23 叙爵式の日
叙爵式の当日。
ジェフリーは黒地に銀糸で精緻な蔦を刺繍したコート、その下にはウエストコート、絹のシャツの首にはクラヴァットという姿で私の前に立った。長い脚に細身の黒いボトムスが映える。
「ジェフ、よく似合ってるわ」
「いよいよ今日から俺たちは貴族社会に乗り込むんだな」
「叙爵されるのにそんな憂鬱な顔をして。おめでたいことだもの」
「君には苦労を掛けることになるが、君を守る覚悟に変わりはないよ」
「苦労だなんて思ってないわ。私はあなたと一緒に生きていくだけよ」
ジェフリーが青い目で私を眩しそうに見て、私を壊れやすい物のようにそっと抱きしめてから馬車に向かう。
結婚したら愛情の形が変わるかと思っていたけれど、結婚して何年経ってもジェフリーへの愛しさは変わらない。私はいつだって(ジェフリーとノンナを守ってみせる)と心に誓っている。
昼になり、薬草を買いに出ることにした。
私が作る軟膏は評判が良かった。静かな噂になっているそうで、作る端から買い手がつく。主となる薬草はシェン国から運んだものだが、補助となる薬草がそろそろ足りなくなりそうなのだ。
ノンナも誘おうかと思ったが、最近のノンナは毎日せっせと机に向かっているか、ヨラナ様の家に出かけているかだ。今日も声をかけたが行かないと言う。何を勉強しているのかは「今はまだ秘密」だそうだ。秘密を持ちたいお年頃だものね。
「リード、南区の繁華街までお願いね」
「かしこまりました、奥様」
薬草店であれこれ買い物をし、リードに荷物を渡して商店街を歩く。そうだ、と思いついて路地に目をやると、酒場『黒ツグミ』のドアが開いている。掃除をしているザハーロさんが見えた。
「ザハーロさん! お久しぶりです」
「おう。ちょうど良かった。今夜にでも連絡しようと思ってたんだよ。オーリって子の情報が入ったぞ」
「えっ! オーリは今どこにいるの?」
「ヘクターんとこの子分と仲良くしてるらしい」
「それで? あの子は元気なの?」
「ああ、元気らしいぞ。最近は言葉もだいぶ覚えて、付き合ってる相手の子分たちに命令したりしてるらしい。ちょっとした姐さん気取りだそうだよ」
「そう……。元気ならいいの。そうか、そういう水が合ってたのね」
「元気出せよ。こっちの思いが通じないことなんて人生にはいくらだってあるさ。レモネード、飲むか?」
「ええ。ありがとう」
離れた所で待っているリードに、すぐ戻ると告げてから黒ツグミに入った。目の前で絞られたレモンの香りが爽やかで、蜂蜜の甘さが心地よい。甘酸っぱいレモネードは心をしゃっきりさせてくれる味だった。
「俺の作るレモネードは美味いだろう。それと、愚痴があるなら聞くが?」
「愚痴ではないけど、じゃあ、聞いたら忘れてくれる?」
「ああ。何でもすぐに忘れるのが俺の得意技だ」
「今回、オーリに嘘をつかれて、信じた相手に騙されるとどんな気持ちになるのか、よくわかったわ」
ザハーロさんは何も言わず、自分のグラスに入れたレモネードを少しずつ飲んでいる。
「騙されて傷ついたけど、私はこれからも同じ場面になったらまた同じことをする、と思う。誰かが困っていたらまた助ける。それで騙されても、また次の誰かを助ける。それが私が果たすべき償いだと思ってる」
「償い? 償いってなんの……。詳しいことはわからないが、あんたは八歳から働いてたんだろ?その時その時、必死に生きてきたんじゃないのかい?」
「……ええ、そうね。いつも必死だったし、それしか道がなかったけど、償いたくなるようなことをたくさんしたの。ザハーロさん、私、そろそろ帰ります。御者が待ってる。聞いてくれてありがとう」
「ああ、またいつでも来いよ」
振り向いて軽く頭を下げてから黒ツグミを後にした。
私は自分の過去の行いを反省はするけど後悔はしない。後悔は何も生まず、心を抉るだけだから。同じ失敗をしないように気をつけて前を向いて生きる、それだけだ。
それでいいはずなのに、私はなぜこんなにやるせないのだろう。
その日の夜遅く、ジェフリーが帰宅した。ジェフリーからはお酒の匂いがした。
「叙爵式でね、参加した主な貴族たちの前で陛下から金鉱脈の発見が報告されたよ」
「金鉱脈のこと?わざわざみんなの前で?」
「ああ。薬の安定的な輸入と金鉱脈の発見。俺の手柄として二つの功績が発表されてね。式の後のパーティーで貴族たちにぐるりと囲まれて話しかけられた」
「二つも発表したら、そうなるわね」
ジェフリーがクラバットを襟元から引き抜き、ポンとソファーに投げた。
「コンラッド王子がとてもお喜びだった。アシュベリー王国は商業国だ。金はいくらあってもいい。既にあの火口には調査が入っていて、露天掘りで金が大量に掘り出せそうだと確認されたらしい」
「もうそこまで。仕事が早いわね」
「それで、金鉱脈発見の糸口になった伯父と現地で発見した俺に褒美として大金が授与される」
「大金て、どのくらい?」
ジェフリーが告げた金額は、我が家が貴族としてそこそこの暮らしを一生送っても、十分おつりが来そうな額だった。
「それは……これから我が家はお誘いが多くなりそうな気がするわ」
「ああ、間違いない」
私は困難に立ち向かう気分だったし、ジェフリーはとても心配そうだ。
だが、それを聞いたノンナの反応はまるで違っていた。
「わかった。私のことなら心配いらないから。お茶会に招待されたら参加する」
「どういう風の吹き回しなの? 行きたくないって言ってたのに」
「ちょっと頑張った。準備は万端だよ」
「ノンナ、お茶会ではその平民風の言葉遣いはふさわしくないわ」
「わかってますわ、お母様。準備は万端に整えてありますの」
「合格」
「おっほっほっほ」
「その笑い方はやめなさい。そんな笑い方をするのは年配のご婦人だけだから」
「そうなの?小説では貴族はみんなこういう笑い方をしてたのに」
その夜から我が家はノンナのために、普段から極力淑女のマナーを実践することになった。私がお手本。ノンナは見習いさんだ。
「今までだってちゃんと教わってたのに」
「知っているのとできるのとは大違いよ、ノンナ」
「淑女のマナーなら、ヨラナ様に合格を貰ってるよ? じゃない、貰っておりますわ」
「なら自分の家でも実践しましょうね」
夕食時は物静かに控えめな声で会話をし、小鳥のごとく少量ずつ料理を口に入れた。楽しい話題でも「あっはっは」なんて笑い声は出さない。
うん、私も疲れる。
でもここはノンナのために努力だ。
ふと見るとジェフリーは何ということもなく淡々と食事をしている。こういう時は「お育ちが違う」と実感する。壊れた家庭で育ったと聞いているが、家庭教師がいたのだろうか。またはエドワード様が教えてくれたのか。
夕食を終える頃、オーリのことを報告した。裏社会の男性と親しくしていること、その社会に馴染んでいること。ジェフリーは「そうか。残念だな」と言うだけだったが、ノンナは今にも泣きそうな顔だ。
「オーリを助けに行かないの?」
「無理よ。オーリは助けを求めていないもの。無理やりここに連れて来たってまた逃げ出すわ」
「そうだな。オーリは十六歳だから自分が住む場所は自分で選ぶことができる。彼女はここの暮らしは嫌だと判断したんだ。俺たちができることはないんだよ」
「そうだけど。でもまだ十六歳だよ?」
ちゃんと伝えなければ。ノンナが悲しもうとも、言わなければ。
「一度その情報が本当かどうかは私が確認するわ。でもねノンナ、善意は相手が受け取りたくない場合は、迷惑な押し付けよ。こちらの正義が相手にとっても正しいとは限らないの」
ノンナが黙って席を立ち、バタバタと走って出て行ってしまった。今夜のデザートはノンナの好物のさくらんぼのタルトなのに。
落ち着いた頃を見計らって、ノンナの部屋のドアをノックした。
「開いてます、どうぞ」
「ノンナ。あなたの思う通りに動いてあげられなくてごめんね」
「お母さんとお父さんがいうことは間違ってないと思うから謝らなくていいよ」
「ノンナはお友達になりたかったのね」
「うん。オーリと友達になれると思った」
「オーリから見たらノンナは裕福で世間知らずで幸せな貴族のご令嬢に見えたんじゃない?」
ふっ、とノンナが大人びた苦笑を浮かべた。
「そうか、だから大っ嫌いって言ったのかな。私、そんなご令嬢じゃないのに」
「人は見た目で判断するものだから。今のあなただけを見ればそう見えるのよ」
「お母さん、私、お茶会に参加しても、ちょっと見ただけで人を判断したりしないように気をつけるよ」
「そうね。それがいいわ」
まだしょんぼりしているノンナを抱きしめた。
子どもはどんどん成長するから子育ての悩みも刻々と変わる。私は今、『子育てとは初めてぶつかる悩みの連続』だと学んでいるところだ。
その時その時の正解を探りながら育てているけれど、何でも自分で判断して処理してきた私が、ノンナのためとなると急に自信がなくなる。
(本当にこれでいいのかな?)と迷うことだらけだ。
たぶん西洋服飾史だと半ズボンみたいのに白いストッキングなんでしょうが、どうにもあれ、私の中ではコメディになってしまうのでジェフリーは長ズボンです。いいんです、私の小説の中ではそれでw






