9 シビルの森へ
翌朝、日の出前に我が家にクラーク様がやって来た。彼を乗せて、我が家の馬車は出発した。
大げさにも思える四頭立ての馬車なのは、現地を知っているジェフリーの判断だ。状況によって馬車が使えなくなっても一人一頭ずつ馬を使えるようにと。
御者役は我が家の厩番のリードが務めている。
「ジェフはずいぶんご機嫌ね」
「大好きな奥さんと旅行に行けるんだ。嬉しいのは当たり前だ」
過去の生活にはもう戻れないと思うのはこういう時だ。工作員時代は誰も愛したことがなかったが、当時はそれを何とも思わなかった。
けれど、愛する幸せと愛される幸せを知ってしまった今はもう、あの頃の生き方には戻れないと繰り返し思う。宝物を手に入れた瞬間から宝物を失うのを恐れる、それはこんな気持ちだろうか。
今は馬を休ませるために小川のほとりに敷物を敷いて座っている。クラーク様に今回の旅行の目的を最初から細かく説明した。
「つまり先生はたった数日で小説に隠されていた暗号を解読したのですか?」
「暗号ってほどの物じゃなかったんです、クラーク様。十歳の子どもだって解読できるような簡単な仕組みでしたから」
「いえ、でも」
「クラーク、ビクトリアは子どもの頃から冒険小説に夢中で、いろいろな暗号の解き方を読んで覚えていたらしいよ」
「それもすごい話ですよ。先生、さすがです」
クラーク様がいらっしゃるのでジェフリーは私をビクトリアと呼んでいる。
クラーク様は五年前の語学教師時代と同じように私を先生と呼ぶ。クラーク様はその呼び方が気に入ってるのだそうだ。
「それで先生、これから向かうのはどこなんですか?」
「エルマーの小説によると、シビルの森の奥に、失われた王冠に至る道標がいくつかあるらしいの。森の中だから探すのは手間でしょうけど、目印は暗号に書いてあったからたどり着ける、はず。見つからなかったらただの旅行だと思えばいいんです」
「お母さん、もしかして夜は森の中で眠るの?」
「そうなるわね。怖いかしら?」
「ううん、全然。楽しみ!」
『最初の道標は森の中の白い石碑』
シビルの森と思われる森の位置と、最初の道標である白い石碑のおおよその位置も書いてあった。あとは現地で次の道標を探す仕組みらしい。
整備されていない街道だから馬車の速度は抑えめだ。しかも日のあるうちだけの移動。目的のシビルの森までは馬車で一週間はかかるだろう。
家を出てから三日後、ノンナが突然「このままじゃ破裂する。私、パッカーンて破裂する」と言い出した。
うん、なんとなくその言葉で気持ちは伝わる。運動不足で元気を持て余してるのだね。
そこで家族三人で鍛錬をすることにした。
クラーク様はある程度私とノンナが活発なことはご存じだけれど、ノンナはシェン国で急成長しちゃってるので私はお見せするのを迷っていたのだが。
「クラーク、ノンナとビクトリアはシェンで武術を学んだんだ。なかなかの腕前だぞ」
ジェフがクラーク様だけでなく御者のリードにも聞こえるように朗らかにそう告げて私をちらりと見る。なるほど。下手に隠すより、あっさり事実を知らせた方がいいという判断なのだろう。私もノンナの相手をしていいのかしら?そう思ってジェフリーに視線を送るとにこりとうなずいてくれた。
その日から我が家の鍛錬はクラーク様に対して解禁となった。リードに馬を頼んで少し離れた場所で鍛錬をすることにした。
「ジェフ、私生活を報告しないという約束はこうなるのを見越してたの?」
「まあね。ノンナはそう長くはじっとしてられないだろうと思ってたよ」
さすがだ。おかげで親子三人で一日に一度は思うさま身体を動かせるようになった。
ノンナの素早さといったら。まだ身体が軽いから機敏な妖精という感じだけれど、この腕前のまま成長したら並大抵の男性では太刀打ちできなくなるだろうと思われた。
リードは最初こそ目を白黒させていたが、ジェフリーが「妻と娘はシェン国にいる間に武術を学んだんだ」と言うと、どこまで信じたかはわからないが何も言わなかった。
妖精のような動きのノンナを相手に私は、その辺の木の枝を短剣の長さにへし折って相手をしている。「ハッ!」「ヤッ!」という鋭い声とともに猛烈な高速でノンナから繰り出される蹴りや拳。金色の三つ編みをなびかせながらノンナは全力で向かって来る。
私はノンナに怪我をさせたくないのでどうしても防戦一方になる。私の身体がまともに衝撃を受けることは防げているが、あまり余裕はない。そのくらいノンナは腕を上げている。
「僕だけ見物してるのは、なんだか悔しいです」
クラーク様は初日こそあっけに取られていたけれど、翌日からはジェフリーと剣の鍛錬をするようになった。ジェフリーはクラーク様と打ち合うというよりは指導をしている感じだ。木剣の音はカンカンカンカン! と言う感じ。私と鍛錬するときのカカカカッ、カンッ! という音に比べるとだいぶゆっくりだ。
「私も! 私も木剣で鍛錬する!」
ノンナは私と体術の鍛錬をした後だと言うのにクラーク様の後でジェフリーと練習をし始めた。木剣の腕前もなかなかだ。ふと、(ノンナはどこまで強くなるのかしら?)と思ったが、深く考えるのはやめにした。この子を押さえつけたら本当にパッカーン! と破裂されそうな気がした。
出発から一週間後、いよいよシビルの森に近づいた。
(戦争の記憶がある土地に来て、ジェフリーはつらくないかしら)と隣を見る。すると前を向いたままジェフが私の手を握った。
「ちょっとここで止まってもらうがいいか」
「ええ。もちろんよ」
ジェフは馬車を止めさせると、静かに降りた。草むらに向かって銀色の頭を下げ、祈りを捧げた。荷物からスキットルを取り出して中のお酒を地面へと振りかけ、初めて声を出した。
「ここで命を落とした全ての男たちに」
ここがかつての戦場なのか。
木や草が生えてるだけの何もない場所だ。だがここで多くの血が流れ、結果としてジェフリーの婚約者も命を絶つ原因を作った場所なのだ。私も目を閉じ、(どうか安らかに)と己の正義のために戦った人々に祈った。他の三人もそれに続く。
「ありがとう。俺のことなら大丈夫だよ。もう戦争の記憶は古い傷跡だ。痛みはないんだ」
「そう?それならいいけど」
私の心には今も痛みを伴う古傷がある。あの痛みをジェフが感じていないことを願ってしまう。
馬車は再び走り出し、シビルの町に着いた。
シビルの町は植林と伐採、製材など木に関する産業が中心で、ほぼ自給自足の林業と農業の町である。私たちは木材業者が泊まるらしい宿屋に部屋を取り、さっそく情報を集めることにした。
まずは宿屋の女将さんに聞いてみた。
「森の中の白い石碑ですか? 私は聞いたことがないですけど」
「シビルの森の中で、ここから十キロは離れているらしいのですけど」
「植林地帯より奥のことならシビル林業組合で聞いたらわかるかもしれません」
「そうですか。ありがとうございます」
『シビル林業組合』の建物は町の中心部にあった。建物の中は体格の良い男たちで混雑していた。対応してくれたのは組合長さんだ。
「白い石碑ねえ。ここから十キロも奥? 私は聞いたことがないな。植林地帯から奥へ進むのは大変ですよ。馬車は使えないから馬か歩きになりますし」
お礼を述べて私たちは組合の建物を出た。
町で肉や野菜などを買い込んでから馬車で出発した。
植林地帯は道が比較的整備されていて馬車でも進むことができた。針葉樹の大木が立ち並び、辺りは薄暗い。鳥の声がしない薄暗い森の中を馬車は進んだ。
問題はその先だった。針葉樹ばかりの鬱蒼とした深い森を過ぎ、ところどころ陽ざしが差し込む雑木林に入ると道が突然なくなった。
「ここからは馬にしよう」
「ジェフ、馬車はここに置いて行くの? 盗まれない?」
「置手紙を残して行こう。それで盗まれたらその時はその時だが、貴族の馬車を盗んだら重罪だから。大丈夫、ここの人たちはみんな顔見知りだ。滅多なことはできないさ」
「あなたのそういうおおらかなところ、大好きだわ」
会話を聞いていたノンナがクスリと笑う。
「出た。クラーク様、うちの両親はね、とにかくお互いが大好きなの」
「いいことじゃないか」
「まあね」
今度は私とジェフリーが笑ってしまう。
進んだ距離をおおよその体感で測るのは工作員時代に散々練習させられたものだ。任せてほしい。馬に荷物を積みかえて、私たち五人は一列で進んだ。私が先頭、次がノンナとリード、三番目はクラーク様、しんがりはジェフだ。
雑木林に入った頃から土地の傾斜がはっきりして感じられるようになった。私たちは山を登っているのだ。
森の奥にはそれほど高くはないシビル山。雑木林になってからあちこちで鳥の声が聞こえてきた。人工林と違って自然の森には鳥が多いのね、と思いながら進む。
馬車で顔を突き合わせている間にノンナとクラーク様はすっかり昔のように仲が良くなった。二人で馬を近づけておしゃべりしながら進んでいる。
「あっ!白い物が見えた!」
「待ってくれよノンナ」
ノンナが催促してリードが馬を急がせ、クラーク様が慌ててその後を追いかける。私とジェフリーも馬を急がせた。
白い石碑は思っていたよりも大きかった。石を運んで立てたのではなく、元からそこにあったと思われる白い岩に文字を刻んだものだった。
全員で馬を降り、石碑を見る。
『ここから北へ十キロ』
「お母さん、道標なのにたったこれだけ?」
「そうらしいわね。冒険ぽくていいじゃない?」
「ここまで飛んで来たんだな」
「お父さん、飛んで来たってどういう意味?」
「はるか昔にあの山が噴火した時、この岩がここまで飛んで来たんだよ」
ノンナがジェフリーの指差す方向を見る。
青く見えるシビル山は裾野の広い美しい山だった。
「北に十キロなら、シビル山に登るってことだろうか?」
「そのようねジェフ」
クラーク様が手帳を取り出してせっせと書き込んでいた。