87 マイルズの帰国
エドワード様がランダル王国に出発する日がきた。
私とジェフリーはアッシャー伯爵家までお見送りに行った。ノンナはクラーク様に呼び出されていて、見送りには来られなかった。
エドワード様は穏やかな笑みを浮かべ、「では行ってくる」とだけおっしゃって出発した。相変わらず一切の気負いを感じさせない人だ。
私は深く頭を下げ、感謝の気持ちでエドワード様を見送った。
エドワード様の護衛は総勢五十名もいた。ジェフによると、その正体は王国軍の精鋭だそう。陛下のご配慮が行き届いていて、私は恐縮している。
今回はエドワード様の私的訪問という形なので、護衛たちは軍服を着ていない。私兵がよく着る普及型の制服を着ている。だが雰囲気も動きも完全に軍人という印象の集団だ。
護衛の数が私を襲おうとした傭兵と同じ五十人なのは、エドワード様のお考えのような気がする。本当のところを答えてもらえる日が来るのなら、ぜひお聞かせ願いたいところだ。
エドワード様を乗せた馬車と騎乗した護衛たちが街道を遠ざかっていく。
ブライズ様が笑顔で話しかけてきた。
「二人とも、お茶を飲む時間くらいはあるでしょう?」
「いえ、俺もアンナもすぐに帰ります。予定がありまして」
「あら。残念。ではまた今度ね」
「ブライズ様、また今度お邪魔させてくださいませ」
実際は予定など入っていなかったから内心では驚いたけれど、私はジェフに話を合わせて馬車に乗った。家に帰るのかと思ったら、馬車は違う方向に向かって進んでいく。今朝からジェフの口数が少ない。
「ジェフ? どこへ行くの?」
「ノンナがいないところで君とゆっくり話がしたい。クラークにノンナの相手を頼んだのは俺なんだ」
「そう……そうだったの。わかったわ」
御者席のリードは事前に行き先を命じられているらしい。指示を出されなくても馬車を進めている。
やがて馬車は王都の外れまで進み、外門を出てさらに進む。どこへ行くのだろうと思っていたら、野の花が咲き乱れる原っぱだった。
「ジェフ、ここは?」
「ここは、俺が子供のころによく来た場所だよ。家にいたくなくて、でもどこに行ったらいいのかもわからなくて、むやみやたらに馬を歩かせて見つけた場所だ」
父親の暴力に苦しんでいたころの話だろうか。
その話は何度思い浮かべても胸の痛むつらい話だ。
二人で野原を眺めていたら、ジェフが改まった感じに話し始めた。
「俺はランダル王国に行くことにした」
「ジェフまで? 王命で?」
「誰にも命じられていないよ。君を一人で敵地に行かせるわけにいかないから、俺の判断で行くんだ」
そんな。絶句している私に、ジェフが淡々と言葉を重ねる。
「君がマイルズをランダルに送り出したことは知っている。君は傭兵を雇った真犯人のところへ乗り込むつもりなんだろう? 兄がランダルに行くと知ってもなお、君は動いている。兄が向かった侯爵は真犯人じゃないってことか」
「ジェフ……」
「あれほど俺の前からいなくならないと約束したのに、君はサラリと約束を破る。君は俺のことをよほど頼りにならないと思っているようだ」
「違うわ! そんなふうに思ったことなんかない!」
「君は全てを一人で片付けて、何事もなかったような顔で家に戻ってくればいいと思っているんだろう?」
それには反論できなかった。
だってそれが最善の策だから。私はジェフから視線を野原に戻した。
「俺がどんなに残念に思ったか、後から事実を知ったらどれほど傷つくか、君は考えないのかい? なぜ相談しない? なぜ俺に頼らない?」
頼れるわけがない。
私が狙われるのは全てが私に原因があるのに。
愛する夫に私の尻ぬぐいをさせろと言うのか。私のせいでジェフが殺されるかもしれないのに?
これは剣を使って正々堂々と戦う話ではない。
相手を騙し、油断させ、隙を窺い、相手が狙われていることにも気づかぬうちに始末するのを最上とする、汚い戦いだ。
ジェフに向いている戦いとは思えない。
「アンナ?」
「あなたを頼らないのは、相手はおそらく工作員だから。マイルズさんにはサイラスの実家を操っている真犯人を探ってもらっているの。マイルズさんが帰ってくれば、ある程度のことはわかるでしょう。今回のことが工作員による私怨ならば、あなたを巻き込むわけにいかないわ。わかってよ、ジェフ」
「わかるわけがないよ。俺は君と一緒に生きると決めたときから、こういう事態は覚悟していたのに」
「この話はきれいごとじゃ済まないわ」
ジェフリーと出会ってから初めて、私は声を荒げた。
「軍務副大臣のジェフが他国で事件を起こせば、『これは妻に関わる私的な事ですので』では済まなくなる。あなたが加わった上で死人が出れば、アシュベリー王国とランダル王国の間で大問題になるわよ。そんな事態、私は望んでいない。私個人の問題を何百倍も大きくするのも、死人を増やすのも、お断りだわ。自分で蒔いた種は自分で刈るべきなのよ。お願い、ジェフ、あなたはこの件に関わらないで」
するとジェフは無言で私を抱きしめた。
「残念だが、俺は昨夜陛下に辞表を出してきた。いきなりは辞められないから引継ぎに時間はかかるが、俺は君を一人で敵のところに送り出してまで、軍務副大臣をする気はない。愚か者と笑う者には笑わせればいい。君を失って何十年も苦しみながら生きるくらいなら、君を守って一緒に敵地で戦う方を選ぶさ」
「だめよ。辞表だなんて。ジェフ、どうしてそんなことを……」
私を抱きしめるジェフの力がいっそう強くなった。
「アンナ。俺はもちろん死ぬつもりはないよ。生きて帰って、羊を育てて、毛糸を染めて暮らそう。だから、ランダルに行って二人で戦おう。二人で帰ってこよう。あの牧場で、老人になっても一緒に笑って暮らそう」
ありがたくて嬉しい。
けれど、あの卑怯な戦法を知らないジェフだけが命を失って、やり口の汚さを知っている私が生き残ったりしたら。そう考えるだけで耐えられない。
平凡な幸せを知ってしまった今、そんな人生に耐えて生きていける気がしない。
「君の考えがどうであっても、もう軍務副大臣は辞めると伝えたんだ。陛下がなんとおっしゃっても、もう撤回する気はない」
私は何も言わず、うなずきもしなかった。
マイルズさんがランダル王国に出かけて戻ってくるまで、最短でもあと一ヶ月半はかかる。
その一ヶ月半は、貴重な時間だ。これ以上ジェフと言い争いながら過ごしたくない。
私は何も言わず、ただ微笑むだけにした。
その日以降、私は毎日平和を大切に味わいながら過ごしている。
ノンナと二人で刺繍をし、書店巡りをし、ヨラナ様の家でお茶と焼き菓子を楽しんだ。
ジェフとおしゃべりをし、庭を歩き、羊と戯れた。
家の中を整え、荷物を整理し、身体を鍛えた。
イルと二人で武器を使った鍛錬も繰り返した。
ジェフは何事もなかったようにお城に通っている。ランダル王国に私と一緒に行く話は、あれ以降なにも言ってこない。
穏やかな日々は静かに流れ去って、ある雨の日の昼すぎにマイルズさんが我が家を訪れた。
マイルズさんも馬も疲れていた。かなりの強行軍だったのだろう。
馬係のリードがマイルズさんの馬を預かり、彼は今、我が家の居間で食事をしている。朝も昼も食べずに急いで来たから腹が減った、と笑っている。
手早く並べられた料理の数々を食べながら、マイルズさんは地図やメモをテーブルに並べた。
「大変だったでしょう。お疲れさまでした、マイルズさん」
「久々に気の張る仕事で若返った気分だよ。レッド・ロビンを名乗るあんたの情報屋は、とんでもなく優秀だな。あっという間に傭兵を五十人雇えと助言した人間をあぶり出した」
「その人物の名は?」
「マチルダ・キンバリー。まあ、本名ではないだろうとレッド・ロビンは言っていた。俺もさりげなく見に行った。俺が見た感じでは、年齢はあんたと同じくらい。本人は三十歳と言っているようだが、三つ四つはごまかしている可能性ありだ。ランダル王国の王都の住民には、マチルダ・キンバリーという三十歳の女性はいないそうだ」
「見た目は?」
マイルズさんはモグモグと口を動かしながら、一枚のメモを私のほうに滑らせた。
「身長は百六十二センチ。細身。淡い茶色の髪、目も茶色。見た目にあまり特徴はないが、色気はあった。そのマチルダ・キンバリーがサイラスの愛人だ。サイラス名義で一軒家を借りていて、同じくサイラスの名前で闇賭博場を経営している。だが、実質の経営者はマチルダだ」
「闇賭博場、ですか」
「マチルダは裏の世界でだいぶ顔が広い。サイラスはここ最近、頻繁に実家の侯爵家に出入りするようになった。サイラスが貴族の身分をはく奪されてから、十年以上も疎遠だったのにだ」
報告書を読むと、サイラスが実家に出入りするようになったのは、私がランダル王国に出かけた時期とぴったり同じだ。マチルダ・キンバリーと名乗る何者かが、観光をしていた私を見たということか。
マチルダはサイラスの身分剥奪の原因になった私を殺せ、とサイラスにたきつけたのだろう。
結果、サイラスは自分では動かず実家を頼った。
理由はわからない。
貴族の身分を剥奪されたサイラスだ。今度も失敗して自分が尻尾をつかまれれば、次は命を取り上げられると怯えたのかもしれない。
マチルダ・キンバリー。お前は誰なんだろうね。
マイルズさんが今度はマチルダ・キンバリーの住所を書いたメモを私へと押し出した。見覚えのあるレッド・ロビンの文字が並んでいる。
「マイルズさん、大変助かりました。これは今回の謝礼です」
「それはいらないよ」
マイルズさんは即座に断り、出された料理を全て食べ終えた。
「用事は済んだ。俺は牧場に帰る。羊たちのことが心配だ」
そう言って、引き留める隙も与えずに家を出て行った。
入れ替わりにイルが部屋に入ってきた。イルはさっきまでマイルズさんが座っていたソファーに腰かけて私に話しかけてきた。
「ビクトリアさん、敵が判明したんですか?」
「おおよそね」
「ビクトリアさんが行くなら俺も行きます。止めても無駄ですよ。行くんでしょ? ランダル王国に」
「お母さんが行くなら私も行く」
慌てて背後を振り返ったら、ノンナが入り口に立っていた。
今日は朝からずっと部屋で本を読んでいたのに。またあの気配を消す技を使われたことに少々腹を立てながら、私は首を振った。
「ノンナ、あなたは絶対にだめ。どうしても行くというなら、あなたを縛り上げてから出て行くわ」
「そんな!」
「とりあえず今すぐ出かけることはないから、安心してね。作戦を練らないとならないの」
そう言って私はイルとノンナを残して自分の部屋に入り、鍵をかけた。
マイルズさんが教えてくれた女の曖昧な特徴は、私が知っている多くの女性工作員に当てはまる。
だが、その中で、これほどまでに私を殺したいと思っている女性は一人しか思いつかなかった。
ハグルの工作員、メアリーだ。
メアリーは少女時代から私を嫌っていたし、並外れて執念深い性格だ。それに、メアリーなら私がサイラスの恋人役をして情報を盗んで消えたことを知っている。
だからずっとその可能性を考えていたが、レッド・ロビンの報告を読んで、やはりメアリーしかいないと思った。
「メアリーは工作員を首になった? まさかメアリーも組織を脱走した? ランコムと結婚したんじゃなかったの?」
しばらく考えたが、やめた。今ここで考えても時間の無駄だ。
私はどうやってジェフを説得しようかと考え続けた。だが、どう考えても説得できる気がしない。それに問題はそれだけじゃない。
「もし二人で死ぬことになってしまったら、ノンナは? 大切な預かり人のイルはどうする? 同行させる? 私はイルを巻き込みたくない」
この国に来たばかりのころなら。
ノンナと出会う前なら。
ジェフを愛する前なら。
以前の私だったら、迷わず今夜のうちに一人で出発しただろう。
だが、私を何重にも包んでいる平凡な幸せが、私の決断を鈍らせている。






