12 滝
「お母さん、あの山に登るの?」
ノンナが指さした方向には、太古の昔には火を噴いていたであろうシビル山。今は穏やかに山裾を広げている緑深い山だ。滝にぶつかるまでとは何キロ進むのか。まあ、エルマー氏に行けて私に行けないってことはない、と思うしかない。
私たちは馬に乗って滝を目指している。ノンナは御者のリードと二人乗りだ。
次第に傾斜はきつくなり、森の中の足元には人の頭ほどの大きさから食堂に置いてあるテーブルくらいの岩が転がっているようになった。
人があまり入らないからか、時折ウサギや狐、鹿などが、見慣れぬ侵入者に驚いてこちらをジッと見ていたりする。
「ビクトリア、もう少ししたら昼食にしようか」
「そうね」
馬たちを休憩させがてら食事にする。
前日に多めに串焼きしておいた肉を薄切りにするジェフ。小麦粉と水を混ぜてオリーブオイルで薄く焼く私。一昨日から甘酢漬けにしておいたニンジンと玉ねぎを刻むノンナ。我が家では「動ける人が動ける時に動く」がお約束だ。リードは馬たちの世話をしている。
「先生、馬で動くとこういう時に便利ですね」
「そうね。徒歩だとこんなに食材や道具を運べないですから」
「よし、食うぞ」
アツアツの皮に薄切りの肉と野菜の甘酢漬けを載せてみんなで「あつっ」と言いながら小麦粉の皮で包んだ物を手で持って食べた。汁気の多い肉や甘酢漬けを受け止めた小麦粉の皮が美味しい。クラーク様はお湯を沸かしてお茶を淹れてくれた。
「クラーク様はお茶を淹れるのがお上手なんですね」
「ありがとうございます。母が男性も美味しいお茶を淹れられた方がいいのよ、と言ってましたけど、おじさんを見てたらもっともっと何でもできた方がいいですね」
「できないよりできた方が楽しいってお母さんはいつも言うよね」
「そうね」
やがて馬を諦めて徒歩で斜面を登ることになり、リードは馬たちを連れて石積みの家に戻った。
私たちは二日後には戻る、とだけ告げてある。
成果があってもなくても二日後には一度戻るのだ。
ノンナは私の後ろで終始ご機嫌だ。
鼻歌を歌いながらひょいひょいと木の根や岩を踏み越えて斜面を登る。その後ろを歩くクラーク様も元気に歩いている。ジェフリーは辺りに注意を払いながら大股でノッシノッシと登っている。
(楽しい。来てよかった)と私まで鼻歌が出そうだ。
歩くこと数時間。ノンナが最初に音を聞きつけた。
「水の音がする」
ノンナの言葉に皆が耳を澄ませた。確かに流れる水の音が遠くに聞こえた。でも木々に音が反射しているのか、近くには川に行き着くような斜面が見当たらない。
それでも皆の足が今までよりも速くなる。暗くなるまでにあまり時間がないから、川を探すよりも北を目指そうということになり、北へ北へと斜面を登り森の中を進むと、やがて視界が開けた。
そこに滝があった。
それほど高さはなく大きな滝ではないが、水量はたっぷりの滝。滝つぼは深そうで、滝壺から流れ出した水は、山肌を削りながら川幅の狭い急流となっている。
川は私たちの進んできたルートからは大きく外れて西の方へと進んでいた。
「なるほど。川を目安にできなかったのはこのせいね。川をたどっていたら大きく山を迂回しなくてはならないところだったわ」
「俺たちはエルマーの言葉の通りに進んだおかげで最短距離で滝に到達できたわけだ」
「お母さん、道標を探そうよ」
「それがね」
クラーク様が背負い鞄から羊皮紙を取り出した。
「『風を見よ、勇気を持て』としか書いてないんだよ、ノンナ」
そう言ってクラーク様が滝を見る。私たちも見る。ドドドドと地響きを立てながら豊かに水を落とす滝。勇気を発揮するのはこの滝に関係するのだろうか。
そこで昔教わった大切なことを思い出した。
「あのね、ノンナ。ひとつだけ約束してほしいことがあるわ。あなた、あの滝つぼに近づくのだけは絶対にだめよ」
「え?どうして?勇気をもって飛び込んだら何か見つかるかと思ったのに」
「ちょっと待ってて」
私は木々の中に入り、枯れ枝を探して剣で叩き折った。大人の腕ほどの枯れ枝を持って構え、滝つぼに向かって放り投げた。枯れ枝は滝の水に押し込まれるようにして水中に沈み、やがて浮き上がったかと思うとぐるんと回りながら押し込まれるようにしてまた滝つぼに沈んだ。
延々と浮かんでは沈む、の回転を繰り返している枯れ枝を見て、ノンナとクラーク様が驚いている。枯れ枝はやがてバラバラに砕けて滝つぼから流れ出てきた。
「滝つぼにはこういう回転する流れがあることが多いの。あの流れに巻き込まれたら、どんなに泳ぎが得意な人でも浮かんで沈んでを繰り返すことになるわ。あっという間に溺死してしまう。だから滝つぼには近寄らないで」
「わかった」
ノンナもさすがに滝つぼの怖さがわかったようだ。表情が強張っていた。
実のところは私も工作員の養成所で滝つぼの危険性を教わっただけで、実際にあんな回転する流れを見るのは初めてだった。私は訓練したからそこそこは泳げるけれど、あの回転する流れは私程度の泳力では手も足も出ないだろう。自然の暴力的なまでの力の強さに対しては、敬って遠ざかっているのが利口な振る舞いだ。
ノンナとクラーク様は「道標の書かれた岩があればいいのに」と周辺を探し、ジェフリーは「何か食べられるものを探してくる」と言って出かけた。私はポケットから意味不明な文章の書かれた羊皮紙を取り出して眺めた。
その羊皮紙には挿絵がないから、文章だけで読み解かなければならないのだが、繰り返し読んでも意味も暗号の鍵もありそうにない。
「先生、どうしたんですか」
「これだけまともな意味をなさない文章なんです、クラーク様。これは道標とは関係ないような気がします。亡国の王冠に至る道への道標はきっと別にあるような気がしますわ」
結局その日は道標が見つからず、持ち込んだ食料を焚火で焼いて食べた。
昼間の傾斜を登り続けた疲れからか、皆が寝袋に入って寝静まった夜。
私たちは夜露を防ぐための薄い布を張り、その下でそれぞれが寝袋に入って寝ている。私はとあることを試したくて起き上がった。
焚火はよく燃えている。私とジェフが交代でときどき薪を追加しているからだが、そのうちの一本を持って滝の近くに歩み寄った。たった一か所、炎が激しく揺らぐ場所があった。
昼間は(妙に風が通り抜ける場所があるなぁ)と思う程度だったが、こうして火のついている枝を持ってあちこち歩くと、煙が勢いよく吹き飛ばされる場所が一か所だけあることに気づく。
滝と川があるから常に少しの風の動きはあるのだが、そこは明らかに風の流れが他とは違っていた。
「アンナ、なにかわかったのか」
「びっくりした! あなた、起きてたの?」
「こんな場所で熟睡できるほどは若くないんでね」
「ここだけ冷たい風が吹いてくるのよ。昼間は逆向きに風が吹いてたのだけど」
ジェフリーが私の持つ枝の炎を見る。
じっと見ていたジェフリーが、すいっと滝の脇の崖に近寄り、剣を手にした。
「離れてろ」
そう言うとジェフリーが壁に張り付いている太い蔦を切り始めた。ザッ! とかガコッ! とか言う音が続いた後で、ガキン! という硬い物にぶつかる音がした。
炎を近づけてみると、そこには明らかに人の手によって積まれたと思われる石の壁のようなものがあった。石積みの壁の右上の隙間にはリンゴ二個分ほどの隙間があり、そこからヒュウヒュウと冷たい風が吹いて来る。今までは蔦が隠していたから風もはっきりしなかったが、今は明らかに風が吹き抜けているのがわかる。
「石が積んであるのはドアくらいの大きさだな」
「ここを隠していた蔦の様子から見ると、少なくともこの石が積まれてから相当長い時間が経ってるような」
「明日、陽が昇ってからこの石をどかして中を見てみましょう」
「そうだな。もう俺たちも眠ろう」
「ええ、あなた」
そしてジェフリーの隣に横になり、焚火に枯れ枝を足しながら話しかけた。
「養成所でね」
「うん」
「私はたくさんのことを教えてもらっていたことに、今日滝つぼの中の枝を見ていて気づいたわ」
「そうか」
「私たちに与えられていた使命は非合法なことではあったけれど、私たち子どもに教官が常に意識して教えてくれていたことがなんだったか、今ならわかるの」
「なんだったんだい?」
「『死ぬな。何があってもお前たちは死ぬな』それに尽きていたと思う。教官はずっとそれを私たちに願って教えてくれていたのよ」
また声が震えてしまった。
メガネをかけた特徴のない外見の男の人だった。
任務中に大怪我を負って現場を離れ、後進の指導をしてくれていた教官。
あの人はきっと、たくさんの仲間や先輩後輩の死を見てきたのだろう。あの教官は今、どうしているんだろうと思ったら胸が締め付けられた。






