3 ヨラナ夫人とバーナード様
馬車が王都に着いた。
私たち一家が住む屋敷は貴族街である東区に用意されていた。
エドワード様のお屋敷から近く、二階建て。歴史がありそうな品の良い建物だった。庭は芝生と花壇の他にたくさんの樹が植えられていた。
「アッシャー子爵家に領地は与えられません。屋敷と土地は領地代わりです。帰国してすぐ落ち着けるようにと、このお屋敷を選んだのはお兄様のエドワード様です。使用人も最低限は揃えておいてくださいました」
馬車を降りたノンナはマイクさんの説明を最後まで聞かずに、もう駆け出して家に向かっている。
ノンナが玄関に到着する前に中からドアが開き、温厚そうな中年女性が出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ旦那様、奥様、お嬢様。お待ちしておりました。侍女のバーサでございます」
「よろしくね、バーサ。この子はノンナよ」
玄関の中には花が飾られ、床は磨き上げられていた。
「マイクさん、知り合いに帰国のご挨拶とお詫びにうかがってもいいのでしょうか」
「結構ですよ。では私はこれで城に戻ります。旅、大変楽しかったです」
そう言ってマイクさんは帰った。
二階に駆け上がって行ったノンナは階段を駆け下りてきて、一応は上品な仕草でマイクさんを見送った。そしてはしゃいだ表情で私を見上げている。
「お母さん、私の部屋が可愛いから見に来て!」
「そうなの? どんなお部屋かしら」
私とノンナがはしゃぎながら家の中をひと通り見て回っているうちに、馬車の荷物は降ろされ、荷ほどきされて、収めるべき場所に収められている。ジェフは早速書斎で仕事を始めていた。
さて。まだ午後の早い時間だ。
「ねえ、ノンナ、夕食までまだだいぶ時間があるわ。ヨラナ様のところにご挨拶に行こうか? ヨラナ様なら先触れ無しでも許してもらえると思うの」
「行く! スーザンさん、まだ働いているかな?」
「おそらくね。じゃあ、着替えないでこのまま行きましょうか」
「やったー! じゃなくて、嬉しいわ、お母様」
「はい合格」
「俺は城に帰国の報告に行ってくるよ」
「はい。行ってらっしゃい、ジェフ」
長い船旅と馬車旅で身体がなまっているから歩いて行きたいところだけれど、お渡ししたいお土産があるから馬車で行くことにした。
あっという間に到着したヨラナ様のお屋敷と離れは、私とノンナが立ち去った時のままだった。懐かしくて申し訳なくて門のところに立っただけでもう泣きそうになった。
馬車の音を聞きつけたらしいスーザンさんが玄関から出てきて、私たちを見るなり奥に向かって声を張り上げた。
「奥様! ビクトリアさんとノンナさんがいらっしゃいましたよ!」
ノンナがスーザンさん目がけて無言で走り出した。そして彼女を押し倒しそうな勢いで抱きついている。
私が玄関に到着すると同時にヨラナ様が現れた。ヨラナ様は私を見ると小柄な身体で歩み寄り、強く私を抱きしめてくれた。
「ただいま帰りました。ヨラナ様、あの時は本当に……」
「いいの! いいのよ。マイクさんという方からおおよその話は聞かされているわ。事情があったのだから、気にしないでいいの。こうして無事に帰って来てくれたら、それでもう十分」
ヨラナ様はそう言って私の顔を見上げた。
「ああ、よかった。ビクトリア、あなた元気そうだわ。そろそろシェン国からの船がつくころだと噂していたのよ。あら、このきれいなお嬢さんがノンナかしら? ノンナ、私を覚えてる?」
「もちろんです。ヨラナ様、お久しぶりです」
ノンナはスーザンさんに抱きついていたが、ヨラナ様に向き直るとスカートの裾を少し持ち上げて挨拶をした。ノンナの目が赤い。スーザンさんはノンナが最初から心を許していた数少ない人だ。
「スーザン、そこで泣いてないで。バーナード様がお待ちかねなのよ」
「まあ。バーナード様がいらっしゃってるのですか?」
「ええ。あなたたちに会いたがっているわ。早くこちらへいらっしゃい」
バーナード様は居間で立ち上がって待っていてくださった。
「バーナード様!」
私とノンナが駆け寄ると、バーナード様が杖を床に放り出して私たちを両腕で抱きかかえてくれた。
「お帰り。会いたかったよ。ビクトリアは全く変わらないな。ノンナはすっかり美人さんになった」
それからは猛烈な勢いで会話が飛び交った。
私たちの家が近所に用意されたことはお二人とももうご存知で、ヨラナ様は
「手配した人は見る目があるわ。あの屋敷は掘り出し物よ」
と褒めてくださった。
ヨラナ様は私とノンナが姿を消したあと、気落ちしているであろうバーナード様が心配になったのだそうだ。頻繁に訪問なさっているうちに、互いの家を行き来する茶飲み友達になったのだとか。
バーナード様は杖を使っていらっしゃること以外はお変わりなかった。
お二人にシェン国の香炉とお香をお渡しし、実際に火を点けて香りを楽しんだ。
散々おしゃべりした後で、バーナード様が遠慮がちに声をかけてくれた。
「ビクトリア。君は子爵夫人になるから、もう助手の仕事は頼めないのだろうな?」
「私はまたバーナード様のお手伝いをしたいですが。ジェフに相談してみます」
「そうか。帰ってきたばかりで申し訳ないんだが、君に翻訳してほしい資料があるんだよ」
「お父さんはきっと許してくれます。お父さんはお母さんのお願いを断らないもの」
ノンナの言葉にバーナード様が笑って、
「そうか。ジェフはもう父親で、君たち二人は私の親戚だったな。嬉しいよ。とても嬉しい」
と笑ってくださった。
「私もです、バーナード様。今日はこれで帰りますが、また私が子羊のローストを焼きますので。以前のように時々は一緒にお食事をしませんか?」
「それはいいな。うん、楽しみだ。君の作る子羊のローストは絶品だからね。ありがとう、楽しみにしているよ」
名残惜しく別れを告げて、新しい我が家に帰った。
ジェフリーが城から戻って来るのを待ってから皆で夕食にした。次々と料理が運ばれてきて、食事を楽しむ。料理人の腕は確かだ。
今夜の話題はバーナード様とヨラナ様のことだった。
「伯父上は元気だったか。俺も明日、城の帰りに顔を出すよ。ヨラナ様もお元気なら何よりだ」
「ジェフ、またバーナード様の助手の仕事をしてもいいかしら」
「いいさ。君ももう親戚なんだし何も問題はない。伯父は一人暮らしだから君が通ってくれたら助かるよ」
ホッとしていたらノンナが牛肉のバター焼きを食べながら
「ね?お父さんはお母さんのやりたいことに反対したりしないって」
と笑う。
「そろそろ兄が家に戻っているだろう。腹ごなしに歩いて挨拶に行こうか」
「そうね。この家の手配をしてくださっていたのはとてもありがたかったわ」
しかしエドワード様はまだ帰宅していなかった。
なのでお義母様と奥様のブライズ様に帰国のご挨拶だけをして帰って来た。皆さん帰国を喜んでくださった。
「明日は全員でエバの家に挨拶に行こう」
「お父さん、クラーク様に会えるの? 楽しみ!」
「クラーク様は十八歳だからもう大人ね。大きくなられてるんでしょうね」
その夜、ノンナはなかなか眠れないようだった。
夜中に物音がするので様子を見に行ったら、部屋の中でシェン国式武術の型を練習していた。
「ノンナ、わかってると思うけど絶対に」
「人には使わないし見せない。それならいいんでしょう?」
「ええ」
「ひと通りおさらいしたら眠るから心配しないで、お母さん」
「わかったわ。じゃ、おやすみなさい」
寝室に戻り、ジェフリーを起こさないようにベッドに入った。今日会った人たちのことを順番に思い出す。
誰一人として私に子どもがいないことを口にしなかった。結婚して五年。願っていた赤ちゃんは私のところには来なかった。
皆、それに気づいただろうに、何も言わないでいてくれる優しさに感謝した。
シェン国のお医者様は
「おそらくだが、もともと細かった身体に無理な減量を強いたのが良くなかったのかも知れない。今後、子を授かる可能性はある。だが、こればかりは人によるから私にもわからない」
とおっしゃっていた。
仕方ない。あの時は組織を抜けるために痩せて見せる必要があったのだ。
眠っていると思ったジェフが話しかけてきた。
「ノンナがどうかしたのか?」
「眠れないみたい。運動不足かもね。型の練習をしていたわ」
「ふふ。そうか。君も疲れてるだろう。眠ったほうがいい」
「そうね。おやすみなさい、ジェフ」
「ああ、おやすみアンナ」
私はジェフの腕の中で眠りに落ちた。