39 軟膏作り工房と羊牧場
「アンナ、軟膏製造用の工房、改修工事が終わったそうだ。連絡が入ったぞ」
「まあ。思ったより早かったですね。私、今日にでも見に行ってみます」
「必ず護衛を連れて行くんだよ」
「はい、そうしますね」
ウィル・ザカリーとオーリに侵入されて以降、ジェフリーは私とノンナの外出に神経を尖らせている。私自身は何かあった時は護衛がいないほうが動きやすいのだけど、ジェフが安心するためだから仕方ない、と割り切って護衛を連れて出かけている。
「ライリー、ルイス、それでは護衛をお願いね」
「お任せください奥様」
ジェフリーが雇った護衛のうち、ライリーは剣術と体術に優れ、ルイスは剣術と短剣の扱いに優れているらしい。そのうち私とノンナの練習相手をしてくれないだろうかと期待しているのだが、ジェフリーは「主の妻と娘にこてんぱんに負けて自信を失われても困るから、もう少し待て」と言ってなかなか許可が出ない。
ノンナはそれを聞いて眉をひそめ、私にだけこっそり文句を言っていた。
「ねえお母さん、そんな護衛、意味ある?」
「護衛をつけています、と周囲に見せることに意味があるのよ。無用な争いを事前に退ける、これも大切なことだわ。ジェフの考えに間違いはないのよ」
「不要な護衛の分のお金を他に回すべきじゃない?」
「いいえ、ノンナ。私とあなたが護衛も付けずに二人で出かけてごらんなさい。狙われるわよ。いちいち相手をするのは面倒だわ」
「ふうん」
そんなやりとりをされてるとは知らないライリーとルイスは、張り切って馬車の護衛を務めてくれている。ライリーは妻帯者の三十代、ルイスは独身の二十代だ。
修道院に到着後、私とノンナは工房の中を見て回り、修道院の院長と工房で働く人の人数、待遇などを話し合った。
「では、まずはその院長先生ご推薦の十人から始めましょう。実際に軟膏を作ってもらって、売れ行きによってはもっと人数を増やせるかもしれません」
「奥様、とても助かります。夫から逃げていて人前に出たくない女性にとって、ここは安心できる職場になりますわ」
改修された工房は壁は薄い黄色、天井は白。四つの部屋に分かれていて、十人が働くには十分な広さがあった。
院長先生に挨拶をして、次は羊牧場予定地へと向かった。
広い牧場を囲む柵は完成していた。
羊たちが夜に戻ってくる羊舎も完成していて、あとは羊が入るだけになっていた。
羊舎の隣には牧場で働く人が使う小さな建物が建てられていた。
「お母さんは本当はここで暮らしたいんじゃないの?」
「そうだけど、今じゃなくてもいいの。ノンナを育て上げて、ジェフと二人になったときの楽しみにとっておけばいいと思ってる」
「私、結婚なんてしなくていいんだけどな」
「うふふ」
「なあに? お母さん」
「私もそう思ってたの。『結婚なんてしなくていい』って。でもね、ノンナ、あなたもいつか結婚したくなる人が現れるかもしれないわよ」
するとノンナは急に私に抱きついた。
「お母さんとずっと一緒がいい」
「私もそう思うけど。いつか私より大切な人が出てくるかもしれないわね」
「出てこないよ、そんな人」
「そう? じゃあ、とりあえず今のうちに甘えん坊さんのノンナをたっぷり楽しんでおこうかな」
「うん!」
そろそろ馬車に戻ろうと牧場の入り口に向かって歩き出した。その途中で牧場を振り返る。
牧場は牧草の種が芽を出し、一面柔らかな緑が広がっている。
ここにたくさんの羊が歩き回り、牧草を食べるのだ。その場面を想像するだけで満ち足りた気分になる。
毛を刈り、毛糸を紡ぎ、色を染めて、編み物をする。
幸せな時間がいつか訪れるのだと思うと、今から生活に張りが出る。
牧場の入り口に馬車が移動されていて、護衛二人が待っているはずだったが、待っていたのは男性三人。
あと一人は誰だろうと目を凝らして驚いた。ノンナも同時に気がついたらしい。
「マイクさん!」
気軽なお出かけ姿ではあったが、猛烈な速さで走って行くノンナ。
私は(マイクさんがなぜここに?)と緊張しながら足を進める。
「ノンナさん、ビクトリアさん、お久しぶりです」
「マイクさん。どうしてここがわかったんです?」
「情報を集めることが私の仕事ですので。アッシャー子爵家が事業を始めたと聞いて、どんなところかと見に来たんです。いやぁこれは、いいところですねぇ」
マイクさんは笑って牧場を眺めている。
「マイクさん、もしやなにかありましたか? お忙しい方がわざわざこんな場所までいらっしゃるなんて」
「さすがですね。察しがよくていらっしゃる。実は、近々コンラッド第一王子が夜会を開きます。お気に入りのジェフリー様は必ず招待されるでしょう。一度も社交界に姿を現さない夫人を連れて来いと言われるのは間違いないと思います」
「はぁ。そうでしたか。それはそうですよね、いくらなんでも一度も姿を現さない子爵夫人て、いませんものね」
マイクさんが困ったような顔だ。
「でも、私は印象に残らない外見だから『あのビクトリア』とは別人だと言い張ればよかったのでは?アンナと名乗ればいいのですし」
「陛下、宰相、第一王子はそれでいけると思いますが、セドリック公爵も参加する予定なのです」
「あぁ」
私とセドリック様は近い距離で顔を合わせている。言葉も交わしている。何よりも闘っているのだ。別人です、で通るわけがない。
「ジェフリー様は夜会を欠席すればいいとおっしゃるでしょうが、それは陛下や第一王子にも怪しまれるだろうというのが私の上司の判断です」
「ではどうすれば」
「私の上司の提案なんですが」
説明された提案は、少々危険を伴うものだった。






