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未踏 8号 「エミリー.ディキンスンとの対話」

作者: 山口和朗

           「エミリー.ディキンスンとの対話」


 貴女と巡り合ったのは偶然でした。いつも行く古本屋で、色褪せた三百円の定価のついた貴女の詩集でした。数ページ立ち読みして、探していた友人に出会えたという気がしました。家に帰る前に、喫茶店で夢中になって読みました。「死」と「孤独」とをこれほどのいとおしさで描いた人を私は今まで知りませんでした。

           「エミリー.ディキンスンとの対話」


 貴女と巡り合ったのは偶然でした。いつも行く古本屋で、色褪せた三百円の定価のついた貴女の詩集でした。数ページ立ち読みして、探していた友人に出会えたという気がしました。家に帰る前に、喫茶店で夢中になって読みました。「死」と「孤独」とをこれほどのいとおしさで描いた人を私は今まで知りませんでした。そこに暗さや、嘆き、諦めは見つけられません。人の大切な、忘れてはならない世界であることを、繰り返し貴女は伝えていました。二年前、癌の体験をした私でした、その時の気持を、わかりあえる人と話したくて、話しては虚しくなっていた私でした―――「死」や「孤独」は一人一人が噛みしめていくものだったのですけれど―――そんな私に、貴女は百年も前、ひっそりと語ってくれていたのでした―――自然と愛と孤独とを、あとを生きる人の道しるべのように

―――もっと貴女を知りたくって、話したくって続、続々と貴女の詩集を買って来て読みました。とても楽しい時間でした。生きている気がしました。その時の気持を、もう一度ゆっくりと辿りたくって、貴女と語り合うような気持で、私からの手紙を綴ってみようと思ったのです。病後二年、この間色々感じ考えたことを、小説の世界を作ることで見つめてみようとしましたが、出来ませんでした。虚構を生きる気持にはとてもなれなかったのです―――蘇った私自身の日常や現実が、見つめる対象になった時、方法が分からなかったのです―――生きることのように書く方法、理想や、背のびではなく、私の等身大の、私が生きることのように書く方法―――貴女と対話すること、そのことを書くこと、今の私にとっては、この方法が一番楽しく、願いにかなっています―――想像を広げ、貴女が見たものを私も見、味わい、教えられ、貴女と過ごした時をこそ大切にして―――一日一篇になるか、貴女と何も話せない時があるか、それはわかりませんが、本当に友達のように、語り、書いて行きたいと思うのです。

 エミリー、実は貴女のこと、名前はだけは知っていたのですよ、二十代によく聴いた、サイモンとガーファンクルのレコードの中で、確かに貴女の名前があったと、ふとメロディが口づさんで出、歌詞を訳してみたら、ただ貴女の詩集を彼女が読んでいるということだけでしたが、でも、好きだったサイモンを通して、二十年も前に私は知らされていたんだなあという、何か結ばれてていたものを感じもたのでした。


 予感はあの長い影―――芝生の上に太陽の落ちるのを示す影―――暗闇がもう迫っていると―――驚いている草への知らせ―――

 予感、昔人々はみな知っていたと思います。一日の始まりの予感、終わりの予感、多く光と影によって。勿論、人の生と死についても。自然からの大切な知らせのように、耳をすまして聞いていたと思います。今私たちに予感はありません、始まりも、終わりもなく、生も死もなく、陽炎のように、夕暮れを待たず消えていくばかりです。疲れた眼に覆い被さる、あのやさしい瞼のような夕暮れ、一日を生きて死んでいくために、欠かすことのできなかったあの予感、鳥の声ではない、風の音ではない、貴女が言うような、暗闇がもうそこに迫っているよという、明日生きかえるための予感。


 私は荒野を見たことがない―――海を見たことがないだがヒースがどんなに茂り―――波がどんなものかも知っている―――私は神様と話したことがない―――天国にも行ったこともない―――だが私にはきっとその場所がわかる―――まるで切符をもらったように―――

 天国、貴女は見たことはないけれど、どんなものか知っていると言う、そしてその場所も―――私にとって、それはやはり空の上、人や生きものたちの賑やかな暮らしが見渡せる所でなければ、人々の暮らしさえ見られれば、そこは天国に思える。花咲き、鳥が歌う、自分が楽しむだけの楽園ではなく、人々を見守れる場所―――花がどんなに匂っているか、鳥がどんなに歌っているか、分かって初めて見えてくる天国。


 百年の後は―――その場所を知る人もない―――そこでなされた苦悩も―――今は平和のように静か―――

 貴女が去って間もなく百年、貴女の手紙は、今私の所へ届いています、手紙はきっと伝わります。たとえ配達が遅れても、今私が受け取ったように。アウシュビッツ、広島、―――今から五十年後、百年後、若い心に、平和な街に、遺書のように配達されるでしょう。それは人類の染色体に刻印されていく記憶の本能です。人類の闘争、苦悩、愛、全て伝えられて行きます。思い出せない時代がときにはあっても、貴女が思い出したように、誰かが―――思い出せる、多くの人々を私たちはもっています。


 死んでゆく人の眼を見た―――部屋の中を駆けまわり駆けまわり―――何かを探すようだった―――それから曇りはじめた―――霧をおびたようにぼんやりとして―――

 私が見た眼、私がそこに立っても、私が何かを話しかけても、見ても、聞いてもくれなかった。私に何の力も、何の意味もないことを、死んで行く人は知っていたから。連れ去られる不安、下りなければならない舞台、自分だけの死である孤独。用意をしていた人、叫んでいた人、もう人の意識を失っていた人、私の眼には、それら人の最後の姿だけが焼きついている。


 もし私が死んで―――あなたが生きていたら―――すべてが今までと同じに―――時間はとうとうと流れ―――朝は輝き―――正午は燃えるなら―――鳥が朝早く巣をつくり―――

死者との間、私が知っている死者はまだ数人、これから先、私がまだ生きながらえるなら、もっと増えるのでしょうけれど、いづれ、私が残って、街の人々はみな死んでしまったというような日を迎えても、死者はあとかたもない。やはり、生きている私達が見ている死者とは、火花の残像なのでしょうか、光っては消え、光っては消え、人が生きていたとはとても思えない。私が死んで、人々が残る日、―――私も「もうかってる?」「書いてる?」などと、聞いてみましょうか。


 名前が知れ渡るなんてほんとにつまらないこと―――賛美者の泥沼に向かって蛙が日がな一日―――自分の名前を呼んで聞かせている―――名を広めるなんてそんなこと―――

 私が死んで後、私の書いたものが意味を持とうが、見捨てられようが、死んでいる私には関係のないこと。関係は生きている人の問題、私が貴女の詩を読んで何を感じようが、貴女にとって関係がないように。まして生きているうちの名声など、木の幹に落書するような、創造主に向かって、自分の名前を呼んで聞かせるようなもの。


 一時間ばかりで終わってしまう―――この短い人生に―――私たちの手にするもの―――なんと多いのだ なんと少ないのだ―――

 人々が寝静まった夜、一人生きていることを考えていると、私の過去の四十年がつい昨日のことのように、いや、一時間も経っていないようにさえ思えてきます。色々な思い出はスライド写真のようだし、知識はゾル状の粒子のように思えるし、必要な時に、必要な思い出、知識を取り出すことは出来るのだけれど、でも、それらが一体私にとって何であるのか、何の為に、何に向かって必要であったのか、一時間ばかりで終わってしまうこの短い人生に。四十年かかって私が手にしたものは、持続している今と、一時間ばかりの過去の記憶です。でも、本当に手にしたいものは、明日生き返る方法なのです。


 死の打撃は生の打撃だ―――死ぬまで生きなかった者にとっては―――生きている時は死んでいたが―――彼らは死んだ時に生命を始めたのだ―――

 多く私たちは、死ぬまで生きられないのでしょう。生きるということが、貴女が言うような信仰への生活であり、魂を生きることであるのなら―――考え続けることは出来ます。そして忘れないことも、でも、貴女のように魂を生きるためには、まず魂を封じこめなければならない、それが信仰というもののよう。


 心の中にお客を持つ魂は―――めったに外へ出掛けることはない―――神聖な内の集まりが―――その必要をなくしてくれるもの―――

 解説によると、貴女は大学中退後、五十五才で死ぬまで、自宅を離れたのは三回だけとなっています、それも眼の治療に出かけたのを入れて―――貴女の心のお客は、窓から見る夕陽、草木、鳥、蜜蜂ぐらいなのに、貴女の詩の数々が示しているように、自然の種類ではなく、限られた中の無限、存在そのものが、貴女の変わらぬ訪問客だったのですね。人には会わなかったのだけれど、文通をしたり、花の手入れをしたり、ピアノも弾いたりして、魂を労っていたのですね。


 私たちの知るこの世界から―――いまも ひとつの不思議である世界への旅立ちは―――いわば子供の労苦に似たもの―――眼の前に拡がる丘―――丘の背後には魔術―――そしてすべては未知のもの―――

 そうですね、私たちは子供時代からこの世界へ旅立ってきたのでした。未知と不思議のこの世界を旅してきたのでした。きっと、あの未だ知られていない、世界への旅立ちは、子供の労苦にも似るのでしょう。不安、未知、恐怖、不思議の旅を私達は終えてきました。それと同じではないにしても、あの世界への旅立ちは、もう一度人が生き始める労苦と感動に似ることでしょう。大いなる未知、無への突入、不安、恐怖、諦め、そして苦痛。それらをどれだけ、私はあの子供時代のように、迎えることが出来るのでしょうか。


 昨日は歴史だ―――それはもう余りに遠い―――昨日は詩だ―――それは哲学だ―――昨日は神秘だ―――そこに今日があり―――われわれがこざかしく頭を使ううち―――両者は翼いて去る―――

余りにも遠い、余りにも深い、光速で去って行く昨日という日、も早手も届かない昨日という日。どこへ行ってしまったのだろうか、私の昨日、四十二年と一ケ月二十四日を刻んだだけでした。私の昨日、ヒヨドリと一メートルの距離で眼を合わせただけでした。歴史である、詩である、神秘である今日が、今も私の前に横たわっているというのに―――


 遠く離れた国へと私たちを連れてゆく―――書物のような船はないもの―――力に溢れて歩む―――詩の頁のような駿馬はないもの―――

 私はまだ書物の船に乗って旅をしようとしています。また他人の詩の馬鞍に乗って、通行税に苦しむこともあります。魂を乗せて運ぶあの馬車に、貴女が揺られたあの簡素な馬車に、私もそろそろ乗らなければと思っています。生活を、貴女のように組織していかなければ―――あの魂と一緒に。


 あの人たちの死んでいることが―――私たちをかえって静かに死なせてくれる―――あの人たちの生きていることが―――私たちに不滅を証してくれる―――

 そうですね、生命は創造的進化をするために、死ぬのだと考えても、仲々心静かにはなれないもの、あの人たち、心を通わせたあの人たちの居るところへ、またあの人たちに続く人々が、今も生きていることが、私に勇気、信頼、希望を与えてくれます。あの人たちの魂を師とし、一緒に生き抜くことですね。


 地上に天国を見い出せないものは―――天上にも見い出せない―――神の住居は私の隣り―――その家具は愛―――

 貴女の詩が、この短い詩句の中から生まれてきたように思う。家の庭のありふれた、限られた自然を、神の住居と詠い、神と住み、神を愛し、愛されたと思える。死への畏れや不安、そして孤独、それらは貴女が神と一緒に生きていたからだと思える。


 眠りより静かなものが―――この奥まった部屋にある―――死者は胸の上を小枝で飾り―――自分自身の名を私たちに告げようとしない―――

 死というものを貴女は優しく、そして何か特別な生きもののようにとらえています。死を取りかこむ人々よりも、死そのものを見つめています。死はやはり生命の誕生のように神秘的なもの、生命が形を変える瞬間、闘いのあとの、あの静寂。死は孤独より小さなものへ、時間より大きなものへ、生命を飛躍させる―――人の死を太古の人間の眼で眺めたなら、魂にとって、あの木に、あの草に、生も死も宿っていると思える。生が変化なら、死も変化―――


 もし私が一人の心の傷をいやすことができるなら―――私の生きるのは無駄ではない―――もし私が一人の生命の苦しみをやわらげ―――一人の苦痛をさますことができるなら―――

 一人の心の傷、人は一人しか助けることはできないもの、生命を一人に捧げたら、あと捧げる生命はないもの。捧げるほどの傷を負った一人に巡り会ったのなら、私が生きてきたのは無駄ではないのでしょう―――多く、捧げる時を待っては生きられない人々、その人々にとって、生きることは無駄なのでしょうか。私にとって生きるとは―――私を生き切ることだけです。


 空間に孤独があり―――海に孤独があり―――死に孤独がある―――だがこの中にさえまだ集まりがあろう―――あのさらに深い場所―――あの極地に一人暮らすなら―――魂が魂自身だけを許している―――その限られた限りなさに比べるなら―――

 貴女の孤独の極北とは、魂が魂自身だけを許している所と―――。貴女の魂、石のよう、物のよう、前にも後ろにも人の居ない、生き残っている一人のような貴女の魂。その魂を見つめている貴女の孤独とは―――。貴女はそこから神を発見したのでしょうね、そこから神と話しているのでしょうね。


 詩人はただランプの火をともし―――自身は去っていく―――そのかきたてていった燈心が―――もし太陽のようにも―――生命の光を持つならば―――時代の一つ一つはレンズとなり―――

 様々な詩人のランプ、生命の光のよう―――、二千年間燃え続けている燈芯もあれば、つい今しがた燃え始めたものもある、詩人自身は死んで、後を生きる人にランプを残していった。私たちは、その灯りをたよりに生きている。貴女のランプ、ひっそりと青白く、多く詩人が立ち寄らない所で今も燃えている。


 先日 世界を一個なくしました―――だれがご存知ありませんか―――額のまわりに―――一列に星が飾ってあるのです―――お金持ちは見向きもしないでしょうが―――私の貧しい眼には―――どんなお金より大切なもの―――

 私は失くす世界を持ってはいません、そこで呼吸し、見、語れるほどの世界を、一つでいいから欲しいのです。貴女はいっぱいお持ちのよう。鳥や虫、草花と語る世界、太陽と月と、星々との世界、神と祈りと、愛の世界、死と孤独と、魂の世界。私はどこにあるかは知っているのですが、一日位なら泊まったこともあるのですが、長く住んだことがないのです。貴女のように、神の隣に住んでいないと耐えられないから―――。


 魂は魂自身にとって―――一番の友だち―――それとも 敵が忍びこませた―――もっともたちの悪いスパイ―――

 孤独の家に言った時、魂だけは友だちでした。誰もいないのですから、私には神も居ないのですから、私の魂だけが友だちでした。どれだけ、私は魂に語ったでしょうか、「私が死んだら、お前も消えなけれならないのだよ」「私を励ましてほしい」「大丈夫、死ぬ時は一緒だから」と、私はその時、魂が私の中に住んでいることを初めて知ったのです。そして、その私の魂だけは信じられるようになったのです。いつの日にか訪れる、絶望の時も、きっと私の魂は、私を励ましてくれると思うのです。


 もう祈るだけ 祈るだけしかないのです―――ああ イエスよ 空の中の―――あなたのお部屋がどれかもわからず―――そこら中をノックして回るのです―――

 何と多くの人々が、この心に到ったことでしょう。この人々の祈りが、人間を生かしめてきたのでしょう。あの時代、あの場所、思い出せば今も聞こえて来ます、生命のいとおしさ、世界に溢れるほどの生命はあるのに、それでも失いたくない一つ一つの生命。最後に人に出来ることは、祈ることだけ―――


 死を前にした人たちも その頃は―――どこへ行くのかを知っていた―――彼らは神の右の手へゆくと―――その手もいまは断たれ―――神さえも見あたらない――― 多く、どこへ行くのか知ってはいないのです。ここを去らねばならないことは知っているのですが、何処へ連れていかれるのかは、考えたこともないのです。ただ闇、果てしない闇。その時になって、はじめて、せめて狐火であっても欲しいと思うのですが、何も用意してこかなかったことを思い知るのです。


 苦痛にはただ一人の知人があって―――それは「死」―――二人はそれだけで―――十分な社会―――苦痛は下級政党―――二番目の権利しかないのだから―――

 生命が別れる時、引き裂かれる痛みもなく別れられるはずがない、愛した、忘れられないこの世界と、引きはがされる生命が、苦痛の叫びをあげないわけはない。たとえモルヒネで麻痺させられたとしても、生命が苦しまないわけはない。苦しんで苦しんで、別れを告げる時、死という知人が来て、優しく、労ってくれるのでしょう。死は生命の友人だから、十分にその人が苦しんだと思えば、許してくれるもの。


 私は一生を終えるまでに すでに二度終えた―――だが 私にはまだ残っている―――不死が第三の出来事のベールを―――取り去るのを見ることが―――

 父が死に、母が死に、友人が死に、いくつもの別離を思い知らされていく、人の一生というもの、貴女にとって、自分の死にも等しかったもの、その度に、孤独を固めていった貴女。白い服をまとい、人生を拒否し、限られた自然の中で、自然を越えるものの在処を見ようとした貴女。それは不死が第三のベールを取り去りににくるまで続けられた。


 満ち足りることはわずかですむ―――ただ一つでも十分―――あの天上の群れに―――私たちは―――加わる権利を持たないのか―――

 私たちは試されているのだと思う。どれだけ欲深に成れるか、欲深になって何が満たされるか。貴女が生きたように、ただ一つでも十分なのに。いつの日か、死んで後か、知ることを期待されて、私たちは今日も生かされていると思えます。


聖堂の回廊などで 時折―――私はオルガンの話すのを聞いたことがあります―――ひと言だってわからなかったけれど―――しばらくは息を秘めていたもの―――

 何を話しているのかはわからないのだけど、話しているのがわかる時があります。木が私にとってはそうでした。その時の神秘は、人の言葉とは違って、魂に作用し、心を変化させました。―――遠い遠い、私自身の原始。私は木から生まれた、私は石から生まれたと確信させ、包まれ、共に生きていることの喜びに満たされました。


 肌色 階級 そして宗派は―――たんに時間の中の出来事―――死のもつ最も神聖な区分には―――このようなものはない―――

 私たちは、泣いたり、ぐちったり、争ったり、何百年も生き続けるかのように、様々なものを求め、所有し、貯えようとしています。それでいて、死を恐れ、死を知らず、不安がっています。貴女は死を、生きることのように見つめ、学んだ、そして、死はいつも神の隣に在って、神聖で、もう一つの世界への突入で、人が真に生き始める瞬間と知った。

人は、死んで初めて生き始めるのだと―――。


 悲嘆の海を私は歩いて渡ことができる―――それをすっかりでも―――私はもう慣れているのだ―――だがちょっとした喜びも―――一押しで私の足をもつれさせるし―――私はすぐ酔って転んでしまう―――

 何という覚悟、決意なんでしょう。いくら慣れているからといって、ちょっとした喜びには弱いけれど、大きな苦痛には強いなんて。貴女は言葉通りに生きてしまった人だから。

何が貴女をそこまで行かせたのでしょう、十字架と一緒に生きれるなんて。一回きりの人生を、それほどまでに逆らって生きれるなんて、時代だったのでしょうか、貴女の才能だったのでしょうか、私は貴女の悲嘆の海を、ちょっとした喜びの中で辿るばかりです。


 私の受け取る唯一の知らせは―――終日―――「不滅」の地から送られてくるもの―――私の見る唯一の舞台は―――「明日」と「今日」―――それに「永遠」も―――

 神に出会い、永遠を手にし、明日と今日と訪れる終日を待って生きた貴女。貴女にとって生きるということは、噛みしめるということだったよう、貴女にとって、悲嘆こそが最も噛みしめがいがあったもの、悲嘆の海を、どれほど貴女は噛みしめて生きたことでしょう。毎日の終日を見つめて。


 私は思う 私たちは死ぬのだと―――どのようにすばらしい生命も―――衰えるのを免れないと―――だが それがどうだと言おう―――

 貴女の自問のようにも、自信のようにも聞こえます。でも「死」に貫かれた詩集は、ひっそりと、人目を遠ざけているよう。浴びせられた嘲笑に耐えてもいるよう。そうなんです、「死」は私個人の問題、私自身の「死」についての考えなのと。一人を、孤独の海を、貴女は歩いて行ったのですね。


 彼女の生きていた最後の夜は―――死んでゆくものをのぞいては普通の夜だった―――ただこの事実が―――あたりを異様にさせた―――

 私は臨終をまだ一度も知りません。父を亡くしているのに、死にゆく人との時は幾度か、いつの日か私も誰かの臨終に出会うのでしょうが、その時に、貴女が感じたような夜を知るのでしょうか。見過ごしていたものを、小さなことを、その時、心気づくことが出来るのでしょうか。イタリック体のようになって物たちが、私に語りかけてくるのでしょうか。

私が残って、その人だけはすっかり終わる、私には普通の夜が、異様さはやはり、この事実でしょう。残る者にとっては、どれだけ耳をそばだて、心を一本の線にしても、その人が今は、ここにもう居ないという事実に比べたなら。風の音が、人の声が、いつもとは違った色を帯びてはいるが、私には少しも変わらず届いている。私が在って、その人は無い、この異様さ、いつの日か訪れる私自身の臨終。想像してみると、今こうして私が在ることが、異様な事に思えてきます。あの人はもう居ないのに、私はこうして居る、そして今日も普通の夜を迎えている。


 この世で終りという訳ではない―――いまひとつの世界がむこうにある―――音楽のように眼には見えなくても―――音のように確かな世界が―――

 私達はどこからこの世界へやって来たか知りません。ただこの世界に今居ることがわかるだけです。どこから来たか知らない私達が、どこへ行くのかわかろうはずがないのです。

もう一つの世界、人は長きにわたって考えて来ました。そして今も考えています。でも、もう一つの世界があることを証明出来ないことだけが、証明出来ただけです。もう一つの世界、私はこう考えるのです。永遠も、天国も、神も、全て存在に属しているもの、世界の初めから存在している。ただ私たちの有限の意識が、「死」や「無」そしてもう一つの世界を想像しているだけ。永遠も、天国も、神も、全て現在の中に含まれている、人が想像することは全て存在していくと―――。「無」には「有」は含まれていないし、「死」には「生」は含まれていない。が、「有」である存在には、「無」も「死」も全てが含ま

れている。人の意識は、もう宇宙の、神の意志に思えるのです。私が今こうして何かを意識している。これは、もう奇蹟、私の意志だとはとても思えないのです。この宇宙で、この地球上で、意識をもった者が存在しているなんて、それはもう永遠と同じであり、もう一つの世界と同じことです。宇宙から地球を、宇宙から私を、宇宙から意識を眺めた時、それは感じられます。「生」と「死」、「有」と「無」、有限的な意識は、あらゆる存在を対立、二元的に見てしまいますが、存在とは無限なもの、偉大な調和をもった全てのもの。ただもう私たちは、存在の永遠を生きていけばいいと思うのです。


 希望は 心の奥の―――翼のあるもの―――言葉のない歌を歌い―――止むこともなく―――強い風にも楽しくさえずるもの―――多くの人々を温めた―――この小鳥を驚かせるのは―――どんなひどい嵐か―――

 希望、私はこう考えるんです。私が一人生き残って、人々がみんな死んでしまったということがない限り、私の希望は残ると―――、託す心です。木や鳥だっていいのですけれど、人々がどのようにだって生き残ることが、希望なのです。病み、この世を去る日のことを考えた時、それ以外は考えられなかった私の希望です。人とは、希望を抱かないでは死んで行けない動物なのです、多く人々は、絶望の中にあっても希望を抱いていた。人とは、希望という生命なのでしょう。貴女にだってあった希望、神というあの至上の希望。


 夏は なににもまして短く―――人の生命は 夏よりも短い―――七〇年とて すばやく消費される―――ただの一ドルのよう―――

 子供になって、貰った小遣いをどうしたら一番よく使えるかと思案し、結局何も使わないで、貯金箱に入れたような、生命の使い方を考え続けた貴女の一生、その貴女であっても、生命が一ドルくらいのすばやい消費に―――、この人の一生というもの、私の読書に費やした時間は何セントについているのでしょう。人と議論に費やしたあの時間は一体何セントに―――。使わないで、貯金箱に貯めておく方法とは―――、そして、生命が最も必要とするものを買う方法は―――。貴女はきっと、孤独という貯金箱を持っていて、或る時、神様への愛に、全部はたいたのでしょうね。それは、子供が持っている、ルーペのような、世界を微細と、神秘で満たしてくれたもの。


 小石はなんていいんだ―――道にひとりころがって―――経歴も気にかけず―――危機も恐れない―――あの着のみ着のままの茶色の上着は―――通り過ぎていった宇宙が着せたもの―――交際もせず―――ひとりあかあかと輝く―――太陽のように独立していて―――途方もない無邪気さで―――天命を果たしている―――

 私が読んだ、貴女の詩集の中で、一番好きな詩。貴女の願い、貴女の望みが、この詩には示されている。貴女の生きてきた道、貴女そのもののような―――。生前、詩を発表することもなく、生まれたままの名もない貴女であり続け、神の隣に住むことを求め、生涯家の門を出ることもなく、自分を探し求め、詠い続けた。貴女は天命をまっとうしたのだと思う。独立した太陽のように。貴女が自分の詩のように生きてしまったからこそ、私には今貴女が蘇る。貴女が詩とともに今も生きていると思える。


 草の仕事はほんのわずか―――いちめんの緑の草原で―――ただ蛙の卵を抱き―――蜜蜂をもてなしてやるだけ―――

 いいもの、人に感動を与えるもの、自分に満足のいくものをと、どれだけ人は欲張っていることでしょう。社会の中にあって、ただ自分の魂を抱いて、訪れる人あれば、笑顔で迎えるだけでいいのでしょうに。ほんのわずかな仕事を、魂を育てる大切な仕事を、やり続けることでしょうね。魂のレースで身を包み、月日を夢の内に過ごし、干草のように生きていった貴女。


 心にはたくさんのドアがあるが―――私はただノックするばかり―――「おはいり」とやさしい答えが聞けるのを―――どれほど待ちあぐねていることか―――

 貴女の部屋、片側には死、孤独、悲嘆、苦痛。もう片側には天国、神、愛、自然、―――貴女はドアをノックし続けた、孤独の部屋から神の部屋へ、悲嘆の部屋から愛の部屋へと、だが、貴女が住むことを許された部屋は北側の、孤独と悲嘆の部屋。飛び出しては、南側の神と愛の部屋をノックするのだけれど、「おはいり」の声はない。時に神の部屋の隣に、住まわせてもらえることもあったけれど、しばらくすると追い出された。神の部屋へ入ることを望み、ノックし続けた貴女。死と天国、孤独と愛とを詠うばかり。


 消えてゆく光でなら―――私たちにはいっそう細部が見えます―――点りつづける燈芯よりも―――過ぎ去ってゆくものの中には 何かがあるのです―――

 死にゆく人が、最後の光で照らし出しているものは、ほんのわずか、生きている時あんなにも身にまとっていた、物、気持が、今はただ一つ。一本の花、一杯の水、一つの言葉―――貴女には分かっていたのでしょうね。若いうちから、一つのものだけを求めて生きてきた。孤独というものへ、人には、満たされるものが一つあれば充分というように―――孤独でなくてもよかったのに―――何故そこにだけ、自分を許したの、誰が命じたの。

私は貴女の「死」の章を読む度に呟いてしまいます。孤独の部屋に今も住み続けているような貴女―――。


 愛は生命の前にあり―――死の後にある―――創造物の最初のもので―――地上の代表者だ―――

 人が、これが愛だと知る以前に、多くの生命における予感があったのでしょう。夕陽を見つめる人の祖先、死を見つめる人の祖先―――、知性を生きようとした生命にとって、身を寄せ合う愛によってしか、自然の狂暴に立ち向かえなかった―――。人が知性の道を歩み始めたその時から、愛を育まないではいられなかった。知性と愛は自然が生んだ、双子の兄弟。千年の後、兄弟はどのように育っているのでしょうか?―――愛に身を寄せ合って、生きてくれているといいのですが。


 「自然」は私たちの見るもの―――丘と午後―――りす 日蝕 そして熊蜂―――いいえ「自然」とは天国のこと―――

 人間だって、りすのように、熊蜂のように、疑う心、欲深な心をもう少し押さえられるなら、それら天国の一員になれるのに。疑ってしまう、求めてしまう―――。自然には偉大な調和と、存在という単一な捉があるだけなのに。その「自然」を、私たちの智恵など及びもつかないのに、飽きもせず存在を並べかえ、並べかえして人は生きている。


 生きていることはすばらしいこと―――生きていることは―――まさに無限であること―――そしてそれは二倍にもなるのです―――私の誕生と このあなたの中の誕生とで―

――

 貴女の詩集の大半は、この生きていることのすばらしさに向かって詠われています。私はことさら、貴女の孤独と死とばかり対話してきましたが、このことをしないでは、貴女と解り合えないし、貴女こそは、その限られた、一つの全てから世界を見ていると思えるから―――、その中で知る無限と、神秘、そして誕生。貴女は明日生きかえる方法を知っていた。死と孤独の世界からは、誕生と天国があるばかりと―――。

 なんて柔らかに毛虫は歩くことか―――私の手の上の一匹―――こんなベルベットの世界からお前は来たのか―――こんなビロードの肌を意のままに持つのか――― 一人になって、時間の中に立ち止まってみると、あらゆるものが、神秘と不思議に満ちてくる―――貴女はその一つ一つに包まれるように、話しかけるように詠っています―――石だって、人が加工した物にだって、存在そのものは、いつもスポットライトをあてられたように浮かび上がっているもの、こんな宇宙の塵の世界からお前は来たの、偏光顕微鏡の下の、こんな虹の世界がお前だったのと―――理由や、仕組みをいくら知らされたからといって、神秘と不思議は消えることがない。それは、生命の飛躍、生命の集約。


 三月さんお入りなさい!―――なんて嬉しいことでしょうか―――お待ちしていたのですよ―――さあ帽子を脱いで―――きっと歩いていらっしゃったのね―――すっかり息を切らしたりして―――三月さんご機嫌いかが そして他のみなさんはお元気?―――

 エミリー、一月、二月と貴女と語ってきて、いま三月となりました。私も三月さんお入りなさいという気分です。そして、貴女も言っている、人が神様に出会う季節、木々の芽はふくらみ、風は南の匂いを漂わせ、鳥たちはもうはしゃぎまわっています。春の貴女があそこに、ここに見つかります。死と孤独の部屋から眺めた貴女の自然―――それは憧れ、天国―――いま私はその天国に住んでいます。天国の中でも一番素晴らしい所、三月という季節に生きています。


 エミリー、一ケ月余り貴女とこうして、対話というより私の勝手な、貴女の詩の講釈のようなことをしてきましたが、これらが今私にとって、よりよく生きれたのか、生きることのように書けたのかは疑問ですが―――。でも今の私にはこうした形でしか、生きることのように書く方法は見つかっていないのだし、何より、生きることのように書くということが、どういうものであって欲しいのか、まだよく解っていないのです。ただ貴女の詩を読んだ最初の印象が、これは、生きることのように書いた人だという感動でした。私は当面は書かなくても、まず生きれればいい、よりよく自分を生きれればいいと、考えていたのですが―――。貴女も詩を書くことで存在してきたように、書くということは、やみがたい私の生きる部分だったのです。貴女の詩のように、私が書ければ、それは生きることのように書いた気分になれるかも知れませんが、まだ、方法が分かりません。それは、きっと貴女が歩んだ道の中にあると思うのですが―――。今の私には困難です、生きれればいいといった安易さもあります。よりよく生きることなど、まして生きることのように書くなど、まだ本当の願いにはなっていないのでしょう。

 私には、許しているものが余りにも多くあります。家族の団欒、いくつかの趣味、友人、仕事など、またこの文章も、個人誌ですけど、知人に読んでもらうために書いています。

貴女の、自分の許された唯一の存在方法としての孤独の生活など、私には言ってみるだけのことになってしまいます。それでも、やみがたいものがあって、貴女をたどったのですが、貴女の存在の奥底を見る眼が欲しくて、貴女の生きていることの恍惚が欲しくて、―――。私の場合、癌が早期発見で生命拾いをしたのですが、その時の不安と、助かった時の喜び、その二つの存在の深淵と、生の恍惚の体験なのですが、それらを生きることにおいて求めていることは確かです。生きることにおいては、存在の深淵、即ち死を忘れないということ、常に死を引き入れて生きること―――。これは習慣になってしまえば、一日一日を大切に、より自分を生きれるように、時に喜びをもって生きることが出来るようになりました。ですが、今ひとつの、生の恍惚は、不安なくしては得られないものなのです。

死の不安の中からしか生まれないもの―――。エミリー、貴女は言うでしょうね。罰があたりますよと―――。エミリー、貴女の絶望と恍惚、私は求め続けます。私のままに得られる方法で―――。生きることのように書くといった私の表現ですが、死を引き入れて生きている時に感じる、あの明日死ぬかも知れないが、今生きているという、存在の神秘、不思議に対して覚えるあの恍惚―――。そうした生きていることを言葉に置き換える方法の中で、私が私を許す方法でやってゆきます。

 貴女の詩集は、私の幾冊目かの座右の書になることでしょう。こうして考えた思いは、私の中に消えることなく存在し続けます。この一ケ月は確かに貴女と生きていたと思えます。貴女の絶望と恍惚を、貴女を後ろだてとしてでしたが、少し体験出来たと思えます。

いつかの折り、また私と話して下さい、どんな変化が私に訪れていることでしょうか。楽しみにしていて下さい。

         エミリーへ        一九九〇 三 一

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