アイネ・クライネ・ナハトムジーク
『愛とは、とても神秘的で日常的で素敵で残酷で嬉しくて、悲しいものなのですね。
私はあなたを愛し、あなたを失う日を指折り数える毎日を宝石箱にしまっておこうと思います。』
彼女からの手紙を握りしめ、声を殺して泣いた。
それからは、意識がなくなるまでピアノを弾き続け…彼女への想いが一曲の作品となり、声にならない叫びとして後世に受け継がれることを祈った。
最後まで意地っ張りで不器用な自分の、最後のプレゼントを、彼女は笑ってくれただろうか。
形を持たないプレゼントなら…きっと彼女も…。
ありがとう。
愛してる。
スピリディア…私の最愛の淑女。
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私は死んだ。
孤独をそのまま体現するように、郊外の小さな私邸のだだっ広く、ピアノだけが存在感を表す部屋で。
邸を整える者を失ったそこは、まるで粉雪のように埃が舞い、月の光を鍵盤に届ける窓から見える景色はどこまでも青かった。
君の瞳のような青に、私は心を奪われ購入を決めた邸だったのに…。
君とずっと一緒にいたい…。
そんな願いを抱いたから罰が当たったのだろうか?
遠く離れた外国へと嫁ぐことが決まった君を、私はどんな顔でどんな言葉で、どう表現したらいいのか分からないまま…
君からの手紙が届いて初めて、もう戻れないのだと理解したのだから…
馬鹿な男だ。
何が才能だ。
好きな女一人守れず
ただ泣き呻く曲を残すしか出来ず
何が『愛』だ。
何が…
ん?
どこだここは?
死んだ部屋とは程遠い清潔な寝具。
見たことのない家具。
外国なのか?
それとも…これが『天国』か?
いや、神父の話では天国とは白く広くフワフワした場所だと言っていた。
待てよ?
神父は死んだ経験がないのだから、知るはずがないではないか。
ならば、デマか。
なんということだ!そんなデマを信じて私は作品を作ってしまったのか!?
不可抗力とはいえ、神への冒涜だと言われても仕方がない所業。
で、ここはどこだ?
銀色の鉄より軽い素材で出来た窓を覗けば、外に広がる光景に絶句した。
重そうな四角い物体が行き交い、煉瓦作りの街並みに煤をまき散らせている。
ドレスというには簡易な服装を身にまとう淑女たちが、はしたなく大口を開けて笑っている。
空を見上げれば何か白い物が一直線に飛んでいる。
絶句し後ずさる私の足が何か硬いものを踏んだ。
途端、けたたましい音が鳴りだした四角く薄い箱に初めて知る新しい音楽がそこにあったのだから驚いた。
あれはヴァイオリンとは違う弦楽器か?
まさか様々な太鼓を並べ、一人で打楽器隊を担う術を見出すとは!?天才か!?
なんだ?この声は…歌にしては自由すぎる歌詞ではないか?
賛美歌はもっと…賛美歌ではないのか。
賛美歌以外に歌を作ってよいのか?
まして、こんな直情的な歌詞を恥ずかしげもなく叫ぶとは…なんて破廉恥で羞恥心の欠片もないのに…胸が熱くなるなんて。
高揚感。
そうだ、こんな気持ちは久しぶりだ。
この世界がどこか?
そんなことはもう、どうでもいい。
私は知りたい。
ここにはもっと沢山の音があるのだ。
オーケストラではない。
鼓笛隊でもない。
たった数台の楽器で作り上げる曲が、それらに負けていないインパクトを生み出している。
凄い!
私はもっと知りたい。
ここでならスピリディアへの表現しきれなかった想いの全てをさらけ出せるかもしれない。
ああ…
スピリディア。
君を驚かせる曲を、私は書き続けてやろう。
これが、神からの使命なのだ。
私はこの世界のどこかにいる貴方に、私の曲を届けてやる。
見つけたら、笑ってやってくれ。
『全く…どんだけ不器用なの?』
君の澄んだ優しい声が聞こえた気がした。