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もう一度、あの冬を。

作者: 六条菜々子

 あれから、どれくらいの月日が経ったのだろう。

 もう、あの時の影はどこへ行ってしまったのだろう。


 私は今日も満員電車に乗り、この街を離れる。あまり居心地がいいとは、お世辞にも言えない街だが、そう簡単に捨てることができる所でもなかった。だが、このままずっと居続けることはきっと失礼なのだろう。

 そして、仕事が終わるとまたここへと戻ってくるのだ。住んでいる家はこの街にしかないのである。今まで何度も引っ越しを考えたが、どうしても心が痛んだ。それは自分から逃げることになるのではないかと考えたのだ。

「あ…もうこんな時期なのか」

 ふと考えることに夢中になっていると、白いものがちらちらと落ちていくのが見えた。通りで今日は体が冷えるわけだ。早く家に帰らないと。

 確か、あの日もこんな天気だったな…。



「あ! ごめんなさい!」

「いや、大丈夫?」

 今日は早朝から気温があまり上がらなくて、路面凍結しているところが多い。俺も家を出る時、転びそうになった。だから、この女の子の気持ちはよくわかる。

「私は大丈夫です!」

 その満面の微笑みに、俺は思わず笑ってしまった。あまりにも素直というか。元気というか。子どもっぽくて可愛い。

「学校に行く途中だよね? けがとかしてない?」

「ううん。本当に大丈夫ですよ…ってあれ?」

 目の前で転んだ彼女は俺の方をじっと見て、固まってしまった。あまりにも突然のことだから、状況がうまくつかめない。何か変なことを言ってしまっただろうか。

 今日もいつも通り、朝食を食べる時間がなかったから、頭がきちんと回っていない。今日くらいはきちんと食べるべきだったかもしれない。

「もしかして、同じ高校ですか!?」

 彼女が放った言葉に、俺は呆然としていた。彼女が制服ブレザーの上にカーディガンを着ていたから、全く気が付かなかったのである。もしかすると、学校の中ですれ違ったことがあるかもしれないと思うと、少し面白かった。


 彼女は志野原という名前だった。あまりにも特徴的な名字なので、同学年だったら知っているはずだと思った。その予想は当たっていた。

 志野原さんは一学年下の子だった。つまり、俺の後輩だった。部活動には所属しておらず、友達とは家が逆方向らしい。それらが理由で、登下校はいつも一人なのだそうだ。俺はどちらかと言うと、人付き合いが苦手なので友達が少ない。ぴったりだった。

 俺と志野原さんは、その日を機に登下校をよく共にするようになっていった。


 その中で繰り広げられる話題は、たいして面白く無いものばかりだった。志野原が話題を出してくる事もあったが、主に出していたのは俺の方だった。

 中身は単純なものばかりで、テレビの話や好きな音楽の話。そして、たまに勉強の話。一学年違う事もあり、頭の悪い俺でも多少のことは教えることが出来たのだ。

 そう。多少なら、である。

「先輩! ちゃんと聞いてますか?」

「聞いてる! 聞いてるよ」

 どちらかと言うと、こうして志野原から教えてもらう事の方が多かった気がする。俺の為に、わざわざ夜遅くまで残って、勉強に付き合ってくれた。結局、学校の図書室が開いている、開室最終時刻までいる事が普通になっていた。その時間になると、生徒も先生もほとんどいない。俺はその時間を共に過ごすことが、すごく好きだった。

「ねえ、先輩。一つ、提案があるんですけど、いいですか?」

「急にどうした?」

 その日、志野原は俺にこんな提案をしてきた。すべての科目の定期試験を一発合格したら、一緒にどこかへ遊びに行こう、というものだった。

 それは普段の志野原の行動からは、とても出てきそうにない発言だった。しかし、俺は何のためらいもなくその提案に乗った。


 その後、一週間は勉強の日々だった。志野原と遊びに行けると思うと、自然と体が机に向かっていた。それまでの俺の生活からは考えられない行動だった。それほどに俺と勉強はかけ離れた存在だったのである。


「え? ほんとに? 嘘、ついてない?」

「こんなことで嘘ついてどうするんだよ」

 運命のテスト返却日。全教科の定期試験の解答用紙が一斉に帰ってくる日である。自信満々で試験に臨んだものの、結果が返ってくることが嫌だった。これでもし、これまで通り赤点科目があれば、志野原との話は無かったことになるからだ。

 俺は赤点を取ってしまうという事よりも、話が無くなるということが嫌だった。あんなに追試が嫌な俺が、志野原との約束を優先するなんてどうかしているのかもしれない。

「本当に無いね」

 俺の試験解答用紙に書かれた点数を見て、志野原はそう言った。多分、あまり実感がわかないのだろう。そうなることは、当たり前の反応とも言えた。

 何故なら、俺は志野原から出された小テストのようなものを前日までほとんど解けなかったからだ。ここまで彼女が協力してくれる理由は、俺の手伝いをしようと頑張っていたら、気付かないうちに、それが自動的に定期試験対策勉強になっていたらしい。彼女曰く、余裕だったそうだ。二年生の範囲を一年生がするという時点で凄いのに、さらに理解までしてしまうとは。本当に素晴らしいと思う。

 尊敬できる後輩を俺は持ったのかもしれない。

「じゃあ…」

「…どこに行く?」

 こういう経験が皆無なため、俺の頭ではすぐに思いつかなかった。定番の場所と言えば、例えばどこなのだろう。遊園地とかだろうか。しかし、そんな所に行くことは俺の趣味ではない。二人で、ただのんびりと過ごしたい。

「公園とかはどう? 嫌かな」

 志野原は特に嫌な顔をしなかった。むしろ、嬉しそうだった。



「私、あんまり遊園地とか好きじゃないんですよね」

 志野原と二人で遊ぶ日、近くの記念公園へと向かっている時に、彼女はそう呟いた。人前ではしゃぐことが苦手らしい。何とも志野原らしい理由だった。

 公園へ行くといっても、ただの公園ではない。休みの日には家族連れでいっぱいになるような、とても広大な敷地の記念公園である。

 幸いにも天気は良かった。風は無かったが、さすがに二月ということもあったので、少し肌寒かった。

「先輩…今回は何であんなに頑張ったんですか?」

 彼女にとって、今回の俺の頑張りには少し驚いたらしい。いつもなら、赤点を回避することで精いっぱいだからである。しかし、今回はあろうことか学年の上位成績表に名前が残ってしまった。先生達からは『カンニングでもしたのか?』と聞かれてしまう始末。それほどに奇跡的なことなのである。

「何でと言われてもなあ。…強いて言うなら、志野原のおかげかな」

「え? 私ですか?」

 志野原は驚いた顔をしていた。志野原と知り合ったばかりの俺は勉強という言葉とは、無縁だった。あの日も試験日だったが、全く勉強をしていなかった。そのおかげで中間試験はほとんどの教科が赤点だった。でも、今回は上位成績を取るほどの結果だった。

 俺はただ、今日の約束を果たしたかっただけなのである。

「一緒に遊びに行く約束しただろ?」

「本当にそれだけの為に頑張ったんですか」

 もし志野原がいなければ、俺はこれまで通り追試に追われる日々を送っていただろう。そう考えると、何だか不思議な気分である。


「今日はありがとうございました」

 公園のベンチに座り、まったりしていると、志野原が急にそんなことを言い出した。志野原からの感謝の言葉は初めてだったため、少し困惑した。

「いやいや、こっちこそありがとう。楽しかった」

 女の子と二人でこんなに長く一緒にいたのは、今日が初めてだった。わずか三時間だったが、とても楽しい時間を過ごすことが出来た。

「志野原は…」

「…早希でいいですよ」

 彼女は突然、下の名前で呼ぶことを俺に提案してきた。少し堅苦しかったので、そう呼ぶのもいいかもしれない。何だか照れくさいが、彼女はそう呼んでほしいみたいだ。

「早希はどうだった?」

「すごく楽しかったです!」

 彼女は満面の笑みでそう言った。早希の方から提案してきたとはいえ、記念公園で過ごすと決めたのは俺の方だった。あまり楽しめていなかったらどうしようと考えていたが、そんな事は無かったみたいだ。


 記念公園からの帰り道、彼女は急に『あの日』の事を話し始めた。

「あれから、もう二か月くらい経つんですね」

 それまではただ学校と家を往復する生活だったが、あの一件を境に大きく変わっていった。彼女といる時間が増えていった。毎日が楽しくなっていったのだ。

「そんなに経つんだな」

 もう日も落ち、暗くなりだした公園に、あの日と同じような光景が広がっていた。あの時はほとんど解けていた雪が、今は空から降っている。公園にある灯りにそれらは照らされながら、地面へと落ちていった。ゆっくり、ゆっくりと。

「先輩、質問してもいいですか?」

「どうした?」

 心なしか、早希の声は震えているように聞こえた。公園に長居し過ぎただろうか。

「今って好きな人とかいますか?」

「好きな人か…」

 おそらく、早希の言っている『好きな人』と言うのは、恋愛的な意味を指しているのだろう。普段の様子からはとても出てきそうにない言葉だった。

「特にいないかな」



 その後も彼女と過ごすことはあったが、少しずつ会う時間が減っていった。学校の中で会うことはあっても、ただすれ違うだけだった。

 早希の家の電話番号は知っていたが、そこまで気軽にかけることが出来るようなものでもなかった。


 気付くと、早希と関わる時間は無くなっていた。



 三年生になり、俺はある噂を同じクラスの女子から聞いた。それは早希に彼氏が出来たというものだった。

「え? あなたって早希ちゃんと付き合ってたんじゃなかったの?」

「いや、別にそういうわけじゃ」

 そう。あくまでも友達同士の関係であり、恋人としての関係は全くなかった。そもそも、そんな話になったこともなかった。


 それから数日後、俺は久々に早希を見かけた。噂話なんて、所詮誰かの作り話だろう。そう思い、俺は昔のように早希に声をかける事にした。だが、早希のもとへ同じ制服を着た男子が近づいて行った。もしかして…。


 その日以降、俺が早希に関わることは無かった。



「ただいま」

 私は無音の家に帰宅の合図を送った。内鍵を閉め、部屋の電気をつける。今日は遅くなった上、真冬の天気となっているため、家の中もすごく冷えている。家の近くにあるコンビニで買ったおでんとビールを机に出し、いつもより遅めの夕食を取ることにした。これで、少しは体も温まるだろう。

「いただきます」

 割り箸を割り、おでんを食べる。冷え切った体にはちょうどよい熱さ加減だった。


あの人は元気にやっているだろうか。そんなことを思いながら、おでんを食べ進めていく。

「今思うと、あの言葉は私への『合図』だったのかも」

 私はそう呟き、あの時のことを思い出していた。私は結局、馬鹿だったのである。本当に馬鹿である。


 缶ビールを一気に飲み干し、風呂に入る準備をして、お風呂場へと向かった。

『ピンポーン』

 服を脱ごうとすると、家のインターホンが鳴った。時間が時間なので、少しびっくりした。

「はいはい。今出ますよ」

 こんな時間に一体誰? そう思いつつも、私は玄関の扉を開けた。

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