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銀色の北十字 肆  作者: たき
8/13

(8)

 翌朝、衛府に出勤した獅子は、中央棟から歩いてくる人馬と疾風を見つけた。気づいた人馬が疾風を連れて小走りにやって来る。

「団長、おはようございます」

「おはよう。よく眠れたか?」

 挨拶する二人の顔を観察し、昨夜の様子を察する。案の定、二人は視線を交えてから照れ笑いをした。

「すみません、つい話し込んじゃって」

「月界の酒がおいしくて、とまらなくなりました」

 年が近そうな二人はすっかり仲良くなったらしい。もともと人馬は人好きのする男だが、疾風もどうやら似た性質のようだ。

 そこへ白羊と室女がそろって現れた。

「おはようございます」

 白羊と室女が人馬の隣にいる疾風をちらりと見る。疾風は副団長二人に挨拶したものの、落ち着かなげにうつむいた。

「地使団長は無事復活したみたいだな」

「一時はどうなることかと思いました」

 室女は心底ほっとしたさまで笑った。皆、心配しながらも手をこまねいているしかなかったのだが、もう大丈夫だろう。そこへ当の本人が双子と一緒に姿を見せた。

 無精ひげがきれいになくなっている。少しやせてはいたが、すっきりとした顔つきだ。ようやくいつもの摩羯らしくなったことに獅子は瞳をやわらげた。

 疾風は摩羯のことがすぐにわからなかったらしい。人馬に耳打ちされ、目をみはる。

「えっ、昨日の……同一人物? ていうか、月界ってなんでこんなに見目のいい人が多いんだ」

 美形の産地かとつぶやいた疾風に、人馬がにやりとした。

「もちろん俺も数に入ってるよな?」

「ずうずうしい奴だな。悔しいけど入ってるよ」

 疾風と人馬が肘でつつき合ってじゃれていたとき、天蝎が声をかけてきた。

「揃ってるな。そろそろ行くぞ」

 とたん、全員の表情が引き締まる。摩羯と獅子はそれぞれ場にいた副団長に留守中の行動確認をし、天蝎と双子も寄ってきた副団長に指示を出す。

 今日は衛府に残ることになった人馬は残念そうにしていたが、後で報告すると疾風に肩をたたかれ、うなずいた。そして団長四人と疾風は馬にまたがり、衛府を出発した。



 陽界突入の作戦会議は仙王宮の一室で開かれた。出席したのは仙王帝、猟戸皇子、天琴、天狼、波江、東雲、霧雨、疾風と衛士団長四人だが、無理やりくっついてきたとしか思えない波江が天狼の真後ろに座るのを見て、陽界側の参加者はいぶかしげな顔をした。

「疾風の話から察するに、兄上を守っている私兵の中に闇使がいるな」

 そうでなければ、いくら月界の武器を携えているからといって、衛士の団長や副団長をたやすく打ち負かすはずがないと東雲が言った。 

「闇使って何だ?」

「ああ、ちびっこいのが知るにはまだ早いから気にするな」

「ちびっこいとか言うな!」

 東雲に軽くあしらわれ、天狼が机をたたいて抗議する。後ろの波江も殺気を放ちながら東雲をにらみつけている。

「天狼、話が進まなくなるから後だ。皇子も天狼をからかって遊ぶつもりなら、あなたのこともちびっこいのと呼ぶが、かまわないか」

 この場で最年長の猟戸に注意され、東雲もぐっと口をつぐむ。猟戸に『ちびっこいの』と呼ばれる東雲を想像したらしく、数人が吹き出す中、猟戸はすぐさま話を戻した。

 疾風も有明の襲撃後しばらく衛府から出られなかったので、現在の陽界の状況に詳しいわけではない。それでも少ない情報から有明の動きを予想し、侵入経路を決めていく。

 達成目標は二つ。一つは有明の打倒、もう一つは灼熱竜の代替わりだ。今の灼熱竜が死んで新しい灼熱竜が誕生すれば太陽の炎も落ち着き、少なくとも数百年は側女を用意しなくてすむ。天鵝も朧も助かる最善の道だった。

「灼熱竜は冷妃を訪ねてくるだろうから露台に降りたところを狙えばいいが、兄上も冷妃に熱を上げているとなると、月暈宮が戦場になるかもしれないな」

 衛府にいる衛士たちは霧雨が生きていると信じ、霧雨の剣が放つ合図で動くことになっているらしい。また自分が月界に行っている間は時雨が冷妃と連絡を取り合っているはずだと疾風が言った。

 有明の行きそうな場所を東雲がいくつかあげ、どこにいた場合こちらはどう動くか、話を詰めていく。また白馬は陽界には存在しないので、月界側の馬はすべて赤く塗ることになった。

 潜入するのは東雲、霧雨、疾風はもちろん、天狼と摩羯、獅子率いる火使第一小隊がともに行くことになったが、そこで波江が手を挙げた。

「私にも参戦の許可をいただきたい」

 皇子が心配なのでという波江に、天狼があからさまに顔をしかめた。

「お前は留守番してろよ」

「だめです。皇子お一人で敵陣に乗り込むなど」

「一人じゃないし。そもそも、お前みたいな大男がいたら変に目立つだろう」

觜貴(しき)がいいなら私も大丈夫なはずです」

 背丈はたいして変わりませんと波江が粘る。

「觜貴って誰だ?」と尋ねる天狼に、今度は獅子が手を挙げる。

「すみません、兄者は俺のことをいまだに幼名で呼ぶんです」

 ここにも『ちびっこいの』がいるのか、とはさすがに誰も声に出して突っ込まなかったが、口の端をひくつかせている皆を見回して、獅子が嘆息した。

「兄者がどれだけ強くても耐性がないときつい。ほんのかすり傷でもへたをしたら死んでしまうんだぞ」

「私はそんなへまはしない。しかしそれなら皇子、私に耳飾りをお与えください」

「お前なあ。これは自分からねだるようなものじゃないぞ」

 ずずいっと迫ってくる波江に、天狼がのけぞりながら叱る。 

 月界で剣士にとって最高の栄誉である『剣仙』の称号を得ている波江は、当たり前だが尋常でなく強い。強いのだが、剣の師匠として天狼と出会い、その素質に惚れこんで以来、天狼のそばにべったり侍るようになっている。

 最強の従者ではあるが、体格的にも性格的にも少々鬱陶しいと天狼が思っているのが傍目にも丸わかりなのに、なぜか当の剣仙は全然気づいていないのか不思議だと、獅子は苦笑せざるを得ない。過保護っぷりは摩羯といい勝負かもしれない。

 剣術にのめり込みすぎて女性とのつきあいをおろそかにした結果、波江はいまだに独身だ。自分も三十後半なのでもう若いとは言えなくなってきたが、少なくとも兄よりはまだ選ぶ余裕があると思っている。

 いっこうに結婚する気配のない息子二人に、最初は世話を焼いてせかしていた両親も、最近はあきらめたのか放っている。安心させてやりたいという気持ちもなくはないが、正直自分も結婚にはあまり興味がない。

 やいのやいのと言い合う天狼と波江に、なかばあきれ顔だった猟戸が仲裁に入ろうという動きを見せたとき、ついに天狼が折れた。

「ああもうわかった! やるよ、やるから」

「皇子!」

 左耳の耳飾りをむしり取って、天狼がぽいっと波江に放り渡す。波江が感極まったさまでそれを受け取った。

「月界に戻ってきたら返せよ」

「皇子~~~っ」

 嬉し泣きから悲しみの涙に変えてうなだれる波江に、「月界の者は面倒な者にばかり耳飾りを下賜するな」と東雲がぼやく。その正面にいた天琴も「暑苦しいわね」と天狼と波江を一瞥してから猟戸を見やった。

「叔父上、私も行くわ。いいわよね?」

「よくない」

 猟戸と仙王帝が言うより早く、東雲が反対した。

「あんたには聞いてないわ」

「なぜあなたが行く必要がある? 陽界を見たいなら後でいくらでも案内する。だが今はだめだ。あまりにも危険すぎる」

 天狼に対するときとは打って変わって真顔の東雲に、天琴も眉をひそめて応戦する。

「私は遊びに行くんじゃないわ。天鵝を助けに行くのよ」

「だからそれは我々に任せてくれ」

 本気で天琴の身を案じてとめているらしいとわかり、獅子は興味深さに目を細めた。東雲はどこか自分と同じ匂いがすると思っていたが、どうやら添い遂げたい相手を見つけたようだ。しかしよりによって天琴とはまた難儀なことだと密かに同情する。

「獅子、頬杖をつくな。陛下の御前だぞ」

 隣に座る天蝎が注意してくる。無意識のうちに姿勢を崩していたことに気づき、獅子は小さく笑った。

「いやあ、面白いなと思ってな」

 昨日初めて天琴を見て顔を赤らめていた疾風は、天琴の気の強さに驚いているのか完全にかたまっている。霧雨はさすがに団長だけあって露骨に表情には出していないが、それでもやや目を丸くしている。

「陽界の姫君はどれだけおしとやかなんだろうな」

 月界の皇女は二人とも意志が強いので、もし彼らが男性優位の思考に染まっていれば生意気に見えるか、もしくは新鮮だろう。

 天琴と東雲の争いには関心がないのか、天狼が席を立った。試しに黒点竜を倒しに行ってくると言う天狼に、「皇子、お待ちください。私も参ります」と耳飾りをわたわたと耳につけながら波江が追う。

 摩羯は双子と何か小声で話しながら地図を指さしている。憔悴のあまり死んでしまうのではないかと懸念されたのが噓のようだ。

 たとえ敵方に闇使がいようと、天鵝を救い出そうとする摩羯を抑えることはできないだろう。自分なら、摩羯が猛進してきたら背を向けて逃げる。それくらい、今の摩羯は気迫がみなぎっていた。

「天琴には護衛をつける。私が最も信頼する者に守らせよう」

 ずっと黙っていた仙王帝の発した言葉に、にらみあっていた東雲と天琴がぱっとふり返る。こんなときでなければ見とれてしまいそうなほど美しい笑みを天琴は浮かべ、東雲は不愉快極まりないさまでむすっと口の端を曲げた。



 会議後、部屋を訪ねてきた東雲を窓辺に立って天琴は迎えた。

「歓待はしないわよ」

「残念だが、それは次回の楽しみとして取っておこう」

 微笑する東雲に、「次回なんてあるわけないわ」と天琴はすげなく答えた。

「もう決まったことなんだから、とめたってむだよ」

 どうせ思いとどまるよう説得に来たのだろうと推察して先に断ると、東雲はそばに寄ってきた。

「必ず乱戦になる。戦うすべをもたないあなたが行くようなところではない。賢いあなたがなぜそんな無謀なまねをする?」

 東雲に両肩をがっちりつかまれる。のぞき込んできた鋭い深紅の双眸を、天琴は気後れすることなく見返した。

「……天鵝を取り戻したい、ただそれだけよ」

「しかし」

「私には天狼の補佐ができる。天狼がどこまで灼熱竜と張り合えるかわからないのだから、有効な手段は一つでも多いほうがいいわ」

 それ以上は話せないわ、とそっぽを向く天琴の横顔を、東雲は見つめた。

「どうあっても行くと言うなら、私があなたを守る」

「必要ないわ。兄上が腹心をつけてくれるって言ってたじゃない」

「それだけでは心許ない。どうか私にあなたを守らせてくれ」

「一番に狙われそうなあんたのそばにいるほうが危ないと思うけど」

「私の妃を堂々と見せつけるいい機会だ」

 不敵に笑う東雲を天琴は睥睨した。

「誰がいつあんたの妃になると言ったのよ。これ以上くだらないことを口にするなら天狼を呼ぶわよ」

 とたん、東雲の顔色が変わる。天琴はふふんと鼻で笑った。

「やっぱり、灼熱竜だけでなくあんたたちにも天狼の『刃』は効くのね」

「……なぜわかった?」

「天狼があんたの首を絞めたときに。いくら重傷を負っていて目覚めたばかりでも、天狼を振り払えないなんておかしいと思ったのよ」

 東雲が両手を挙げて降参した。

「あなたの観察眼には感服する。その通り、我々にとってあのちびっこいのは脅威だ」

『月の刃』に触れられると体が凍りつくように痛んで動けなくなるのだと、東雲は白状した。

「陽界の帝室の男は灼熱竜の眷属同然だから、灼熱竜が苦手とするものは私にとっても避けるべきものだ。できればここだけの秘密にしてもらえるとありがたい」

「それは、あんたしだいね」

「やはりあなたをこちらに引き込んだほうが安心だな。私の妃になってくれ」

「しつこいわね。私は言ったはずよ。あんたを初めて見たときに、この男だけは()()と思ったって」 

「私の何が気に入らない?」

 東雲に背を向けた天琴は、食い下がる求婚者を肩越しに見た。

「一目でわかったのよ。彼と同じ……勝手に話を進める人だって」

「それは、あなたの想い人のことか?」

 天琴は窓外に視線を移した。隣に立つ東雲が続きを聞きたがっているのを感じ、ため息をつく。

「すごく頭のいい人だったわ。私が宰相府の試験に一度で合格したのは、勉強を見てくれた彼の教え方が上手だったからよ。それに、やんちゃだった。物陰からいきなり飛び出してきたり、贈り物だと言って虫をぎっしり詰め込んだ箱を渡してきたり、とにかく私を驚かせることに力を注いで……思い立ったら、こちらの都合なんておかまいなしに無理やり馬に乗せて連れ出すし」

 それでも、連れて行ってくれた場所はどこもすばらしかった。あまり人に知られていないような優しく澄んだ景色に、怒りも忘れて見入った。気がつけば肩を並べ、寄り添いあって。

 母が亡くなったときも、普段は軽口ばかりの彼が黙ってそばにいてくれた。そっと抱き寄せられたとき、我慢していた涙があふれた。

 そして母の死から半年ほど経った頃。人の踏み荒らしていない、野生の花々が風に揺れる場所で、ともに座って暮れゆく月を眺めていたとき、いつも陽気で饒舌な彼が珍しくかたい表情で尋ねた。

“天琴は、俺のことをどう思っている?”

 視線をあわせない彼をしばらく見つめ、天琴は正直に答えた。

“そうね……すぐからかったり、意地悪したりするところは嫌いよ”

 ますますこわばる彼の横顔から目をそらし、今度は小さな声で続けた。

“でも……顔を見せてくれないと気になるくらいには……好きよ”

 彼の顔がぱっと輝いた。

“天琴は俺のことが好きなんだな”

“話の前半部分を聞いてなかったの?”

 眉間にしわを寄せる天琴に、彼はにんまりした。

“大事なのは後半部分だろう?”

“都合のいいことしか耳に入らないなんて、次期宰相としてどうかと思うわ”

“そこは、しっかりしているお前が補ってくれればいい”

“最初から人を当てにするのはやめてちょうだい”

“こんなに頼りがいがあってかわいい姫を、そばに置きたがらない男がいるものか”

 そう笑って、彼は天琴の手を取った。俺のかわいい姫、は彼の口癖だったが、冗談にしか聞こえなかった今までと違い、そのときの彼の瞳はとても真摯で、きらめいていた。

“来年、正式に宰相補佐の任に就く。その後は時期が来たら父上の後を継ぐ”

 仙王を助ける俺をお前が支えてほしい、と両手で天琴の手をにぎりしめ、彼は言った。

“俺の妻として”

 驚いて声の出ない天琴に、彼の表情がくもった。

“嫌か?”

“私はまだ十四よ。来年は十五。結婚には早いわ”

 ようよう答えた天琴に、何だそんなことかと彼は安堵のさまで笑みを深くした。

“あと二年は待つ。十六になれば、もうかまわないだろう”

 それでも早い気がするとためらう天琴に、彼はかぶりを振った。

“あまりのんびりしていると、他の男に持っていかれる”

“そんな相手、いないわ”

“二年だ”

 譲らない彼に、天琴はあきれた。

“もう、本当に強引なんだから”

 それを承諾と受け取り、彼は鉄紺色の瞳をやわらげた。あまりに嬉しそうな顔につられ、天琴も苦笑した。

“いつから考えていたの?”

“お前と初めて出会ったときだ”

“嘘ばっかり”

 そのとき私はまだ乳飲み子だったはずよと指摘する天琴に、彼は顔を近づけた。

“仙王に聞いてみろ。俺は赤ん坊だったお前に惚れたんだ”

 初めて触れた彼の唇は、自分とは違う、少しかたい感触だった。

 長い接吻に息切れを起こした天琴を抱きしめ、彼はやわらかい声でささやいた。

“愛している。俺のかわいい姫” 

 星妃の腕に抱かれる小さな天琴と対面した日から、大きくなったら俺にくれと彼が何度も頼んでいたと、後に兄は確かに証言してくれた。

 でも、それを聞いても何の喜びもわかなかった。皇太子だった仙王を暗殺しようとした母の罪を償うため、彼は彼の父とともに命を絶ってしまったから。

「いきなり求婚してきたと思ったら、その翌日に死ぬなんて……本当に、どうしようもなく勝手な人よね」

 ようやく母の死の悲しみが癒えかけた頃に、彼を失った。その衝撃に耐えきれなくて自分は病に倒れ、見舞おうとした天鵝が誘拐されたのだ。

 もし摩羯と天鵝が出会っていなければ……摩羯が天鵝を救い出してくれていなければと、考えるたびに怖くなる。

「だから、今度こそ私は自分の手で天鵝を――」

 引き寄せられたと思ったときには、もう東雲の腕の中だった。

「あなたには前を向いてほしい。いつまでも過去にとらわれているのを見るのは忍びない」

 私にその手伝いをさせてくれ、と言う東雲の声は愛情に満ちていた。

「抱きしめてなぐさめれば落ちると思ったら大間違いよ」

「わかっている。そんな安っぽい手に引っかかるような女性でないからこそ、あなたが欲しいんだ」

「……この先も、あんたの言うことに素直に従ったりもしないわよ」

「それでいい。私は、誤った選択をしたときにきちんと意見を述べてくれる女性を妃に迎えたい」

 うなずくことしかできない女に興味はないと東雲が笑う。

「雲帝は側女を産んでもらうために必ず妾妃をもつが、妹君のおかげで私の代ではそれは不要だ。私はあなた一人を妃とし、あなた一人を愛する。決してあなたを残して逝ったりはしない」

 だから、どうか私の妃になってくれと語る東雲の吐息が首筋に触れる。そのぬくもりと力強さが、八年前の彼の抱擁と重なる。

 好き、だったのだ。振り回されてばかりだったけれど、快活に笑う彼が。耳に届く心地よい声質が。

 いつも、自分だけをとらえていたまなざしが。

 かすかに震えた天琴の顔をあおむけ、東雲が間近で見つめる。自分を映す瞳は彼と同じ熱い輝きを宿している。本気なのだとわかり、天琴は初めて東雲の前で涙をこぼした。

 東雲の指が優しく涙をぬぐう。そのままの流れで口づけようとした東雲を、天琴はとめた。

「私はもう、求婚してきた人が死ぬのを見たくないの」

「姫、私は絶対に――」

「絶対なんてないのよ。何が起きるかわからないんだから」

 東雲の胸をそっと押し、天琴は抱擁からのがれた。

「生きて帰るの。天鵝を無事に連れ戻して、陽界も正しい方向におさまったとき、私たち二人とも生きていたら」

「生きていたら?」

 繰り返して問う東雲と、天琴はしっかりと視線をあわせた。

「……そのときは、前向きに検討するわ」


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