4 冒険小説『失われた王冠』
翌日の午前中、アンダーソン伯爵家に三人で挨拶に向かった。
エバ様は『華やかな笑顔で泣く』という、いかにもエバ様らしい出迎えをしてくれた。
「ビクトリア! お帰りなさい! そして結婚おめでとう」
「エバ様。あの時はいきなり姿を消してしまって申し訳ありませんでした」
「いいのよ。こうして会えたんですもの。事情はマイクさんが来て説明してくれたわ。あなたのことは口外しないようにと言われているの。安心して。私はこう見えても口が堅いのよ」
「エバ様……」
感謝と申し訳なさで胸が詰まる。
私たちを優しい目で見ているジェフにエバ様が話しかけた。
「ジェフ、シェン国行きは急な決定だったんですってね」
「ああ。慌ただしかったよ」
「薬のことで子爵を賜るんでしょう? おめでとう」
「ありがとう。叙爵はまだ先のこととは思うけどね」
ノンナはエバ様とクラーク様に挨拶した後は上品に微笑んで控えている。この子が昨夜、寝巻姿で武術の型をおさらいしていたとは誰も思うまい。
クラーク様はすっかり大人になっていた。五年間でいったいどれだけ身長が伸びたのだろう。百八十センチはありそう。そしてまだ伸びるお年頃だ。
「クラーク様、ご立派になられましたね」
「先生、僕は先生のおかげで外国語嫌いを克服できました。今ではいろんな国の言葉を勉強するのが趣味になりました。先生には本当に感謝しています。今は外国語の文書を扱う部署で文官をしているんです」
クラーク様の声は大人の声に変わっていた。クラーク様はノンナを見た時はわずかに驚いた顔をなさっていたが、そわそわしているノンナに比べて、ずいぶん落ち着いていらっしゃる。
あの華奢で恥ずかしがり屋の可愛い少年がどこかへ消えてしまったようで少し寂しかった。
ジェフはこれからお城で用事があるそうで、私たち三人は短い時間でアンダーソン家を出た。クラーク様は別れ際、ノンナに何かを話しかけようとなさっていたが、ノンナは気づかなかったようだ。
「では失礼いたします、エバ様、クラーク様」
と挨拶してさっさと歩き出した。私とジェフもノンナの後に続いた。
「ジェフ、私とノンナは歩いてバーナード様のお屋敷に向かうわ」
「そうか。では俺はこのまま馬車で王城に向かうよ」
「お父さん、いってらっしゃい」
「おう」
私とノンナは王都の繁華街を歩いている。
「ノンナ、お礼を言ってから歩き出すまでが少し早かったわ。あれは失礼よ」
「だってお母さん、私、がっかりしたんだもの。クラーク様、変わっちゃったわね」
「見た目は変わったわね。でもがっかりって、何が?」
「私、シェン国のことをいっぱいお話ししたかったのに、クラーク様は全然興味がなさそうだったじゃない?」
「うーん、そうだったかしら」
「もういいの。シェン国のことはバーナード様にお話しするから」
おそらくクラーク様は『会えて嬉しいよ!』と無邪気に喜ぶのには大人で、ノンナの話に上手に調子を合わせてくれるのには若すぎるのだ。でも、若い二人の世界のことだ。私が口を出すのはやめておこう。
訪れたバーナード様の家はそこそこきれいになっていた。私がそう思って見回していると
「通いのハウスメイドが掃除をしてくれているんだよ。夕食と朝食を用意してから帰るんだ」
「そうですか。では私が手を出しては失礼になりますね」
本当は雑巾を使って隅々まで拭き清めたかったけど、掃除をし直されたら気分が悪いだろうと我慢した。
バーナード様と私が懐かしくおしゃべりしている隣で、ノンナがテーブルの上にある一冊の古い本を読みたそうに見つめている。するとバーナード様が「読んでいいぞ」とおっしゃり、ノンナはニコニコして古い本を読み始めた。
深い紺色の革表紙に金箔で箔押しされた表題は『失われた王冠』とある。
『失われた王冠』は、この国だけでなく周辺各国でも翻訳され出版されている有名な冒険小説だ。
大昔に盗まれた王冠を探せ、と主人公が王様の命令を受けて各地を旅するお話。主人公は探していた王冠を苦労の末に見つけるが、それを守る人々に襲われてしまう。せっかく見つけた王冠を諦めて命からがら逃げだすのだ。彼は王冠は手に入れられなかったけれど、心優しき女性に看病されて幸せに人生を終えた、というお話だ。
「ノンナが読んでいるのは私の人生を本の世界へと導いてくれた一冊だよ」
「『失われた王冠』の著者はたしか、この国の人ですよね」
「そうだ。その話が書かれたのはおよそ百年前で、その時代の本はたいてい宗教関係か学術研究書だったから、娯楽本はとても珍しいんだ。だが、本当に珍しいのはそこじゃないんだよ」
「バーナード様、私、珍しいところを探してみますからおっしゃらないでくださいね」
長椅子の隣で読んでいるノンナに近づいて本を覗き込んだ。
ノンナが身体を近づけてきて一緒に読み始めた。ノンナの髪の甘い香りと、唇に塗った蜂蜜入り蜜蝋の匂いがした。
小説は羊皮紙に書かれていて、手書きの文字が美しい。見開きごとに左上の隅の四角い枠の中に、繊細な挿絵が描かれている。挿絵には植物や小鳥が描かれているのだが、顔料が色褪せることなく今も華やかにページを演出していた。
しばらく熱心に読んでいたノンナが本から顔を離した。
「なんだか言葉の使い方が回りくどくてわかりにくいです。バーナード様、昔はみんなこんな言葉遣いだったのですか?」
「言葉遣いは確かに古いな。当時の本に書かれた言葉遣いはみんなそんなものだよ。ビクトリア、君はどう思った?」
「言い回しは古風ですが、私が知っている通りの内容です」
「感想はそれだけかい?」
「綴りの間違いがありますね。少し読んだだけですが、難しくて長い単語は正しく書かれているのに、子どもでも間違えないような短い単語の綴り間違いが何箇所かありました」
バーナード様は満足そうに微笑んで、同じ表題の別の本を私に渡してくれた。こちらも羊皮紙だが、ノンナが読んでいるのよりは新しい。受け取って中を確認する。
「新しい方の本は挿絵の数が減って登場人物の絵に変わったのですね。それに、ちゃんと綴りの間違いが訂正されています」
「そう。今渡したのは後に筆写された本だ」
「筆写されたのはかなり後ですか?」
バーナード様がうなずく。
「そうだ。綴りの間違いがある方は、作者が手書きの本だよ。文章を読むと、とても知的な人だ。そんな筆者が簡単な単語を間違えているのがおかしいと思わないかい?これはなにか意味があるんじゃないかと思ってね。手に入れてからずっとその綴りの間違いに取り組んできたが、どうやら私にはその謎を解く才能はなさそうだ」
(綴りの間違いに意味? まさか暗号ってこと?)
「つまり、バーナード様は作者が意図して言葉の綴りを間違えて本を書いた、とお考えなのですね?」
「ああ。この作者、エルマー・アーチボルトはその綴りの間違いを使って読者に何かを伝えたかったんじゃないかと思っている」
バーナード様は子ども時代に出会ったエルマーの本が好きで、ご両親にねだって彼の全作品を買ってもらって読んだのだそうだ。
私もエルマー・アーチボルトは知っていた。私の母国であるハグル王国でも『失われた王冠』は有名な小説だった。
「私はいつかこの『失われた王冠』の舞台になった場所を訪れたいと思っていたんだよ。だが、この国の歴史の研究に夢中になっているうちにこの年になってしまった。もう行けないだろうと思うと、実に残念だ。子どもの頃からの夢だったのだがね」
「バーナード様はこの小説の舞台がどこか、ご存じなのですか?」
「私が読み解いた限りでは、この国とスバルツ王国の間にある広大な森林地帯、つまりシビルの森のあたりじゃないかと思っている」
その森はジェフが第一騎士団員だった頃に戦争があった場所だ。
「あの森林地帯ですか。たしかその辺りを聖なる場所として大切にしている民族がいたんですよね」
「そうだ。よく知っているね」
「ジェフに聞きました。ジェフにとってつらい思い出の場所です」
「ああ、そうだな。ジェフたちが戦争に出向いた場所だ」
実は私もこの本を読んで綴りの間違いを四つ見つけた段階で(暗号だったりしてね)とは思った。職業病だと自分でも苦笑したけれど。
だが(百年前に書かれた暗号なら、現代で使われている暗号よりはずっと簡単なはず)と思ったのに、ちょっと読んだだけでは暗号解読の鍵となるルールは思いつかなかった。
私は工作員時代、趣味と実益を兼ねて暗号の解読に夢中になっていた時期があった。その経験から言うと、もしこの本に暗号が仕込まれているなら、二つの可能性がある。
一。暗号が特定の誰かに向けている場合。
暗号解読の鍵を受け手が持っていたら、解読はとても難しくなる。いくらでも複雑なルールを設定できるからだ。
二。不特定の誰かに暗号を解かせようとしている場合。あまりに難しい暗号だと誰も答えにたどり着けない。だから暗号はそう複雑ではない。
さて、この本に暗号が仕込まれているなら、どっちだろう。
「私はもうお手上げだから、もしよかったらビクトリアが挑戦してみるかい?」
「それは楽しそうですけど、人気小説の作者の手書きなら大変に高価な本なのではありませんか?」
「本は年寄りの家に死蔵されるより、君たちに読まれることを望むはずだ。いい、持って帰って君が楽しんでくれたまえ。その本は私からの君への結婚祝いだよ」
こうして百年前に手書きされた冒険小説『失われた王冠』は、私が家に連れて帰ることになった。