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6 私の翼 

 アシュベリー王国に戻って来て、ひとつだけ悶々としていることがある。

 夜、ふらりと一人で黒ツグミに行けなくなったことだ。今だって黒ツグミの隅の席で暗号解読成功の興奮を噛み締めたくて仕方ない。


 私は幸せで家庭も平和で、かつての知り合いの方々とのお付き合いもうまくいっている。不満なんてない。

 だけど日が暮れた後のふとした瞬間に(黒ツグミに行きたい)と思ってしまう。

 黒ツグミにいる時、私は母でもなく妻でもない、ただのビクトリアになれる。グラスに注がれたいつもの蒸留酒を飲むと、最初のひと口を飲んだ瞬間から、普段は畳まれている背中の羽がゆるゆると伸び広がる気がするのだ。


(だけどそれは、いくらなんでも欲張り過ぎね)


 私は自分の部屋の窓際に立ち、空が濃い灰色から紺色へ、そして黒へと染まっていく様を眺め続けた。

 他人の視点に立って『夜遅くに家族を置いて酒場に行き、強い酒を飲む子爵夫人』を想像してみる。


(ありえない。どんな不良夫人よ)

 頭を振って黒ツグミのことは忘れることにした。

 だけど今も耳の奥にバーナード様の言葉が残っている。


『もう行けないだろうと思うと残念だよ。子どもの頃からの夢だったのに』


 いつか行こう、いつかやろう。そう思っているうちに、人生は流れ去って行くのだろう。私の砂時計の砂は、あとどのくらい残ってるのだろうか。


「お母さん?」

「はい? あらノンナ、いつからそこにいたの?」

「さっき。お母さんたらランプもつけずに空を見ているから心配になった。何か悩み事?」

「悩み事なんて何もないわよ」

「ふうん。それならいいけど」


 ノンナがテーブルに近づき、本を持ち上げて、私が書いた暗号の解読結果を覗き込んだ。

「え! 暗号が解けたの? やっぱりあの綴りの間違いは暗号だったの? さすが元工作員!」

「声が大きい!」

「すぐにバーナード様に教えてあげるんでしょう?」

「そのつもりよ。バーナード様は長年あの本の謎を解きたがっていらしたのだから」

「私も行く! いいでしょう? ねえ、お母さん! お願い!」

「う、うん。でもね、聞いてノンナ。暗号って人に知られたくないことに使うものだから、知らない方がいい場……」

「やった! わくわくする。シェンを出てからずっと退屈してたんだもん」


 ◇ ◇ ◇


 翌日、私の報告を聞いたバーナード様は大喜びなさった。

「ビクトリア、たった数日だぞ? 本当に暗号を解読したのか」

「たまたま運良く気付いたんです。それと、まだ冒頭のメッセージの部分しか読み解いていません。これから著者がどこで王冠を見つけたのか、本をじっくり読んで調べようと思います」

「その解読作業に、私にも参加させてくれるかい?」


 バーナード様の目が輝いていらっしゃる。


「もちろんです。一緒に解読しましょう。でもバーナード様。とても簡単な暗号なのに、百年間、誰も解けなかったなんて不自然な気がしませんか?」

「いや、それは私でも説明できるよ」


 バーナード様がおっしゃるには、この本が書かれた当時の本は専門職が手で書き写す高価なものだった。

『失われた王冠』が紙の本になって大量に売れたのは、書かれてから三十年後。つまり今から七十年ほど前だ。その頃にはこの羊皮紙の本は著者の直筆本ということで、既にかなり高い値が付けられていたのだそうだ。この本は裕福な収集家の手により大切に仕舞い込まれていたらしい。

 と、いうことを説明してくださったバーナード様ご自身も、購入してから二十年間秘蔵していたのだとか。


「なるほど。ここまで本の所有者は数人しかいなくて、暗号の存在を疑う人も解読する人もいなかったのですね」

「その通り。本は人に読まれてこそだから、この本にしてみれば不本意だったろうがね」


 そこから私とバーナード様の二人で隠されたメッセージの先を読み解く作業に入った。ノンナは記録係だ。一気に進めず、毎日少しずつ楽しみながら進めることにした。それ以外の時間は、私の本来の仕事である助手として働いた。

 バーナード様は暗号の解読が楽しみで仕方ないとおっしゃって、私とノンナが通って来るのを楽しみにしていらっしゃる。

 三人で毎日少しずつ暗号を読み解く時間は、ずいぶん楽しいものだった。


 時間をかけた解読の結果、やはりバーナード様が推測した通り、小説の舞台はアシュベリー王国の西のシビルの森だとわかった。

 暗号は王冠に至る道のスタート地点だけが書いてあり、その先は現地に行かないとわからない仕組みだった。


「さて、ここからが本題だな。ビクトリア、失われた王冠とはなんだと思うね」

「何かとても貴重な物の例えでしょうけど、私には想像がつきません」

「あれ?王冠は王冠じゃないんですか?バーナード様」

「ノンナ、考えてごらん。王冠を盗んで森に隠したんでは意味がない。普通なら収集家に売るか、宝石を剥がしてから鋳潰して金塊にするよ」

「ふうん」

「バーナード様、私はこの看病してくれた王女様という女性が誰なのか気になります」


 ぴたりと動きを止めたバーナード様が口のなかでぶつぶつと何かつぶやいている。

「待て。待て待て待て。今から百年前。王女。まさか、そういうことか?」


 バーナード様が棚から厚紙の箱を持って来た。箱の側面には『第五王女カロライナ』と貼り紙がしてある。バーナード様が箱から分厚い紙の束を取り出した。


「この王女というのはもしかするとカロライナ第五王女かもしれん。百年と少し前のアシュベリー王家の系統図には第五王女カロライナがいたのだ。十五歳までは記録があるのだが、翌年書かれた系統図からは消えているんだ。だが、どこを探しても死亡の記述がない」


 高名な歴史学者は本当にいろんなことをご存じだわ。


「ビクトリア。ここまでわかっただけでも私は大満足だよ。『失われた王冠』がカロライナ王女に結びつくかもしれないなんて、夢がある。いやあ、実に面白い」


 バーナード様が夢見がちなお顔になっている。暗号が解けたことがよほど嬉しいらしい。

 夕方になったので、私たちは心地よい疲れを感じながら家へと帰った。楽しく歩いて家に到着すると、ジェフリーが出迎えてくれた。


「お帰り。伯父のところに行ってたんだろう?」

「ええ。バーナード様から結婚祝いに頂いた古い本があったでしょう?あれにはやはり暗号が隠されていたの」

「隠されてたのって、もしかして、君、解読できちゃったのか?」

「ええ、まあ。簡単な暗号だったから」

「簡単て」


 ジェフリーは苦笑しているが、その表情が少しだけ心配そうに見えた。


「お父さん、すごかったよ。バーナード様とお母さんがどんどん暗号を解いてたの。私、ずっとドキドキしながら記録してた!」

「それで? 王冠の場所を特定して、まさか君に王冠を探して来いって?」

「そんなことはおっしゃっていないわ。私も子爵夫人の仕事があるから行く気はないから。安心して」


 この話はここで終わったと思っていた。

 だけどその夜、さあ眠ろうという段になってジェフリーがその話をし始めた。ランプを消した暗い寝室で、彼が静かに話しかけてきた。


「アンナ、君、本当は小説の舞台になっているところに行きたいんじゃないのか? そして王冠を探し出したいんじゃないのかい?」

「そんなことないわ。私、やっとハグルの組織から抜けられたのよ? そのために五年もこの国から離れたわ。その前は転々と住む場所も変えて落ち着かない暮らしをしてた。ノンナにも苦労させて寂しい思いもさせたわ。今になって工作員みたいなことをする気はないの」

「本当に? 君は嫌々仕事をしていて組織のエースになったの?」


 返事ができなかった。

 私は工作員の仕事自体は嫌いではなかったし、今だって嫌いじゃない。組織から逃げたのは、人生の全てを組織に捧げて働く理由がなくなったからだ。そしてノンナとジェフリーに出会った。

 その時その時で最良と思う選択をしてきた結果が今なのだ。

 なんと答えようかと考えていたら、ジェフリーが驚くようなことを言い出した。


「三人で行ってみるか? 小説に書かれている場所へ」

「どうして。あなたには子爵家当主の仕事が」

「当分ないんだよ。船が着くのは一年後。シェン国産の薬なら、これから使う分をたっぷり船で運んできた。家族旅行に行くくらいの時間の余裕はある」

「でも、シビルの森の奥なのよ。あなたにとってつらい記憶がある辺りだわ」


 ジェフリーが仰向けだった身体を私の方に向けるのがわかった。声が私の顔の近くから聞こえた。


「アンナ、君はいい夫婦ってなんだと思う?」

「いい夫婦って、仲がいい夫婦じゃないの?」

「君は八歳で家を離れた。俺は愛情のかけらもない夫婦の子どもに生まれた。俺たちは二人とも良い夫婦がどんなものか、育つ時に見ていない。だから俺は君と結婚した時に散々考えたよ。俺は君とどんな夫婦になりたいかって」


 ジェフリーがまた上を向いた気配がした。


「私は……あまり考えてなかった。ノンナをちゃんと育てなくちゃとしか。あなたに再会できたあとは、やっとあなたと一緒に暮らせる、もう逃げ回らなくていいって。それだけでもう、十分幸せだったから」

「俺はね、君に笑っていてほしい。それだけだ」

「たったそれだけ?」

「君はずっと人に頼らずに生きていた。自分の翼で飛べる野の鳥みたいな人だよ。俺はその翼を折りたくないんだ。好きな時に羽ばたいて空を飛んで、笑ってる君を見ていたい」

「ジェフ、でも」

「子爵夫人だとか、妻になったからとか、そんなことを気にして縮こまるなよ。俺が惚れた君は強くて賢くて優しくて、何よりも自由な人だ。行こうよ、君が行きたい場所へ」


 私はジェフの言葉に感動して泣きそうになった。ジェフリーの太い首に両腕を回しておでこを彼の頬にくっつけた。

「私、あなたと一緒に生きていけることが今、とても誇らしい」


 声が震えてしまった。

 この人に出会えてよかった。そう思ったことが今まで何回あったことか。だからこそ私は慎重に行動しようと思った。


「でも、失われた王冠を探しに行くのは少し考えさせて。本当に行きたいかどうか、考えたいの」

「もちろんだ。君が行きたくなったら行こう。ただこれだけは忘れないでくれ、君は自由に生きていいんだよ」

「ありがとう。実は、行きたい場所が近くにあるの」

「もしかして、シェンに行く前に通ってた酒場かい?」

「あっ」


 ジェフリーはお見通しだった。


 

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