86 ジェフリーの胸の内
ジェフリー・アッシャーは常日頃、『同じ間違いを繰り返さない』ことに細心の注意を払っている。剣の修行でも、人間関係でも、事務仕事でも。
今、ジェフリーが神経を尖らせているのは、アンナ・ビクトリア・アッシャーが傭兵事件に関して独りで動くことである。
「彼女は家族というものに強いこだわりを持っている。今回のことで、俺とノンナを守ることに必死になっているに違いない」
アンナが恐れているのはノンナが狙われることと、夫の自分に迷惑をかけることなのは気づいている。だからこそジェフリーは何度も「勝手にいなくなるな。兄に任せろ」と言ってきた。
彼女は八歳から二十七歳まで、頼る人がいない場所で命がけで生きてきた。自分と結婚したからといって、今までの生き方を全部まっさらに塗り替えるなんて簡単にできるわけがないと思っている。
「彼女は野の鳥だ。飛ぶなと言ってもきっと飛ぶだろう。彼女を守りたいからといって、籠の中に閉じ込めたり、彼女の心の翼を折るようなことはしたくない。それでは彼女に安住の場所を用意した意味がない」
ジェフリーはアンナを自由にさせてやりたいという思いと、手の中で守りたいという相反する気持ちに悩んでいる。机の上には修道院の院長からの手紙。それを眺めながら頭の中を整理した。
最近疑問を持ったのは、羊牧場の管理人のことだった。
アンナが羊牧場の管理人を募集して応募があり、本決まりになったと修道院から連絡があった。
ジェフリーは修道院の院長が書いてよこした管理人の名前に聞き覚えがあった。
「マイルズとは、チェスターが現在住んでいるあの家にいた男ではないか。あの男だとしたら、応募してきたのは偶然か? 意図するところがあってのことか?」
城に行く前に牧場に立ち寄り、マイルズをこっそり見に行った。
間違いなかった。牧場の管理人になったマイルズは、ビクトリアが手紙を残して消えたとき、ヨラナ様の家に「ビクトリアに何かあったのか」と聞きに来た男だった。
マイルズのことはシェン国に渡って以降、思い出すことはなかったが、アンナが管理する羊牧場に彼が来たのなら注意が必要だ。
ジェフリーは軍の記録簿から、あの年代の、マイルズという名の人物を探した。あの動き、体格は軍人そのものだったからだ。
結果、マイルズはやはり元軍人で、中隊長を務めてから退役していた。記録によれば、面倒見の良い、腕の立つ人物で、上司からは信頼され、部下からは慕われていた。
だからアンナが面接をして気に入ったのなら、羊牧場の管理人になったことに反対する気はなかった。ノンナの鍛錬の相手をさせることにも異存はない。
だが修道院から再び連絡があった。
院長は羊牧場を担当しているのがアンナでも、名義人であるジェフリーにこまめに報告をしてくる。
院長の手紙では、そのマイルズが「妹の具合が悪いからしばらく休む」ということになったらしい。院長にそう伝えたのはアンナだそうだ。
念のためにマイルズを知っている退役軍人を訪問し、話を聞いた。マイルズがうちの使用人になったから、と。
マイルズの妹は王都に住んでいた。長期の休みを取るのはおかしい。
「きっとアンナに頼まれて、どこかへ出かけたのだろう。おそらくはハロウズ侯爵の件だ。やはりアンナはあの件で独自に動くつもりだ」
アンナが「エドワード様に任せる」と言いつつ自分でも動こうとしていることに、腹は立たない。
家族のために自分の命を懸けて動こうとするビクトリアがただただ愛しく、哀れだった。
「彼女は誰かに助けを求める、という道を知らず、頼ることを許されない環境で生きてきた。結婚してだいぶ変わったように思っていたが、今回の事件で、彼女の中で眠っていた過去の生き方が目を覚ましたのだろう」
彼女がどんな仕事をしてきたのか、詳しく聞いたことはない。
本人が話したいと思えば聞くつもりだが、自分から聞き出すことは厳に慎んでいる。
興味本位で聞いていい話ではない。仕事の内容を聞くことは、脱走の理由を聞くことにつながる。
それが彼女の精神的な傷をほじくり返すことになるのは予想がつく。
そんなことは絶対にしたくなかった。
「彼女はたった一人で、俺とノンナを守るために敵の中に飛び込むつもりだ」
なぜ俺を頼らないんだと悔しくもあるが、それは兄のことがあるからだろうと思った。
シェン国行きが決まったときに生まれた疑問があった。マイクは「ビクトリアさんを守るために」と聞こえるような言い方をして自分達をシェン国に送り出した。
(第三騎士団の長は、なぜそこまでして彼女を守ろうとするのだろう?)
シェン国に渡ってから考え続け、ひとつの答えにたどり着いた。
「第三騎士団の長はアンナを守ろうとしているのではない。ジェフリー・アッシャーを守ろうとしているのだ」と。
そこまで自分のことを守ろうとしてくれる権力者は二人しか思いつかなかった。
一人は当時のコンラッド第一王子。
もう一人は第三騎士団の長自身だ。
ただ、コンラッド殿下はビクトリアの正体を知る機会はなかったはずだし、他国の工作員という正体を知ったら、シェン国行きではなくビクトリアを排除する方向に動いただろう。王族ならそれが当然だ。
ならば第三騎士団の長は、なぜジェフリー・アッシャーをそこまで大切にしてくれるのか。
結論はひとつしかなかった。
第三騎士団の長は兄のエドワード・アッシャー。
そう考えれば全てつじつまが合った。
兄もまた家族愛が強く、ジェフリーをいつまでも守るべき存在のように思っている。
アンナやノンナを可愛がってくれるのは、弟の自分が愛している人間だからだ。兄は誰にでも温和に接するが、情には流されない。
いつでも理詰めで動く。家族、特にジェフリーのこと以外は。
兄が自分に役目を隠していたのは理解できる。
特殊任務部隊の人間は、親兄弟、夫婦の間でも所属を隠す。それを徹底しないと家族も自分も仲間も危険に晒される。
だからシェン国から帰って来ても、その疑問は胸の内にしまって、兄に確認することはしなかったし、アンナにも言わなかった。
そこでジェフリーに新たな疑問が湧いた。
「彼女もまた、兄が第三騎士団の長であることを知っているのではないか」
軍の反乱後、影役を終えた彼女を連れて兄の家に行った時のことをよく覚えている。
いつもは如才なく彼女とノンナに優しく話しかける兄が、なぜかそのときは彼女を見ようとしなかった。
妙な違和感を覚えて、(アンナと兄の間に、なにかあったのか?)と思った。
彼女は影役で城に二ヶ月間も住み込んでいたし、影役の依頼は第三騎士団の長からだ。なにかのきっかけで兄が第三騎士団の長だと気づいたのかもしれない。
「もしや、アンナは兄に俺のお荷物と思われることを恐れて、一人でケリを付けようとしているのか?」
一度そう考えると、それしかない、という気がした。
「なるほど」
彼女は自らケリを付けようとしている。やっと手に入れた家族を守るためだ。
それならば自分はどう動けばいいか。
彼女に対して「俺を思うならやめてくれ」「何もするな」「動くな」と縛り付けることは、愚策だ。
彼女は八歳のときから、その世界で生きてきた。
「俺の妻になったんだ、もう戦うことは許さない」と言えば、彼女は人格と人生の全てを否定されたように感じるだろう。
彼女はそういう生き方しか知らず、そういう人生だったのだから。
そこまで考えがたどり着いて、ジェフリーは眠ることにした。
アンナのためにやるべきことがたくさんあった。






