36 私の目標
クラーク様からもアンダーソン家からも何も言われていないので、我が家は静観することになった。
申し込まれてもいない婚約話なのに、こちらから「その後どうなりました?」「ノンナが断りたいと申してます」などと言うわけにはいかない。
そもそもクラーク様が五年前の結婚の申し込みを忘れているかもしれないのだし。
私とノンナは馬車に乗り城壁の外に向かっている。護衛役で雇った二人は家に残してきた。
「奥様とお嬢様が出かけるときに我々が同行しないなどありえません」と文句を言われたが、私とノンナが揃っている時に護衛は不要。使用人と家と金貨を護ってもらいたい。
我が家が購入した土地は城壁から馬車で二時間ほどの荒れ地で、隣接しているのは農家の耕作地。見渡す限りの小麦畑、野菜畑が広がっている。王都に供給される食材はこの辺りで育てられているのだ。
今、羊たちの住まいである羊舎が建築されている途中で、毛糸を紡ぐための作業場兼住居も建築中。遠くに見える人たちは羊が近隣の耕作地を荒らさないように柵を作っている。
敷地の真ん中辺りでは馬が耕作機を引いてゆっくり歩いている。後ろからついて歩いている人は牧草の種を蒔いているようだ。
私に気づいて頭を下げた人たちは井戸掘り職人だ。私とノンナが近づくと、帽子を取ってお辞儀をしてくれた。
「水が出そうですか」
「出ますよ。間違いなく出ます。アシュベリーは地下水が豊富ですからね」
「美味しくて冷たい水が出て来るといいなー」
「それじゃ、お嬢さんに一番に飲んでいただきましょう」
「はい、楽しみにしています!」
何もない荒れ地を吹く風がとても気持ちいい。
「こんなに恵まれて、怖いくらいね、ノンナ」
「ここ、何もかもがゆっくりしている感じ。いっそここに住みたいよ、お母さん」
「そうね。私も」
転々と住む場所を変えながら生きていくんだろうな、結婚なんてありえないな、と思っていたのに。気がついたら私の両手にはたくさんの宝物が載っている。
「社交の季節以外はここに住んでもいいかもね」
「やったー!また子羊と遊べるね」
「私は毛糸を紡いで染めてみたいかな」
そんな会話をしてから南区へ。
あの古書店兼貸本店を見に行くためだ。本来の持ち主である人をザハーロさんが見つけ出したらしい。
「ま、俺に任せておきなよ。人探しは得意なんだ」
と言っていたが本当にあっという間に見つけてきた。
『ザカリー古書店』は看板を『サンドル古書店』にかけ替えてあった。窓の外のシェードは取り外され、窓の内側に白くて薄いカーテンが掛けられていた。
カランカランとドアベルの音を立てて中に入ると、カウンターには物静かな感じの老人が本を読んでいる。
店の中は一見ザカリー古書店と同じに見えた。まっすぐあの鍵付きの書棚に向かって中を覗くと、私の知らないタイトルの本が収めてあった。
「もしやアッシャー子爵夫人ではありませんか?」
「はい。そうです」
男性は私に向かって深々と頭を下げた。
「この度は、店を取り返してくださってありがとうございます。家と商売の両方を失って、どこかでひっそり野垂れ死にするしかないと絶望しておりました。こうしてまた以前と同じ暮らしができるのはあなた様のおかげでございます」
「いえ、そんな。私は少しだけ第二騎士団にお知らせをしただけですので」
「いえ。ザハーロさんから聞いております。本当にありがとうございました」
そこにノンナがデル・ドルガーの本を二冊持って来た。
「お母さん、これ買ってくれる?」
「いいわよ」
「お嬢様、心ばかりのお礼です、デル・ドルガーを全巻贈らせてください。こんなことしかできませんが、お許しください」
この後、私と店主さんとの間で「それはいけません」「いえ、このくらいはどうか」というやり取りが何往復かされ、結局受け取ることになった。
デル・ドルガーシリーズは人気シリーズで、全二十三巻を持ち帰ることになった。
「お母さん、すごいね!すごい儲けだね!」
「ノンナ、儲けっていうのはやめなさいよ。はしたないわ」
「そっかぁ、あいつらをやっつけたらこんな物が貰えちゃうのかぁ」
「ノンナ!」
「わかってる。冗談だってば」
その日、クリームを舐めた猫みたいな顔で本を読み続けるノンナだったが、夜になってクラーク様がいらっしゃって、我が家の空気が一変してしまった。
ノンナが私が止める暇もなく家に入って来たクラーク様に
「そう言えば、昔のあの約束、無効にしていいよね。結婚の約束」
と言ってしまい、クラーク様が固まってしまった。
「シェン国から戻って来たノンナを見た時、そう言うような気がしたんだよ。ま、想定内だよ。いいよ、わかった。あの申し込みはなかったことにするね」
クラーク様はそうおっしゃると、私の淹れたお茶を飲み、料理人が焼いたお菓子を食べ、
「先生、今夜はこれで失礼します。ノンナ、歌劇を観に行く約束、忘れないでよ」
と、結婚の申し込みを断られたことなどまるで気にしない風に爽やかな笑顔で帰っていかれた。
「あっさりなさってたわね」
「ね? だから言ったでしょ。あれは子どもがよくわかんない時に思いつきでした約束なんだよ」
「私、どうしようかとオロオロしてたのが笑えるわ。クラーク様は大好きで可愛い生徒さんだけど、ノンナの結婚なんて、とても想像できなくて。あっ、でも、ノンナはお母さんのことは気にせず自由にね」
「はいはい」
夜、第二騎士団から帰って来たジェフリーにこの話をしたのだが、ジェフリーは
「あー。それはなんていうか、諦めてないな、きっと。今騒いでもノンナが意固地になると判断して引き下がったんだろう」
と苦笑する。
「……どういうこと?」
「俺の母の兄があのバーナード伯父、エドワード兄さんは資料管理部で徹底して全ての資料を管理しているし、細かい規則がちゃんと守られているか根気よく管理する諸制度維持管理部の部長でもある。俺だって君のことは一度も諦めなかった。クラークもフィッチャー家のエバの息子だからね。フィッチャー家の人間は諦めが悪いんだ」
「ええと……まあ、とりあえず今は気を楽にするわ。私はノンナが好きなように生きてくれればそれでいいもの」
そう、クラーク様は素敵な青年だ。いきなり結婚なんて言葉が出たから慌てたけれど、ノンナの気が変わればこれはとても喜ばしいお話なのだ。
「なるようになるわね」
「ああ、俺たちが悩む必要はないさ。突然貰った爵位だ。俺は爵位にしがみつく気もないし、ノンナになにがなんでも引き継がせようなんてことも考えてないよ。それより、牧場はどうだった?」
「見て来たわ! 私、年を取ったらあそこで毛糸を紡いで暮らしたいと思いました」
「いいな。俺は羊飼いになって、爺さんになるまで二人で仲良く暮らすわけだ」
私は背伸びをして、ジェフリーの髪をそっと撫でた。
「あなたが年を取って、私を忘れることがあっても、最後の一秒まで私があなたを幸せな夫にしてあげる」
「なんのことだい? それ」
「なんでもないわ。私の目標の話です」
私はジェフリーの大きな身体を全力で抱きしめた。そして耳元で甘く囁く。
「ジェフリー・アッシャー。あなたは私の輝く王冠よ」
いったんここでお話がひと段落。
次話からはその後のお話が続きます。






