69 ノンナとミルズ
今回はノンナサイドのお話です。
ノンナが牧場に行く数日前。ノンナにヨラナ様の家の使用人が手紙を届けに来た。
庭で受け取ったのは、アシュとベリーを遊ばせていたノンナ本人だ。
「ノンナ・アッシャー様宛の手紙がヘインズ家に届きましたので、お届けに参りました」
「ありがとう。ヨラナ様にありがとうございますと伝えてください」
「かしこまりました」
差出人は見なくてもわかる。
封筒の裏には『M』としか書いていないが、ヨラナ様経由で手紙を出す人は、ミルズしかいない。
便箋には時候の挨拶もなく、いきなり日付と本文が書かれていた。
『この日に休みになった。緊急の用事が発生しない限り、夕方まで自由。もし都合がつくなら、十二時に広場の池のところで待っている。一時間待っても君が来なければ、他に行く』
「来なければ帰るって、うーん」
ノンナは楽しみにしていたが、指定された日の前夜、ジェフリーに『だめだ』と言われてしまった。
『行けなくなった』と伝える方法がない。チェスターに連絡を頼んでいいかどうかもわからない。
父と母に頼めば、ミルズが注意を受けるのは想像がつく。鍛錬をするだけなのに、なぜ頭ごなしに禁止されるのか。
マイルズとは鍛錬してよくて、ミルズとはだめな理由はなんなのか。
ミルズが第三騎士団だからだろうが、(第三騎士団に入れと言われたわけじゃないのに)と思う。
ジェフリーの口調から、逆らわないほうがいいと感じて「わかった」と言ったが、本当は納得していなかった。
「私の友人は私が決める」
ノンナは初めてジェフリーの指示に逆らうことにした。
マイルズとたっぷり武器無しの鍛錬をし、汗を拭って牧場を出る。
平民風の白いシャツと黒いズボン姿のノンナは、金色の三つ編みをキャスケット帽の中に入れ、駆け足に近い早足で広場へと向かった。
ミルズは黒いシャツに濃い灰色のズボン。明るい茶色の髪は後ろに撫でつけて額を出していた。
『あの日』に黒いニット帽を被っていたときとは別人のようで、その辺にいる普通の若者に見える。
「どうする? すぐに鍛錬するか? 腹が減ってるなら何か食べるか?」
「食べる! 知らないお店に入ってみたい」
「ああ、いいぞ。じゃあ、俺が気に入っている店に行こう」
ミルズはノンナを平民だと思い込んでいる。
そもそもビクトリアのことも平民だと思っていた。
子爵夫人が『第三騎士団の仕事を臨時で手伝って王妃殿下の影を務める』なんて事態は想像もしていない。
ノンナと会うと言えば叱責されそうだから、マイクと部長には報告していない。
(鍛錬するだけだし)と自分に言い訳をして出てきた。心の何割かはノンナに会ってみたいという気持ちに占められていたが、その気持ちから無意識に目を逸らしていた。
平民が住んでいる南区には種々雑多な店がひしめき合っている。
ノンナは六歳までは南区に住んでいたが、ほとんど家から出ないで暮らしていたし、ビクトリアに保護されてからは貴族の街である東区で育った。
南区に来るのはビクトリアと一緒に大通りで買い物をするときだけだったので、こんなふうに自由に歩くのは初めてだ。
ミルズはさっさと南区の商店街の路地に入って行く。裏通りの奥の奥を歩きながら、ノンナは大興奮だ。
(わっ! この串焼き屋さん美味しそう)
(ああっ! この甘い匂いの屋台はなんのお店だろう)
(この屋台の煮込み、食べてみたい!)
労働者向けの格安の店が並んでいる中の一軒にミルズが案内する。
「ここ。先輩に連れて来たもらった店。安くて量が多くて旨いんだ」
「へえ!」
貴族の子女には絶対に縁がなさそうな店だが、ノンナは胸が躍る。
「こういう店、好きかい?」
「うん。大好き! 気取っているお店より好き」
「そうか。よかった」
女の子と食事をするのが初めてのミルズはホッとする。
二人で分け合って煮込みや小麦粉の皮で巻いた焼肉、果実水を頼み、最後に鉄板で焼いたリンゴに砂糖をかけたものも食べた。
二人ともこれから鍛錬をすることを考えて満腹するまで食事を詰め込むことはしない。
「よし、じゃあ、腹ごなしに歩きながら、鍛錬場所に行こうぜ」
「いいよ」
「近道するけど、いいか? 塀を乗り越えるけど」
「いいよ」
ノンナはニヤニヤしたいのを我慢しすぎて無表情になっている。こんなに楽しいことはシェン国を出て以来久しぶりだ。スバルツの森に行ったときと同じくらい興奮している。
二人は行き止まりの路地で塀を乗り越え、民家の裏庭を歩き、また塀を乗り越えて……そこでノンナが動きを止めた。
「ミルズ、聞こえた?」
「ああ、女の悲鳴だな。どっかの馬鹿亭主が女房を殴っているのかもな」
「助けないの?」
「今だけ助けてどうする。俺たちがいなくなったら元通りなんだぞ?」
「でも」
そこでまた細く高い女の声がはっきり聞こえた。
「やめて! やめてよ! フレッドが死んじゃう!」
女の悲鳴に続いて複数の男が笑う声。
ノンナが責めるような視線をミルズに向ける。ミルズは(仕方ない)という表情でため息をひとつつき、じめじめした裏庭から、その家の二階へとよじ登る。
ノンナも続いて廂に飛びつき、よじ登った。
二人でそのまま三階の屋根まで登って、声がする部屋の上まで移動する。耳を澄ませると、まだ女性の悲鳴と男たちの声が聞こえる。
「ノンナは、どうしたいんだ?」
「窓から中に入って、女の人を助ける」
「フレッドってやつはどうするんだよ」
「フレッドを助けるのはミルズだよ」
「ええ? はあ。まあいいけど。ノンナ、武器は?」
「持ってないけど、なんとかなる」
「嘘だろ?」
「嘘はつかない」
ニヤッと笑って返事を待たず、ノンナは屋根の上から流れるような動作で三階の窓の上の廂に下り立ち、さらにそこから声のする二階の窓の廂に下りた。
「おいっ」
小声で呼び止めたがノンナは動き続けている。
(二人同時のほうがいいか)と考えて、ミルズもすぐに後を追う。
ノンナはハンカチを半分に裂き、片手と歯を使って両手に巻き付ける。
『ガラスだけが割れて窓枠が開かない場合は、こうやって手の怪我を防ぎながら割れたガラス部分から手を差し込み、掛け金を外す』
これはチェスターに教わった知識だ。
「足で窓を蹴破って中に入ろうよ。ミルズ、いい? 三、二、一、今!」
いいかと聞いておいてミルズの返事を待たず、ノンナが二階の窓の廂にぶら下がり、身体を振って勢いをつける。ノンナが足先で窓ガラスを割って中に飛び込んだ。二秒ほど遅れてミルズも隣の窓を割り、足から飛び込む。
「なんだおまえら!」と飛び掛かってきた四人の男を、二人はなんなく素手で倒した。
ノンナが女性を、ミルズが男性の手を引っ張って逃げ出す。
女性の足は遅く、フレッドという男もモタモタと遅い。
倒した連中の仲間とおぼしき男が二人、どこからか現れて追いかけてきた。ノンナとミルズはそれを待ち構えて対峙したが、男たちはナイフを振り回した。
ミルズもナイフを取り出したが、助けたフレッドが「やめてくれっ! 人殺しは重罪だ。俺は逃げられればそれでいい!」とミルズにしがみついて反撃の邪魔をする。
ノンナは「自分が殺されそうなとき以外は人を殺すな」というビクトリアの教えを守っていたので、相手を失神させるだけにしていたが、ナイフの持ち主は本気だ。フレッドにしがみつかれたミルズは「やめろっ! 離せ!」と叫んでいる。
「危ない!」
叫んだのは助けた女性で、ノンナはミルズを助けるために、無言でナイフを振りかざす男の前に飛び出し、相手の腹を蹴る。
「ぐえっ」と声を出し、男が倒れた。ナイフで切り付けてきたもう一人の男は、ノンナが肘を胸に入れて倒した。
「さあ、逃げよう」
ミルズが声をかけ、再び四人で逃げ出したのだが、途中で女性が足を止めた。
「私、やっぱり家に帰る。駆け落ちは中止にしましょう。フレッド、あなたも一緒にうちに来てよ。真剣に父さんに頼めば、きっと私たちの結婚を許してくれるわ。駆け落ちなんかしなくても、あなたの借金も父さんがなんとかしてくれるわよ」
「だめだ。借金がある俺なんか、君のお父さんが許すわけがない」
「でも、一度は頑張ってみましょうよ、私も頼み込むから」
というくだりがあって、ノンナとミルズは念のために二人を大通りまで送り届けることになった。
女性の家は王都ではなく、王都の外門を出てしばらく進んだ場所にある農家だという。
「助けてくれたお礼をしたいから、一緒に来て」
「いや、俺たち、お礼はいいよ。これから用事が……」
「お願い。あいつらがまた追いかけてくるかもしれないもの。それにフレッドは長い時間、殴られたり蹴られたりしたの。途中で動けなくなったら私ひとりじゃどうにもならないわ。なによりも、フレッドがどんな目に遭ったか、父に話してほしい。父もフレッドが命を取られそうだったと聞いたら、助けてくれる気がするの。お願いします」
女性に頼み込まれて断れず、「どうする?」「まあ、仕方ないから行こうか」と二人でやり取りしているうちに女性が馬車を呼びとめた。
王都の表通りから四人は馬車に乗り、女性が「フィッテ村までお願いします」と行先を告げた。
「フィッテ村……?」
「ええ、私の父はフィッテ村の村長なの。領主様の代理として、近隣の農民を束ねているのよ」
「ふうん。すごそう」
ノンナがそう言うと、「我が家は大きい農家なの」と女性は誇らしげだ。最初から気づいていたが、女性は農家の娘と聞いて驚くぐらいに上等な服を着ている。
(シェン国で住んでいたあの家のように大金持ちなのだろうか)とノンナは考えた。
「ノンナ、フィッテ村は行くだけで三時間はかかるぞ? お前の帰りが遅くなる」
「ここで帰ってなにかあったら嫌だよ。あいつらが追いかけてくるかもしれないよ? 二人を届けたらすぐに帰るよ」
「えええ」
「帰ったらきっと叱られるだろうけど、いいよ。この人たちをちゃんと最後まで助けたい」
「ノンナのお母さん、厳しいのか? 厳しそうだよな」
「んー。普段はすごく優しいけど、今回は怒る、かな」
そんなやり取りを見ていた女性が自己紹介する。
「名前も名乗らないままで、ごめんなさい。私はロザリーよ。あなたたち、すごく強いのね」
「まあね」
四人で馬車に乗ったのだが、話はここで終わらなかった。
出発してから二時間くらい過ぎた場所で、フレッドが腹を押さえて呻き始めた。
前屈みの姿勢で声も出せない様子。
フレッドが「内臓をやられたのかも」とつぶやき、ロザリーが「どうしよう。フィッテ村には医者がいないのに」と慌てた。
結局、馬車は王都に引き返すことになった。
※………※………※
チェスターに「ノンナはミルズと一緒に我が家にいます」と連絡を入れて、ビクトリアとジェフリーは二人を前にして話を聞いている。
「それで、王都の病院を探して行ったんだけどさ。もう夜だから門前払いされちゃったり、お金を前払いしろってすごく高い値段を言われたりして、なかなか診てもらえなかった。ロザリーもそんな大金は待っていないって言うし。診てくれる病院を探してたら、こんな時間になったの」
「フレッドという人は、どうなったの?」
「大丈夫だった。でも、ロザリーが『フレッドが死んだらどうしよう』って泣いてるから、最後まで付き添ったよ。ミルズはもういいから帰れって私に言ってくれたけど、フィッテ村に行こうと言い出したのは私だから。私が先に帰るのはずるいと思ったの」
ミルズは恐縮した様子でうつむいていている。ビクトリアは、諭すような口調で話し始めた。
「ノンナ、内臓を傷つけられるほど殴ったり蹴られたりした人は、普通、すぐに走って逃げたりできないものなのよ。うずくまって浅く息をするのが精一杯になるの」
「うん?」
何を言われているかわからない様子のノンナに、ビクトリアが説明する。
「フレッドっていう男の人、仮病じゃないかしら」
「なんで仮病なんか使う必要があるの?」
「借金を抱えている男。金持ちそうな女。殴ってたやつらはフレッドの仲間かもね」
ノンナが心底驚いた表情になる。ジェフはずっと渋い顔だ。
「まさか。なんでそんなことするわけ?」
「ミルズはどう思う?」
「医者に診てもらったあと、スタスタ歩いて出てきたから、おかしいと思いました。でも、これ以上関わるのは避けたいと思ったので、ノンナには言いませんでした。すみませんっ」
無言だったジェフリーが初めて口を開いた。
「ノンナ、フレッドは歩けたのか……」
「うん。『安静にしろと言われた』って言ってたけど、歩いてた」
「なるほどな」
ノンナが真剣な表情で私に尋ねる。
「お母さん、もし、フレッドとあいつらが仲間だったら、ロザリーはどうなるの?」
「今頃、ロザリーはフレッドの仲間のところに連れて行かれてるかもね。フレッドは駆け落ちする気なんかなくて、最初からロザリーの家のお金が目当てで彼女をそんな場所に呼び出したんじゃないかしら。お母さんはそんな気がするけど? でもね、ロザリーを殺したらお金を手に入れられないから、殺されることはないわよ」
そこでビクトリアはミルズの方を向いた。
「この家まで来た以上、ミルズに私の正体を知られてしまったわね」
ミルズはいっそう下を向き、ノンナは自分の大失敗を自覚した。






