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理想の女になる方法

作者: 日次立樹

 

 とんだ失態だった。あの女の前で倒れるなんて。

 ほら、あの、これみよがしに彼の腕に絡みついた、ピンクの口紅を塗りたくった吐き気がしそうな甘ったるいにおいの女。


「明菜さん、無理していたみたいだから、この機会にしっかり休んでくださいね」

 ストレスだろうと診断され一晩の入院を申し渡された私に言ったセリフの白々しいこと。私が知らないと思っているのか、それとも見せつけているのか。私が彼と付き合っていることは知っているはずなのに、いつまでも彼に付きまとっている羽虫のような女。


 文博も文博だ。頭の悪い女とは付き合いたくない、なんて言っておきながら、そんな男に媚を売るのが生きがいみたいな女にデレデレした顔をして、みっともないったらありゃしない。


「まぁ、そんなに落ち込むなって。お前が抜けた分は、俺と彼女でやっておくからさ」

 俺と彼女で、ですって?私は白い病室のベッドの中で歯噛みする。あんたはともかく、あの女なんかに任せたらどうなるかわかったもんじゃないわよ。男のご機嫌取りはうまくても、書類仕事はさっぱりなんだから。それとも、そこのところは要領よくほかの男にでもやらせるのかしら。


 病室の窓は駐車場に面していて、二人が並んで歩いているのが見える。文博の車に二人で乗ってきたらしい。今日は休日のはずなのに。あの女が文博をたぶらかしているに違いない。

 まったく、あの女ときたらーー。

 明菜は去っていく二人をにらみつけた。


 ***


「明菜さん、大丈夫かなぁ」

 心配そうな真由の言葉に文博も同意する。

「美人だからきつく見えるけど、あれで繊細なんだよな。もっと気にしとけばよかったよ」

 真由と文博は親しげに話しながら車に乗り込む。


「ふみちゃん、彼女のお見舞いくらい一人で来なよ。私ぜったいお邪魔虫だったじゃん。明菜さん困ってたよ」

 もう、と子供っぽくほほを膨らませた従妹に文博は苦笑する。真由はインターンで指導に当たっていた明菜に憧れて、同じ会社に入社したのだ。真由いわく明菜は理想のお姉さま、らしい。

「お前が会いたがったんだろ」

「まーね。ふみちゃん、明菜さんに早くプロポーズしなよ。そしたらお姉ちゃんって呼ぶから!」


 それも悪くはないな、と文博は考える。お互いにいい歳だし、明菜だって文博との結婚について考えたことがないわけではないだろう。

「ま、明菜が退院してからだけどな」

 そう呟いて、文博は車を発進させた。


 ***


 明菜は二人がお見舞いといって置いていった紙袋の中に、一冊の本を見つけた。


「なに、この悪趣味な本は」

 紫色のざらざらした表紙にはところどころ何かをこぼしたような染みがデザインされていて、表紙では長い爪を赤く染めた女の手が注射器を持っていた。

 タイトルは「理想の女になる方法」。文博がこんなものを持ってくるはずがないから、あの女がこっそり置いて行ったものに違いない。中身は小説のようだ。

「まあ、暇だし……」

 明菜はその本を開いた。


 ***


 深夜、女は足音を忍ばせて廊下を歩いた。階段をのぼり、4階の奥にある病室に向かう。昼のあいだに目星はつけていた。6人部屋だが、かかっているプレートは一人分だけだ。名前から、おそらく少女だろうことがわかる。

 女は部屋の前で中の気配をうかがっていたが、やがてゆっくりとドアを開いた。一番奥のベッドにだけ薄水色のカーテンが引かれている。そこには一人の少女が眠っていた。

 女は少女の寝息を確かめ、ごくりと息をのんだ。目隠し代わりに彼女の閉じられた瞳の上に細くたたんだタオルを置き、ベッド横の小さなライトをつける。頼りない明りに白く浮かび上がる少女の腕。その細い腕をとり、女は注射器を刺した。


 ***


「理想の女になる方法」を読み終わって、明菜はいやな気分になった。その小説はとある病院の看護師が、永遠の若さを求め夜な夜な入院患者の血を抜いている、という話だった。特に若い女性が狙われ、血を抜かれた彼女たちは次々に死んでいく。そして最後には、今までの所業がばれた看護師が屋上から身を投げるのだ。


 こんなものを入院している人間に読ませようなんて、嫌がらせが過ぎるのではないか。なんて性格の悪い女だろう。

 あの女が見舞いに来たことといい、仕事のことといい、ストレスのせいで入院したのに、これでは悪化するばかりだ。

 消灯時間までは間があるが、せめて体を休めることに専念しよう、と明菜は早めに就寝することにした。




 ひたひたと靴を脱いで廊下を歩くような足音がした。明菜はその音が気になって目を開けてしまう。それでもいくらかは眠れたようだ。消灯時間が過ぎているのだろう、薄暗い廊下は非常口を示す緑色のランプがともっているだけだった。


 あれ、と明菜は内心で首をかしげる。明菜は病室のベッドで眠ったのだから、廊下にいるのはおかしい。服装も、寝間着を着ていたはずが、看護師の制服になっていた。


 明菜は自分が夢を見ているのだと思った。それも、飛び切りの悪夢だ。

 昼間読んだあの悪趣味な本、明菜はその中に出てくる看護師になっているようだった。いや、明菜が看護師になっているのではない。看護師の体に明菜の意識が間借りしているような感覚だ。例えば明菜が病室の戻ろうとしても、彼女の体はピクリとも動かない。


 看護師はどこかに向かっているようだった。緑の光が階段に気味の悪い影を作る。階段の踊り場には上下の階の階数を示す数字が取り付けられている。彼女が向かっている先は4階だ。

 ひた、ひた、ひたと彼女の足音がかすかに聞こえるのが彼女の緊張を高まらせていた。自分の呼吸音や心臓の鼓動がやけに大きく耳に響く。

 息をひそめて、少女の病室へ向かった。


 果たして一番奥の病室には一人分のプレートがかかっていた。

 名前は古谷真由、と読める。苗字は違うが、明菜はその名前にあの忌々しい女を思い出してしまう。


「理想の女になる方法」では少女の名前は出てこなかった。だからこれは、明菜の願望なのだろう。自分をこんなに不愉快な目に合わせるあの女に、何か理不尽で恐ろしい不幸が降りかかればいい、というような。


 彼女はゆっくりとドアを開いた。小説と同じように、一番奥のベッドにカーテンが引かれている。常夜灯のほのかなオレンジ色の光が室内を照らしていた。まるで映画の中に迷い込んだような緊迫感のある情景だ。

 明菜はそろそろ目が覚めないだろうかと思った。あの女のことは嫌いだが、実際に彼女がベッドにいて血を抜かれるところまで見てしまったなら、翌朝の目覚めが最悪なことは当然予想がつく。


 彼女がカーテンに手をかける。しゃー、とレールに擦れる音がしてカーテンが開いた。ベッドには少女がいた。明菜はその少女の顔を見まいとするが、目を閉じることすらできない。


 少女と目が合った。


 カシャーン。床に何かが落ちた音がして、明菜ははっと目を見開く。彼女は手にしていた注射器を落としていた。


「えーと、お姉さん。明菜さん、だったかな」

 少女の顔はあの女には似ていなかった。そのことに少しほっとする。なぜ彼女が明菜の名前を知っているのかと思ったが、これは夢だからそれでもいいのだろう。

 しかし、これは小説にはなかった展開だ。少女が何を言うのかと、明菜は固唾をのんで待った。


「明菜さんは、真由みたいになりたいって思ったことはある?」

 真由みたいに。脳裏にあの忌々しい女が浮かぶ。

 身長は明菜より10センチも低くて、手も足も細くて、童顔で、ピンクの口紅をつけても浮かない女。文博より年上の明菜とは違って、彼の3つ年下の後輩。

 明菜があの女が気に入らない原因にはそうした自分にはないものへの妬ましさもあった。ないものねだりだということはわかっている。人は自分にはないものを欲しがるものだ。


「叶えてあげられるよ」

 少女は明菜の心を読んだようにそう言った。

 これは夢だ、と明菜は心の中で言った。だから、起きたらきっとどうにもなっていなくて、少し落胆して笑い飛ばして忘れてしまうようなことだ。

 夢だから大丈夫。


「ね、いいでしょ?」


 頭の隅では確かに警鐘が鳴っていたのに、明菜は少女の言葉に首肯した。してしまった。


 体中から力が抜けていって、明菜はその場に倒れこんだ。




 次に目が覚めると、病室のベッドの上だった。もちろん明菜は病室で眠ったのだからそれは当然のことだ。

 それにしても、妙にリアルで嫌な夢を見てしまったとため息をつく。それもこれもあの本のせいだ。


 病室にかけられている時計を見るととっくに朝の十時を過ぎていた。

 病院の朝とはこんなに静かなものなのだろうか。不思議に思い、病室のドアを薄く開けて廊下の様子をうかがう。真っ白な廊下にはだれもおらず、照明がついているのにどこか薄暗く見えた。

 得体のしれない不安に襲われ、明菜はそっとドアを閉める。


 いったい何が起きているのだろう。

 病室を見まわして、オレンジ色のプラスチックの孫の手を見つける。ほかに武器になりそうなものはなかった。丸腰よりはましだろうとそれを持って、そろそろと廊下に踏み出す。いつでも病室に逃げ込めるように、ドアは開けたままにしておくことにした。

 看護師に見つかったら叱られるだろうが、むしろ見つかってしまえばいいのにと思う。たまたまこの時間は人がいなくて、明菜が一人で心配して馬鹿なことをしているのならそれでいい。


 そろそろと廊下を階段の方向に向かって進んだ。一番人が多くいそうなのは一階だと思ったからだ。売店や食堂があるし、外来の受付も一階だ。さすがにそんなところまで誰もいないということはないだろう。

 廊下を半分ほど進んで、明菜は妙なことに気づく。入院患者が誰もいないのだ。

 どの病室にもプレートはかかっていない。そして、人の気配もしない。昨日明菜が入院した時にはほとんどの病室に人がいるようだったのに、だ。検査などで部屋を出ることはあるだろうが、その場合はプレートが残っているはずだし、全員が一斉に退院なんてことはありえないだろう。いやな予感しかしない。


 そのまま進み、明菜は階段にたどり着いたーーはずだった。

 階段があるはずの場所は壁になっていて、階数を示す数字が張り付けられているだけだ。

 明菜はその数字を見て顔を青ざめさせた。

 4階。

 病院では4は死を連想させる数字だからとはずされることが多い。4階には病室がなかったり、4を飛ばして5と表示してあるのだ。明菜が入院したこの病院もそうなっているはずだった。しかも、明菜が入った病室は3階だったのだ。


「どういうこと……?」

 わかるのは、明菜はここから出ることができないということだけだ。閉じ込められてしまった。この誰もいない階に。存在しないはずの場所に。

 明菜はのろのろと引き返し、今朝目覚めた病室に入る。病室には古谷真由という名前のプレートがかかっていた。今の状況に何か原因があるならば、昨夜見た夢、そしてこの場所しか思いつかない。

 明菜はベッドに腰かけ呆然とする。あれはただの夢ではなくて、明菜がこの階に迷い込んでしまっていたのだろうか。昨夜少女はなんて言っていた?


『明菜さんは、真由みたいになりたいって思ったことはある?』

 真由という名前を聞いて、明菜はあの女を思い浮かべた。しかし、そうではなかったとしたら。

 あの少女の名前も、「真由」だったのだと、おくればせながら明菜は気づいた。

 あの少女が今の明菜のようにこの場所に閉じ込められていたのだとしたら。明菜はその身代わりにされてしまったのだ。


「あ、」ふと気づいて明菜は病室の窓に視線を向ける。少女のベッドは病室の一番奥。つまり一番窓際ということだ。この窓を開けたら、どこかにつながってはいないだろうか?

 それは危険な試みだった。明菜はこの場所に閉じ込められているが、ここには現在明菜に害を及ぼす存在はいない。一応、安全といっていいだろう。しかし、窓の外はそうではないかもしれない。明菜はすぐに窓を開けることはせず、窓越しに外を観察することにした。


 窓の外は駐車場のようだった。多少視点の位置や高さは違う気がするが、見たことのある景色だ。明菜が入院していた部屋の窓から見たものと同じ場所のように思える。

 そこにちょうど、見覚えのある車が止まっているのを見つけた。

 文博の車だ。退院する明菜を迎えに来てくれたのかもしれない。それなら、明菜が病室にいないことに気づいてくれるはずだ。

 しかし次に見たものに、明菜の希望は打ち砕かれた。


 見えたのは二人の人影だ。片方は文博で、もう片方は女。仲良く腕を組んでいる。

 その女は明菜だった。いや、明菜のふりをしたあの少女だった。文博はそのことに気づきもせず、彼女を車に乗せて去って行ってしまった。


 車に乗る直前、少女は明菜を見上げて笑った。


 ***


「明菜、どうかしたのか?」

「ううん、何でもないよ。迎えに来てくれてありがとう」

 少女は晴れやかな笑みを浮かべて見せる。運転席に座っている男は文句なしにいい男だ。なんて幸先がいいんだろう。

 先ほど物凄い形相でこちらを見下ろしていた明菜を思い出すとどうしても口元が緩んでしまう。

 あの女は、私を殺した忌々しい看護師にそっくりだった。名前まで同じだったんだから、私の身代わりにこんなにふさわしい相手はほかにいなかっただろう。

 あの看護師にそっくりな顔というのは気に入らないが、そんなのは些細なことだ。恋も、仕事も、私が理不尽に奪われた未来はこれから何でも手に入れることができるのだ。何もかもあの女から奪ってやればいい。


「お気の毒さま」

 くすくすと笑う少女を、文博は不思議そうに見ていた。


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