46 サンドル古書店の外で
私はヨラナ様とノンナの三人で羊牧場に来ている。既に牧場の敷地内には井戸が完成し、羊たちの水飲み場と住居部分の水回りの心配はない。
羊の世話は修道院の女性から希望者が五人。その中には実家が羊飼いだったという女性が一名いるので心強い。
牧場には既に五十頭の羊を買い入れ、牧場に放牧してある。羊毛を刈るのは来年の春、遅くだ。
「ビクトリア、いい場所ね」
「はい、ヨラナ様」
「ヨラナ様、ここの井戸水は冷たくて美味しいんですよ!」
「それはぜひ味見させてほしいわね、ノンナ」
「はい! 後で管理棟でお茶をお出しします! お母さん、私、ちょっとだけ羊と遊んでくるね!」
ここまで上品に振舞っていたノンナだったが、ついに我慢できなくなったらしい。「ひょー」と奇声をあげながら羊たちの群れに突進して行った。羊たちが絶妙にノンナから距離を取ろうとして集団で動く。ここに来るたびこれなので羊たちはもう慣れているらしく、怒ったり怖がったりはしていない。だが、ノンナを迷惑がっているのがはっきりわかるのが笑える。
「あなたが着々と幸せを手に入れていく姿を見ているとね、まるで自分が満たされているかのような気分になるわ」
「ヨラナ様……」
「あの日、あなたが置手紙を残していなくなったとき、私、あの家の中を見て泣いたわ。あなたはいつでも逃げ出せるように心がけて暮らしていたのね」
「ご心配をおかけしてしまって」
「心配とは少し違うのよビクトリア。私には娘がいないけれど、私が勝手にあなたを娘のように思っていたの。そして自分が何の力にもなれなかったことが悔しかった。でも、もう安心ね。子爵の夫がいて、身分も貴族になって、こうして牧場も、工房もある。もう安心して生きていけるわね」
「はい」
「ノンナの淑女教育はちょっと遅れているようだけれど」
「……はい」
「もう安心」と言い切ることはまだできないけれど、今それを言ってヨラナ様を不安にさせる必要はない。
放牧場ではノンナを避けようと羊たちがかなり遠くまで移動していた。羊の群れの中でノンナが諦めずに羊と遊ぼうとしている。呆れて見ていたら、ついに羊が怒ってノンナに頭突きをしていた。
「ヨラナ様、これから私とノンナの行きつけの古書店に行くのですが、ご一緒にいかがですか。美しい羊皮紙の古書がいろいろあるんですよ」
「美しい本は目の保養よね。私も行きたいわ」
ノンナを呼び戻したら、羊を触りまくってすっかり獣臭がしていた。石鹸で手を洗わせ、私たちはサンドル古書店に向かう。お茶はこの次ということになった。
一時的にザカリー古書店だったあの書店は、サンドル古書店と店名が戻っている。店主に笑顔で迎え入れられ、三人で本を眺めていたときのことだ。
窓の外を猛烈な勢いで走って行く女性が二人いた。走りながら一度振り返っていた。そして尋常な事態ではないことがわかる走り方だ。
「お母さん!」
「行きましょう。ヨラナ様、店内でお待ち下さい」
「でもあなた、どうするつもり?」
「後で説明いたします」
最後の言葉は背を向けながら言って、私もノンナに続いて素早く店を出た。前方に二人の女性。片手をつないで走っているが、手を引かれているほうの女性は今にも足がもつれそうだ。
ノンナが猛烈な速さで彼女たちに追いつき、こちらを振り返る。私も振り返る。私の背後から三人の男たちが迫って来ていた。
辺りを見ると追っ手以外の人影はない。どこかの窓から見られるかもしれないが、この状態ではもう仕方ない。
「どけっ!」
荒々しい声を出しながら男たちが目を吊り上げて走って来た。私は怯えた顔をして、オロオロして見えるような態度で道を譲らないまま立っていた。
(さあ、来い)
私は怯えた表情のまま身体を横に向けて道を譲るふりをしたが、男たちが通り過ぎる瞬間を狙って次々に肘打ちをした。よろけた振りをしながら三人全員に肘打ちや体当たりをする。
「うあっ!」
「痛えっ!」
「ぐっ!」
まともにぶつかれば体重の軽い私がはじき飛ばされるが、これならダメージを与えつつ男たちの足止めができる。
「お前らは追え! おいお前! 何しやがる!」
先頭にいた男は二人の男に指示を出し、私に向き直った。
「お前、わざとやったな?」
「そんな! 恐ろしくてどうしたらいいかわからなかっただけです。言いがかりです!」
「嘘をつくな。さてはお前、あの女の仲間だな?」
「違うわよ!」
叫ぶなり横丁に向かって走った。小さな店がひしめき合っている横丁は道幅が狭く、昼でも薄暗い。ここなら人目はないだろう。私は全力で細い道に走り込み、男を誘い込んだ。男は追いかけてくる。走り込んだ路地の奥はレンガの塀で行き止まりになっていた。
「なぁお前、何者だよ、ああ?」
「そういうあなたこそ何者なの? 女性を追いかけて、いったいどうするつもりだったの?」
「お前には関係ない。いや、お前が仲間なら関係あるな」
男は私にジリッと近寄った。私は男が詰め寄った分、後ろに下がる。まだナイフは取りださない。なぜなら……。
ゴッと鈍い音がして、屋根の上からノンナが飛び下りながら男の頭に蹴りを入れた。そのままスタッと着地して、ノンナはシェン武術の基本の構えを取る。男はノンナの雄姿を見ることなくグズリと崩れ落ちた。
「お母さんに乱暴したら許さないよ! って、なんだ、気を失っちゃったか」
「ノンナ、さっきの女性たちは?」
「本屋さんの中で待っててねって言ってこっちに来た」
「そう。じゃあ、こいつを突き出してから行くから。あなたは彼女たちのそばに。あ、二人の男はどうしたの?」
「道を歩いて来た人に警備隊を呼んでって頼んで置いてきた。あいつら気を失ってたけど、ちょっと見てくる!」
私は失神している男のシャツをナイフで引き裂き、手は後ろ手に、足首はがっちりと縛ってからノンナの後を追った。すぐ先では男二人がまだ気を失っていたのでそちらもさっきの男と同じように縛った。
「なにやら外が騒がしいと思ったら。また派手にやったね」
聞き覚えのある声に振り返ると、ザハーロさんだった。
「ちょうどよかった。この人たちが逃げないように見ていてくれますか? あっちの路地にもう一人いるんです。あっちも見張らなきゃ」
「ああ、じゃあ俺がそいつをこっちに運んで来るよ」
「暴れるかもしれませんよ?」
「ふっ」
ザハーロさんは小さく笑って私を路地へと顎で促す。大人の男ひとりを担ぐのは結構な力仕事だが、自信があるのだろう。ザハーロさんは私に(こっちか?)と目で尋ねるとスタスタと路地に入った。男は意識を取り戻していて、縛られた手足を自由にしようともがいていた。
「おぅおぅ、待て待て。勝手に解くなよ。もう一発殴られたくないだろう?」
普段のザハーロさんとは全く違う、低く悪そうなしゃべり方。驚いて思わず顔を見上げたくなったがそこは我慢した。ザハーロさんは胸のポケットから取り出した黒いお洒落なハンカチで手早く男に目隠しをすると、男の背中に中指の関節を当てた。
「立たせてやるよ。逃げようとしたら刺さなきゃならない。面倒なことをさせるなよ? さあ、歩け」
男は渋々歩いた。他の二人と合流させたところで男を道に転がした。やっと来てくれた警備隊員を見てから、そこでやっと
「で? こいつら何をした?」
と私に尋ねた。
「女性を追いかけてたのよ。今、追われていた女性を呼んできます」
「私が呼んでくる!」
ノンナに伴われてやって来た女性を見て、その場にいた全員が驚いて沈黙した。
手を引かれて走っていたほうの金髪の女性の顔が、酷いことになっていた。散々殴られたらしく、鼻の骨は折れ、唇は切れ、頬は両方とも腫れ、片目は瞼が腫れあがって目がほとんど塞がっていた。
だがその女性は気丈だった。普通ならここまで殴られたら失神するか取り乱しているだろうに。折れた鼻だって、頬だって、尋常じゃなく痛いはずなのに。すぐに警備隊員が女性に駆け寄った。
「これは酷い。こいつらに暴行されたのですね。手当をしますので、我々と一緒に来てください」
「はい。ありがとうございます」
「で、こいつらを倒したのはあなたですか?」
聞かれたのはザハーロさんだ。ザハーロさんは素早く私に視線を送ってきた。私はなんと答えるのがベストか一瞬迷った。その隙にノンナが返事をしてしまう。
「私です」
「お嬢さんが?」
「はい。護身術を習っていますので」
「お母様、ですよね? この少女が言っていることは本当ですか?」
「本当です」
仕方なく正直に答えると、「ではお嬢さんも」とノンナも一緒に行くことになった。
「ノンナ、あとで馬車で迎えに行くわ。私はヨラナ様を送り届けるから」
「はあい」
集まって来たたくさんの見物人の視線の中、加害者と被害者とノンナはいなくなった。
「ビクトリア、大丈夫だったの?」
「ヨラナ様、お待たせしてしまいましたね」
「そんなことはいいのよ。ノンナは? 何が起きたの? あの女性はどうしてあんな大怪我をしていたの?」
ここは下手に嘘をつくのはやめておくべきだろう。あとあとまで嘘を覚えておかなきゃならなくなる。それにノンナが私との打ち合わせをちゃんと覚えていてくれるか、全く自信が持てない。
「さっき、窓の外を走って行く女性が見えたんですよ。それで……」
正直に、順番に、ヨラナ様に事情を説明した。ヨラナ様の最大の驚きはノンナが男三人を武術で倒したことだった。それはもう、驚くのも無理はない。
「シェン国で私とジェフは忙しかったものですから。ノンナは五年間、武術の習得に夢中だったんです」
「大の男三人を一人で倒すって、ノンナはこの先大丈夫なの?」
それは私にもわからないことなのです、ヨラナ様。






