51 デルフィーヌ王太子妃
「これがデルフィーヌ様の明日の日程です。ケイトには全て付き添ってもらいます」
「かしこまりました」
昨夜、侍女長のエリーさんに紙を渡された。
ケイトと名乗っている私は、渡された日程表を頭に入れてからエリーさんに返した。
今の時刻は朝の六時。デルフィーヌ様起床のお時間だ。
私の部屋はデルフィーヌ様の隣の使用人用の小部屋。ドアは二つ。デルフィーヌ様の部屋に通じるドアと、通路に繋がるドア。通路に出る前に小部屋を通らねばならないのは、賊の侵入を少しでも防ぐのが狙いだろう。
私は朝食と着替えを済ませ、いつでもデルフィーヌ様の前に出られる状態だ。
ガラスのベルの音を聞いたらすぐ動けるよう、耳を澄ませながら自分に与えられた部屋をまた眺める。隠し扉なし。壁と天井に覗き穴なし。三階にあるこの部屋の窓の外は地表まで庇も梁もない。手をかける凹凸のない石の壁が地面まで続いている。
「本日最初の公務は十時に総務大臣との会議。十二時に公爵夫人ベアトリーチェ様との昼食会、十五時に三大侯爵家夫人たちとのお茶会。十九時にご家族での夕食、ね」
デルフィーヌ様には男児がお二人。
十歳のオスカー様と七歳のルーカス様。二人の殿下に私はまだお会いしたことがない。
チリリンとガラスのベルが鳴った。背筋を伸ばし、ノックをしてからドアを開けて部屋に入る。
「おはようケイト。あなたは髪をまとめられる?」
「はい」
「ではお願い。あまりきつく引っぱらないでまとめてくれるかしら」
「かしこまりました」
ツヤツヤの金髪を丁寧にブラッシングしてまとめ、ひねりながら高い位置で結い上げる。ピンの数はなるべく少なく。頭皮に負担がかからないよう、ゆったり目に。
もう一人の侍女がその間に薄く化粧を施し、もう一人の侍女は肘から先を丁寧に香油でマッサージしている。
三人がかりの準備が終わると、デルフィーヌ様がスッと立ち上がる。再び三人で着替えを手伝い、私は朝食の部屋まで付き従う。
「お母様!おはようございます」
「おはようございます」
「おはよう、オスカー、ルーカス。いい夢は見られたのかしら?」
「夢は見ませんでした」
「僕も」
お三方が着席したのを見計らったかのように、王太子のコンラッド殿下が入室される。相変わらず整った美しいお顔だ。ご両親が絵から抜け出てきたようにお美しいので、オスカー様もルーカス様もお人形のように可愛らしい。うちのノンナも可愛らしさでは負けていないが。
「おはようデルフィーヌ。今朝も変わらずに美しいな」
「ありがとうございます、殿下」
そこからは穏やかな会話が続く。
私はひたすらデルフィーヌ様の口調、笑い方、相槌を打つ時の仕草を観察した。デルフィーヌ様は質問にお答えになる際、一瞬首を右に傾ける癖があった。笑い方は声を出さず、表情のみ。
仕草のひとつひとつを忘れないように頭に刻み込んだ。
朝食の後は一度部屋に戻り、総務大臣との会議に備える。
会議の一件目は王家主催の慈善事業についてだった。その次は隣国ランダル王国の親善大使との茶会についての打ち合わせ。
デルフィーヌ様がおつきの女性に用事を命じ、その隙に私に質問なさった。
「ねえケイト。私はあまり特徴がないから、影としてはどうなのかしら。やりやすい? 逆に難しいの?」
「特徴はたくさんおありです。少しずつですが覚えているところでございます」
「そう? どんなところが?」
「言葉より、演じてご覧に入れた方がわかりやすいかと」
「見たいわ」
私はデルフィーヌ様の前で歩くところから演じてみせることにした。
まずは重心を微妙に後ろに残して歩く。長いドレスの裾を引いているかのように優雅に、真っ直ぐに首と背中を伸ばして歩く。
止まってお付きの者に話しかける様子を再現する。
『今日のお茶会、何名で参加だったかしら? そう。では茶葉はいつものを用意するように。ああ、ハドソン侯爵夫人はナッツを食べられないから。それだけは忘れないで』
「いかがでしょうか」
「あなた私の言葉を全部覚えているの?」
「今朝の会話だけですが」
「すごいわね。驚いたわ。私、そんなしゃべり方をしているの?」
「はい」
「ちょっとおっとりしすぎているわね」
「いえ。そのようなことはございません」
本当にそんなことはない。上品で優雅で、人の上に立つことが生まれた時から定められていた女性そのもの。
まだ一緒にいる時間は少ないが、デルフィーヌ様は高貴、優雅、上品、知性、人徳という言葉が寄り集まって人の形を作っているような方だと思う。
十時。総務大臣との会議で、一瞬だけひやりとした。総務大臣の名前が「コリン・ヘインズ」と書類に書いてあったので、ヨラナ様のご親戚かと思っていた。だが、どこからどう見てもヨラナ様のご子息だ。お顔がヨラナ様にそっくり。
将来、ヨラナ様のお屋敷で顔を合わせることがあるかもしれない。私は顔を伏せ、気配を消して会議室の壁に同化するよう心掛けた。
コリン・ヘインズ総務大臣との会議で、デルフィーヌ様の語気が一度だけ強くなった。
(ああ、この方もこんな口調になるのか)と驚いた。
「コリン、それはどういうこと? なぜ慈善事業の予算が半減しているの?」
「はっ、申し訳ございません。軍備の増強に予算が回されることになりまして」
「金の鉱脈が見つかったというのに予算が不足しているということ?」
「その金の鉱脈を狙ってスバルツ王国が動き出しているのでございます」
「……そう。では私の予算を使いなさい」
「それは……わたくしの一存ではなんとも」
「私が許可します。食べる物がない民がいるのは国の手も目も届いていない証拠。ならば私の予算を回し、せめてこの冬を乗り越えられるようにしたい」
「では宰相閣下と相談の上、」
「宰相が不許可と言ったらもう一度私のところに話を持って来るように」
「はっ。承知いたしました」
(この人は必死だ)と思った。
私はそれほど各国の王族を知っているわけではないが、特務隊にいた当時はそれなりに各国の要人の人柄、趣味嗜好の話は耳に入ってきた。中には平民を人とも思わない人物だっていた。
だがデルフィーヌ様はそうではない。教育を受けたとおりに、まっすぐにアシュベリーの国母となる覚悟でいらっしゃる。
会議が終わっても、デルフィーヌ様の表情は険しかった。
「ねえケイト。王族が大きな力を持っているというのは幻想だったのかしらね。飢えている民にパンを与えることすら思うようにならない。自分の予算を回すことにさえ宰相の許可がいるなんて。歯がゆいこと」
「お察し申し上げます」
「我が子を産んでから、私は全ての子供たちが飢えることに耐えられないの。どうしたらいいのか。私は慈善事業をすることくらいしか思いつかない。それでは根本的な解決にはならないとわかっているのに」
私は思わず許可を得ずに話しかけてしまう。
「デルフィーヌ様、しがない民草の言葉としてお聞きください。私はこの国の頂上には、デルフィーヌ様のような清廉なお心の方にいていただきたいと思っております。器用な世渡り上手ばかりが動かす国では、私の娘や多くの子供たちを安心して任せられません」
デルフィーヌ様は私に歩み寄り、そっと私の手を握ってくださる。優しい花の香りがした。
「ケイト。ありがとう。あなたはきっと私の何倍も何十倍も広い世界で生きてきたのでしょうね。二ヶ月の間だけでも、私の知識と経験の不足に気づいたときは遠慮なく指摘してね。そして民のことを教えてほしい」
「仰せの通りに」
「頼りにしています」
昼食はベアトリーチェ様とデルフィーヌ様のお二人のみ。
気配を消しつつ会話に耳を澄ませていたら、セドリック公爵閣下がベアトリーチェ様にべた惚れなのがよくわかった。夫婦円満でなによりだ。
「デルフィーヌ様、セドリック様の友人のバール卿が王都に腰を落ち着けるそうで。バール卿をお気に入りのセドリック様も王都にしばらく滞在なさることになりました」
「ではベアトリーチェ、あなたも?」
「ええ。その予定です」
「それは嬉しいこと」
ほう。グンター・バールはセドリック様の心をがっちりつかんでいるのか。そして王都に滞在、と。王城に来るようなら気をつけなくては。私は間違いなく顔を覚えられている。
「ケイト、セドリック様は武術に造詣が深くていらっしゃるのよ」
「さようでございましたか」
ええ、存じております。数年前にセドリック様の肋骨を二本折ったのは、この私ですので。
 






