95 戦闘の一部始終(2)
メアリーを追いかけて庭を走りながら、私は強い違和感を感じていた。
この家が空き家らしいことは知っていた。
今も隣の家がごうごうと音を立て火柱を上げて燃えているというのに、目を覚まして灯りをつける様子もなければ、住人が窓の外を見る様子もない。全ての窓が真っ暗だ。
前方を走っていたメアリーが塀の手前でこちらを振り返って私とバーテンダーを見た。
(なにかおかしい)
さっき、メアリーは走りながらわずかにコースを曲げた。私は全速力で走っていたが、私の勘が『止まれ!』と叫ぶ。
右足が踏んだ地面が、妙に柔らかい。
(しまった)
急停止ができないから、勢いをつけて横向きに倒れたが、わずかに遅かった。
右足で踏んだ地面がしなった次の瞬間、土が崩れて足から落下する。目の細かい網、薄い板、大量の土と一緒に身体が落ちる。
落ちながら体をひねり、穴の淵に両手の指先でしがみついた。
土はぼろぼろと崩れるが、落とし穴の淵は板で補強してあった。ただ板を置いただけのようだが、崩れやすい土よりは指に力を入れやすい。
私のすぐあとから走ってきたバーテンダーも急停止しようとして止まれず、私のすぐ脇を落ちた。
私がつかまっている場所の少し脇には、しっかりした厚い板が渡されている。幅は十五センチほど。
隣家の炎が地面に複雑な影を作っている中、メアリーは自分が通るべき幅十五センチの道を踏み外さなかったということだ。
(早くここから出なきゃ。メアリーが来る)
穴はかなり深い。暗くてはっきりとは見えないが、底まで三メートル以上はありそうだ。
バーテンダーの男は音をも立てずに上手く着地したと思う。
穴から出るために両手の指先に力を入れ、身体を引き上げようとしていると、走ってくる足音が近づいてきた。ジェフの足音ではない。もっと体が軽い……。
ダンッ!と勢いをつけて指を踏みつけられた。お面のような無表情で、メアリーが私を見おろしている。
「ねえクロエ。私が何の準備もしないでボーッとあんたを待っているとでも思った? たっぷり時間があったから、これの他にもいろいろ準備をしておいたわ。だけどまさかあんたが最初の仕掛けにはまるなんてねえ。すごく間抜けでがっかり。私、ワクワクしながら逃げたのに」
しゃべりながらメアリーは、私の指先を踏んでいる踵に力を入れた。それからいったん姿を消し、戻ってきたときには人の頭ほどの石を左手で抱えていた。ナイフで私の指を切ろうとしたら飛びついてやろうと思っていたのに。
メアリーは左手で石を持ち上げて私の顔を狙って落そうとしている。右手が使えないようだ。ドレスの上半身は右肩を中心に黒く色が変わっている。
私はつかまっていた板から手を放し、自分から穴の底に落ちた。
「この落とし穴、どう? あんたに登れるかしら? 残念、登れないわ。だって今からあんたは死ぬんだから」
だが、すぐに石を投げ落としてくるだろうと思ったメアリーの姿が消えた。別の足音が走って近づいてくる。あの足音は……ジェフ!
すぐ近くから小声で話しかけられた。
「奥さん、あんた無事か?」
「ええ、あなたは?」
「無事だが、ここを登るのにナイフ一本じゃ無理だな……。あんた、俺の踏み台になる気は?」
「ないわ。あなたが踏み台になってくれない?」
「断る」
「そう……」
ダガーを土の壁に突き刺した。突き刺したダガーの握りを足掛かりにして上に出ようとしたが、体重をかけると土が崩れてくる。
「やめろ。こんな掘ったばかりの土の壁を崩していたら、下手すりゃ二人で生き埋めになる。仕方ないな。俺が肩車をする。だからあの女を逃がすな」
「肩車じゃ届かないわ。背中を貸して」
「仕方ねえ」
バーテンダーが穴の壁に両手をついた。私は迷うことなく男の背中に乗り、メアリーが通った厚い板に飛びついた。そこから懸垂の要領で身体を持ち上げ、穴の外へ出た。男も出られるように、今使った分厚い板を穴に落とした。
落とし穴のすぐ近くで、ジェフとメアリーが腰を落として向かい合っていた。メアリーは左手でナイフを構え、ジェフは手ぶらだ。
ジェフならナイフを持っているメアリーに勝てるはず。そこへ私も穴から出てきたのを見て、メアリーは再び走って逃げ出した。
私も追いかけて走り出した。
私はメアリーが通った場所を慎重になぞりながら走る。メアリーはこの家の門にたどり着き、門の飾りを足がかりにして乗り越えようとしている。長い夜着をたくし上げながら片手でよじ登り、またいでから向こう側に飛び降りた。
私は走ってきた勢いを使って石塀に飛びつき、素早く乗り越えた。これでだいぶ距離を詰められた。
向こう側に飛び降りて見渡すと、メアリーが前方の狭い十字路を右に曲がって行くのが見えた。メアリーは私が知る限り、ほとんど外出していない。恐らく心肺機能は私より劣っているはず。
(必ず追いついてやる)
だが、十字を曲がったのにメアリーの姿はない。急いで地面に耳をつけて足音を探した。走る足音は聞こえない。近くで隠れているということか。油断なくあたりを探しているとジェフが走ってきた。剣を回収してきていた。
「メアリーは?」
「逃げたけれど、この近くに潜んでいるはず」
うなずいたジェフが道の右側、私は左側を見ながら進む。二人でメアリーが隠れられそうな場所を探して回った。ここは平民街だから、さっきの家のような高い塀は少ない。その代わり、どこかの家に入り込まれたら見つけるのは難しい。
近所が燃えているからか、どこの家も灯りがついている。たくさんの人が窓から燃えている様子を眺めている。火事場見物の野次馬もちらほら外に出てきた。どこかでカシャン!と軽いものが割れる音がした。同時にくぐもったような悲鳴。
(どこだ?)
立ち止まり、耳を澄ます。
「こっちだ」
ジェフが一軒の家に向かって走った。私も後を追う。
「ああっ!」
再び女性の悲鳴がした。私たちは全力で音のした方へと走る。ジェフリーが私と同じ速さで隣を走る。
(あの家だ)
一軒だけ、近所で火事が起きているにもかかわらず、窓から外を見ていない家があった。
ジェフが指だけで『俺は裏に回る。君は表から』と合図をしてきた。無言でうなずき、二手に分かれた。
静かに建物の玄関わきに近寄った。人の気配を探し、一階の窓の廂から二階のベランダへ。最初に耳を澄ませた部屋は物音がしない。その隣の部屋へとベランダの手すりから手すりへと飛び移った
押し殺した女性の泣き声が聞こえる。続いてメアリーの声。
「静かにしないと命はないよ」
「は、はい」
見つけた。
ここの住民を人質に使うつもりか。寝室の隣にいた少女もそうだったが、こうして次々と無関係の他人を巻き込むのは、メアリーに自信がないからだ。本当にやり方がいちいち汚い。
自分が生き残るためとはいえ、メアリーの行き当たりばったりでいながら毎度汚いやり方をしていることに、嫌悪感が湧く。
(さて、人質を傷つけずに終わらせるにはどうしようか)
下で動く気配。見下ろすと一周してきたジェフがいた。(この中にいる)と指さすと、ジェフがうなずき、玄関へと移動する。なるほど。
私は窓に貼りつき、カーテンの向こう側の中の様子に耳を澄ませた。






