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第二話 永久チャンピオン

 1


 ナオ・シーダースは宇宙船〈ヘリオドール〉のコクピットで一人、相容れない思いたちの間で苦しんでいた。ついこの前まで普通のOLをやっていた自分が、なんの因果か奇妙な強盗団で働くことになってしまった。金目のものや人の命には手をださないという変わったこだわりがあるとしても、やはり人からなにかを強奪することには賛成できない。かといって、橋の上から身を投げた冴えない女を拾ってくれた彼らに、恩を返さずして足を洗うことなど到底できそうになかった。

 どれほどの稼ぎをすれば納得できるだろう。私の命の値段って……。

「どしたの? ナオちん」

 気づくと目の前に、カスタードクリームで化粧した少女の顔があった。

「わっ!?」

 ナオはシートの背もたれにのけぞった。

 両手に三段重ねのシュークリームを装備したタンクトップの少女は、ショコラ・ビーメイ。ナオより頭半分も小さなこの大甘党は、こう見えても武器の扱いに長けた元軍人だ。

「顔ぐれぇ拭いたらどうだ。ここは託児所じゃねえんだぞ」

 航海長席にすわる口ひげの男は、ザルネル・ウレバスキン。キャップにスタジャンというスタイルを年中貫くこのオジサンは、どう見てもコクピットより競馬場のほうが似合いそうな感じだが、いったん舵を握らせたら人が変わったように働きだす、逃げることにかけては超一級の航宙士(パイロット)だ。

「いーじゃん、誰にもつけてないんだから」

「バッキャロー! 仕事場に乳臭せえ空気をまき散らすなっつってんだよ!」

 いつもの口論がはじまった。この狭い空間のなかでしょっちゅう暴れる二人をなだめてきた一団のリーダーに、ナオは同情せずにいられなかった。

 つばを飛ばしあっていた二人はやがて席を離れると、少女のほうは左脚をふり上げ、オヤジのほうは右拳を突きだした。

 と、ここでコクピットの出入口がさっと開いた。

「ごふ! げぶ!」 

 ヘイズ・スモーキーJr(ジュニア)愛用の白いスーツは、鼻血と靴跡で台無しになってしまった。

 背中を丸めて自席に帰っていく二人。

 若い男は白光りする奇妙なサングラスがずれていないことを確かめただけで、ナオとザルネルの間の指定席に腰かけた。

 ヘイズは鼻血を拭くと、ナオに微笑みかけた。

「どう? 少しは慣れたかい?」

「あなたの『のぞき』以外は」

「あ、あんまり根にもつとお肌によくないよ?」

「もっかい血まみれになりたいですか?」

 ブーン! ブーン!

〈ヘリオドール〉の船体がぶるっと揺れた。依頼の通信が入ったのだ。

 ヘイズは真顔に戻ると、虚空に声を張った。

「ファイ、つないでくれ」

 スモーキー一味をサポートする人工知能(AI)、ファイは寡黙な優等生だ。彼女は一級の計算力を誇りながらも、対話機能に解析不能のバグを抱えており、先のような妙なアラームなどによってどうにかコミュニケーションをはかろうとしていた。

 窓の外の宇宙をバックにエアスクリーンが起ち上がり、厳つい体をしたスキンヘッドの黒人が映った。男はアーネスト・バルボアと名乗った。宇宙最大最強といわれる格闘技団体『UFX』の主宰だ。

 ヘイズは浮かない顔で言った。

「拳一つで白黒つけたいような人たちが、僕らのような小賢しい連中に用があるとは思えないけどね」

 バルボアは眉根一つ動かさず訊いた。

『ソルティ・レイを知っているか?』

「ああ、子供でも知ってるさ。UFX宇宙無差別級の王座に君臨すること二十五年、先日、連続防衛記録を九十九にのばした、立ち技宇宙一の男」

「殴ってよし、蹴ってよし、無限大のスタミナ。衰えるってことをまるで知らねえ、自他共に認める『永久チャンピオン』よ」

 ザルネルがフォローした。

「ボク、そんな人知らないよぉ?」とショコラ。

「ニュースも見ねえでゲームばっかやってっからだ!」

 ヘイズは咳払いして話をつづけた。

「で、そのソルティ・レイがどうしたって?」

『その男が必ず勝つと決まっていたら、君はその勝負を楽しみにするか?』

「有力選手は彼との対戦を避けて他の団体に流れ、客もどんどん離れていく、と」

『半分は正しい。だが、ソルティが宇宙最強の格闘家であることは誰が見ても明らかだ。マネーや娯楽性を取るか、プライドを取るかで客も選手たちも揺れている』

「まぁ、それはプロの格闘技界じゃよくあることだし……」

『と、いうのは数年前までの話だ。UFXは今や存続の危機にある。そこでだ』

「まさか……」

 ヘイズのこめかみに一筋の光が伝う。

 バルボアはカメラに迫った。

『チャンピオンからベルトを奪ってもらいたい!』

「ち、ちょっと待ってくれ!」ヘイズは両手を突きだした。「いくらなんでも、ソルティの相手をできる奴なんかこの世にはいないでしょ」

『そこを頼んでいる! 報酬はイベント当日の全入場料ということでどうだ?』

「マ、マジですか?」ヘイズは生唾を飲みこんだ。「一人当たり一万ドラ(一ドラ=約一円)として、アリーナが満員だと十万人だから……って無理むりムリ!」

『そうか……』

 黒いスキンヘッドはうなだれた。

「悪いけど、こっちも万能じゃないんでね」

『俺たちに奪えないものはない、というのが売りであり誇りであると聞いていたのだが、そうか……私はその情報屋に騙されたというわけか』

「……」

 ヘイズは斜めにうつむき、くっと歯がみする。

「その話、受けます!」

 ナオは立ち上がった。

「お、おい!」

「商売というのは信用が第一です。一度でもそれを失ってしまったら、たとえ目先の利益はあったとしても、そのレールは輝ける未来にはつながっていない!」

 ヘイズは半顔をひきつらせる。

「ナ、ナオさん?」

「彼らは破産覚悟でお願いしているんですよ? 最後の砦に追いこまれても諦めずに戦おうとする勇士を、あなたは見捨てて逃げだすというんですかっ!」

「い、いや……それとこれとは……」

『よくぞ言ってくれた!』バルボアはカメラを指さして叫んだ。『君ほど素晴らしい気概を持った戦士は、我々UFXのなかにもそうはいるまい!』

「ありがとうございます!」

『試合の手はずは万事任せてくれたまえ。君たちは世に埋もれた猛者を雇うなり、自らグローブを手にするなりして、戦うだけでいい』

 バルボアの姿が消えると、男たちは頭を抱えた。

 一方、ナオは自分の意外な弁才ぶりにうっとりとしていて、しでかした事の大きさにまだ気づいていなかった。



 2


「シッ! シッ!」

 ショコラはリングの上で一人、シャドウ打ちをつづける。

 ソルティ・レイに対抗できる男を発掘するという案は、はじめから眼中になかった。彼を素手で倒すことは、まともな人間には不可能だと、専門家も言っている。

 ナオは船倉の隅っこで、タオルを抱えながら仮設リングを見守っていた。

「じゃあ、ショコラさんはまともじゃないっていうんですか?」

 ヘイズはうなずいた。

「彼女が生まれ育った惑星環境は僕らとは少しちがう。見た目で判断しないほうがいいよ」

 過酷な自然条件に適応していった結果、ショコラの星の民族は背が小さくなった分、なんらかの能力が増した、ということなのだろう。

 ナオは声を明るくした。

「勝算はあるんですね?」

「まったくなければ、君がどう言おうと断っていたさ。とはいえ、あまりに分の悪いギャンブルだ。ショコラ一人には荷が勝ちすぎる」 

「そんな……」

 ヘイズは顎をさすった。

「チャンピオン陣営がアレを認めてくれるといいんだが……」

「アレって?」

「ともかく、君も準備しておくんだよ」

「な、なにをですか?」

試合着(ファイトウェア)さ」

「わ、私に出ろっていうんですかっ!」

「こういうことはチーム全体の士気が大事なんだよ。ほら、野球やサッカーのサポーターだってユニフォームを着てくるじゃないか。自分も選手になったつもりで試合に参加してほしいんだ。肌を見せるのが嫌ならTシャツで隠したってかまわない」

 ナオはため息をつく。

「実はコスプレ目的だったとか、ナシですよ?」

 ヘイズは手を打った。

「ああ、そういう楽しみが!」

 次の瞬間、ナオは持っていたタオルを男の口に突っこんだ。

 タラップを上っていくナオを、ヘイズは呆然と見送る。

「んんんん(そこまで)、んんんんんんんんん(おこることないのに)」

「シッ! シッ!」

 ショコラはリングの上で一人、シャドウ打ちをつづける……。



 3


 スパーリングの相手が見つかり、ショコラはとあるジムで練習試合を重ねていた。その間、ヘイズは王者ソルティのジムへ出向いてルール変更について話しあい、ザルネルは船のコクピットで留守番しながら敵の弱点をビデオで研究、そして……。

 ナオは洋菓子店の化粧箱が山盛りとなったショッピングカートをのろのろ押していた。

「ハァ……私、なにやってんだろ」

 予定の試合会場からそう遠くない郊外の住宅地の真ん中に、巨大なアウトレットモールがある。ナオは宇宙港からそこまで、毎日のように通っていたのだった。

「いらっしゃいませ」

 妖精界から飛びだしてきたような、ひらひらでいっぱいの制服を着た店員が、カウンター越しに微笑んだ。

 ナオはぐっと下を向くと、カラフルな冷菓子が並ぶショーケースを、見もせずに指し示した。

「これ全部一つずつ、く、ください」

「か、かしこまりました」

 ひらひら娘の顔が一瞬ひきつったことをナオは見逃さなかった。

 無理もない。昨日もおとといも、その前の日も、同じ時間に同じものを頼んだのだから。

 白い箱を次々と手渡しながら、店員は訊いた。

「あの……パーティーでもなさるんですか?」

「いえ……たぶん主食でしょう」

「は?」

「ど、どうも」

 ナオはレシートを手にすると、急行列車のようにカートを押していった。

 少し行ったところで、親の手を離れた幼子たちが駆けまわっているのを見かけた。ナオは通路をふさぐ障害物をタイミングよく避けようとしたが……子供の動きほど先の読めないものはない。五歳くらいのそばかす娘が、口止め料としてつぶれたケーキを要求してきた。ナオは従うしかなかった。

『ショッピングモール内では走らないよう、お願い申し上げます』

 館内放送が入った。

 子供たちは聞く耳持たず駆けまわる。びくっとしたのはナオ一人だった。

 若いママたちの冷たい視線が集まる。

 いや、私も悪いですけど、その子たちはいいの?

 ナオはこの世の行く末に漠とした不安を抱きつつ、明るいほうへカートを走らせていった。

『ショッピングモール内では……』



 4


 アリーナの選手控え室は殺気に満ちていた。

 相手は史上最強のキックボクサー、様子見など論外、1(ラウンド)から殺すつもりで行ってこい……などという激励は塵ほどもなかった。では、いったいなにが緊張の糸を引いているのかというと……。

「ショコラ君……君は、女の子だ」

 ヘイズは両手を広げて出口に立ちはだかった。

「うん」

 ショコラはバンデージまみれの拳を揺すっている。

「公式ファイトウェアには上下がある」

「それで?」

「そのままでは試合に出してもらえない」

「えー、だって動きにくいんだもん!」

 ショコラはブラをつけずに試合に挑もうとしていた。首にかけた大きめのタオルがうまい具合に『問題』を隠しているから今はいいようなものの……。

「古今東西、野獣のような女子レスラーでさえ、最後の恥じらいだけは捨てていなかったぞ?」

「ふーん、そうなんだ」

 まるで手応えがないと言いたげに、ヘイズはため息をつく。

 ザルネルがしびれを切らしたように口を開いた。

「新聞の健康欄に載っていた話なんだが、胸をさらして冷やしてるとな、デカくなるもんもならねえらしいぜ?」

「そ!」

 ナオが反論しようとすると、ヘイズがダッシュしてきて口をふさいだ。

 ショコラは丸い目をして訊いた。

「それ、ほんと?」

 ザルネルはうなじをかく。

「ま、菓子とゲームと(ハジキ)にしか興味ねえお子様にゃ、どうでもいいことかもしれんが……」

 言い終わらないうちに、ショコラはナオの手から奪ったブラをもうつけていた。

 ザルネルが目配せすると、ヘイズはぐっと親指を突き立てた。

 ケンカするほどなんとやらとは言うけれど……ナオは内心おかしくてたまらなかった。

 ショコラは青いグローブをつけて部屋をでると、三人のセコンドを引き連れ、まばゆい光の中へ歩いていった。



 5


 リングアナウンサーがマイクを揺らす。

『赤コーナー、二七〇パウンド四分の一ぃ、モハメドジム所属ぅ、UFX宇宙無差別級〈永久〉チャンピオン、ソルティ・〈ザ・パーフェクト〉・レーーイ!』

 歓声とブーイングが同時に沸く。

『青コーナー、八十九パウンド二分の一ぃ、スイーツジム所属ぅ、UFX宇宙無差別級第一〇一位、シフォン・〈クラッカーボンボン〉・モンブラーン!』

 失笑の大波小波が行き交う。

「なんかうまそうだな、オイ!」「オジサンがいいとこつれてったるでぇ!」

 客のヤジに爆笑の嵐。

 シフォン・モンブランことショコラ・ビーメイと、永久王者ことソルティ・レイは、レフェリーに促され、リング中央へ歩み寄った。

 生クリームのように色白の少女は、微笑をたたえながら黒い山脈を見上げる。

 全身筋肉の鎧と化した大男は、伏し目がちに山裾の小動物を見下ろす。

『なんという体格差でしょう。こんな不公平な戦いはUFXはじまって以来のこと。会場の興味はソルティの百回連続防衛よりも、最短KO記録の更新にありそうだ!』

 実況の声とは裏腹に、ソルティのスキンヘッドはじっとりと湿っていた。

 互いにグローブを合わせ、赤コーナーに戻ると、ソルティは肥えたセコンドにひと言つぶやいた。

「今日は楽しくなりそうだ」

 1(ラウンド)のゴングがなった。

 両者はリングの中央で対峙した。

 シフォンは出方をうかがっているのか、こちらを見据えたままなにもしてこない。

 とにかく上背もリーチもない相手だ。脚をだせばどこにでも当たる。

 チャンピオンはシフォンの腹めがけて『低く』脚を繰りだした。

 シフォンはそれをハードルのごとくひょいと飛びこえる。

「!」

 ソルティはがく然とした。こいつ、獣並みの反応しやが……。

 空振りキックでバランスを崩したところに、シフォンは跳び(ジャンピングブロー)をあびせる。ソルティはかろうじて手首でブロック。

 会場がどよめく。

 シフォンが着地したところに、男はすかさずジャブの連打をふり下ろす。少女はすばやく体をふってこれをかわす。相手の背中が丸まったところでソルティは再びキックを出した。

 強豪たちの内臓をことごとく破壊してきた必殺の中段蹴り(ミドルキック)が、こめかみ(テンプル)に当たってしまうとはな……。

 せめて即死であってくれと、ソルティは祈った。

 しかしまたしても空振り。後ろにまわったのか、相手の姿はない。獣『並み』という評価は少々甘かったようだ。

 ふり向きざまに裏拳(バックハンドブロー)をぶち当ててやろうと、一瞬、後ろに首を傾けた。

 いない!? どこだ!

 王者が前を見直したとき、シフォンの跳び拳はもう目の前にあった。

『おーっと、これは驚いた! オープニングヒットはなんと挑戦者! こんなことは実に二十四年ぶりです!』

 どうでもいいことまでよく調べてやがる、と思いつつソルティは強引に距離をつめた。引っついてロープかコーナーに追いこめば、あのうるさい脚は使えまい。

 黒いタワーの股をくぐって、シフォンはこれをかわす。男がふり返ったところに機銃のような連打。シフォンは一跳びの間に七発も放っていた。

 珍事だらけの会場はやんやの歓声。

 その後もシフォンは動きに動いてラウンドを有利に進めていった。精密機械と呼ばれてきたソルティの攻撃はかすりさえしなかった。

 ゴングがなった。

 赤コーナーに戻ったソルティは、丸イスにすわると、肥えた男に低く言った。

「挑戦者は誰の娘だって?」

「菓子屋だ」

「調べた奴を今晩、救急病院に送って差し上げろ」

「信用ある男だったはずだが……。じゃあどんな娘だってんだ」

「あれはな……戦場の血筋だ」

「なんだって?」

 ソルティはジムの若手が差しだすマウスピースをはめた。

「楽しんでいる場合じゃないな」


 一方、スイーツ陣営。

「ハァハァ……やっぱタフだね」

 汗だくのショコラの口に、ヘイズは水筒(ボトル)の水を差した。

「実際見て驚いたよ。とても五十の肉体じゃあないね」

 タオルをふって風を送るナオも、同じことを感じていた。ソルティという男……なにかがおかしい。とはいえ、あの自然な筋肉美は、素人目にみても増強剤(ステロイド)を使っているようには思えなかった。

 四角いボードを手にしたきわどい水着の女が、体をくねらせながらリングを一回りする。

 2Rのゴングがなった。



 6


 2R、3Rと、挑戦者は圧倒的なスピードでチャンピオンを攪乱した。一発でも入れば試合が終わってしまいそうなものだが、縦横に飛び跳ねるスーパーボールを、ソルティは捕まえきれない。

 3R終了のゴングがなった。

 ソルティが丸イスに腰かけると、すかさずセコンドは言った。

「あんな調子でやらせておいたら、万が一の判定じゃあ負けちまうぞ、え?」

 口に含んだ水を漏斗に吐きだすと、王者は笑った。

「奴があのまま10(ラストラウンド)まで動けるというのなら、俺に勝ち目はないさ」

「おいおい、三十年無敗の男がこんな序盤でなにを弱気な……」

「心配するな。よく見てみろ」

 チャンピオンは青コーナーに向けてあごをしゃくった。

「なるほど」


 スイーツ陣営の頭上には、鉛色の雲がたれこめようとしていた。

「ハァハァ……」

 ショコラは青コーナーに帰ってくるなり、頭からヘイズにもたれかかった。

「ハァハァ……ボクの軽いパンチやキックじゃ……ポイントは取れても……」

「しゃべるな。ポイントはもういい。この先、何R(ラウンド)までなら逃げられる?」

 ショコラは男の背中を二度タップした。

 ナオはたまらず口を開いた。

「そこまでもったとして、その後はどうするんですか?」

 ラウンドガールが大きな胸を揺らして、しゃなりしゃなりと歩いていく。

 ヘイズはリングに向けてあごをしゃくった。

「あの()に聞いてみようか」

「……」

 ナオはヘイズの首にタオルを引っかけると、リングから引きずり下ろした。

 4Rのゴングがなった。


 

 7


 追うソルティ、逃げるシフォン。

 緊迫した序盤戦とはうってかわって、4R、5Rと、リング上は猫とネズミの果てなき茶番劇の様相を呈してきた。会場は笑い声や怒声で沸いたが、選手たちのほうは真剣だった。

 酸欠で顔は青ざめ足は酔っぱらいのようだというのに、勝負はわずか一発で決するというのに、男の速射砲は皮一枚の差でかわされつづけた。

 ソルティの腕には鳥肌が浮き立っていた。やはりこいつ……生への執念がちがう。互いのグローブがもしサバイバルナイフだったとしたら、形勢は逆だったにちがいない。

 残り十秒を知らせる短いベルがなった。

 シフォンはマウスピースを吐きだした。打たれたからではない。体の消耗に呼吸が追いつかないのだ。

 ソルティはシフォンをコーナーに追いつめた。

 窮鼠の虚ろな瞳……その奥に潜む黒い光を、男は見逃さなかった。

 勝負を急いではならない。生きるための本能はそうささやいたが、戦う男の本能が妥協を許さなかった。

 王者は渾身の右フックを繰りだした。

 腕が半分のびたところで、5R終了のゴング。

 赤いグローブの先には安堵する挑戦者……ではなく、コーナーポストがあるだけだった。

 ふり返ると、少女は捨て身のカウンターキックを打ちだそうと待ちかまえていた。

 ソルティはうつむき加減で赤コーナーへ帰っていく。

 シフォンは真夏のソフトクリームのようにマットへ崩れた。


 海で溺れた子供のようにぐったりしたショコラを両手で抱え、ヘイズは青コーナーに戻ってきた。

 ナオはえぐえぐ泣きながら、タオルをリングへ――試合放棄の意思を表す――投げこもうと腕を引いた。

 すかっ。空振り。

 タオルはザルネルの手に渡っていた。

 ナオはキッと睨んだ。

「ザルネルさん!」

「まあまあ嬢ちゃん、勝負はこれからよ」

「だって……」

「ま、見てなって」

 ザルネルにつられてリングサイドに目を向けると、ちょうど王者の肥えたセコンドがこちらへやってきたところだった。

「やれんのか? え?」

 男の問いに、ザルネルは首を横にふった。

「オプションの適用を頼む」

 セコンドが赤コーナーへ帰ると、チャンピオンにマイクが手渡された。

 ソルティはグローブのままマイクを持つと、客席に向かって立ち上がった。

『私は……今日ほど戦いを楽しんだ記憶がない。そして今日ほど挑戦者を尊敬したこともない。残念ながら私のライバルは体格に恵まれず、拳で勝負を決する前に力尽きてしまった。だが、スイーツジムには彼女に次ぐ戦士がいると聞いている。この戦いは、はじめからフェアとは言い難いものがあった。体格の差は人数で補ってもらいたいと私は思うのだが、どうだろう!』

 会場は大歓声に包まれた。

『永久チャンピオン』ソルティ・レイは、宇宙最強の格闘技団体UFXの顔であるばかりか、もはや法律でもあった。

「さて、ナオ君。僕は可愛いナースでいっぱいの病院を希望しているから、救急車を呼んだときはよろしく頼んだよ」

 いつの間にかトランクス一丁になっていたヘイズは、さっそうとロープを飛び越えた。

「え? あの……えーっ!?」

 ナオは見送った男の背中から目が離せなかった。まさか優男自ら出撃とは……。でも彼って、着やせするタイプなんだ……。

 セコンドにまわったショコラが虚ろな目でナオを見上げる。

「はれ……ナオちん風邪ひーた?」

「へっ?」

 ナオは思わず頬に手をやった。なんで熱くなってるのよ、もう!

 リングアナウンサーが再び現れ、渡された紙切れを読み上げた。

『青コーナー、一六八パウンド四分の三、スイーツジム所属ぅ、UFX宇宙無差別級第一〇二位、ガトー・〈ザ・メルティキス〉・フォン・バウムクーヒェーン!』

 黄色い歓声が上がった。

「あんないいオトコ、UFXにいたァ?」「ヤバす、マジヤバす!」「キャー! メガネ取ってぇ!」

 ナオはなんだか胃のあたりがじりじりしてきた。

 6Rのゴングがなった。



 8


 ガトーことヘイズ・スモーキーJr(ジュニア)は、アスリート並みの立派な体つきをしている。それでもスーパーヘビー級のソルティの前に立つと、まるで売れていない頃のお笑い芸人のようだった。

 実況が声を張る。

『これは驚きました。異例のピンチヒッター、ガトー選手、なんと白いサングラス……というべきでしょうか、ともかくメガネをかけたまま戦いに(のぞ)むつもりのようです。怒りを露わにしているのは古くからの格闘ファンでしょうか、まるで神への冒涜であると言わんばかりのものすごいブーイング!」

 野太い声援に応えるように、ソルティは猛然と前にでた。

 ガトーは足を使って距離を取り、王者の高速ジャブを右左とかわしていく。

 ラウンドの前半は、間合いの主導権をめぐる小競り合いがつづいた。互いに小さなパンチやキックを繰りだすも、ソルティは頭をふり、ガトーは手足でブロックしてクリーンヒットさせない。互角の展開かと思われたが、体躯や経験に宿る圧力の差がしだいに目だっていき、ソルティはガトーをコーナーに追いつめていった。

 右、左、右、左と重い砲弾を打ちこむ王者。

 ガトーは両腕を盾にして顔を堅守する。

 打ちあぐんだソルティは不意に攻撃をやめると、ニッとマウスピースをみせた。

「思ったよりやるじゃないか。誰に格闘を教わった?」

 ガトーは貝になったまま答えた。

「さぁね。昔のことはよく覚えていないんだ」

 6Rはソルティの優勢に終わった。

 ここまでの採点の結果が会場に流れた。シフォン(ショコラ)が3Rまでにかせいだポイントは、次の3Rで帳消しになってしまった。


 7Rもソルティは、その神がかったタフな体でガトーを袋小路に追いこんだ。

 挑戦者の固いガードにも、王者はかまわず打ちこむ。

「そんなにそのメガネが大事か、え?」

 ガトーは低く言った。

「あんたを死なすわけにはいかないんでね」

「ハハ! 毒霧(ドッキリ)でも仕込んであるのか、な!」

 空いていたガトーの腹に、ソルティの鉄拳がめりこんだ。

「ぐ!?」

 ガトーの体はくの字に折れまがった。

 王者は相手の(ボディ)を執拗に狙っていった。

 スタミナを失ったガトーは足がおぼつかなくなり、よたよた逃げまわるのが精一杯だった。


 そして8R。

『ダウーン! 健闘したガトー選手でしたが、ついに力尽きたかっ!』

 ボディによるダウンは、この世で最悪の苦しみの一つであるというのが格闘技界の定説だ。

 だが、無名の優男はカウント8(エイト)で立ち上がった。

 ガトーはそこから驚異の粘りを見せ、酔ったカンフー使いのごとくのらりくらりと、王者のとどめの一発をかわしていった。

 ゴングとともに拳の猛打をとめたソルティは、バフバフとグローブで拍手を送った。

「見事『だった』ぞ。地獄から帰ってきた男よ」


 青コーナーに帰ってきたヘイズは、どかっと丸イスに腰かけると首を落とした。

「ハァハァ……すまない。僕は……ここまでのようだ」

 ナオはえぐえぐ泣きながら叫んだ。

「もう充分ですよ! タオル、投げても……」

「後の2(ふたつ)は、ザルネルに託そう」

「え……だって、その歳じゃ……」

 ナオは失言だったかもと、左右に顔をふった。

 ザルネルの姿はどこにもなかった。

「トイレ行きたいってさ」

 ショコラはアリーナの『Cゲート』を指した。上に『出口専用』とある。

「薄情者め……」

 疲れ切っていたヘイズは、それ以上の悪態を口にすることはなかった。

「どうする? 試合ホーキする?」

 ショコラの声に、ヘイズの肩がぴくっと跳ねた。

「仕方ない。タオルを……」

 ナオは男の背中に例えようのない悔しさを感じ取っていた。史上最強の男を相手にまだ三ポイント負けているだけだというのに、ここで諦めるというのはなんだか……なんだかもう……。

 ナオはリングサイドに下りると、ばっとTシャツを脱ぎ捨てた。

「私が()ります!」

 ファイトウェア、迷ったけど着てきてよかった。

「だ、だめだめ!」ショコラはぶんぶん首をふった。「お嫁に行く前にフランケンにされちゃうよぅ!」

「ショコラ、早くタオルを」

 ヘイズが言ったが早いか、ナオは持ちこんだタオル全部を物欲しげな観客に放り投げた。

 押し合いへし合い、哀れなタオルは四つ八つと小さくなっていった。

 ナオは下のジャージも脱ぎ捨てると、ショコラに両手を差しだした。

「バンデージとグローブ、お願いします」

 ヘイズが諦めたようにリングを下りると、ショコラは言われた通りにした。

「と、とにかく、つかまんないように走って」

 スイーツ陣営の様子を見ていたリングアナウンサーは、「またかよ」という顔で光の中へ上がった。

『えー、本日二度目の選手交代です。青コーナー、一〇九パウンドジャストぉ、スイーツジム所属ぅ、UFX宇宙無差別級第一〇四位、ドリアン・〈レッドバター〉・ババローアー!』

 今度はどんな奇人か変人かと観客はざわめく。

 ナオはロープをくぐると、真っ赤になってコーナーポスト脇の二人を睨みつけた。

 なんで私の体重! しかもリングネーム決まってるし! 血まみれ(レッド)バターってなによ! っていうかドリアンって! いくら万が一だからって、そんな悪役レスラーみたいな名前にしなくたって……。

 ヘイズとショコラはずっと下を向いていた。

 9Rのゴングがなった。

 セコンドの指示などどこかへ行ってしまったナオは、半べそをかきながら黒い巨艦に向かって突撃した。

 ソルティは色のない表情で突っ立ったまま、女を待ちかまえている。

 ぺふっ。

 ナオの『渾身』のストレートが王者のボディに入った。

 巨艦はびくともしない。

 そして、私は砲身のような太腕で撲殺された。せめて一度くらいはお嫁に行っておきたかった。こんな哀れな私を、神様は天国へ送ってくださるかもしれないけれど、放射能をあびて腫れ上がった未開星人のような顔では、天界の人々に水晶の石を投げつけられるだけ。絶望した私は雲海の崖縁から身を投げ……。

 おそるおそる目を開けると、そこは火の海でも針の山でもなく、四角いリングの上だった。

 ナオはのびきっていた細腕をすっと引く。

 天地を隔てていた黒い障壁に、灰色の錆が広がっていった。

 永久チャンピオンは目を剥き、マットに沈んだ。

『チャンピオン、ダウーン! これはどうしたことか、デビュー以来初のダウンだ!』



 9


 ドリアンことナオ・シーダースはにじり寄る。ソルティはたじと退く。

 ナオはわあっと攻める。ソルティはひいっと逃げる。

 9Rは終始そんな調子で、あっという間にゴングがなった。

「ハァハァ……」

 ナオはただ走りまわっただけなのに、息も絶えだえだった。放ったパンチはゴング直後の一発だけ。手応えなどなかった。チャンピオンにいったいなにがあったというのか。

 コーナーポスト脇でセコンドの仕事をつづけながら、ショコラはヘイズに小さく言った。

「どう思う?」

 ヘイズは赤コーナーをじっと見つめ、やがてつぶやいた。

「そうか……わかったぞ」

「えっ? なになに?」

 ヘイズが耳打ちすると、ショコラは傷ついた顔でうなだれた。

「ひ、ひどい……ひどすぎる」

 ナオは疲れ切っていて、内緒の話をとがめる気にもならなかった。ともかくソルティは調子を崩している。それだけはたしかだ。


 10R――最終ラウンド――のゴングがなった。

 ナオは息のつづく限り王者を追いかけまわした。

 野獣のような体のくせに虫が嫌いなプロレスラーのごとく、ソルティは情けない声をまき散らしながら逃げまくった。

 そして、試合終了のゴング。

「ハァハァハァ……なんとか(はんほは)、最後まで(はひほはへ)……」

 そこまで言ってナオは、駆け寄るヘイズの腕のなかへ崩れた。

「よくやった。君はもう、僕らの立派な仲間だ」


 リングアナウンサーが採点結果を口にしようというとき、ナオはコーナーポストを支えにマットにすわりこんだ形で目覚めた。

 憶測のさざ波が漂うなか、集計用紙を持った正装の男はリング中央で咳払いする。

『両者、ドロー! 規定により、UFX宇宙無差別級チャンピオンは、ソルティ・〈ザ・パーフェクト〉……』



 10


 ナオと二人のセコンドが選手控え室のベンチでうなだれていると、依頼人のUFX主宰、アーネスト・バルボアが入ってきて皆に声をかけた。

「惜しかったな」

「違約金は……払うよ」

 ヘイズは力なく言った。

「その必要はない」

「え?」

 三人は顔を上げた。

「たった今、チャンピオンは引退を表明した」

 ナオは事態が飲みこめず、ぽかんとするばかりだった。

 一方、試合中に内緒の話をしていたヘイズとショコラはパッと顔が晴れた。

 バルボアはつづけた。

「9Rと10Rでみせた、チャンピオンの異状についてだが……」

「闇の禁止薬物、老化停止剤(エイジングストッパー)の副作用」

 ヘイズは言った。

「知っていたか……」

「検査的な証拠が残らないだけに、ゲイの男にはもってこいの妙薬だった」

「ゲイ?」

 ナオは思わず反応してしまった。特にBL(ボーイズラブ)が好きというわけじゃないけれど……。

 属性はともかく、ソルティは王者の栄光にしがみつきたいがために、裏社会とのつながりを持ってしまったようだ。

「それにしても、本当に女を最前線に出してくるとは、陣営も思わなかったようだな」

 バルボアはナオを見た。

「私?」

「君が試合に出ていなければ、我々はソルティの黒い疑惑に確信が持てないまま、あと二十年は彼の王座を認めつづけていたことだろう」

 ヘイズがその理由(わけ)を語った。

「エイジングストッパーは若い肉体を長く維持できる反面、極度の女性恐怖を引き起こすという副作用がある。ゲイの方々には使えるかもしれないが、普通の男にはとてもとても……」

「なんか実感こもってますね」

「いやぁ、ハハハ」

 ヘイズは頭をかいた。

「でも、ちょっと待ってください。そしたらショコラさんだって……」

「あの薬がまわった男が拒絶するのは、成熟した女性だけなのさ」

「うう……」

 涙目のショコラはブラをめくって自分の熟れ具合をたしかめようとする。

 そこをナオがとっさに引き止めた。

 バルボアは話をつづけた。

「君たちはソルティ・レイからベルトを奪うことができず、契約を果たせなかった。しかし、彼が引退したことで、UFXは破産の危機を免れたといえるだろう。これでチャラといきたいところだが……」

 主宰は言いづらそうに咳払いした。

「今日の試合は実に……その……我々イベンターや(アンチ)ソルティ派にとって痛快だった。そこで、ファイトマネーとして契約金の十分の一を贈りたいと思うのだが、どうだろう」

「!」

 ヘイズとショコラは涙目になって立ち上がると、正装の黒人男にちぎれんばかりの握手を求めた。

 バルボアの背中を見送った後、ナオはふとした疑問を口にした。

「そういえば、ザルネルさんはどこへ?」

「さぁ?」

 ヘイズとショコラは首をかしげた。


 一方のザルネルは……。

 本当にトイレの便座でいきんでいた。

「クッ……期限切れの生菓子なんか、くすねるもんじゃねえな……」

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