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第四話 夢魔ローグバラン

 1


 ここは惑星シャモンのとある総合病院。

 ナオ・シーダースは『4401』と書かれた病室の前に立っていた。依頼人パトリック・チャノは、このドアの向こうで救世主たちの到着を心待ちにしていることだろう。東洋人の血を引く生真面目そうなその青年については、特に注意すべきことはなかった。問題は患者である彼の恋人、リディア・ペトレスクのほうだ。

「どうしたのさ、早く開けよう」

 すぐ後ろにいたヘイズ・スモーキーJr(ジュニア)は、いそいそとブロンドの髪を整えはじめた。

 ナオは『白い』サングラスの男をじろりと睨んだ。

「好みなのはわかりますけど、リディアさんにはちゃんとした婚約者がいるんですからね!」

「式を挙げるまでは、わからないさ」

 ヘイズは懐から手鏡を取りだすと、左、右、正面とキメ顔をつくる。

 ナオはため息をついた。会って話がしたいと依頼人から通信があった後、交渉役を買ってでたのは正解だった。我らが代表ヘイズは才気あふれる仕事人なのだが、いい歳して中高生のように一年じゅう発情しているという、困った体質の持ち主だった。ナオは以前、この白スーツ男に浴室をのぞかれたことがあったのだが、今でもどこかに小さなカメラが隠されているのではないかと、服を脱いだときは警戒せずにいられなかった。

「いくら美人たってよ、植物状態じゃあなァ」

 ザルネル・ウレバスキンは、ひそかに吸っていたタバコを携帯灰皿に突っこむと、スタジャンのポケットに隠した。二つとなりの病室を出た若い医師とナースが、デートの約束を交わしながら通りかかったのだ。

「僕の顔を見たら、彼女の頭のなかに雷が落ちて、正気に戻るかもしれないだろ?」

「ハ! たいした自信だぜ」

 ショコラ・ビーメイは一階の売店で手に入れた、今どき珍しい極厚マンガ雑誌を閉じると、表紙の魔法少女そっくりな丸い顔を上げた。

「ねぇ、人間なのに植物ってどういうこと?」

「てめぇは黙ってそれでも読んでろ」

 ザルネルは言い放って、すぐに背を向けた。

「教えてくれたっていいじゃん」

 少女はむきだしの細腕で男の上着の裾を引っぱる。

「バッ! 触んじゃねえ!」ザルネルはショコラを押しのけると、古びたスタジャンを大事そうに着直した。「医学マンガでも読んでりゃ、そのうちわかるだろうよ」

 ショコラは再びマンガ誌を開いた。

「……あ、ほんとだ」

 悶着がおさまったところで、ナオは病室のドアを開けた。

 医療機器に半ば包囲されたカプセル型のベッドが一つ。中は透明な液体で満たされており、色白の美しい女がパジャマを着たまま底に沈んでいた。

 カプセルのそばに若い男が一人、丸イスにすわり、悲しげな顔で物思いに耽っている。一重まぶたの切れ長の目。依頼人のパトリック・チャノだ。

 パトリックはハッとして顔を上げると、小さく微笑んだ。

「ああ、すいません。気がつかなくて」

 ナオは挨拶もそこそこに本題を切りだすことにした。ヘイズの視線が、眠れる水の妖精、リディア・ペトレスクに釘づけだからだ。あんな(ケダモノ)に交渉を任せたら、なんとかして彼女が手に入るよう、奸知をめぐらすに決まっている。

「ご依頼の件ですけど……リディアさんから夢を奪ってもらいたい、というのはいったいどういうことでしょうか?」

 依頼人は壁ぎわの長イスを四人にすすめると、大きなため息をもって悲話の幕を上げた。

「僕とリディアは三年前、この街で知り合いました。僕は商社の営業で、彼女は取引先の受付嬢。特に変わった出会いではなかったと思います。つき合いはじめてからちょうど一年、幸せな時間を過ごしてきた僕らは、結婚の約束を交わしました。それから数日後のことです。リディアが突然、植物状態になってしまったのは」

 パトリックは街や郊外の医者という医者を訪ね歩いた。名医と聞けば、惑星の裏側まで飛んでいったりもした。だが、返ってきた答えはただ一つ、現代の医学ではどうにもならない、というお決まりのセリフだった。

「僕らがいったいなにをしたっていうんです! 八百万(やおよろず)の神にだって、恨まれる覚えはない!」

「お、落ち着いて……」

 ナオはそうなだめるのが精一杯だった。

「ああ、すみません」

 男は両手で顔を張って一息つくと、話をつづけた。

 医者は頼りにならないと悟ったパトリックは、ネット世界に身を投じ、どこの誰とも知れぬ者たちに手当たりしだい聞いてまわった。そんなある日、おまえの噂を聞いたといって、フードをかぶったローブ姿の化身(アバター)がたまり場に訪ねてきて、妙なことを口走った。

「その女はある魔物の名を口にしてはいなかったか、と彼は言うんです」

「魔物……」

 ナオは眉をひそめた。科学の話も苦手だけれど、そういう類の話もあまり本気で聞く気にはなれない。

「たしかにリディアは、どんな呼びかけにも反応しないというのに、たった一つだけ、誰かの名前らしき言葉を何日かに一度、口にしていました」

 ローグバラン……その名を耳にしたローブの男は、かすかに口もとを緩めた。

「それは夢魔(むま)というやつだ。女の悪夢のなかに入って、その名を与えられたモノを倒すことができれば、女は目覚めるであろう。ただし!」

「た、たたただし?」

 パトリックの迫真の口ぶりに、ナオはすっかりローブの男を前にした気分になっていた。

 黒い髪の青年は立ち上がると、医療カプセルに両手をついた。

 女の口から小さな泡が一つ、ゆらゆらと上っていく。

「夢魔は……取り憑いた人の記憶に、深い根を張りめぐらせるのだそうです」

「つまり」ヘイズは言った。「夢魔を倒すということは、すなわちリディアの記憶も多くが失われるということ」

 パトリックは小さくうなずく。

 ナオは叫んだ。

「そんな! それじゃ、もし私たちが依頼を果たしたとしても……」

「いいんです。リディアが悪夢から目覚めてくれるなら、それでいい」

「でも、下手をしたらあなたが誰なのかだって……」

 男はナオを見つめた。

「ナオさん。あなたは心の底から、誰かを愛したことがありますか?」

「そ、それは……」

 ナオは小さく萎んだ。それを言われるともう、話をつづけられない。

 ヘイズは白メガネのブリッジに手をやった。

「確認しておくけど、僕らの相場は安くはないよ?」

「そのことなんですが……」

 パトリックはいきなり土下座すると、実は分割でしか払えないことを深く詫びた。

「ダメだね。この話はなかったことにしよう」

「ヘイズさん!」

 ナオは思わず怒鳴った。

「たとえ小さな事でも、人を騙すような男のために働く気はないよ」

 ヘイズの冷たさに腹を立てながらも、ナオはその言葉のなかに一つの光明を見いだした。

「じゃあ、女のためなら働くんですね?」

「う……」

 ヘイズはしまったという顔をしてため息をついた。

「パトリック、君はなぜそこまで彼女にこだわるんだ?」

 男は伏せていた顔を上げた。

「その理由はさっき言いましたよ」

「じゃあたとえば、リディアちゃんが君のことを思いだせず、僕と結ばれてもかまわないというわけだ」

「彼女がそう望むのなら」

 ヘイズはイスから立ち上がると、ニッと笑った。

「オーケー。じゃあ、しっかり『長生き』してくれたまえ。さぁ諸君、仕事だよ」

 白ずくめの男は上機嫌で病室を出ていった。

「分割かよ」とザルネルがぼやきながらそれにつづき、マンガを読み終えたショコラがその後を行く。

 ナオは立ち上がると、依頼人に向けていびつな笑顔を送った。

「ご心配なく。(ずえ)っ対、阻止しますから!」

 依頼のことなどどこかに行ってしまったナオは、このときまだ、リディアという想像力あふれる才女を乗っ取った悪夢の恐ろしさを知らなかった。



 2


 スモーキー一味は、病室の医療機器をまるごと買い取ってリディアを退院させ、トラックで数百キロ離れた荒野へ運ぶと、それらを宇宙船〈ヘリオドール〉の下部ハッチから船倉へ搬入した。くすんだ黄金色のクジラは腹に空いた穴を閉じると、まっすぐ大空へ舞い上がり、さらに上昇して宇宙へ飛びだした。

 医療機器やカプセルの調整が終わり、船倉の隅に仮設病室ができあがると、リディアの世話を恋人の男に任せ、四人は居住区に通じるタラップを上がっていった。

 コクピットの席についたヘイズは〈ヘリオドール〉を陰から支えるAIファイに命じ、遙か別の銀河にいるセルジオをという男を呼びだした。やがて前方にエアスクリーンが開き、頭巾をかぶったひげがちな男の真剣な『横顔』が現れた。

『今、後半のロスタイムだから、もうちょっと後にしてくれ』

 セルジオ・サントス・ゴメス・アル=ジャベル博士。カナリア色の寸胴ワンピース(カンドーラ)に青い頭巾(ガットゥラ)、ラテンとアラブがごちゃ混ぜになったようなこの初老の男は、珍妙な発明品を生みだすことで、一部の筋にはよく知られていた。

 試合終了の笛が聞こえると、セルジオ博士はデスクから立ち上がり、観衆の勝利の歌声にあわせて体をくねらせた。

「むしろサッカー中毒(バカ)として有名だ」

 ザルネルは変な踊りに見入っているナオに解説した。

 恍惚のダンスが終わると、博士は陽気な笑顔をやっとこちらに向けた。

『ああ、すまんね。それで?』

 ヘイズはイラついた様子もなく、淡々と事情を語った。

 博士は白いものが混じったもじゃもじゃのひげをさすった。

『フーム、それだとアレを使わねばならんな』

「アレって?」

 ナオは訊いた。

『アレといえば君、アレだよ』

「ぜんぜんわかりませんけど?」

 セルジオは発明品にちゃんとした名前をつけず、人々を混乱させることでも悪名が高かった。

『まあともかく、詳しい話は会ってからにしよう』

 ザルネルは言った。

「先生よぅ、ごひいき『インテル・ガラクシア』の試合は来週までないんだろうな?」

『ん、あー、その、皇帝杯と銀河チャンピオンズリーグがな……』

 博士はひいきクラブが負けると、面会不能になることでも有名だった。

 ヘイズはため息をつくと、試合のない日にあわせて跳躍(ワープ)準備をすすめるよう、皆に言い渡した。



 3


〈ヘリオドール〉は『次元の架け橋』を渡り、MF(ミッドフィールド)銀河のとある宇宙空間にワープアウトした。『複次元航法』の発明のおかげで、数百万光年の跳躍でも、実際にかかる時間はわずかなものだった。とはいえ、『架け橋』を渡っている最中は、五感や第六感がおかしくなり、人によっては何日も何週もかかっているように感じたり、ご先祖のゴーストに出会ったりと、決して楽な旅ではなかった。

 ナオの場合はよく視聴覚に関わる脳をやられた。ヘイズやザルネルの声がチェッカー柄の渦巻きに『見え』たり、ショコラの顔がチープなゲームの効果音に『聞こえ』たりするため、ワープ後少なくとも一時間は席から離れられなかった。

 他の三人はもう慣れてしまったらしく、目的地につくや、リディアたちの様子を見に船倉へ下りていった。


 植物状態のリディアは、寝ても覚めても変わりなく、カプセルの液体の底で大人しく横になっていた。一方、依頼人の男はひどい頭痛を抱えてうなっていた。

 ナオとパトリックが回復して人手がそろうと、五人は患者や機材を箱形の輸送艇(ランチ)へつめこんでいった。全員がランチに乗りこみ、運転席でザルネルが命じると、AIファイは船体下のハッチを開いた。〈ヘリオドール〉を出たランチは、少しの間なにもない静寂のなかを進んでいき、やがて翼の生えた青いサッカーシューズのような船〈ターコイズ〉号の中腹に吸いこまれていった。


 ランチを下り格納庫で待っていると、セルジオの代わりに縦縞のユニフォームを着た少女が現れた。少女はひと言あいさつをしただけで、大人たちにてきぱきと指示を出し、重たい医療機器を近くの実験室へ運ばせていった。プログラムの不備で人工重力は調節できないとのこと。

 小さな体育館ほどもある実験室には、古今の発明家の例にもれず、異形のマシンの数々が所狭しと控えていた。長い黒髪をおさげにした大きな瞳の少女は、大汗をかいてうなる大人たちに先んじ、ガラクタを蹴り飛ばしてはスペースをつくっていった。

 かつては模範的な文系人間だったナオの細腕がめりめりと悲鳴をあげはじめた頃、ようやく作業が終わり、少女は自己紹介をした。

「博士のかわいい孫にして天才助手の、ティーコです。よろしく」

 本名は博士の五倍くらい長いので省略、愛称で充分とのことだった。

「ところでセルジオ博士は?」

 ヘイズが訊くと、ティーコの瞳は泳いだ。

「あ、えーと、チャリティ親善試合があるのを忘れてた……とかで……」

「あんのジジイ!」

 ザルネルが実験室を出ていこうとすると、ティーコは大声で引きとめた。

「その……部屋に行っても今は誰もいないし」

「テレビ中継じゃないんですか?」

 ナオが訊くと、少女はぎこちなくうなずいた。

「チ……チケット、キャンセル待ちのが手に入った……とかで……」

「罰金は避けられないな」

 ヘイズが言うと、ティーコは両手を広げた。

「で、でも、すっごい人気クラブだから、会員だってめったに取れないんだよ?」

「そういう問題じゃねえだろ!」

 ザルネルの怒声にもひるまず、少女はつづけた。

「大丈夫。博士が帰ってくるまで、この天才少女ティーコさんがどんと引き受けます」

 セルジオの孫娘は、たしかにマシンの操作には詳しいようだった。博士がアレと呼んでいた『タンスの長城』のような装置と、リディアの命をつなぎとめている医療カプセルとの同期(シンクロ)にミスはなかった。それでもナオは、このお調子者の娘がなにをしでかすか、不安でいっぱいだった。

「まずい……心拍数も血圧も下がってる」

 パトリックは浮かない顔で計器を見つめていた。

 なにも感じていないようにみえていても、リディアは魂の深いところで環境の変化を敏感に受けとめているようだった。

「軽率だった。彼女の感じ方を、健康な人間と同じように考えてしまった」

 ヘイズはミスを悔やんでいた。リディアはワープに耐えられる心身を持ちあわせてはいなかった。エサで釣って高くついたとしても、セルジオ博士を彼女の惑星(ふるさと)へ呼び寄せるべきだったのだと。

 リディアの体が今後回復するかどうかは、神のみぞ知るところだ。

 ヘイズは決断した。

「責任重大だぞ、ティーコ」

「任しといて」

 汚れのない少女の笑顔が、ナオをいっそう不安にさせた。


 スモーキー一味は、『タンスの長城』に沿って横一列に並んだイスにすわると、あちこちからコードを生やした、ハーフ型のヘルメットのようなものをかぶった。

「本当にこんなもので、人の夢のなかに入っていけるのかい?」

 ヘイズが訊くと、ティーコは入力作業の手を止めてむっとした顔を見せた。

「爺ちゃんはいい加減なとこあるけど、人様に出せるような作品だけはちゃんとしてたでしょ?」

「たしかに」

 それを聞いて少しだけ余裕のでてきたナオは、ふと左右に目をやった。

 ザルネルは仕事前の一服をふかし、ショコラは電算機の怪物につながれてどんよりしている。

 四人がゴーグルのようなものをかけてすべての準備が整うと、少女の助手から解放されたパトリックはカプセルに張りつき、ティーコは『長城』の端にある大きなレバーに手をかけた。

「そっちの様子はこっちからだいたいモニターできるから安心して。じゃ、いくよ!」

 ナオたちは目を閉じ、リディアの悪夢の世界へダイブした。



 4


 そこは短い草でおおわれた高い崖の縁だった。下界には黒っぽい森や湿地が不気味に広がっていて、その先ではノコギリの歯のように尖った山々が、幾重もの雲をつらぬいていた。

 他人の夢とはいえ、この見晴らしにひと言くらい声をあげてもよさそうなものだが、ナオたちはそれどころではなかった。

「その」「かっ」「こう」「は?」

 四人は同時に叫ぶと、すれ違い恋愛物語の相関図のごとく、架空の矢印で循環の輪をつくった。ナオたちは人間とはかけ離れた姿をしていた。

 ナオは翼の先が燃えさかる(あか)(おおとり)、ヘイズは前肢に鎌を生やした白い狐、ザルネルは雲の塊に乗った(くろ)い亀で、ショコラは千手の舌をもつ青い蛇だった。

 四人が互いの姿を教えあって狼狽えていると、天の声があった。

『リディアさんって、すごい想像力もってるらしいね』

 かわいい声の主はティーコだった。彼女がパトリックに聞いたところによれば、恋人は趣味で絵や小説をよく書くとのこと。優れた右脳をもつ人が創りだす世界はなにが飛びだすかわからないから気をつけるようにと、博士の助手は言ってきた。

「ありがてぇ忠告だこと」

玄亀(げんき)〉ことザルネルは、宙に浮いた体を雲の力でくるりとまわしてみせた。

朱鵬(すおう)〉ことナオは、炎の混じった吐息をついた。飛びだすもなにも、すでに自分たちのことで腰が抜けそうなんですけど。

 機械につながれて元気のなかった〈青蛇(せいじゃ)〉ことショコラは、千手の舌で〈白狐(びゃっこ)〉のヘイズをからかっているうちに、デジタルと融けあった夢世界に少しずつ慣れていった。

「ところで、倒すべきローグバランとやらは、どこにいるんですか?」

 ナオの問いに、天声はわざとらしいダミ声で答えた。

『それを探すのが君たちの仕事だろう』

 大人たちは沈黙をもって少女を非難した。

『じょ、冗談だってば。えーと、パット兄さんによるとね……』

 リディアはなにか悩みを抱えていたのか、ときどき性格に似つかわしくない不気味な絵を描くことがあった。その絵を思いだして突きあわせてみると、どうやら『ノコギリ山脈』の向こう側が怪しいとのことだった。

「向こう側って、簡単に言うけど……」

 そもそも、この孤立した高い崖からどうやって下りろというのか。翼のある朱鵬(ナオ)と雲のある玄亀(ザルネル)はともかく……。

「さぁ、乗った乗った」

 青蛇(ショコラ)は言いながらぴょこんと大亀の上に跳び、白狐(ヘイズ)が後につづいた。

「ああ、なるほど」

 朱鵬(ナオ)も長い脚で地を蹴って、甲羅に上がった。

「てめぇら……この貸しは高くつくぜ」

 玄亀(ザルネル)はスライムのような痰を一つ吐くと、奇妙な三匹を乗せて空に舞い上がった。


「あの……もうちょっと低いところを飛びませんか?」

 朱鵬(ナオ)は甲羅のてっぺんでうずくまっていた。鳥の姿になったといっても、ナオは所詮ナオだった。

 遙か下界には赤ワインがつまったボトルのような、暗い色の森が霞に煙っている。あんな瘴気に満ちた魔境には近づきたくないけれど、こんな高いところに比べたら……。

「……」

 玄亀(ザルネル)は聞いていなかった。さっきから青蛇(ショコラ)が首にまとわりついて、からかっていたのだ。

 他の仲間を乗せている手前なのか、安全飛行をつづけてきたザルネルだったが、大人の堪忍にも限界があった。

「テーマパークじゃねえんだぞ、クソガキが!」

 玄亀(ザルネル)青蛇(ショコラ)をふり落とそうとして、平たい巨体を縦にした。ナオとヘイズのことなどすっかり忘れて。

 白狐(ヘイズ)は前肢の鎌を甲羅の溝に引っかけ、青蛇(ショコラ)はそのまま亀の首にまきついて落下を逃れたが、鋭い前肢もなければ足の爪もそう強くはない朱鵬(ナオ)は空中であたふたした。

 そうだ……私には翼があったんだ。意を決して両手を広げる。

「お?」

 ザルネルと彼にしがみつく二人は、騒ぐのを忘れてナオの炎の翼に見入った。

「私……飛んでる」

 朱鵬(ナオ)の体はグライダーのように空を滑り、あっという間に玄亀(ザルネル)たちを引き離していった。

 恐い恐いと怯えながらも、雄大な景色のなかへ溶けこんでいく感覚には、なんとも言えない快さがあった。

「おーい!」

 遠くの方から仲間の呼ぶ声。

 ナオはハッと我に返った。そうだった。(こわ)気持ちいい遊びに浸っている場合じゃなかった。戻らなきゃ。ええと翼を、翼をはばたくのよ……。

「どうやって?」

 朱鵬(ナオ)はまだ巣から出たことのない若鳥と同じだった。翼をどうやって動かしたらいいのか、どうやって風をつかめばいいのか、さっぱりわからない。

「ああああぁ!」

 朱鵬(ナオ)は翼を広げたままなすすべなく、紙飛行機のようにゆるゆると森へ突っこんでいった。



 5


 一羽はぐれた(あか)い鳥は、いびつな形に生い茂った木々の暗がりをさまよっていた。

 不時着したのが小さな沼の浅瀬で、体のほうはどうにか無事だった。炎の翼は粘っこい水気などものともせず、ごうごうと燃えさかっていた。救援を待つべきか、自力で脱出すべきか。ナオは迷った末、ひとまず森へ入ることにした。沼のあたりは多少開けてはいるものの、ムカデのような巨大生物が宙を飛び交っていたり、触手を生やした水草が黒花の棺桶を用意して待ちかまえていたからだ。

 未開惑星のような沼地とはうって変わって、森は静かだった。上空で想像したような瘴気じみた魔物はどうやらいないようでほっとしたけれど、常に誰かに見られているような感じがどうにもたまらない。

 針金のような細脚を、一歩前に出すごとに速めていき、朱鵬(ナオ)はついに走りだした。

 じっとしていた気配は左右に分かれると、一定の距離を保ちながら忍者のように追いかけてきた。

 逃げられないと悟ったナオは足を止め、震える声で叫んだ。

「わ、私をどうしようっていうんですかっ!」

 気配たちはまた、じっとしてこちらを見ていた。

 突然、掃除機かなにかで後ろに引っぱられる感じがして、朱鵬(ナオ)はよたよた退(しりぞ)いた。驚いてふり返ったけれど、なにもない。

 ざわっ! 湿ったなにかが頭をかすめた。

「ひあああぁ!」

 恐怖が頂点に達したナオは、本能の赴くままどこへとも知れず逃げまどった。

 枯れ草を踏みしめ、倒木を乗りこえ、しばらく走っていくとまわりが少し明るくなってきた。見上げると灰色の直線がすうっと天空にのびている。その細長い曇り空が滑走路のように思えたナオは、決心した。

 一か八か……飛んでみよう。今ならきっと、野生の力が私を導いてくれる。

 上り坂のてっぺんで地を蹴り、朱鵬(ナオ)は炎の翼を広げた。体が浮いた感じがした。やった! 私、今飛んで……。

 べしゃ!

 気づくと朱鵬(ナオ)の長い首は、雪のような白花の畑に見事なランディングを決めていた。人並みに温室育ちのナオに、野生の力など引きだせるはずもなかった。

 謎の気配は炎の鳥がドジを踏んだと見たのか、一気に迫ってきた。

 着地のショックで頭が朦朧としているナオに、なすすべはなかった。ああ、せめてどんな魔物にやられたのか、それだけでもわかれば化けて呪ってやるのに……。

「きゃん!」

 ところが、謎の気配は犬のような悲鳴をあげると、どこかへ消えてしまった。

 なんだかわからないけど、助かった……と思ったのもつかの間、哀れな鳥は灼熱の壁にとり囲まれていた。種油でも抱えていたのか、白い花畑はあっという間に炎の海面と化した。

「そうか……私の翼……」

 などと見ている場合ではない。

 逃げ道を断たれたナオはもう飛ぶしかなかった。燃える翼を持っているとはいっても、体のほうはただの(あか)い大鳥、不死鳥のようには都合よくできていない。

 ナオは言葉にならない叫びを発しながら、羽を上下に揺すった。今度こそ体が浮き上がった。若木の枝をかすめ、巨木の林冠を越え、森全体を見渡せるところまで上っていくと、恐ろしい光景に心が震えた。

 さっきまで森だったところがもう、恒星のコロナのようなものすごい火柱に飲みこまれている。炎は呪われた大地をどこまでも焼き尽くしていった。

 燃えるものがなくなって火が小さくなると、朱鵬(ナオ)は少しずつ浮力を失って、ついにはむっとした焦げ臭い荒野に下り立った。

 ナオは片方の翼を広げてじっと眺めた。炎と炎が磁石の同極のように反発した、という感じだった。そんなことより……。

「ああ……」

 黒い骸骨のようになってしまった木々を目にしたナオは、首をたれ、疲れて膝が折れるまで泣いた。夢魔に取り憑かれていたとはいえ、あの森はリディアの心の一部だったのだ。

『そんなに悲しまないで。リディアはああ見えても、災害孤児という不幸から這い上がってきた強い人です。心が少し焼け落ちてしまったとしても、いつかまた新芽が吹いて再生しますよ』

 パトリックらしき天の声があった。

 孤独から救われたナオは、ほっとしてゆとりができると、怒りを露わにした。

「黙って見ているなんて、ひどいじゃないですか!」

『それは、あの……』

 説明に窮した男に代わって、ティーコが応えた。

『ごめん。四人一緒に行動するとばかり思ってたから、マーカーはヘイズ(しろいにいさん)にしかつけてなかったの』

 あの火事がなければ、現実世界にいる二人に見つけてもらえず、一生リディアの悪夢に閉じこめられていたかもしれない。そう思うとナオはぞっとした。

「それで、みんなは今どこに?」

『ローグバランのお城』

「そ、そんな……」

 見捨てるなんて、ひどい……。

『……に捕まってる』

「ええっ!?」

 亀と蛇のケンカの巻きぞえをくってナオが森へ墜落した頃、空飛ぶ魔獣の大群がヘイズたちを取り囲み、夢魔の居城へと連行していったのだった。

「ど、どどうしよう?」

『そこからだとお城は、ノコギリ山脈を越えた先の、黄色い湖の中島にあるんだけど……』

「私、燃えるものが下にないと、飛べないみたいなんです」

『山は崖だらけだし、湖は毒でできてるようだし、夢へ入る装置は満員だし、うーん……』

 少し間があって、ティーコは言った。

『しょうがない、あの手でいこうか……』

「あの手って?」

 いやな予感がした。

『チクッとするけど、ガマンしてね』

 少女が処置室のナースみたいなことを言った、次の瞬間。

「ひぎいいぃ!」

 ほとばしる電光に包まれて、ナオは気を失った。


 ふと目覚めて長い首をもたげると、そこはヤシの木が一本だけの、絵に描いたような無人島だった。

『あちゃー』

 不穏な天声を耳にしたナオは声が上ずった。

「な、なにか問題でもあったんですか?」

『んーん、なんでもない』

 涼しい回答の裏になにが隠れているのか、現場が見えないだけにかえって不安が募る。

『今びくっと跳ねたぞ! 君はリディアになにを……』

 パトリックの怒声を最後まで聞くことなく、ナオは再び雷に打たれたように気絶した。


 目覚めるとそこは、古代の公衆浴場らしき建物の廊下だった。

『あれ、おっかしいなぁ』

「遊んでる場合じゃないでしょ!」

 ナオは叫んだ。

 すると、部屋から出てきた素っ裸の男たちが、いっせいにこちらを向いた。

「おや? 変な鳥がいるぞ?」

 美術室で見たことあるような上も下もたくましい男たちは、ぞろぞろとやってきて(あか)い鳥を取り囲んだ。

 逃げ道を探しているうちに、目も脚もやり場がなくなってしまった。男慣れしていないナオは緊張のあまり、子犬のようにひきつけを起こし、視界がホワイトアウトした。


 黄緑色に輝く地下洞窟に出たかと思えば、戦斧(バトルアックス)円盾(ラウンドシールド)でごったがえす小人たちの国境だったり、海底都市の窓をタコの化け物がぶち破って大騒ぎになったかと思えば、天界行きのエスカレーターで孤高のミュージシャンとすれ違ったりと、ティーコの秘策はことごとくアテが外れた。

「ハァハァ……」

 のっしのっしと草原を行く首長恐竜の背中で、朱鵬(ナオ)は羽交いの乱れを整えた。

 日曜作家リディアの頭の中って、いったい……。

『ハァハァ……こ、今度こそ……』

 ティーコの掠れた声。

「で、できればなにか別の手を……」

『いい加減にしないか! 電撃で夢の構造を変えようなんて、無茶にも程がある!』

 パトリックとティーコがガタゴトともみあっている音がする。

『あっ、そのボタン触っちゃだめ!』

『えっ?』

 状況はなんとなく想像できた。足もとに広がっていく小さなブラックホールを眺めながら、ナオはつぶやいた。

「所詮は魔法使いの弟子なのね……」



 6


 ナオは闇の縦穴をどこまでも落ちていった。やがて、足もとの彼方に小さな光の点が見え、それがだんだんと広がっていったかと思うと……。

 ガッシャーン!

 (うずたか)く積まれた壺の山に突っこんだ。

「イタタタ……」

 ガレキの中からもぞもぞと這いだしてみると、そこは歌劇場のような形をした、独房の団地だった。円筒を半分に割ったようなホールの一階部分が、ナオの落ちた場所だ。

 朱鵬(ナオ)は長い首を巡らしながら思った。たしかに造りは歌劇場のようだけど、座席はないし、きらびやかな装飾もなければ、天井の絵画もない。大まかなところまでは造ったものの、その後計画が変わり、牢獄にしたという感じだった。

 ふり返ってみると、幕もセットもなく剥きだしではあるけれど、舞台もちゃんとあった。

「んあ……なんだ? 内輪もめでもやらかしたか?」

 三階の元ロイヤルボックスの辺りから、聞き覚えのあるダミ声があった。

「ふあぁ……おやつ、まだぁ?」

 男の声があったちょうど向かい、鉄格子のすき間に千手の舌が見え隠れしている。

「二人とも、寝ぼけている場合じゃないぞ。ナオが来てくれた」

 二階の奥の鉄柵越しに、ヘイズが白い狐顔を見せた。

「いや、私は、その……」

 ティーコと依頼人のもみ合いがたまたま旨いほうへ働いただけ、などとはとても言えなかった。それにしても……ナオは首をかしげた。ここには結界でも張ってあるのか、ヘイズたちは外の事情がわかっていないようだ。

 朱鵬(ナオ)は彼らをどう救えばいいのかわからず、ときどき牢屋のほうへ首を突きだしてみては、一階の広場を行ったり来たりした。

「そうか……やはり飛べなかったか……」

 ヘイズの言葉に、ナオはうっと胸がつまった。

「ご、ごめんなさい」

「君のせいじゃないさ。僕らも与えられた能力を使いこなせないまま、あっという間に捕まってしまったからね」

「だが、それはもう過去の話よ」

 玄亀(ザルネル)は気合いもろとも頭突きして、鉄格子をぶち破った。

 つづいて青蛇(ショコラ)が千手の舌から酸の液を飛ばし、最後に白狐(ヘイズ)が前肢の鎌を電動カッターのごとくまわして脱獄を果たした。

 ナオはちょっとだけがっかりした。『来てくれた』というのは、助けに来てくれたという意味ではないらしい。彼らは獄中で密かに能力を磨きながら、時機を待っていたのだ。

 ホールの中心にいつもの四人がそろうと、朱鵬(ナオ)は安堵のあまり膝が崩れた。

「おっと」

 狐の尖った鼻先が、大鳥の引き締まった尾羽を下から支える。

「だ、大丈夫です。ありがとう」

 朱鵬(ナオ)が体を起こそうと踏んばったとき、翼の炎がぼっと増して、狐の鼻をかすめた。

「うぁちゃちゃちゃ!」

 白狐(ヘイズ)は顔に広がった火が消えるまで、辺りを駆けずりまわった。

「どさくさに女のケツを拝んだつもりが、罰があたったというわけだ」

 ザルネルは笑った。

「え?」

 ちょうどショコラが話しかけてきたところだったので、ナオはよく聞いていなかった。

「ハッハッハ、なかなか面白い人たちですね」

 舞台の袖から男の声がして、ナオたちはふり返った。

 能面から鼻と口を取り去ったような気味の悪い仮面をした、マント姿の男にスポットライトが当たる。

「あんたがローグバランさんかい?」

 狐は相手の力を推し量るように目を細めた。

「そうらしいですね」

「らしい、とはどういう意味かな?」

「フフ」

 仮面の男は小さく笑うだけだ。

「リディアさんはどこにいるんですか!」

 ナオは叫んだ。

 男は舞台の中心へ歩きながら言った。

「どこもなにも、この世界そのものが彼女自身なのですよ。私はリディアという女神の創造物にすぎない」

 なんということだろう。リディアはウィルスや呪いのような、外からやってきたものに侵されたのだと思いこんでいたナオは衝撃を受けた。彼女は自分自身の葛藤のなかに、創造主の力を超えた怪物を生みだしてしまったのだ。

 リディアの悩みの根源を知りたい。けど、その前に男の正体を知りたい。そう考えていたナオの心を見透かしたように、ローグバランは仮面を外した。

「パ、パトリックさん!?」

 仮面の男は依頼人にして婚約者の、パトリック・チャノその人だった。これにはさすがの豪傑三匹も言葉がない。

「ローグバランとは、ある惑星の神話に出てくる悪魔が、切り札にしている分身の名前です。その悪魔は分身を使って相手の心に闇を植えつけ、自滅させることを得意としていました。リディアは大学でそのことを少し学んで記憶の片隅にあったせいか、似たような存在に思えた私にそう名づけたのでしょう」

 ナオは確信した。この男はリディアの悩みの種をそのまま形にした存在なのだ。彼女はそれを悪魔の分身の名で呼んだ。問題は自分の心の領地にあるというのに、リディアの精神の暗い面は、それを忘れさせてしまう力をもった恐ろしい摂政を生みだしてしまったのだ。

 婚約したのに、それだけ悩んだということは……。

「リディアさんは、もしかして……」

 ナオはそこまで言って口をつぐんだ。パトリックが見ているかもしれないのだ。

 パトリックの生き写しは微笑んだ。

「リディアが彼を愛していることに偽りはありません」

「う……」

 また心を読まれた。地の利ではまったくこちらが不利のようだ。

「だが、結婚は望んでいなかった。雰囲気にのまれてプロポーズを受けてしまったものの、その意思が揺るがないことだけはたしかだった」

「そんな! どうして……」

 ローグバランはマントを高くふり上げた、かと思うと、瞬きする間もなくナオのそばへにゅっと現れてささやいた。

「リディアは生まれつき、子供を産めない体なのです」

「ああ……」

 そのひと言でナオは打ちのめされた。

「そういう訳ですから、彼女の眠りの邪魔をしないでください」

 偽パトリックは口もとを緩めると、懐に手をやった。

「させるか!」

 白狐(ヘイズ)は竜巻のように鎌をまわして男に飛びかかった。

 マントの男は懐から虹色の卵を取りだすと、ひじで割った。すると煙とともにクモの糸を太くしたようなものがばっと広がり、あっけなく狐をからめとった。つづいて玄亀(ザルネル)の頭突きを二個目の卵からふくらみ出た巨大なハンマーで叩きのめし、最後に三個目の卵から飛びだしたブリザードで青蛇(ショコラ)の千手舌を凍らせていった。

「私を誰だと思っているんです」

 夢魔は笑った。

 現実世界にたとえれば、神をも超えた存在なのだ。勝ち目などあるはずがない。少なくとも力と力の戦いでは。

 朱鵬(ナオ)はギッと男を睨んだ。

「私たちをどうする気ですか」

「殺してしまってもいいのですが、そのせいで我が創造主のリディアが死刑ということになると、私も都合が悪いのでね。一生、この狂気に満ちた時空で遊んでいただくことにしましょうか」

 ローグバランはマントをひるがえし、さっそうと舞台へ上がった。

「ではみなさん、ごきげんよ……」

「パトリックさん本人がどう思うか、聞いてあげればいいじゃないですか!」

 ナオは叫んだ。そしてハッとした。彼に言っても無駄なのに、私、なんでそんなことを……。

 男は足を止め、肩越しに小さく言った。

「彼も、彼の両親も、そのまた両親も、元気な娘息子をその手に抱くことを、あからさまなほどに望んでいる。そういう家系なのだよ」

『僕が悪かった!』

 若者の叫びが天にとどろいた。

『君の苦しみをなに一つ酌んでやれなかったなんて……情けない限りだ!』

「……」

 ローグバランは口をつぐんだまま再び仮面をつけた。

 心なしか夢魔の身が縮んだように、ナオには思えた。

『たしかに僕は子供がたくさんほしいと言った。でも、それは君と僕との間に生まれればこそという意味だったんだ! だから、たとえ君の体が事情を抱えていたって僕は……』

「パット……」

 夢魔の仮面にぴしりと縦筋が入った。ほどなくそれは二つに分かれ、リディアの美しい顔が露わになった。

『サルベージ……開始』

 ティーコの鼻をすする音を最後に、ナオたちは現実の体へ引き戻されていった。



 7


「結局ボクら、いいとこ全然なかったね」

 ショコラのひと言に、コクピットの面々はそろってうなだれた。

 あれからリディア・ペトレスクは完全に目覚めて体調も戻り、改めてパトリック・チャノと結婚の約束を交わした。

「ああ……リディアちゃん」

 ヘイズは力なくシートの背もたれに体をあずけた。

 夢魔が握っていたリディアの記憶は愛の力によって守られ、色男の野望は勇者に敗れた魔城のごとく崩れ去った。

 暗いムードのなかにあって、ナオは内心一人で上機嫌だった。あなたが夢魔に突っかかっていかなければ今の幸せはなかったと、リディアは宝物にしていた上等のイヤリングを密かにナオに贈ったのだった。でも、本当にうれしかったのは……。

 ナオは席を立つと、腰に手を組み、落ちこむリーダーのもとへ歩み寄った。

「優しいんですね、ヘイズさんて」

 窓の外に広がる青緑色の惑星と、ガラスに映ったナオが一つに重なる。

 男はそれを眺めながら言った。

「いやだなぁ、今ごろ気づいたのかい?」

 優男は笑うと、ナオの尻にそっと手をのばした。

 ナオは見切って手刀をふり下ろす。

 席のアームに肘を強打したヘイズは悶絶した。

 依頼人の力を借りなければ解決どころか全滅だった、プロとして失格だと、我らがリーダーは成功報酬を受け取らなかった。せっかく慰めてあげようと思ったのに、今のですっかりやる気が失せた。

〈ヘリオドール〉の船体がぶるっと揺れてエアスクリーンが起動すると、〈ターコイズ〉のコクピットをバックに、ひげがちな頭巾男が現れた。

『いやぁ、すまんすまん。勝つには勝ったんだが、サポーターの間で暴動が起こってしまってね。信じられるかね? 親善試合でだぞ? それで定期便の宇宙船(ふね)に乗り遅れたというわけで……』

 セルジオ博士はそこで口をつぐんだ。

 ヘイズの肩から青白いオーラが立ち上っていたのだ。

「博士、この代償は高くつくぜ」

『な、なぜだ。ティーコはしっかりやったろう?』

「あの娘のせいで、僕らは今でも頭痛を抱えているんだ!」

 ティーコのショック療法によってナオが幻想世界ツアーにふりまわされていた頃、結界の内側にいた他の三人は、ものすごい振動に揺すられて、独房の壁や天井に体のあちこちをぶつけていた。これが現実なら全身打撲で湿布だらけのはずだが、脳内世界でのことなので痛みが頭に集中してしまうのだった。

『そう怒るな。夢魔の結界に小さな穴をあけ、奴の言葉をすべて拾うように言ったのは、なにを隠そうこの私なのだ。そうでなければパット君はフィアンセの秘密を知ることも、愛の叫びもなかったはずだがね』

 セルジオ・サントス・ゴメス・アル=ジャベルは、スタジアムでサッカーを観戦しながらも、要所ではティーコの実況を通信機で聞き、対策を講じていたのだった。

「それについては感謝してる。だが……」

 博士のとなりで下を向く小さな『10番』を一瞥すると、ヘイズはつづけた。

「ティーコが勝手をやったとき、あんたはなにをしていた」

『そ、それは……』

 博士は片頬をひきつらせて口ごもった。どう見ても、言い訳になにかをでっち上げようとしている顔だ。

 一方、良心の呵責に耐えかねたのか、少女はおそるおそる事実を口にした。

『三十メートルのフリーキックが入って逆転したってわめいて、それからしばらく通信が切れちゃったの』

 ヘイズの白メガネが光った。

「ショコラ、ザルネル、わかってるね?」

 二人の荒事師は小さく歯を見せると、バキボキ指をならし、それぞれの操縦桿を握った。

『ティ、ティーコ、緊急ワープだ!』

 セルジオの叫びに、ティーコは眉をひそめた。

『例の〈長城(アレ)〉はワープ並みにエネルギー食うから、試合が終わったら補給屋を連れてくるって、言ってなかったっけ?』

『し、しまったぁ!』

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