65 ジェフリーの帰還
早馬の知らせから十日ほどして、使節団が王都に戻ってきた。
夕方には使節団が城に入った、という知らせをくれたのはエバ様。外務大臣である旦那様からの情報らしい。
「お母さん、お父さんが帰ってくるの、遅くない?」
「そろそろじゃないかしら。もうすぐ帰って来るわよ」
そして一時間もするとまたノンナが不満そうに話しかけてくる。
「遅いよね? お母さん、お城まで迎えに行こうよ」
「行き違いになるから、家で待ちましょう」
そんなやり取りを何回も繰り返し、夕食の時間もとっくに過ぎたころ、やっとジェフが家に帰ってきた。疲れた顔のジェフに抱き着いて思い切り抱きしめると、ジェフが私よりずっと強い力で抱き返してくれる。
懐かしいジェフの匂いに包まれて、ずっと胸の中に居座っていた硬いなにかが消えていく。
「ただいま。帰って来たよ」
「おかえりなさいジェフ。無事でよかった。本当によかったわ」
「話し合いは思ったより平和に終わったよ。もっとも、どんな事態になったとしても、俺は生き残って帰ってくるつもりだったけどね」
「そうじゃなきゃ困ります」
私とジェフを抱えるようにしてノンナが抱きついてきた。
「お父さん、おかえりなさい」
「ただいま、ノンナ。いい子にしていたかい?」
「うん。だいたいはいい子にしてたよ」
「そうか、だいたいいい子だったなら十分だ。兄上にもお礼を言いに行かないとな」
「うん。エドワード伯父様のお屋敷に行くなら、帰りにクラーク様のおうちに寄ってもらえないかな。クラーク様は元気なんだよね?」
「安心しなさい。元気にしているよ。クラークはとても頑張っていた。国のために大いに役立ったんだ」
「そうなの? よかった!」
ノンナが目を閉じて「ほうぅっ」と息を吐く。
いつもはクラーク様に対して『強気な妹』みたいな感じなのに。クラーク様の無事を喜ぶ姿は、少しだけ乙女な雰囲気が漂い出ている。
「クラークはもう立派な文官だったよ。通訳に立候補しただけのことはある。スバルツ側と戦争にならずに済んだのは、クラークの手柄も大きいんだ。一触即発の雰囲気も何度かあったが、クラークがスバルツの習慣や言い回しにも詳しくてね。相手側の意図を汲んで、正確に通訳してくれた。おかげでアシュベリー側もスバルツ側も、冷静に話し合いができたんだ」
「そうなの? すごいね、クラーク様」
「ああ。スバルツ語に堪能なだけじゃなくてね。他国の文化の知識が豊富な、優れた文官だった」
「はわわぁ。かっこいい」
私に見られていることに気がつかず、ノンナがうっとりした顔になっている。そんな表情も可愛いこと。
「ジェフ、エドワード様にお礼を言いに行かなきゃね。明日にでもご挨拶に行きましょうか」
「そうだな。兄上とは城でも顔を合わせていないんだ。ノンナを預かってもらったし、明日と言わず、今からみんなでお礼を言いに行こうか」
「ええ、そうしましょう」
「おばあさまに会いたい!」
「兄弟なんだ、先触れもいらないよ。すぐに行こう」と言うジェフの意見で、私たちはエドワード様のお屋敷を目指した。
◇ ◇ ◇
「お帰り、ジェフ。無事でなによりだ」
「帰って参りました、兄上。ノンナがお世話になりました」
「いや、助かったのは我が家のほうだ。ノンナのおかげで、母上の調子がずいぶん良くなったんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。見たら驚くぞ」
出迎えてくれたエドワード様は、はっきりとお疲れのご様子。あれだけの騒ぎがあったのだ、特殊任務部隊の長ならば山ほどやるべきことがあるに違いない。
私に対しては、以前と全く変わらない態度なのはさすがだ。私もエドワード様の本当の仕事に気づいたことは、おくびにも出さないように注意している。今のところは敢えてこちらから動く必要はない。それに、私はエドワード様に守られてきた。
私が受けた恩恵の大きさを忘れてはいない。
そう思っていると、背後から声がかけられた。
「ジェフ。お帰りなさい」
「母上! 起きても大丈夫なんですか? いや、歩けるようになったんですか?」
杖をついたコートニー様が、ブライズ様に支えられながらゆっくり歩いて部屋に入ってきた。
(歩けるようになってる!)と私も驚いた。
「おばあさま! お会いしたかった! お出かけしたまま家に帰ってごめんなさい」
「いいのよ、ノンナ。大好きなお母さんが帰って来たんですものね。ジェフ。国のお役に立てたのね。母として、誇らしいわ」
「母上、驚きました。いつの間に歩けるようになったんですか?」
「ふふ。全部ノンナのおかげよ。この子がせっせと私の遊びの相手をしてくれたから、いい運動になったの。椅子に座ったままノンナと毎日運動してたらね、どうにか立てるようになって、立てるようになったら欲が出たの。歩きたくて、ずいぶん頑張ったのよ」
ジェフがコートニー様に寄り添い、そっとソファーまで誘導して座らせた。
「母上。ずいぶん努力なさったんですね。それに会話が……とても滑らかだ」
「そうね。以前のように頭の中が混乱することも少なくなったの。不思議ね。歯車が全部上手く嚙み合って、前に向かって動き出したような、生まれ変わったような、そんな気分よ」
ジェフが目を潤ませてコートニー様を抱きしめている。見ている私まで胸が熱くなる。ブライズ様も目を潤ませていらっしゃる。
「ブライズ様、娘を預かっていただいて、ありがとうございました」
「私はなにもしていないのよ。小さな淑女さんは、とてもいい子にしていたわ。その上、お義母様の運動の相手をしてくれて。ノンナは優しい子ね」
「はい。この子は自慢の娘です。ですが、お義母さまがノンナと遊べるような状態を維持していられたのは、お義母様とブライズ様の努力の積み重ねですわ」
「そんなことはないのだけれど、そう言ってくれてありがとう」
アッシャー伯爵家の使用人がお茶の用意をしてくれて、焼き菓子が何種類も並べられている。私たちは香り高いお茶を飲みながら、ジェフからスバルツでの話を聞いていた。
ジェフの話がひと区切りついたところでブライズ様が笑顔で私に話しかけてきた。
「アンナさん、そういえば二か月も帰ってこられないお仕事って、どんなお仕事でしたの?」
「デルフィーヌ様のランダル語のお相手です。私はランダル語が得意なものですから」
「まあ、妃殿下の語学のお相手を? 素晴らしいわね」
いつか必ず質問されるだろうと、用意しておいた答えが役に立った。ブライズ様が私の生まれ育ちをどこまでご存じかわからない以上、最小にして必要限度で答えるのには、この答えが最上の策のはず。
エドワード様からの視線を感じるが、そちらは意識して見ないようにした。
私はエドワード様の役職をジェフに告げる気はない。
過酷な家庭環境で支えあって生き延びてきた兄弟の仲を裂いてまで、知らせる必要はない。どうしてもジェフに話す必要が生まれたら、その時に判断すればいい。
ブライズ様は、おっとりした性格であり、お育ちなのだろう。「デルフィーヌ様のお相手をするのに、なぜ通いではなく住み込みだったの?」と聞かれたら少々困ったところだが、私が説明した以上のことを深掘りすることもなく、納得してくれたようだ。
「そういえば兄上、城での騒動は全て解決したのですか?」
「ああ、その件は今はまだ話題にしないほうがいい。いろいろと差し障りがある」
「そうですか、わかりました。兄上も少しお疲れのようですから、私たちはそろそろ帰ります」
ジェフはエドワード様がブライズ様にさえ言えない事情があることを、すぐに理解したらしい。
私たちは互いに挨拶を済ませ、アッシャー伯爵家を後にした。
ブライズ様には「アンナさん、またいらしてね」と言われ、お義母様には「ノンナを連れて来てちょうだい」と言われて笑顔で別れた。
馬車に乗り、さあ次はアンダーソン家だ。ノンナがそわそわしている。
貴族の家は東区に集まっているから、アンダーソン家も比較的近い。ノンナは馬車が到着すると、自分でドアを開けて飛び降り、ものすごい速さで走って行く。
速い。見ていて笑ってしまうほど、ノンナの駆け足は速い。
「ノンナ! ちょっと待って!」
「いいよ。好きにさせてやろう。ノンナはきっと、クラークのことをずっと心配していたんだろう」
「そうでしょうけど。相変わらずあなたはノンナに甘いわね」
私とジェフが歩いて行く前方で、アンダーソン家のドアが開いた。出てきたのはクラーク様だ。ノンナは猛烈な勢いのままクラーク様に突進し、抱き着いた。
「ああっ!」
ジェフの口から思わず悲鳴が出た。
こうなるだろうと思った通り、クラーク様は全力で飛びついたノンナの勢いに負けて、後ろのドアに勢いよくぶつかった。
私のところまで「ゴンッ!」という音が聞こえてくる。クラーク様の頭にコブができたに違いない。
申し訳ございません、クラーク様。
クラーク様は痛むであろう頭を気にせず、自分に抱き着いているノンナを見下ろしている。そのお顔が驚いていて、見ている私まで甘酸っぱい気持ちになる。
そしてクラーク様の両腕が、ノンナを抱きしめ返していいものかどうか迷った心を表している。中途半端にノンナの背中に回される形ではあるが、ノンナには触れないままだ。
「お帰りなさいませ、クラーク様」
「ただいま帰りました、先生」
「クラーク、頭は大丈夫か?」
「頭? ああ、そういえばぶつけましたね。大丈夫ですよ。ノンナ、ノンナ? ここでドアを塞いでいたら、叔父さんたちが家に入れないよ」
そう言ってクラーク様がノンナの肩をつかみ、そっとご自分の身体から引き離した。それからぎょっとしたお顔に。
「あっ、ノンナ。大丈夫だよ。僕なら怪我もないし、こうしてちゃんと帰って来たじゃないか」
「ふえっ……よかった。戦争にならないで……よかった……ふええええん」
いったん引き離されたノンナが、またクラーク様の胸にぐりぐりと顔を押し付けて大泣きだ。少し待とうかと思ったけれど、ジェフが苦笑しながらノンナに話しかけた。
「ノンナ、クラークが困ってるから。淑女は大泣きして相手の服に鼻水をくっつけたりしないものだぞ」
「あっ!」
慌ててノンナがクラーク様から離れたが、ちょっと手遅れ。
「ごめんね、クラーク様。鼻水つけちゃった」
「いいよ。気にしないよ。さあ、どうぞ中に」
ドレスの袖で涙と鼻水を拭おうとしているノンナに素早くハンカチを渡す。ノンナがきまり悪そうな顔で、頬の涙を拭き、鼻の下を押さえている。
「えへ」
「涙であれ、鼻水であれ、袖で拭くのはやめなさいと言っているのに。もう」
「今だけ、ついうっかりしただけ」
「さ、可愛い淑女になってね」
「任せて。できる」
目の周りを赤くしたノンナが、深呼吸していると、エバ様が華やかな笑顔で出迎えてくれた。
「お帰りなさい、ジェフリー。久しぶりね、ビクトリア。さあ、入ってくれる? 大変なニュースがあるの。聞いたら驚くわよ」






