第一話 ママはヒーロー(1)桜雨の降る日
非常に読みにくい、ということだけは、注意事項として先に伝えておいたほうが親切だと思うので、前書きとして記しておきます。なぜなら、僕はこれを自身の日記として、いつかの未来にいる自分自身が見ることを目的に書いているから、誰に理解できなくても良い。おかしなところがあったって、何かを間違えていたって、それがこの時の自分の技量、無知の証。それで良いのです。
ここから先へ旅立とうという勇気あるお方には、心からのエールと、謝意を送ります。
それでは、いってらっしゃい。
幼い頃、居間にあったブラウン管テレビ。
大きなマントを翻し、荒い画面の向こうで笑うその人は、なんだかとても格好良く見えた。いつかこんな大人になりたいと、溢れんばかり抱いたその夢の広さに、小さな体は震えていた。
「真理子ちゃんは困っている人を助ける素敵な大人になるのね」
ちゃぶ台という名のステージに上がっては練習をするお転婆を祖父母は叱るどころかそう目を細めた。まだ何も知らない——世界はいつだって、どこでだって、眩しいくらいにキラキラと煌めきながら自分を待っているのだと信じて疑わなかった、遠い日のこと。
あれから、三十年。
——ねえ、おじいちゃん、おばあちゃん。
あたし、ヒーローになったのよ。
毎日この街のどこかにヒーローを待っている人たちがいて、呼ばれたらすぐに、どこへだって駆けつけるわ。
いろいろ言われることもあるけど、あたし、この仕事が大好き。
だから頑張れる。明日も、明後日も、ずっと——そう思っていた。
「おい、ババア‼︎ 邪魔なんだよ、さっさと退けや‼︎」
突如背中に浴びせられた罵声とクラクションに思わず飛び上がる。気付くと自分の尻に触れるか否かという至近距離で、煌々とヘッドライトを点けた一台の車がエンジンを唸らせていた。運転席からはみ出した肘と嫌悪に満ちた視線に、おずおずと電柱に身を寄せる女性の名前は鈴木真理子——御年、三十七歳である。
頷くように首を折ると、車は舌打ちだけを残して猛スピードで走り去っていった。その傲慢な態度に、いつもなら間違いなく何か言ってやるところではあったが、今の真理子にそんな気力はない。行き場のない文句の言葉は白い溜め息と共に、二月の冷たい夜の空気に混ざって消えていった。
「……ほんと、サイアク」
泣きっ面に蜂という諺があることは勉強ができない真理子でも知っている。まさに今みたいな状況のことを言うのだ。
道路の反対側に建つ古いビルに小さな木の扉がついているのが見える。提げられた小さな木製プレートには寂れた『OPEN』の筆記体。あの向こうで、愛する娘が自分の帰りを待っているというのに、地面に根が張っているかの如く足が重い。
ここ最近、自分が本当にツイていないというのは薄々感じていた。それこそ何かに呪われたのではないかと思うくらいに酷いのだ。ただそれを認めてしまうともっと酷いことになるのではないかという気がしたから気付かないふりをしていただけで、いくらポジティブだけが取り柄と言われ続けてきた真理子でも、さすがにおかしいのではと思うくらい運がなかった。
——あたし、何か神様に恨まれるようなこと、したかなァ……?
今朝だって、いつものように家を出て、いつものように娘を預け、いつものように仕事をこなしたのだ。でも、意気揚々と飛び出した一件目、子どもにお弁当を届けてやってほしいと頼まれたから学校まで届けたら「いらないって言ったじゃん!」と怒られ、不審者だと追い返された。気を取り直して二件目、徘徊したまま帰ってこない老婆をやっとのことで探し出したら殴られた。それは認知症の症状の一つだから仕方がないと自分に言い聞かせて三件目、女の子がイヤリングを落としたと泣いているからさぞ大切なものなのだろうと思って探し出したのに、「ッしゃあ! フリマアプリで売るわ!」と意気込んで帰っていった。それでも喜んでくれたからまだ良いとして四件目、夕方にラブホテルの前で大喧嘩をしていたカップルの仲裁に入ったら、自分が彼氏の浮気相手ではなどとあらぬ疑いをかけられ、終いには強烈なビンタを食らう羽目になった。
たしかに、全部いつもどおりだった。『ヒーロー』という名のお助けアイドルである自分にとってはそれが、何も変わらないただの日常。でも、あまりにも、酷い。そして極め付けが、アレだ、ほら、アレ……
……思い出したくもない。
電柱に凭れ、見上げた小さな夜空に瞬く星々は、大都会の放つ強烈な光に負けじと踏ん張っているかのように、真理子には映った。本当に、全部夢だったら良いのに。ハッと気付いたら今日はまだ始まっていなくて、朝起きて家を出るところからやり直しとでも言ってもらえたらどんなに良いだろう。
体の前で抱き締めているトートバッグを覗くと、中でピンク色のフリルが身を寄せ合っていた。ふと昨日まではなかったほつれが目に止まる。仕事中、またどこかに引っ掛けたのかもしれない。家に帰ったら繕わなくては——……。
——違う。
もう、縫わなくて良いのだ。
——「そのヒーロースーツは返却不要よ。餞別と思って受け取って」
ぶるり、と震えが湧く。
頭を振りながら不意に頭の中に響いてきたのは、思い出したくもない声。
払うのが一瞬遅かった。じんわりと目の奥が熱くなってきて、それを咄嗟に歯を食いしばって堪えた。悔しいのか哀しいのか淋しいのか、自分でもよくわからない。
吐いても吐いても溜め息ばかりが湧いてくる。本当に、娘に何と言えば良いのか——。
話は小一時間ほど前に遡る。
喧嘩の果てに我を忘れたカップルの女性から強烈なビンタを食らった後、真理子は会社の待合室で腫れた頬を冷やしながら、昼間子どもに拒否された可哀想なおにぎりを頬張っていた。齧る度に顔のパーツが中央に寄り集まってしまうようなおにぎりを涙目になりながら口に入れていると、いつものように上司が給与袋を持ってやってきた。世間はキャッシュレスだ何だと言っている時代に未だ現金支給をしているこの会社もどうかと思うが、『ネットというのは怖いものです』と教えられ育ってきた真理子からすると、袋の厚みで自分の頑張りを実感できるこの古臭いシステムは嫌いではない。
カツカツ、という聞き慣れたヒールの音が近づいてきて、食べかけのおにぎりを傍らに置いて立ち上がる。まだ口を動かしている真理子の前で立ち止まった彼女は、ご苦労様、と機械のように端的な労いの言葉を掛けて給与袋を差し出した。
「ありがとうございます」
さっさと受け取ってさっさと帰りたい。というのも、毎度こうして給与袋を渡しに来るこの上司のことが、真理子は正直得意ではない。今もこちらを見て、その整った鉄仮面の向こうで何か言いたそうにしているのはわかるし、その内容についても察しはついているのだが、だからこそ早くこの場を立ち去りたい。特に今日は、ほっぺたも痛いし。
ところがどういうわけか、この人にじいっと見られると、途端に脚が石化したかの如く動かなくなってしまうのだ。今も、袋を受け取ったは良いが、足の裏がぺったりと床にくっついたまま、どうにも動けない。
「あのー……失礼させていただいても?」
自分より頭一つ分以上高い位置にある丸みを帯びた目を恐る恐る見て、唯一動く口で遠慮がちに訊ねる。無表情だが、こちらを刺す視線に薄らと嫌悪感が滲んでいるのは何となく感じた。
この人が一体いつから自分の上司だったのか、真理子ははっきりとは覚えていない。少なくとももうすぐ六歳になろうという娘を産んで、仕事に戻ってきた時にはそうだった。随分と若そうだし、癪だけど美人で、正直初めて見た時は女の真理子でも見惚れた。元々それなりに身長はあるだろうに、いつも履いている折れそうなヒールの靴のせいで更に背が高く見え、上司としての存在感と威圧感を放つには十分すぎる。そして何より、その昇り切った満月のような色の長い髪がたいそう目立つ。真理子は会話をしているとついつい「ふわふわしていて良いなァ」とか、「手入れが大変そうだなァ」とか、そんなことばかり考えてしまって肝心の内容をよく聞いていなかったりした。本当に、『内側』にいるのがもったいないくらい。
この世界に存在する『ヒーロー』という職種が、その本来の役割を失って三十年が経つ。ある日突然世界の各地に現れ、人類の存在を脅かすようになったそれらに、人々は『モンスター』という何の捻りもない名前を付けた。平和な日常を取り戻すべく、それに抗う術としてあれこれと考えに考えた結果、この世界にはヒーローと言われる職種が誕生した——と、真理子は学生時代に近代史の授業で学んだ。そしてヒーローたちがモンスターとの死闘を繰り広げている最中、侵入そのものを防ぐことができればと開発が進められていた防護壁——通称『シールド』が漸く完成したのが今から三十年ほど前のことである。
シールドの実用化後、あっという間に過ぎていった長いようで短い時の中で、ヒーローが世間から求められるようになったのは敵に向かって突っ込む勇気でも、誰かを守る強さでもなく、ただただルックスの良さであった。街を破壊し人々の命を脅かすモンスターが襲来することのなくなったこの平和な世界において、ヒーローに残されたのはただのお助けアイドルとしての価値だけで、今は警察が介入してこない日常のほんの些細な困り事を手助けする何でも屋というのが実情である。
しかし、だからこそ真理子は不思議だった。本来九名いるはずの中央本部のヒーローは、最近欠員が補填されずに空席が目立つ状況が続いている。いくらお助けアイドルと言ったって決して暇なわけではない。むしろ最近では途中でトイレに行くことすら難しいほど依頼が立て込むこともあり、増員を望んでいるヒーローは他にもいるだろうし、チーフならばその状況は十分理解しているはずだ。
目の前のこの人が給与袋を渡しに来る以外に社内でどんな仕事をしているのかは知らないが、今すぐにでもヒーローになれるくらいのポテンシャルは持っていそうな気がする。なんならいっそ表に出てくれば良いのにとさえ思うが、やはりずっと会社に篭っていると表に出るのは抵抗があるものなのだろうか。
「8号」
チーフは常に真理子のことをそう呼ぶ。これはヒーローとしての真理子に振られた番号で、ピンキー・マリーというヒーローネームのほうで呼んでくれたことは記憶上、一度もない。
その外見に反した少し低めの独特な声で呼ばれると、無意識に背筋が伸びる。頭のずっと上の方から注がれる視線が痛くて、真理子は斜め下の床面を見つめたまま顔を上げることができない。
ふっと小さな溜め息のようなものが聞こえ、続けて声が降ってくる。
「アナタは今日で引退よ」
すみません、と反射的に言いそうになった口が躓く。いつもと同じであるならば、ここで発せられる彼女の台詞は「そのジャージとスニーカーを脱ぎなさい」であるが、聞こえてきた音がそうではなかったと一つ遅れて気付いた。
知らない外語で話されたかのように瞬時に意味を理解できず、その場で固まってしまった真理子に、チーフはさらに言葉を重ねる。
「もっとハッキリ言うわね。クビよ」
ハッキリ言われてもなお理解できない。いや、理解はしているのだが、自分の解釈が正しいという自信が持てない。
——だって……どういうことよ?
口をぱくぱくさせながら立ち尽くしている真理子を見て、チーフは僅かに首をもたげて腕を組み、抑揚のない声で話し続ける。
「アナタ、有給フルで残ってたわよね? 明日から全部使って良いから、使い切り次第辞めてちょうだい」チーフはやや身を屈め、片眉を上げながら顔を覗き込んでくる。「どうせ娘のランドセル一つ買いに行ってないんでしょう? 長ぁいお休みをあげるから、その間、好きにしたら良いわ」
以上、と一方的に話を打ち切り、今日に限って早々に立ち去ってくれようとする。
「えッ、あ、あのッ……——」視線が外れて石化の魔法が解けた真理子は慌ててチーフを追いかける。が、その軽快なヒールの音が止む気配はまったくない。
長い脚に追いつくべく小走りになってやっとのことで行く手に立ち塞がり、勢いのままに顔を上げたその先で再び目が合う。
「まッ……——」怯みそうになるのを何とか堪え、言葉を継ぐ。「待ってください、あの、クビって、どういうことですか? あたし何かそういう——」
「『何か』って……——」それまで顔色ひとつ変わらなかった綺麗な能面がほんの少しだけ歪む。「わざわざ言わなきゃわからない?」
「えっ、と……——」
「なら遠慮なく教えてあげるわ、その——」チーフは真理子の答えを待たない。「出っぱった腹に弛んだ尻、あとそのダッサいジャージと汚い靴……何とかしなさいって、アタシ散々言ったわよね?」
チーフが指すジャージのズボンはたしかに本来指定されている8号のコスチュームには付属しない完全な真理子の私物である。靴というのも本当は白いブーツのはずが、ヒールで走り回るのが疲れるのと、そもそも途中からファスナーが上がらず履けないため、自分の履き慣れたスニーカーに変更している。真理子からすれば機動性と保温性を考えてのことに他ならないが、勝手に着崩しているのは事実である。そしてこの腹と尻が昔に比べてだいぶ成長しているということも。
「それとも何?」チーフは眉間に皺を寄せてさらに続ける。「オバサンって自分はベラベラ喋るくせに相手の話は聞いてないわけ?」
「いえ、えっと、そういうわけではなくてですね、あたし——」
「冷え性だの動きにくいだのって言い訳はもういい加減聞き飽きた! あのねェ、いつもいつもいッつも言うけど! 今じゃヒーローはマスコットなの、アイドルと同義なの。わかる? アラサー、アラフォーの醜いアイドルなんて世間は求めてないし、アタシたちに大事なのはイメージなのよね。わかる?」
「そ、それは重々、承知しているんですけど……」
「承知しているなら何とかしなさいよ‼︎」
ぴしゃん、と鋭く荒らげた声に真理子は身を竦める。何とかと言われても、真理子だっていろいろ頑張ったつもりだ。朝食にパンを食べると太るなんてことを如何にも勉強ができそうな人たちがテレビの向こうで言うものだから実践してみたこともあるが、成長するスピードのほうがずっと早くて、真理子の努力なんていとも簡単に帳消しにされてしまった。仕事に、子育てに、溺れないよう生きていくのに必死で、何とかしている暇なんて——……なんてことを言えるはずもない。
だって、完璧な理想を具現化した姿が目の前にあるんだもの。
黙っていればまるで可愛らしい人形。顔は小さいし、髪もツヤツヤのふわふわで、化粧も上手で、スタイルも良くて、高級ブティックに立っているお洒落なマネキンみたいな彼女に欠点なんてまるで見当たらない。それでいてこの若さで真理子よりずっと上の統括ポジションにいる。そんな形で何とかしろと言われて、できる言い訳なんてある?
唯一、苦し紛れに言えるとしたら、そんな怖い顔で怒っていないでもう少し笑ったほうが良いということくらいだが、もちろん口に出す勇気はない。
縮こまって俯いていると、上のほうから何度目かの溜め息が聞こえた。
「アナタのSNSが炎上していること、アタシが知らないとでも思った?」
瞬間的に、首元を掴まれたような錯覚に陥る。
アナタの、というのは即ちピンキー・マリーの、ということだ。ヒーローたちにはそれぞれ公式のSNSが当てがわれており、真理子も8号としてネット上に存在している。とは言っても、実際にそれを運営しているのは社内の専門部署の人間で真理子本人ではないのだが、そんな裏事情など知る由もない世間からはマリーそのものとして扱われる。つまりそこには、そのヒーローに対する世間の評価が、良いも悪いも如実に表れてしまう。それはもう、恐ろしいほどに。
「有名であればあるほどアンチもいるのは当然よ。それはわかる。でも、今のアンタにはアンチしかいないじゃないの」
「……すみません」
そう口にするのが精一杯だった。
廊下の片側一面に張られたガラス窓の向こうは、日が没し、その大半を夜に侵されて紫色に染まった空と、眼下には煌びやかな灯りを纏った街が広がっている。見ないようにしていたが、知っていた。ピンキー・マリーが、この景色のすべてから今どう思われているのか。ただがむしゃらに、一生懸命働いているだけでは、もはやカバーしきれない何かがあることも。
「……何をどう頑張っても叩かれるだけ。そんなもののどこに価値があるの?」
ふと、それだけ声色が違ったように感じて、再びチーフのほうに恐る恐る目をやる。やはり彼女は無表情のまま、しかし窓の向こうに広がる夜の街を見下ろしていた。ほんの一瞬、その眼差しがどことなく哀愁を帯びているように見え、真理子は驚くと同時になぜか気になった。この人は一体、その視線の先に何を見ているのだろうか——今はそんな悠長なことを考えている場合ではないと、わかっているはずなのに。
次に自分のほうに戻ってきた彼女の顔はやはり能面に戻っていて、真理子ははたと我に返る。
「マスコットはイメージが命、それなのにアンタのそれは何?」口調もすっかり元に戻っている。「もはやうちにとってマイナスでしかない8号の存在は今日限りで消えてもらう。会社として業界転換も考えていたところだし、まァちょうど良いわ」
「え、業界転換って……?」
「わかるでしょう?」あからさまに面倒臭そうにしながらも、チーフは説明してくれる。「ヒーローが世界を守るなんて、もう昔々の御伽話になったの。それこそ三十年前の『決戦』で、先代たちが掴んだ勝利でおしまい。これからは規模を縮小して細々とやっていくのよ」
「本気ですか?」
「上は前向きに検討中よ。心配いらないわ。アナタ結婚もしているんだし、昔の名残りで、ヒーローとして従事した人へは政府からの補償も手厚いままだから、十分すぎるほどやっていける。いい加減、夢は終わりにして、アナタも普通のオバサンに戻りなさい」
「あの、でもあたしは……」
言い掛けたが、その先が続かない。反論できない。
真理子が黙り込んでいるのを理解したと取ったのかはわからない。ただ、チーフにはもう真理子との会話を続ける気はないのだということは察した。
「そのヒーロースーツは返却不要よ。餞別と思って受け取って」そこまで言うと真理子のほうにまっすぐ向き直り、初めてチーフはにっこりと微笑んだ。「長い間お疲れ様でした。鈴木真理子さん。新天地でも頑張って」
本当に、憎らしいほど可愛い顔をしている。
立ち尽くす自分の横をすり抜けて、いつも以上に軽快なヒールの音は遠ざかっていった。追いかけなくてはと思うのに、真理子の体は動かなかった。
それからどうしてここまで歩いてきたのかよく覚えていない。気付いたらクラクションを鳴らされて、怒鳴られて、舌打ちをされていた——それだけ。
胃が痛い。ありがたいことだが、チーフが言うように金の心配はしていない。自分のQOLの問題だ。そしてこれからあの扉を開けなくてはならないと思うとさらに気が滅入る。いつもなら、躊躇いもなく全速力で走っていって倒れ込むように娘を抱き締めている時間だ。
——泣いてなんかいられない。
『真理子』はいつだって明るく元気、そしてとびきりの笑顔でなくちゃ。
頭の中を巡る上司の顔と声と言葉を振り切り、真理子はずんずんと道路を横断すると、その勢いに任せて店の扉を開けた。
* * *
何かを選択しなければならない局面に立った時、自分の希望は唱えないことにしている。なぜかって、それで自分が胸糞の悪い気分になるほうが、思いどおりの未来で味わうことになる絶望よりずっと楽だと知っているからだ。その証拠に、今だって気持ちとしてはどちらかというとスッキリしている。少なくとも、腹の底に沈澱しているヘドロみたいな何かの存在を隠しておけるくらいには。
仕事はまだ残っているが、執務室の前は通り過ぎた。廊下の突き当たりのドアの鍵を開けて非常用外階段に出ると、痛いくらいの冷たい風が吹きつけてくる。踊り場には誰かがこっそり味わった煙草の吸い殻が化石のようになっていくつも落ちている。いい年をして、社内は禁煙というルールを守れないどころか、自分のお楽しみの後処理もできないのかとうんざりする。
明かりもない錆びついた鉄の外階段を上っていると、どこからともなく声が降ってきた。
「あんたにしては随分と時間がかかったじゃない」
暗闇の中で誰かがくすくすと笑っている。その言葉も、嘲笑も、自分に向けられたものだと理解している。どうせその辺で見物しているだろうとは思っていたが、やはりそうだったようだ。
階段を上る足は止めず、静かに返す。「問題ある?」
「ナイナイ。ただちょっと、……——」
「……何?」自分は苛ついていると思った。それはきっと、半端なところで言葉を止められたからに違いない。
少しあって、声は続ける。「あんたはやっぱり優しいなって」
「意味のわからないことを言わないで」
「褒めているんだよ」
揶揄っているんだよ、の間違いだろうとやはり苛々する。
優しいって何だ。
優しくなんかない。
優しかったら、自分は、もっと早く——。
「怒ってる?」
少し違うような気がする。たぶん、もっとタチが悪い。
やがて辿り着いた屋上は強い風が吹き抜けていて寒い。本当ならコートが欲しいくらいだが、今日はこのままで良いと思った。眼下に広がる夜の街はカラフルに光り輝いて、きっと今夜も眠らない。
「……ううん」
嘘だ。でも、決してアンタに対して怒っているのではない、ということはどうか伝わっていてほしくて、そう返した。意味合い的には「ごめん」に似ている。
しばらく返事がないから不安になる。すぐ近くにいる気配はあるのに顔を見せてはくれないから、何を考えているのかわからない。あっちからは自分のことが丸見えだというのに、本当に、ずるい奴。
「ねェ、ラーメン食べに行こうよ」
影が言った。
顔が綻ぶ。ああ、それは、絶対に美味しい。今日は一段と冷えるから、美味しいに決まっている。
「ありがとう。でも、今日は遠慮する」
声が震えた。もう止まるわけにはいかないんだ。だからもっと冷やして、冷やして、骨の髄まで凍らせて、絶対に溶け出さないように固めておかないと駄目なんだ。正直ラーメンは食べたいが、今そんな途轍もなく温かいものを食べたら、全部が流れ出してどうしようもなくなる。
そんな気がして、とても怖いから。
* * *
その店の名前は『Eight』といって、主は幸子という、おそらく初老の女性である。
おそらく、というのは「実年齢は非公開」と本人から言われており、その外見だけでは若いのか老いているのか判別ができないからである。真理子が初めてこの店を訪れたのが二十歳の時で、主としてカウンターにいた幸子は既に良い年だったような気がすることに加えて、店の内装やら彼女の服装やら会話の内容、はたまたラジオなんて古びたものを愛用しているところなど、様々な観点から推察するに、真理子よりだいぶ年上ではあろう——ということで、真理子は勝手に六十前後なのではないかと思っている。もっとも、初対面から現在に至るまでの間、幸子はまったくと言って良いほど見た目が変化しておらず、もしや魔女なのではと真理子が思わず考えてしまうくらいに若々しさを保っているため、その推察は間違っているかもしれないのだが。
幸子はいつ行っても一人で店にいて、他にスタッフがいるところはこれまで一度も見たことがない。逆に、幸子が一人で店を回せなくなるほど客がいるところも見たことがないし、よく考えてみればいろいろと不思議なことが多いのだが、それを訊いてしまうと魔法が解けて二度とこの店に来られなくなってしまうかもしれないと思うと、何となくそのままにしておきたいのである。
軋みと共にカランカランとカウベルが鳴るドアを開け、細い廊下を抜けた先にオレンジ色の不可思議な空間が広がっている。内装そのものはごく普通のクラシックなバーであって、決してオレンジのペンキをあちこちに塗りたくっているわけではないのだが、どういうわけか、この店はまるで夕焼けの中にいるかのような空気の色をしている。
「おかえり、マリー」
カウンターの向こうに立っている幸子がこちらに顔を向けて微笑む。そして、高い椅子の上で小さな両足をぶらぶらと揺らしながら、愛娘が絵を描いている。その光景が本当にいつもどおりで、真理子は心底安堵した。
「ただいま! ひなたぁ、良い子にしてたー?」
緩みきった顔を愛娘に埋めようと両腕を伸ばしながら近づくと、ひなたは一生懸命作った怖い顔で振り向いた。「ママ、おそとからかえったら、すぐてあらいうがいしてください」
「ゴメンナサイ」
思わず腕を引っ込め、即座に洗面所へ直行。あれがまだ小学校にも上がっていない五歳児なのかと思うと、我が娘ながら恐縮してしまう。
「アンタ、ご飯食べんのかい?」
洗面所で手を洗っていると、後ろから幸子の声が飛んできた。いつもならイエスと即答するところではあるが、今日の真理子はいつもと違って食欲など皆無である。しかしそんなことを言えば即座に何かあったのだろうと勘付かれ、気を遣われてしまうのは目に見えている。
はてさて、何と返せば良いのか。ガラガラ、と音を立てて数回のうがいをしながら考える時間を稼いでいると、ふと、そういえばさっき会社の待合室でおにぎりを齧ったことが頭に浮かんだ。
「あのねママ、実は今日仕事で——」ちょうど良い言い訳ができたと、雑に口元を拭いながら足早に店内に戻ると、幸子がカウンターの上に大皿を置いていた。丸い形の白米の塊がごろごろと積まれている。おおよそ均等な大きさのものが重なるその脇に、やや小さくて不恰好な塊があり、それが無愛想な娘の作品であることは言われなくともわかった。
「やだァ、おにぎり作ってくれたの? ありがとう、これひなのでしょォ? 上手じゃなァい!」
今度こそ愛娘を抱き締めようと思ったら、ひなたはするりと腕をかわしてスケッチブックを片付けに行ってしまった。行き場のなくなった両手は、仕方なくそのまま積み上がるおにぎりのほうへ向かう。お腹が空いていないなどという台詞は娘にフラれた悲しみに押され、どこかへ消えてしまった。
「酸ッぱ……」齧り付くとすぐに中身の梅干しが顔を出し、とても酸っぱい。幸子の作るおにぎりは、いつだって白米と梅干しのバランスが悪い。
「座って食べなァ、まったく……ひなのほうがよっぽど行儀が良いね」
「そうでしょう。よくできた子なのよ」
「誰のおかげだと思ってんだい!」
言わずもがな幸子である。ひなたが生まれた後、ヒーローの仕事に復帰しようと考えていた時、どうしてもひなたの預け先が最後まで決まらず、困っていた真理子に手を貸してくれた。以来、真理子が仕事に行っている間、幸子はいつもひなたを預かってくれている。それがどれだけ救いになったか知れない。
おかげでこんなにもしっかりと貫禄のある五歳児になった。
カウンターチェアによじ上り、続きのおにぎりを頬張る。結局お腹は空いていなくとも、食べ出すと食べてしまうのが不思議だ。
「そういえばマリー、健一が帰ってくるんだって?」
不意に幸子が訊ねてきた。健一というのは真理子の夫であり、数年前から仕事の都合で海外に行っている。
「そう! そうなのよ、ママ!」詰まりそうになった米粒を出された茶で流し込む。「しかも来月! 急すぎじゃない?」
「相変わらず忙しない男だねェ」
幸子がそう呆れるのは、幸子も健一のことを昔からよく知っているからである。何といっても健一と真理子はこの店で出会い、結婚するに至ったのだから。
建設関係の仕事に就いている健一は、時折海外へ赴任され、請け負ったプロジェクトが完了したら戻ってくるという生活を繰り返している。途中で一時的に帰国してくることもあるが、赴任先はたいていが僻地であるため稀で、基本的には一度行ったら数年間は帰ってこない。
昔は不安に思うこともあったが、今の時代はテレビ電話もあるし、ネット通話なら電話代もかからず話ができるから本当に便利になったと思う。逆にそれのおかげで毎日のように電話がかかってきては、寂しいだの会いたいだのグダグダと話されるものだから鬱陶しくて、ひなたと二人でよく「迷惑電話が来たね」と話しているくらいだ。久しぶりの亭主なのに、と幸子は言うが、そうして毎日顔を見ているのだからまったく久しくなんかない。
だがそうは言っても、ひなたはパパが帰ってくることを内心とても喜んでいるようで、帰国することを伝えた日から「あとなんにち?」とよく電話で訊ねているのを見る。ひなたは本当にしっかりしていて、いつも「だいじょうぶ」「しょうがないなあ、ママは」と真理子のことを許してくれるが、本当は寂しいと思うことだってあるに違いない。ここ最近は比較的保育園のイベント事にも参加できたり、誕生日もこの店で一緒に祝えたりしたが、たまたま仕事のタイミングが良かっただけでいつもできるわけではない。ヒーローは、年中無休なのだ。
弟妹でもいれば少しは違うのかもしれないが、ひなたは一人っ子だ。既に三十七も終わりに近づく真理子にとって、もし二人目を作るならそろそろラストチャンスではないかと思っている。現実的に考えられないほど難しいと思っていたそれも、もしかして今のこの状況なら、叶うのかもしれないが。
「何だい、今日は。随分と大人しいねェ」
ギクリ、と体が強張る。顔を上げると、幸子がカウンターの向こうからこちらを見て眉を顰めていた。「溜め息ばっか吐いて。アンタが静かだと気持ち悪いよ。何かあったのかい?」
正直に今話そうか迷う。しかし、黙っていたところでいずれは知られる。ヒーローの就任や引退などの知らせは必ずテレビで報じられ、会社のホームページにも公式に載る。そうでなくても幸子の場合、こういう店を営んでいるためか、常に様々な情報をいち早く入手している。この場を誤魔化したところで、到底隠し切れるものではない。
ひなたのほうを見やる。お絵描きをやめた娘は、今は静かにソファに座って本を読んでいる。自分がヒーローではなくなるということを知ったら、ひなたはどう思うのだろうか。喜ぶのだろうか。それとも、悲しんでくれるのだろうか。
「……あのね、ママ、あたし……——」無意識に小声になる。「あたし、もうピンキー・マリーじゃなくなるの。さっき会社で、クビって言われてきたのよ」
幸子は一瞬目を見開いた。どうやらこの情報はまだ彼女の耳には入ってきていなかったようだ。
「……随分と急な話だね」
「そうなのよ。使ってなかった有給がたくさん溜まっているから、明日からそれを使って、使い終わったら辞めてくれって。だからまァ、実際に辞めるのは、まだ一ヶ月以上先の話ではあるんだけどさ……」
「……そうかい」幸子は息を吐くように頷き、手元で林檎を剥き始めた。「アンタのことだ、まァた何かやらかしたんじゃないのかい?」
「やらかしてないわよォ! あたしがもうババアだからダメなのよ。……そりゃそうよね。もう三十七だし」
「アタシにしてみりゃまだまだヒヨッコだよ」
幸子くらいの年齢の人からすればたしかにそうかもしれないが、世間的にはそうではない。ここ最近、ピンキー・マリーのSNSの炎上で痛いほど感じている。それにあの上司も言っていたが、体型のオバサン化にも抗えない。思い出すと非常に腹立たしいが、事実である。
徐ろに、もらってきたヒーロースーツを鞄から引っ張り出す。薄いピンク色のベースに所々グリーンの差し色が入っていて、まるで桜の花弁のような見た目をしている。ピンキー・マリーになって十八年、ずっとこのスタイルで、懸命にやってきたつもりだったのに。
「あら、可愛いじゃない」剥いた林檎を切りながら、幸子は目を細めて褒めてくれる。「そっちのは頭飾りかい? 良いじゃないか、可愛いよ」
「そうでしょ?」
自然と笑みが溢れる。色は褪せ、自分で穴をかがった何箇所もの跡が見える、一番大好きな服。これを着ると、なんだか自分がとても強くなったように思えて、何でもできる気がした。
幸子が林檎の乗った皿を出してくれた。か細いフォークが突き刺さっている。固そうな林檎だが、一つ食べてみると口の中でしゃりしゃりと音を立て溶けていった。
「でもまあ……——」真理子の口の中から林檎が消えてなくなる頃、幸子は林檎の刺さったフォークを手に持ったまま溜め息を漏らした。「形はアレだが……ある意味、良い機会なんじゃないのかい?」
「なんで?」
「ヒーローなんて言ったって、本当にヒーローだったのは三十年前までの話で、今じゃあただの町の便利屋だ。人の善意に感謝の一つもできないどうしようもない輩に、良いように使われるのがオチだろう」
幸子の言うことはもっともだ。チーフも事業の規模を縮小すると言っていた。世の中的にも、もうヒーローなんてものは必要とされていないのかもしれない。
「アンタももう十八年もやったんだ。十分じゃないのかい? そろそろ、ひなのことも考えてやらなきゃ」
後ろを振り返ると、ひなたはソファの上に転がって寝息を立てていた。読みかけの本が手から抜け落ちてしまいそうだ。
真理子は静かに席を立ち、起こさないようそっと隣に寄り添うと、小さな手から本を受け取った。お気に入りのヒーロー図鑑だ。読みすぎて角が捲れ上がってしまっている。
パラパラとページを捲る。歴代のヒーローたちのプロフィールや、ヒーロースーツのことなどが子ども向けにアニメ風のイラストになって描かれている解説書みたいなものだ。当然、現8号のピンキー・マリーのことも載っている。自分には似ても似つかない、可愛らしい女の子の姿で。
「……そうね」
子ども向けの本にしては分厚いが、マリーのページは探さなくてもすぐに開くことができる。そう跡がついてしまっているのだ。そして、この本の中にはもう一箇所、そういう癖付いたページがある。
昇りたての太陽のような眩い金色のツインテールに、オレンジ色のふりふりのスカート、大きなリボン、そして体を覆うほどの大きなオレンジ色のマントを翻す彼女の名は、ハッピー・シャイニー——三十年前、決戦によって終わりを迎えたモンスターの時代、最後にして最強と言われる伝説のヒーローである。
それが、真理子の憧れ。
人々の平穏な暮らしを脅かす強大なモンスターをいとも簡単に討伐し、街の人々を救い、皆から慕われるその姿が、幼い真理子には何よりも格好良く見えた。
現役の時代、彼女は8号を名乗っていた。真理子と同じ8号——まったく違う、8号。
ああいう人になりたかった。彼女のように、いつも明るく、強く、みんなに幸せを振り撒くヒーローに。
わかっている。チーフの言うことも、幸子の言うことも、頭では理解できるしきっとそうしなければならない、そうしたほうが皆が幸せ——わかっているのだ。でも、わかりたくない自分もいる。
——……どうすれば良いの?
「そんな辛気臭い顔すんじゃないよ。可愛い顔が台無し」
幸子が囁きながらブランケットを持ってきて、眠っているひなたに掛けてくれた。
「だってさ……あたし履歴書の書き方も知らないのよ?」
「そんなモン、どうにだってなるさ。そういう顔をしてるとねェ、本当にババアになっちまうよ? アタシを見てみな」
幸子はいつだってそう真理子を鼓舞してくれる。「オレンジは太陽の色、幸せの色」などと言ってオレンジのものばかり身につけているから、見た目もそれはそれは派手だし、たぶん年齢なんて何も気にしていない。誰かが批判しようものならきっと十倍にも百倍にもなって返ってくるだろう。真理子は彼女のその正々堂々とした性根がとても格好良いと思っている。
「健一も帰ってくるんだったら、良いじゃないか、少しくらい甘えたって。子どもが近くにいるのはねェ、本当に一瞬なんだよ? うちの息子なんかあんなに可愛かったのに、今じゃ寄り付きもしないしねェ」
幸子は話しながら小さく笑う。幸子に一人息子がいるというのは時々聞いて知ってはいるが、どうもあまり良い関係ではないらしく、家を出てからはほとんど会っていないという。過去に一度、写真を見せてと頼んだことがあるが、それすらもないと言っていた。
「まァ時間はあるんだ。ゆっくり考えな」幸子は真理子の肩を軽く叩き、またカウンターの中へと戻っていった。その丸みを帯びた背中がどことなく寂しそうに見えて、真理子は喉の奥のほうがきゅっと締まるような心地がした。
* * *
まさかこんなに早く結末を迎えることになるとは思ってもみなかった。昔からそうだが、彼女は本当にたしかな仕事をする。
「助かったよ」
眠り込んでしまったひなたを抱きかかえた真理子が店を後にし、漸く落ち着きを取り戻した店内で、幸子はスマホの通話終了ボタンを押した。電話を切り、静寂の中でカウンターチェアに腰掛けた自分の中に、何とも言えない後味の悪さが残っているのに気付く。もしこれが酒なら絶対に飲まずに捨てているだろうが、こればかりはこの不味さを耐え忍び、腹の奥深くまで飲み干さなくてはならない。
これで良いのだ。これで。
ふと、脳裏に蘇る。今でも鮮明に思い出すことができる、あの日——初めて真理子がこの店にやって来た日、彼女はまだ二十歳そこそこの、夢の只中でキラキラと光る花のような子だった。
たしか会社の先輩らに連れられてやって来たのだ。二十歳になって酒が飲めるようになったから奢ってやるとか、そんな理由だったと思う。真理子は夢だったヒーローになったばかりだと言って、何の穢れも知らない素直な瞳で、初対面の幸子に憧れを語った。
「伝説の8号、ハッピー・シャイニー! 小さい頃から大ッ好きで! ずっと憧れだったんです!」真理子はマシンガンのようなその口と、身振り手振り、必死に話し続けていた。「そうしたらね、あたし、8号になったんです! すごくないですか⁉︎ 憧れの人と同じ番号なんて、もォあたし感激しちゃって‼︎」
真理子を連れて来た先輩は何度もその話を聞いていたのだろう。皆、苦笑いを浮かべ、鬱陶しそうに彼女の熱弁を酒で流していた。それでも、真理子は話すのを止めようとはしなかった。
本当に好きだったのだろう。それは、見ていればすぐにわかった。
だからこそ、——。
いつの間にか、随分と長い時間が流れてしまった。あの時まだ花盛りだった真理子はもう三十七歳、一児の母——どんなに大切にしていても、枯れない花などあり得ない。
正直、気の毒に思う自分もいる。自分の望んだことが本当に正しかったのかと問う声も聞こえる。しかし、取り返しのつかないところまで来てから気付くのでは遅いのだ。
愛するものほど自分で手放すのは難しい。今は悲しい、寂しいと落ち着かないかもしれないが、いずれこれで良かったとわかる時が来る。ああしておけば良かったなどと後から悔やむのは、本当に辛いものだ。まるで亡霊のように、一生かかって呪い続けてくる。
真理子は他人だが、もはや娘も同然である。だからこそ、このまま歩いて行った先で訪れるであろう未来を知っているのに、そこに突き進もうとする彼女を黙って見送るなんて、どうしても自分にはできなかったのだ。
自己満足かもしれないが、それでも構わない。
こんな思いをするのは、自分だけで十分だ。