送ってくるのをやめてほしい。

「……コード09がC、って言ったら、伝わるのかしら?」

 自分の頭の悪さにうんざりする。しばらく考えてもそんなどうしようもない話題しか出てこないとは。

 だが、それを聞いた彼女はしばらく口を閉ざしてしまった。あまりの気まずさにチラチラと横目で様子を伺ってみると、意外にも、彼女はどこか寂しそうな表情を浮かべて遠くを見ていた。

 咄嗟に視線を逸らしたのは、なぜか見てはいけないものを見てしまったような気がしたからだ。おにぎりと一緒に両手をコートのポケットに突っ込む。正直、頭の中は狼狽えっぱなしである。まさかそんな反応をされるとは思ってもみなかったし、次に何を切り出せば良いのか判断に困る。

 だが、やがて彼女はそれまでと変わりない様子で頷いた。やはり元・同業者というだけのことはあり、話の意図は伝わっているようだ。

 だから、一息おいて、構わずその話題を続けることにした。再び沈黙に場を支配されるよりはよほど良いと思った。

「それもCマイナスよ。ついこの間までBだったのに、政府は対応が遅くて参ったわ」

「変わらないねェ、そこだけは」

「また、昔みたいになるかも」

 ピンキー・マリーを切ったのはそのためだ。さすがに、ヒーロー歴十八年は長すぎる。その状態の人間を本物の戦場に送り込んだらどうなるか、本人に自覚がなくとも自分には容易に想像がつく。おそらく、ここにいる彼女にも。

 だからそう望んだのであろうに。

「……そうかい」

 ぽつんと彼女は頷いた。何かを言い聞かせるように、何度も小さく頷いて。

 その様子が何となく面白くない。何に不満があるのか知らないが、もっと喜んでくれたって良いと思う。そもそも、ピンキー・マリーを引退させたいとSNSを炎上させたのは、他の誰でもなく彼女ではないか。

 大体、8号も8号だ。彼女は覚えていないだろうが、自分が初めて8号に会ったのはもう十八年も前に就いたとある任務の現場である。その後自分のほうは『内側』へ引っ込み、何年もかけて地方支部を転々と異動して回って十一年、漸く本部に戻ってきたと思って名簿を見たらまだいるではないか。

 唖然とした。それでもすぐに産休に入りたいと言い出したから、やっとこれで引退させられるとホッとしていたら一年足らずで戻ってきた。辞める気配なんて微塵もないし、一体何を考えているんだ。

 自分は母親になんかなったことがないから知らないが、子どもを産んで戻ってきた奴というのはたいてい価値観が違う。優先順位が狂うのだ。だから時と場合も誰の迷惑も顧みずすべて自分、強いては子ども優先になる。自分の皺寄せを誰かが受けなければならない現実なんて見向きもしないし、極論、それでその誰かが死んでも関係ない。

 良いのだ。別に、それが普通だと思っていたし、こちらもそれで構わない。続けたいと言うならできる協力はするし、会社というのはそうあるべきだ。が、それでも体力が続かないからやっぱり辞めたいと皆途中で言ってくる。それで良かった。自分も、相手も、納得していなくなる。それが一番良い。でも、8号の場合は別の方向にその感覚が狂っている。

 信じられない。化け物なのか、アイツは?

 やりたいと言うなら、やらせてやりたいと思う自分もいる。実際彼女は自分がこれまでに見たどのヒーローよりもこの仕事に向いているだろう。だが、この仕事はあまりにも特殊だ。その純粋な気持ちへの代償が、大きすぎる。

 自分が将来どうなるのかも知らないで。

 目の前にいるこの人と同じだ。それでは駄目なのだ。それでは——。

「勘違いしないで? アタシは、アタシがそうしたかったからそうしただけよ」

 チーフはそう念を押した。望んだ結果が同じだったのはたまたま、だ。理由は全然違う。そしてこの人には決してわからないだろう。

 理解なんかされてたまるか。自分はそれを利用させてもらっただけだ。

 絶対に、彼女のためなんかじゃない。

「おまえはどうするんだい?」わかりきったことを訊いてくる。「近いうちにCがFになることはわかっているんだろう?」

 苛々する。

 ——なぜ?

 CがFになったら、自分のすることは決まっている。ずっと前からそうすると決めている。

 それだけだ。

 それなのに。

「……ならないことを祈るくらいできないの? せめて」

 違う。

 何が違う? わからない。

 苛々しているのは何かが、埋まらないからだ。形の違うパズルのピースを()じ込んでいるみたいで気持ちが悪い。

「そうだねェ。明日から暇だろうしね、——」嫌味のような言い方である。「それくらいはしてやるよ。アンタの手を煩わせたくはないが、一人で墓には入れないんでね。悪いが、後処理だけは頼んだよ」

 ——ああ、駄目だ。

 これ以上ここにいたらいけない気がする。

 壊したくない。これ以上。

「……もう行くわ」

 本当に何をしにきたのだか。ポケットの中のおにぎりだけが相変わらず温かい。

 いや、それだけで良い。これだけで、自分にはもう、——


英斗(えいと)


 はっきりと自分の背中に向かって投げられた音に、体は無意識に反応する。

 その響きは、本当に、懐かしい。

 息をするのも怖い。それが聞こえたら振り返るのだと、体は覚えているのだ。何年、何十年経っても。

 だから自然と、そうしようとする。

 でも、駄目なんだ。もう今さら、絶対に振り返るわけにはいかない。もし振り返ってしまったら、自分で自分を裏切ることになる。背中に聞いたその音を振り切ることでしか前に進んでこられなかった、自分を。

「本物は、違うからね。それだけは忘れるんじゃないよ」

 本当に気の利いたこと一つ言えないんだな。

 ——最期まで。

 きっともう会わない。声を聞くこともない。

 それは、確実な予感だ。

 いつか後悔するだろうか。この瞬間、これまで三十年間の自分を裏切ってでも、振り返らなかったことを。

 お腹が空いたと一度も正直に言わなかったことを。

 彼女を『母さん』と呼ばなかったことを。

「……じゃあ」

 ドアカウベルが大きな音を立てる。もし彼女が何か言っていたとしたらきっとかき消されてしまっただろう。

 それで良い。止まるわけにはいかないんだ。今までも、これからも。

 『アタシ』がそうしたいことを、成し遂げるために。


* * *


 クビ宣告を受けてからひと月が経とうという頃になっても、真理子の次の就職先は見つからないままだった。海外から帰ってきたばかりの健一には非常に言いづらいことではあったが、正直に話をしたところ、慌てて探さなくて良いと笑ってくれた。

「そういうのはさ、縁だから、ね! 何なら無理して働かなくてもやっていけるから、大丈夫大丈夫!」

 きっと健一はそう言うだろうと、真理子が予想していたとおりの答えだった。

 しばらく国内勤務になるという旦那が朝会社へ出掛けて行くのを玄関で見送り、家のことを済ませながら日がな一日娘と過ごす——そんな時の流れ方に段々と頭と体が順応してきたある日、ふと寝室の片隅に放り投げられたトートバッグに目が留まった。長年、真理子が仕事へ行く際に持ち歩いていた鞄だった。そういえばクビだと言われたあの日から、朝起きてその鞄が目につく度に悲しくなってしまうため、視界に入らないよう部屋の隅に追いやったのを忘れていた。

 徐ろに手に取ってみると、中にはピンク色のヒーロースーツがぐしゃぐしゃの様相で入れっぱなしになっていた。

 慌てて引っ張り出すと、一ヶ月以上その状態で放置されていたせいで全体的に皺がくっきりとついてしまっている。これは丁寧にアイロン掛けをしないと元には戻らなそうだ。

「ごめんねェ……」

 あの時は気が動転して自棄になっていたから、ついつい粗末に扱ってしまった。これは大切な自分のパートナーなのに。他にも鞄の中には無造作にティアラも入っていたが、壊れてはいなくて安心した。

 ひとまず洗濯をしようと、脱衣所で洗濯機の蓋を開けた瞬間、ふと、何かが足りないと思った。

 ポケベルである。

 あれは自分用として渡されてから常に肌身離さず持ち歩き、十八年間ずっと使ってはいたが、会社からの貸与品である。辞めるならば当然返さなくてはならないが、返したという記憶はない。

 寝室に戻ってトートバッグの内ポケットを探してみたが入っておらず、一着しかない冬用の上着のポケットにも入っていない。

「……どこ行った?」

 血の気が引く。最後に使った場所を思い出そうとするも、ひと月以上も前の記憶など鮮明に残っているはずもなく、途方に暮れた。

 万が一見つからず、会社からその費用を請求されるのは構わない。真理子としては、ヒーロースーツと同じか、或いはそれ以上の戦友にも等しき存在を失くしたというその事実が耐え難いのである。

 しかし何度鞄をひっくり返しても、やはりポケベルは出てこない。

 その様子を見ていたひなたが声を掛けてくる。

「なにをなくしたの? ママ」

 失くしたなんて一言も言っていないのに、この子にはエスパーの才があるのだろうか。

 さも呆れたように小さな体の前で腕組みをしながら、床にへたり込む自分を見下ろす視線は、なぜか自分にクビを宣告した上司に似ていると思った。

「ひな……ママの、ポケベル知らない?」つい声が小さくなってしまう。

「まぁたゆきこママのおみせにわすれたのぉ?」誰の真似をしているのか、わざとらしく溜め息を吐くその姿も可愛い。「ママ、いっつもわすれものするの、ゆきこママこまってたよ」

 娘は天才だ。

 真理子は即座にEightに電話すべくスマートフォンに飛びついた。自分がポケベルを忘れてくるとしたら会社のロッカーか、Eightしか考えられない。

 が、いつもなら履歴からすぐ見つかるはずの発信先が、いくらスクロールしてもなかなか出てこない。そうして初めて、このひと月の間、まったく幸子に連絡を入れていなかったことに気付いた。

 コール音を聞きながら申し訳なくなってくる。幸子はそういうことを気にするような人ではないが、散々世話になっておきながら急に店にも顔を出さなくなり、連絡もせずではあんまりである。

 第一声で何を言おうかと、変な緊張感が漂う。ところが、待てど暮らせど受話器が上がらない。

 こんなこと、初めてだ。

 一度切って、再度かけ直してみる。五回、十回とコールは鳴り続けるが、やはり出ない。

 困った。機械に自分の生活を縛られるなんてごめんだ、と言う幸子はスマホどころか携帯電話というものを持っていないため、唯一の連絡手段である店の固定電話に出てくれないのは致命的な問題である。

 十五回——やはり、駄目か。

 やがて真理子が諦めて切ろうと思った二十回目、漸くその音が途切れた。

「あッ、もしもし、幸子ママ? あたし、マリーだけど……——」なぜか他所行きの声になっているが、構わず喋り続ける。「ごめんねェ、旦那が帰ってきてからバタバタしちゃって全然連絡できてなくて。今度三人で行っても良いかな? 健ちゃんもママに会いたがってて。あ、あとごめん、電話したのはちょっと訊きたいことがあるんだけど、あたしこの前お店行った時ポケベル忘れてったりしてない? 今家で探してたんだけど見つからなくて……——」

 そこまで喋って、何だか様子が変だと気付く。電話の向こうは終始無言で、物音一つしない。

「……もしもし? ママ?」

 再度呼び掛けても返事もない。不安になってスマホの画面を確認するが、通話中にはなっており、どこかに繋がっているのは確かである。番号を間違えたかと思ったが、これまで何度も使ってきた登録済みのものだから違うはずはない。

「——、Eightにいらしてください」

 狼狽えていると、急に電話の向こうからそう聞こえた。知らない声だ。

「……あなた、誰?」

「——、お待ちしています」

 声の主は真理子の質問に答えることなく電話を切った。

 心臓がバクバクしている。Eightに電話をして幸子以外の人物が出たことなんてこれまで一度もない。

 何かあったのだろうか——そう思うといてもたってもいられず、真理子はジャージ姿のまま鞄を引っ掴んでいた。玄関で靴を履きながら、ひなたを呼ぶ。

「なぁに、ママ?」

 奥から現れたひなたをどうするか悩む。いつもなら間違いなく一緒に行くところだが、もし店にいるのが不審者だったらと考えると絶対に連れて行くわけにはいかない。

 時計を見る。健一が帰ってくるまで、まだ一時間以上ある。

「あのさぁ、ママ」ひなたはすべてを悟ったのか、またしても深々と溜め息を吐く。「ひな、もうすぐしょうがくせいだよ? おるすばんくらいできる」

「うん、うん、わかってるよ、ひなはすごくできる子よ。ママよォく知ってる、だけどさ、——」

「いいよ。ひな、『トゥインクルハート』みてまってるから」

「いや、でもさ、誰か来たら——」

「だれかきたらいないふりするし、ドアもあけないよ。ひもつかわない。かぎはしめていってね。いってらっしゃい」

 真理子の話を途中で遮り、さっさと部屋の中に戻っていってしまう娘の背中は本当に(たくま)しく見える。

 一時間だ。一時間で帰ってこよう。

 そう心に決め、真理子は家を飛び出した。




 通常営業時間外のEightに足を運んだことは何度もある。だが、今日のような雰囲気だったことはかつて一度たりともない。あり得ない話だが、店のドアを開ける前から、本当に入って良いのだろうかと躊躇してしまうほど中が暗いのがわかるのだ。

 店の前で呼吸を整え、掴んだ取手にぐっと力を込めて扉を押すと、ドアカウベルが静かに音を立てた。やはり店内は暗く、真理子の後ろから差す外の光が辛うじて廊下の手前側を照らしている程度で、その先はよく見えない。

「ごめんくださァい……」

 廊下の奥に向かって小さな声を投げてみるが、反応はない。真理子は意を決し、店の中に足を踏み入れた。入口の扉が背中で閉まると、中はさらに暗くなった。

 どこから何が出てくるかわからない緊張感はお化け屋敷並みである。普段はまるで気にならないのに、古い木の床が立てる軋みがやたら耳に障る。そうしてゆっくりと一歩、また一歩、と店の奥へと足を進めるその度に、丸腰でやって来たことに後悔を覚える。

 明かりの点いていないEightは真理子の知る店ではなかった。あのオレンジ一色のキラキラとした印象は微塵もなく、とても寒い。いつかの昔に時が止まってしまったかのようで、一瞬、入る店を間違えたのではと思うほどだった。

「こんにちは」

 はじめはそこに人がいることもわからなかった。声を掛けられ、その姿を捉えても尚、それが人であると認識するまでにそれなりの時間を要した。それくらいに、それはこの仄暗い空間と同化している。

「あなたが、電話の……?」

 黒いフードを目深に被り、表情は窺い知ることができない。真っ黒い人型の何かがカウンターチェアの上にある——そんな印象。性別はおろか、この人物からは生き物としての気配がまるで感じられない。

「はじめまして……でもないのですが、そういうことにしましょうか」

「……どこかでお会いしてます?」

「正式には、ありません。ですから、はじめまして、は(あなが)ち間違いでもないんですよ」

 どことなく要領を得ないその物言いも、自分が話し掛けるべき相手はこれで良いのかと不安になってくる素因の一つだ。以前、カスタマーセンターに電話した際、AIの音声ガイダンスに同じような対応をされたことを思い出す。

 と、ここで漸くそれは自分の足で椅子から下りると、ぬるりと真理子の正面に向き直り、口元近くまでを覆っていた大きなフードを死人のような蒼白い右手でゆっくりと後ろにやった。時が、まるで止まっているかの如く、長く感じた。

「ジブンは、黒衣(くろご)です」

 それは静かにそう名乗った。フードの下から出てきたのはたぶん、女性、だが男性に見えなくもない。年齢も、瞬間的には予想がつかない。あの誰もが知る有名な絵画に描かれた女性のような不自然な微笑みだけをたたえて、それは真理子を見ていた。そして、初めて気付いた。この人には、左腕がない。

 本名は名乗ってはいけないことになっていると言うが、一般人でないことはその異様な雰囲気だけで十分事足りる。立ち上がっても微動だにせず、もしかしたら口さえも動いていないかもしれないと思うほどだ。

「……あなたは何者なの?」

「『裏方』です」質問されるのがわかっていたかのように回答が端的である。「ヒーローがヒーローであるためにいろいろと調整を行なっている、言わば、あなたの影です」

 その説明に真理子は眉を顰めた。十八年もヒーローをやっていたが、そんな人がいるなどという話は聞いたことがない。

 すると、その疑念を汲み取ったのか、黒衣と名乗ったその人物はさらに説明を加える。

「我々は表に出ませんのでご存知ないのは当然です、が、ジブンはヒーローたちのことは何でも知っています」あなたのことも、と黒衣は真理子に視線をやる。暗闇の中にあってもその眼光は鋭く、まるで猫——或いは夜の深い森に棲む、猛禽類のようだ。「お気付きにならなかったということは、ジブンが影として有能であることを示す一つの指標ですから、お気になさらず」

 馬鹿にされているような気もするが、聞かなかったことにしよう。何でも知っているだなんて、話はおろか会ったことすらないのにあり得るはずがないじゃないか。

 だいたい、胡散臭いのである。裏の調整役が存在するのなら少しくらいそういう話があったって良いのに、真理子ほどのベテランでさえこれまでずっと気が付かなかったし、噂にも聞いたことがない。しかも『我々』ということは他にもこういう人がたくさんいるということだ。そんなストーカーまがいの集団が存在を許されているなんて信じたくない。

 そろそろこの掴みどころのない会話も終わりにしたい。娘も家で待っているし、一刻も早く用件を片付けて帰りたいのである。

 話の腰を折るのは好きではないが、この場合致し方ないと判断し、真理子は思い切って本題を切り出した。

「電話で言ったけど、あたしポケベルを探してるの。何でも知ってるなら、どこにあるかわからない?」

「その前に一つ、あなたにお伝えしなければならないことがあります」

 黒衣は決して会話の主権を真理子に握らせてはくれない。しかもそのペースが明らかに狂っているから、真理子の中には徐々にフラストレーションが蓄積されていく。

 だが、それすらも黒衣は構わず、淡々と話を続ける。「この店の主人である幸子さんですが、しばらく所用にて留守にしております」

「え……どうして?」

「それは言ってはいけないことになっています」

「いつまで?」

「さァ?」黒衣は首を横に折る。相変わらずその貼り付けたような笑みを向けるばかりで、回答してくれる気配はない。まさか幸子が留守であるということを言うためだけに、わざわざここまで呼びつけたということなのか?

 いい加減腹も立ってきた。ここまま埒が開かないのであれば踵を返そう——そう諦めかけた時、黒衣は思いがけない質問をしてきた。

「どうですか? 一般人としての暮らしは」黒衣はニコニコしている。「大変充実していらっしゃると、お見受けしますが?」

 どういう意図があるのか見当もつかない。三日月のように目を細め、何を考えているのか探ることはできない。

「クビになった人間のことまで監視してるわけ?」

「いいえ。あなたはまだ有休消化中の立派なヒーローですから」平然と黒衣はそう答えるが、まったく理由になっていない。有給中ならストーカーをしていても許されるとでも言うのか。

「……、ええ!」返事が投げやりになってしまうのはもはや致し方ないと思う。「そうね、充実してる、うん、そうかもしれないわ」

「それは何よりです。娘さんもたいそうお喜びでしょう」

 この人の口から娘という言葉が出てくるとは思わず、驚いた。 

 悔しいが、少なくともその一言に怯んだ真理子は頷くほかなかった。正直、ここ最近の娘の顔を見ていて、こういう人生も悪くなかったかもしれないと思っている自分がたしかにいるのだ。

 ヒーローではない、ごく普通の三十七歳——ごく普通の妻で、母親。もしかしたらワーキングママかもしれないし、マーケットでレジを打っているかもしれないし、主婦として家を守っているかもしれない。そんな、鈴木真理子。

 そんな鈴木真理子なんて、考えたこともなかったのに。

 不思議だ。あれほどヒーローになりたくて、なりたくて、ピンキー・マリーはそんな自分がやっと掴んだ夢だったのに。

 昔々にいた、今や伝説と謳われる一人のヒーロー、ハッピー・シャイニー——彼女がすべての始まりだ。自分の、ヒーローとしての原点。

 勉強はできなかった。運動だって特別できるわけじゃない。それでもヒーローになるという夢は捨てなかった。捨てられなかった。友達にも、先生にも、お前には無理だろうと言われた。それでも、変わらなかった。モンスターのいない平和な世界が訪れ、ヒーローがただのお助けアイドルに成り下がっても、昔ブラウン管テレビの向こうで笑っていたあの人は、自分にとってはずっと憧れのまま、目指すべき太陽だった。

 夢中だった。大人になり、迷わず試験を受けて会社に入った。何もかもがギリギリだったけれどしがみついた。ヒーローになり、ピンキー・マリーという名前を付けられ、たまたま欠番になっていた8号の番号をもらった時、飛び上がりたい気持ちを抑えるのに必死だった。自分の人生の中で、あの時ほど嬉しかったことはない。

 そう、それが、あたし——。

「どうぞ」

 はたと我に返る。いつの間にか、黒衣はカウンターの中に立っており、真理子に向かってグラスを差し出していた。

「……何、これ?」

 中の液体はまるで桜のような淡いピンク色で、ほんの僅かな上澄みの部分だけが橙色をしている。 

「この店の名前と同じ『(エイト)』という名前が付いています。幸子さんのオリジナルです」

 真理子は酒が飲めない。会社の先輩に初めてこの店に連れてきてもらった時も、実はそれで一度失敗している。

 だが、断ろうと口を開きかけた真理子を黒衣は静かに制した。

「お酒ではありませんよ。ある時、幸子さんがそう、変更してしまったから」差し出したグラスを見つめる黒衣の視線に、初めて何かの感情があるように見えた。「あなたが、8号を名乗るようになった時です」

 それは哀愁なのではないかと、真理子は思った。

「どうして?」

 黒衣はやはり答えを言わない。「ジブンは前のほうが好きでしたけど、これはこれで、アリだと思います」

 漸くカウンターチェアに腰掛けると、黒衣は飲む時に混ぜてはいけないと忠告をした。それが、作者のこだわりなのだそうだ。

 恐る恐る口をつける。毒でも入っていやしないかという不安は不思議となかった。舌の上に広がったのは、少しだけ酸っぱくて、甘い味。それはいつの間にやら忘れてしまっていた遠い記憶の彼方から、懐かしさを呼び起こす。子どもの頃、駄菓子屋で食べたような味——お菓子に付いていたおまけのヒーローのシールが欲しくて、少ないお小遣いを握りしめ、放課後の暮れなずむ小道を友達と買いに走った、あの味。


 ……ちょっと待って?


 黒衣は、これは幸子のオリジナルだと言った——『オリジナル』?

 それならなぜこの人がそれの作り方を知っている?

 この人は、裏方だ。

 ()()()()()()()()()、何でも知っている。

 ハッとして、辺りを見回す。オレンジ色の店内、オレンジ色の装飾、オレンジ色の花。幸子は普段どんな服を着ていた? 身につけていたものは? ネイルをしてみたの、と自慢げに見せてきた爪の色は?

 この店の名前が『Eight』である由縁をなぜ訊ねなかったのだろう?


 ——「オレンジはね、太陽の色。幸せの色なのさ」


 それは8号が言っていたことだ。自分ではない、伝説にある8号が。

 有名な台詞だから、幸子のは受け売りなのだと思っていた。でももしも、そうでなかったとしたら……?


 ——「娘の名前? そんなモン、アタシに訊いてどうすんだい」

 ——「そうだねェ……『ひなた』とかどうだい?」

 ——「お日様に当たって、強い子になって、そこに集まった人も幸せにできる暖かくて優しい子」


 ……そういうことなの?


 憧れの名は、ハッピー・シャイニー。

 みんなに煌めきとハッピーを届ける、史上最強の伝説。

 担当するヒーローカラーはオレンジ。

 号数は、8。


 ——「いつかあの人みたいなヒーローになるのが夢なの」


 そう言った。何度も、何度も、そう言ったのに。

 どうして教えてくれなかったのだろう?

 いつも呆れたように、頑張りなさいと笑うばかりで、一度も、——。


「お喋りが過ぎました。ジブンはこれで」

 気付くと黒衣はいなくなっていた。

 夢を見ていたのではないかと思った。或いは、自分は幻と会話をしていたのではないかと。

 カウンターに置かれた飲みかけのカクテルグラスが、それが現実だったことを証明している。言われたとおり、混ぜずに口をつけたそれは、上澄みのオレンジ部分がなくなっている。 

 よく見ると、グラスの下に敷かれたコースターに数字の羅列が書いてある。その意味を暫し考え、やがてそれが自分のよく見慣れた数字であることを思い出す。ピンキー・マリーだった頃、ポケベルにいつも送られてきていた数字の羅列——「ここへ行け」という指令だ。

 きっと真理子が訊ねたポケベルの所在だろうことはすぐに想像がついた。真理子はグラスの中身を一気に口の中に流し込み、コースターをポケットに突っ込んだ。あの人物が一体自分に何をさせたいのかまったく見えないが、もう少しこの得体の知れない宝探しに付き合う必要がありそうだ。


* * *


 幸子が仕事中の黒衣をEightに呼び出したのは、今から少し前——年の瀬も迫る、冷え込んだ日のことだった。

 変わり映えのない日常が師走という被り物のせいでおかしなテンションを纏い、さらに年末という飾りがついたらもはや手に負えない。この時季のヒーローは毎年決まって忙しくあちこちを飛び回り、普段以上に理解不能な依頼を(さば)き続けるという混沌に、否応なしに足を突っ込んでしまう。いつもローテーションを変更してくれと個人的な要求をしてくる()()()()もさすがにこの頃の繁忙ぶりは理解しており、師走と正月だけはそれを控えているくらいに異常だ。

 皆、他人に依存しすぎなのだ。持てなくなるくらいの買い物なんてどれだけ脳がなければできる所業だろう。都合が悪くなったら誰かに助けてもらえば良いと考えることすら放棄して、本能の赴くままに生きる奴らが多すぎる。

 ——まるで、モンスターと一緒だな。

 黒衣はヒーローという駒を動かしながら、そんな風によく嘲笑(わら)っていた。

 その日も、今夜食べるのは三丁目のラーメン屋にしようなんてことを考えながらそのくだらないチェスごっこを楽しむ合間に、クリスマスと誕生日がすぐ近くにあって気の毒な()()()()の家のベランダに毎年恒例の二つ分のプレゼントを置きに行った。その帰りのことだ。自分のポケベルが鳴ったのは。

 黒衣はポケベルなど持たない。これは本来、ヒーローを呼び出すためのものだからだ。インカムで喋る黒衣には必要ない。だから現在これを鳴らすことができる人間はこの世にたった二人しか存在しないし、そのどちらも、滅多に鳴らすことはない。特に仕事中になんて、絶対と言っても良い。にもかかわらずそれがこのタイミングで鳴ったということは、つまり一大事なのである。

「おや、早かったじゃないか」

 平静を装い、Eightに馳せ参じると、呼び出したその店の主人はいつものようにオレンジの空間の中でカウンターチェアに座り、黒衣がやって来るのを待っていた。「悪かったね。仕事中だろう?」

「構いませんよ」黒衣としてのスタイルを崩せないことは許容してもらいたいが、依頼があるのならば立派な仕事の一部と言えよう。「珍しいですね。あなたのほうから呼び出すなんて」

 何気なく近付いてその顔を見た時、息が止まった。これから告げられることは彼女にとって、本当に、後生一生の依頼なのだと悟った。

 ゆっくりと椅子から立ち上がった幸子は、一つ息を吐いてから、はっきりとした口調で黒衣に告げる。

「頼みがある」

 これまでも彼女から依頼を受けることは時折あった。が、それはほんの些細なこと——店に来る面倒な客を何とかして欲しいとか、配管の修理とか電球の交換とか、その程度のことばかりだった。

 今回はおそらく、それとはレベルが違う。

「……何なりと、御用命を」

 いつもどおりのその言葉を発するのに、覚悟がいるくらいに。


「ピンキー・マリーを辞めさせたい」


 ——黒衣は、影の者。常に、隠に、陰に、その感情をも、光の下へ出してはならぬ。

 驚きも、動揺も、隠しきれなかった。その台詞だけは、彼女の口からは絶対に聞くことはないと思っていた。

「……あなたの口から出てくるとは、思えない内容だ」

「できるかい?」

「本当にそうしたいと思っていますか?」

 少し、怒っているような口調になった。駄目だ。平常心でいようと思うのに口調だけ保つのが精一杯で、恥ずかしいほど素の感情が剥き出しである。それほどまでに彼女の依頼は彼女らしからぬものだったのだ。

 幸子はしばらく黙りとして、やがて「そうするべきだ」と答えた。

 できなくはない。むしろ自分の手に掛かれば、そうなるよう仕向けるまでは朝飯前である。だが、一番の問題は仕上げにある。

「ジブンが何をどうしたとしても、最後に決断するのは()()()です」

 それはもはや仕事ではなく、私事だ。

 どんなに状況が悪くなり、進行率が九九%を超えたとしても、最後に彼が頷いてくれなければ成立しない。そのことは幸子ならわからないはずがなかった。そしてそれがいかに難しいことであるのかも。

 しかし意外にも、幸子は笑っていた。その笑みからは、既に自らの勝ちが決まったかのような余裕すら窺えた。

「アンタのことだから知っているだろうが、アタシが子どもを預かっていることに文句を言いに来たことがあってね……」

 知っている。その時幸子が、他人の家庭事情に首を突っ込むなと彼を冷たくあしらい、追い返してしまったことも。

「たまに顔見せに来たところで、(ろく)に会話になんかなりゃしない。そんなあの子が、あれほどアタシに感情をぶつけてきたことが他にあったかい?」

「……」

「そうだろう? だからあの子はやるさ。アタシのためじゃない。あの子は、優しいからね」

 どこか嬉しそうで、それなのに淋しそうに、幸子はそう言った。自分自身を諭しているかのようにも聞こえた。そしてその顔を見た刹那、予感した。

 出会ってから、三十二年余り。これが、きっと、最後になる。

「わかりました」

 彼女の後ろを守るのが、自分の使命、変わらない約束——他の誰にも、やらせてなどやるものか。

「その依頼、()が、(しか)とお受けします」


* * *


 翌日、真理子は娘を健一に任せてコースターに書かれた座標の場所を訊ねた。事前に調べたところ、座標が示していたのは町の外れにある比較的大きな病院の一角で、なぜそんなところにポケベルがあるのだろうかと不思議で仕方がなかった。

 タチの悪い悪戯をされている可能性も捨てきれず、半信半疑で病院を訪ねた真理子は、自分の人間不信ぶりを反省することになる。

 お互いに、丸々の目をしていたに違いない。そこにいたのは、車椅子に乗せられて中庭を散歩する幸子であった。

「何してるの? こんなところで……」

 その台詞が出ないほうが不自然であった。だが、最も気の毒だったのはその時車椅子を押していた看護服の青年で、せっかくの爽やかな顔は戸惑いの色で曇っていた。

「何、って……アンタこそ、何たって、こんな……」幸子はまるで幽霊でも見ているかの如く驚き、言葉を失くしてしまった。

 真理子が痞えながらも何とかまとまりのない訳を話し終えると、青年はパッと明るい表情になり、快くその場を外してくれた。車椅子のまま取り残されてしまった幸子は、バツが悪そうに視線を逸らし、やがて漸く聞こえる程度の小さな声で『ギックリ腰』になったのだと呟いた。

「アタシも年なんだよ!」

 ぽかんとする真理子を前に口だけはいつもの調子で、腰以外は元気なことはわかった。「あのお喋りめ、あれだけ黙ってろって言ったのに……!」

 真理子の口からここに来た経緯を聞いた幸子はひどく怒り出し、今もずっと鼻息が荒いが、黒衣は幸子がここにいるなどとは一言も言っていなかった。店を空けている理由も『所用』としか口にしなかったし、今の今まであのコースターに書いて教えてくれたヒントはあくまでポケベルの在処を示すものと真理子は考えていたから、最初に見かけた時は真面目に人違いかと思った。幸子のほうも、居場所を知るはずのない真理子が突然目の前に現れたのだから、驚くのは無理もない。

「いつやったのよ? あたしが店に行ったすぐあと?」

「そんなの忘れちまったよ」

「連絡をくれたら良かったのに。だからスマホ持てばって言ったのよ?」

「うるさいねェ! 持ってたところでアンタに連絡なんかするもんか!」

 そう言われて、たしかにそうだなと妙に納得してしまった。

 やがて幸子は短く息を吐いた。この状況に漸く諦めがついたらしい。「ほんとにあの子は……余計なことまで喋っちまって……」

 言葉の割に、怒っているわけではないようだ。何か考えているのか、やや下がった視線はどこかここに在らずだ。

「元気にやってんのかい?」

「え……うん、まあ……」

「その様子じゃそうだろうね」自分で訊いてきたくせに勝手に納得している。元気は元気だが、素直に頷けない何かが真理子の中にはあるというのに。

 フン、と幸子はまた不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。春を感じる柔らかな陽射しが心地良い晴天の昼下がりにもかかわらず、地上には何とも言えない気まずい空気が漂っている。

 今でも信じられない。長い間、それこそ自分の人生のほとんどの時間、夢に見ていた憧れが目の前にいるなんて。

「ねェ、ママ……」真理子は自分の中にある山のような疑問をぶつけてみることにした。「ママは……、黒衣さんと、どういう関係なの?」

 幸子はしばらく顔を背けて黙っていたが、やがて一つ息を吐き、口を開いた。 

「どうもこうも……あの子はただの使いパシリだよ」

 意味がわからない。だいたい、あの人が幸子に使()()()()()()とは到底思えないのだが。

「ママが元・8号だってことも知ってたわ」

「そりゃあそうさ。あの子を仕込んだのはアタシだよ?」

「え?」真理子は目を丸くする。「仕込んだって、黒衣さん、ヒーローなの?」

「昔の話だけどね」幸子はさらりと頷いたが、その視線はやはりどこか遠くを向いているままだ。「それもほんの少しだけ……筋は良かったんだけどね、もったいなかったが、まァ……今となっちゃあ、あれで良かったんだよ」

 次第に言葉が濁っていく。そこに何かがあったことを察するには十分だった。そしてそれはもしかしたら次の質問の答えと関係があるかもしれない、とも。

「幸子ママは、どうしてヒーローを辞めたの?」

 ハッピー・シャイニーという大きなヒーローの存在は、三十年前の決戦の後、突然消えてしまう。しかも史上最強と言われていたにもかかわらず、その決戦に彼女が参加していたという事実はない。あまりの戦闘の激しさに、なぜ8号は出てこないのかと憤る民衆もいたし、そういう『8号叩き』は、決戦が終わった後もしばらく続いた。幼かった真理子自身、自分の好きなヒーローが戦いに登場しないのは純粋に寂しかったし、皆が彼女の悪口を言って虐めているのを見聞きするのも悲しかったのを覚えている。そして、それからまもなく発表されたのは、決戦で死傷したヒーローの名前と、ハッピー・シャイニーの引退だった。

 逃げたのだと言う人もいた。しかし今とは違い、ネットなども普及していない時代、そういった批判的な意見はさほど拡がることはなく、やがてシールドの運用化でヒーローそのものが廃れていくのと共に、存在そのものを忘れられていくほうが早かった。学校の授業で習う客観的な事実だけが三十年という月日の中で人々の記憶を美しく書き換え、彼女が『伝説の8号』と言われる今日に至ったのだろう。

 幸子の店にはかれこれ十五年以上通い、ずっと世話になっている。その間、ハッピー・シャイニーが真理子の憧れだということを何度話したか知れない。自分で言うのも難だが、もはや自分と幸子は店主とただの客という関係ではないと思っている。それでも幸子はその正体が自分であるとはただの一度も教えてくれなかった。

 彼女の引退は、当時の自分にとってはものすごくショッキングな出来事だった。だからこそ、叶うのならば知りたかった。彼女がなぜ、ヒーローを辞めたのか。

「怖くなったのさ」幸子は遠くを見つめたままぽつぽつと答える。「ヒーローは、ただの人間だ。漫画みたいにビームなんか撃てやしないし、巨大化もしない。本当に、簡単に死ぬからねェ……」

 真理子はまだ幼かったから理解できなかったが、後に知った。たしかにあの決戦以降、引退と言われていないはずなのに見かけなくなったヒーローが何人もいた。それはつまり、()()()()()()だったのだと。

「あの頃はまだ息子も小さかったからね。アタシが死んだら、あの子は一人になっちまうと思ったら、急に死ぬのが怖くなった……それだけさ」

「決戦に参加してなかったのも、それが理由?」

「いいや、——」幸子はすぐに頭を振った。「あの日は……あの日は、息子が熱を出してね。それで……甘えちまったのさ。運が良いのか悪いのか、アタシはお陰でピンピンしてる。けどねェ、……——」

 そこまで話して、幸子は急に口を噤んでしまった。表情こそ平静を取り繕ってはいるものの、その様子から、きっと幸子は相当に悩んで決戦に行かないという決断をしたのだろうと察した。そしてその果てに彼女を待っていた結末が、あまり良いものではなかったのであろうことも。

 しばらく黙った後で再び口を開いた時、その先に継がれた言葉は、本来出てくるはずだったのとは違うものなのではないかと、何となく思った。

「ま、そんな理由でヒーローを引退したもんだから、息子ともどうにもギクシャクしちまってねェ……考えてみりゃ、十年も一人でほったらかしにしてたってのに急に母親ヅラされちゃ良い気はしなかったろうね」

「……息子さんは、今どうしてるの?」

 幸子が自分の息子のことを話す時、理由はわからないが、このことは深く追求してはいけないのではないかと真理子は感じていた。だからこの質問は初めてする。

 しかし、意外にも幸子は渋ることもなく、さらりとそれに回答してくれた。

「働いてるよ。アンタと同業さ」

「ええ?」これには驚いた。同業ということはつまり同じ社内の人間ということだ。「ヒーローだったの?」

「経験はあるが、早々に『内側の人間』になっちまったからねェ」

 内側の人間というのはこの業界を知る人の間で使われる隠語のようなもので、簡単に言えば会社にいてマネジメント業務をしている部類の人間のことを指す。管理業務や運営責任者などの統括ポジション、総務部署などという社内でも重要な立場にいることが多いため、それなりにエリートでないと内側に入るのは難しいと言われている。基本的に『表』と言われるヒーローたちとはほぼ接点がないため、そこにいるのであれば真理子が知らなくても不思議はないが、ヒーロー候補として入社し、経験した後に内側に入るというのはなかなか聞かない話であるから、それこそ真にエリートなのだろう。

「すごいわね。幸子ママに似てる?」

「どうだろうねェ?」幸子は首を傾げている。「年はアンタと似たようなもんだけど……もしアタシに似ていても、似てるなんて言うんじゃないよ?」

「なんで?」

「えらい怒り出すに決まってるさ。……あの子は、アタシのことを嫌っているだろうから」

 そうなのだろうか。

 小さい頃は可愛かった。しかし大きくなったら距離ができて、今はほとんど顔も見せに来ない——男の子なんてそんなものだし、便りがないのは元気な証拠と幸子はよく言っていた。だが、そう言う時の幸子はいつもどこか寂しそうに見えたし、おそらく言葉とは裏腹にとても案じていたと思う。息子のことを話す時の幸子はいつだって、母の顔をしていた。

 男の子だからとか、女の子だからとか、大人だから子どもだからなんて、そんなものは何一つ関係ない。きっと、自分がひなたを愛しているのと、同じだ。

 親の心子知らずとは言うが、本当に何も届いていないのだろうか。たとえ親子であっても互いに人間なのだから相性の良し悪しは否めないが、もしそれが本当に幸子の『片思い』なのであればそんな切ないことはない。

 会えるなら、教えてやりたい。母親(幸子)がどれだけ子ども(あんた)のことを愛しているのか。

「マリー」幸子は漸く、真っ直ぐに真理子を見つめた。「あんたがアタシに……シャイニーに憧れて夢を叶えたことはわかってる。だけど、本当のシャイニーはアンタが思ってるようなヒーローじゃあない。最強だの何だの言われたって、実際は怖気付いて逃げた挙句、息子ともうまくやれなかったただのババアさ。アタシには覚悟が足りなかったんだよ」

 中途半端は良くないね、と幸子は笑う。その顔を見ていたら、そんなことはないなどという台詞はあまりに無責任で安っぽく、真理子には咄嗟に返す言葉が見つけられなかった。

「わかってると思うが、アンタは一人じゃないんだ。ひなのこともある。いろいろ思うことはあるだろうが、アタシは引退には賛成だよ。……賛成だけどね、——」

 幸子は徐ろにポケットに手を突っ込むと、キラキラと光る小さな何かを取り出した。それは真理子があの日店に置き忘れていった、ポケベルであった。

「……結局、最後に夢を終わらせることができるのは自分だけだ。半端に身を引くと、いつまでも引き摺ることになるよ。夢は扱いを間違うと亡霊にもなる。だから、きちんと自分でケリをつけてきな」

 静かに差し出されたポケベルは幸子の手の中で柔らかな陽射しを反射して光っている。真理子がピンキー・マリーとしてデビューする時に渡され、自分で試行錯誤してデコレーションを施したピンク色のポケベルである。ほんの少し手元を離れていただけなのに、何だかとても懐かしく感じる。

「……ありがと」

 いつも何気なく持っていたはずの小さな機械が、今日はやたら重く感じる。これを返却してしまえば、真理子はもうヒーローにはなれない。

 あの日、夢を叶えてはしゃいでいた自分を昨日のことのように覚えている。まさかヒーローを辞める時が来るなんて、考えてもみなかった。

 毎日、毎日、走って、走って——。

 本当に長い長い時間を走ってきてしまった。気が付かないうちに、周りの景色はまったく知らない別のものになっていた。

 自分は、何も変わっていないのに。

「時の流れの中では捨てて行かなければならないものもある。悲しいが、それで良いのさ」

 ——本当に?

 本当に、捨てなければならない?

 走ってきた道、その途中でいろいろなものを拾ってきた。与えられてきた。見つけてきた。掴んできた。出会ってきた。そのどれもこれも、全部自分にとっては宝物。

 どれかを捨てなければ、もう先に進めない?

 本当に、そうなのだろうか?

「……両方を欲しいと思うのは、間違いなのかな?」

 諦めたくない。

 家族のことも、マリーのことも、全部愛しているからこそ。

「間違いじゃないさ。でもアンタがいくらそう望んだって、確実に年は取っているし、限界はある」

「うん、でもママ、——」

「どんなに頑張ったって、結局のところ若さには勝てないんだよ?」

「わかってる。でもねママ、あたしは——」

「アンタも折れないねェ!」幸子は明らかに苛立ちのこもった口調で真理子の言葉を遮り、短く溜め息をついた。「良いかい? アタシゃ現実を見ろと言っているんだ。世間様だって許しちゃくれないってこたァ、アンタもわかってるだろう? ババアは引っ込めだ何だって、傷つくのはアンタだよ?」

 真理子を諭す彼女の目を見て、何をどう言おうと、幸子は決して賛成してくれることはないのだと悟った。

 考えてみたら初めてかもしれない。こんな風に、彼女と口論になるのは。

 いつも真理子がどんな我儘を言っても受け入れてくれた。「しょうがないね」「大変だろうけど頑張りな」と、最後は必ず応援してくれた。それこそ娘を産んだ後、ヒーローに復帰するかどうかを悩んでいた時も。

 子どもを育てながら働くというのは、想像するより大変なことだ。特に真理子の場合、健一は仕事で海外にいたし、義両親とは馬が合わず協力も頼めない。自分を育ててくれた祖母は既に施設にいて、頼れる身内など一人もいなかった。経済的に困窮しているわけでもなかろうに、無理をしてまで働く理由があるのかと、はじめは幸子もそう訊いた。迷って、迷って、やはり夢はもう終わりにしなければならないのかと心が諦めのほうに傾きかけた時、もう真理子のことすら認識できないはずの祖母が言った。自分には『真理子ちゃん』という孫がいて、ヒーローになるのだといつも練習をしている、と。

 ——「大きくなったら素敵なヒーローになるのよ。私の自慢なの」

 だから戻ろうと決めた。娘を預かって協力してほしいと、幸子に頭を下げに行った。幸子はその時も、体に気をつけて頑張りなさい、と背中を押してくれた。

 動揺している。そこまで否定されるとは夢にも思わなかった。今回も心のどこかで期待していたのだ。幸子なら、たとえ世間が何と言おうと真理子の選択を応援してくれるのではないかと。体のずっと奥のほうが痛いのは、きっとそのせいだ。

「ママが……——」だからきっと、そんなことを言ったのだ。「ママが、自分の子育てに後悔してるからって、あたしも同じにしないで」

 ハッと我に返った時には、言葉は既に発せられた後だった。心臓の鼓動がすぐ耳の後ろで聞こえる。咄嗟に謝ろうと口を開き掛けたが、それは幸子によって遮られてしまう。

「アンタ、ひなが本当は青いランドセルを欲しがっているの、知ってるかい?」

「……えっ?」

 ——青いランドセル?

 何の話だかわからず戸惑っていると、幸子は構わず続けた。

「本当はスカートよりもズボンが好きなことは? ジュースより牛乳が好きって知ってるかい?」

 意味がわからなかった。ひなたのことなんて今は関係ないだろうに、なぜ幸子は急にそんな話を持ち出す? しかも幸子の話すひなたの姿は、真理子の認識とまるで異なる。

 頭が混乱する。幸子は一体何言ってるのだ? ひなたは自分で牡丹色のランドセルが良いと言ったし、洋服だって自分で選んだものを着る。ジュースだって、飲んで良いよと言ったら嬉しそうに笑うじゃないか。それなのに、どうして今さらそんなこと——?


 ——「ママはこのいろ、きらい?」


 幸子の真剣な眼差しに晒されるうち、頭の中にひなたの声が聞こえた。ランドセルを買いに行った日の記憶だ。

 ふと思う。

 まさかあれは全部、わざとそれを選んでいたってことなの?

 ()()に、気を遣って——?

 徐々に俯く真理子の様子を見た幸子はすべてを察したようで、静かに息を吐いて目を伏せた。

「それで両方欲しいだなんてよく言えたもんだよ」

「……」

「アタシは他人だよ? 良いかい? 世間じゃ男女平等だの多様性だの揃いも揃ってご立派なことを言うが、結局母親には、母親にしかできない仕事があるんだ。特にヒーローの時間は、人よりさらに短い」

「……どういうこと?」

 真理子の問いに、幸子は答えてくれなかった。そのうちわかる、とだけ呟いた幸子の表情はとても寂しそうに、それ以上に悔しそうに見えた。

「あっという間だよ。本当に。過ぎてしまえば取り返しがつかない。後悔しない道を行きな」

 代わりに幸子はそう言った。もうこれ以上話しても、今は分かり合えないと悟ったのかもしれない。

「……帰るね」

 ここにいてはいけないような気がした。

 静かに背を向け、先ほど受け取ったポケベルに視線を落とす。どういう選択をしたとしても、ここから先は、もう自分の足で歩いていかなければならない。たとえ辛くとも、道に迷っても。

 一歩踏み出す。

 その時突然後ろから、マリー、と呼ばれた。どうしてかその声に、涙が出そうになる。

「体を大切にしな」

 振り向けなかった。

 意地悪したくて言っているのではないのだ。ただ純粋に自分のことを心配してくれているのは痛いほど伝わってきたし、とっくに自分の頭でも理解している。

 でも、意地を張った。

 地面を蹴り、駆け出した。わかりたくない。本当はどうしなければならないのか、自分が一番わかっているから振り向きたくない。

 今は、まだ。

 いつかちゃんと伝える。自分はこの道で良かったと、心配させてごめんなさいと、ありがとうと、必ず伝えにいく。だから、それまでは、まだ——。


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