89 陰鬱な一人旅のはずが
アシュベリーとランダルの国境検問所を通った。
身分証を差し出し、窓口で返されるのを待って無事に国境を通過した。ジェフリーの身分証は当然のことながら一点の曇りもない正式なものだし、私の身分証もシェン国から戻ってからマイクさんから渡された正式なものだ。私が偽造した身分証はその場でマイクさんが引き裂き、暖炉で燃やしたっけ。
だから何も心配はいらないはずだった。だが私は窓口の担当官の目が、緊張しながら小さく左前と身分証を往復したのを見逃さなかった。左前の私から見えない場所に、なにか貼ってあるのだろう、それと私の身分証を照らし合わせた、と確信した。
検問所を通過し、馬を歩かせながらジェフに声をかけた。
「ねえ、ジェフ……」
「窓口の男が緊張していたな。君のときだけではない。俺のときもだ」
私はジェフのこういうところが大好きだ。
剣豪だけに世間では力技だけの男と思われがちだろうが、そうではない。オオヤマネコのようにしなやかに動き、四方八方に神経を配ることができる人は頭もいい、というのが私の持論だ。
エドワード様は、五十名の傭兵を雇ったハロウズ侯爵家との話し合いを終えて、もう帰国の途に就いている頃だろうが、王都までは到着していないはず。帰る途中で私たちの情報を入れたのだろうか。
「んー、ここは悩んでも仕方ないわね。表向きの敵にはエドワード様がきっちり警告を出したはず」
「兄上なら『これでもか』というぐらい圧力をかけたはずだよ」
「ふふ。それは間違いないわね」
二人で苦笑しながら馬を進め、その日の宿を選んで部屋に入った。
あまりジェフの前でやりたくはなかったけれど、両側の部屋に面した壁に耳を当てて、音を探った。右隣の宿泊客は鼻歌を歌いながら部屋の中を移動し、ガタガタと音を立てている。演技ではない。問題なし。
次は左隣の壁に耳をつけて音を聞く。
ジェフが興味深そうに私の行動を見ているから「メッ! 見ないで!」と怒った顔で口だけ動かして見せたが、ジェフは声を出さずに笑って私を見ている。
左隣の部屋からはほとんど音がしない。だが、時折り静かな足音が聞こえる。その足音が気になった。
(この部屋の人、素人じゃない)
振り返った私の顔を見て、ジェフが笑みを引っ込めた。
「隣の人間が怪しいのか?」
「ええ。私、深夜にこっそり屋根裏から……って、え? ジェフ、なにをするの?」
ジェフは剣を片手に、ドアを開けて部屋を出て行く。慌てて私がジェフに追いすがった。
「何をするつもり? こんなところで騒動を起こさないでよ。足止めを食らってしまうじゃないの」
「騒ぎなんて起こさないから、安心して」
そう言うなり左隣のドアをノックした。返事はない。
ああ、もう。しなやかなオオヤマネコ発言は撤回だ。なんでこんな荒技に出るのか。四方八方に神経を配ってほしいのに。
私はダガーを腰のホルダーから取り出して身構えた。
やがてカチャリと音がして鍵が外され、ドアが拳一個分ぐらい開いた。
「失礼」
ひと言そう言って、ジェフがドアをグイイと押し開け中に入った。相手が「うっ」とくぐもった声を出している。ジェフに続いて私も部屋に入り、絶句した。
「こんばんは、アッシャー子爵。それに子爵夫人」
困った顔で眉を下げ、挨拶している若者は、第三騎士団のミルズだった。
淡い茶色の刈り上げ、茶色の瞳。全体的に漂ってくる遊び人風のチャラチャラした感じ。間違いなくノンナと出かけたミルズ。
「君はたしか、ノンナを連れまわした若者だな」
「ジェフ……」
私はそっとジェフのシャツを引っ張った。ジェフはミルズから目を離さないまま、返事をしてくれた。
「なんだい? アンナ」
「ミルズが連れ回したんじゃなくて、『ノンナが連れ回した』が正しい表現だと思うわよ?」
「ああ、そうだったか。それにしても彼はなぜ我々を尾行してるんだろうな。第三騎士団の長はずいぶん心配性なようだ」
「あー、あはは」
ポリポリと頭をかきつつ、ジェフから視線を逸らしたミルズに同情する。困るわよね、ミルズだって。あなたのお兄さんに命じられたのですよ、なんて言えるはずもないし。
「立ち話もなんですので、おかけください」
勧められて大人しく椅子に腰かける私とジェフ。椅子が二脚しかないので、ミルズはベッドに腰かけた。
「それで? 兄は君に何をどう命令したんだ」
「えっ」
驚いて声を出したのはミルズだが、私も驚いた。ジェフは知っていたのか。いつから?
「ええと、兄とおっしゃいますと……」
「ああ、そういうのはもういい。兄は僕が気づいてないと思っているのだろうが、僕は第三騎士団の長が兄だということはとっくの昔に気づいているんだ。兄は君に何を命じたんだ?」
「そうだったんですね。なんだ。ええと、僕に下された命令は、アッシャー子爵ご夫妻がどこへ行き、誰に会うつもりか。そして何をしたとしても止める必要はないが、見届けよ、と」
ジェフが「はああ」と険しい顔で天井を見上げ、ため息をついた。
「誤解していらっしゃるようなので、訂正させてください。僕にこの命令を与えてくださった方は、エドワード・アッシャー様ではありません。ええと……恐れ多くも国王陛下です」
「は?」
「なんだって?」
私としたことが、思わず間抜けな声を出してしまった。そしてジェフが不機嫌だ。
「陛下が。そうか、わかった。来るなと言っても君は陛下に逆らうわけにはいかないだろうからな。勝手についてくるのは諦めよう」
「ありがとうございます。そうしていただけると助かります」
ジェフは「邪魔した」とだけ言ってミルズの部屋を引き揚げ、私たちの部屋へと戻った。もちろん私も一緒に。
ジェフは野生のオオヤマネコではなく、怒れる牛みたいにドスドスと歩き、ベッドにボフンと仰向けになった。
「すまない、アンナ」
「なにがかしら?」
「俺の周りには過保護な男が多くて」
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。この身長百九十二センチ、体重八十キロの大男は、確かに過保護に愛されている。本人にとってはさぞや腹立たしいことなのだろうが。
「あなたがそれだけ愛されているということだわ。私は誇らしいです」
「いつまでたっても鼻たれ小僧扱いされているようで……俺は大暴れしたくなるときがあるよ。いや、無事に帰国したら、今度こそ本当に大暴れするかもしれない」
「やめて。お城で大暴れしているあなたを想像したら……笑いが止まらなくなっちゃうわ。もう、大暴れするあなたのことなんて、危なくて誰も止められないじゃないの。気の毒すぎるからやめてあげてよ。エドワード様も、宰相様や軍部の元部下たちも、皆さんが困るわよ」
「ふっ。そうかもな」
ジェフは自分でもお城の中でブンブンと剣を振り回す自分を想像したらしい。腹筋をひくひく動かしてるなあと思って見ていたら、笑い出した。笑いは止まらず、自分でおなかを押さえている。
「だめだ、笑いが止まらない」
「それこそ過保護に守られる大きな駄々っ子だわね」
「はっはっはっは」
ついに大きな声を出して笑うジェフ。私もつられて笑ってしまう。突然、ジェフが笑うのをやめて私のことを真顔で見ているから、驚いた。
「ん? なあに?」
「やはり君も気づいていたんだな。兄の本当の役職に。俺たち、夫婦なのに秘密が多すぎたなぁ」
「私はお城の反乱のときに、たまたま偶然に。そういうジェフはいつ気がついたの?」
「シェン国に渡ってからずっと考えて、それしかない、と行きついた」
「そんなに前に?」
「ああ。だが、あの役職は家族にも秘密にするのが当たり前だから。俺はずっと知らん顔をしていたんだ。今回の用事を済ませたら、一度三人で話し合おう」
「いいわよ。でも、私とエドワード様はもう、確認済みなの。エドワード様に、ジェフには自分の口から話したいから待ってくれと頼まれていたの。ごめんなさい」
「なるほど。兄上が言いそうなことだ」
私は秘密を抱えることに慣れていて『聞かれないことは言わない』が基本だ。エドワード様もそうだろう。
だがジェフは違う。
まっすぐな性格のジェフにとっては、さぞかしモヤモヤすることが多かっただろう。そう思うと、申し訳ない気持ちになる。
「ごめんなさい、あなた」
「いいんだ。これでスッキリしたよ。そして、二人きりで出てきてよかった。君とこうして腹を割って話し合えた。ノンナやイルが同行していたら、こんな話はできなかった」
「そうね。足音も気配も隠せる二人だしね」
「全くだ。さあ、明日も日の出と共に移動しよう。早く眠らなくては」
「ええ、あなた」
こうして私たちとミルズの三人は共にランダル王国の王都を目指すことになった。
だが、ミルズは「陛下にはこっそり同行しろと命じられましたので。今更ですけど」と言って、私たちから距離を置いてついて来ている。
それもなんだか可笑しくて、チラリと見るたびに笑いが込み上げる。
私は可愛い大男と可愛い若者を引き連れて旅を再開した。陰鬱な気持ちで向かうはずだった一人旅は、陽気な三人旅になっていた。