冬姫の決意
「その有り余る富で窮地の国を救おうともせず、このような場で女人の誘惑に使うというのか。貴殿ら貴族には、まだまだ税を搾り取る余地があるようだな」
そう言うと冬姫は自分に捧げられた宝石や装飾品を大臣に命じて接収し、片手を目の前にいる男に向けてあしらうよう数回振ります。
それを見た貴族の男は、下を向きながら舌打ちをし、踵を返してどかどかと謁見の間から出て行きました。
後ろの玉座で話を聞いていた冬の王は、目を瞑りながら首を振っています。
このようなやり取りを何度続けたことでしょう。
すでに冬姫の心を揺さぶり眉を動かす試練は3ヵ月目に突入しています。
当然、この間に姫の心を揺り動かした者は皆無。
巷では心の無い冬姫の眉を動かすことなど出来るはずがないと噂が立っているほどです。
今日は猛吹雪が吹き荒れて、訪問者は少ない様子。
残りの謁見希望者は3名となっていました。
次に現れたのは熊の毛皮を纏った巨体の男。
遠くから見ると毛皮のせいで熊そのものに見えるほどの大きさです。
この男は北方の蛮族の族長で、冬の国の王家とは長らく敵対していた者。
巨大な鉈のような剣を抜きさり、冬姫に怒鳴り始めました。
「我の部族は近年こそ冬の王の傘下に入ったが、この冬の厳しい税の要求には我慢がならぬ。聞けば冬姫、お主が病に伏せる王に代わって施政をしているそうだな?」
族長の声は謁見の間に響き渡り、まるで地震でも起きたかのように凍える城を震わせます。
しかし、その声にも全く動ぜず、冬姫は淡々と言葉を繋ぎます。
「いかにも。私が父上に変わり政を預かる身。それが如何したか?」
「ならば問おう! 何故、税は上がり続けるのか!! 冬が終わらぬ国難は、お前達の女王が起こした災難であろう!! これ以上の要求は断固拒否する!!」
族長は怒り心頭といった面持ちで姫に詰め寄り、大剣を突きつけます。
危機を感じた近衛兵が族長に詰め寄ろうとしましたが、それを冬の王が止めました。
実は族長の謁見は、冬の王が仕組んだもの。
わざわざ族長を呼んで一芝居を打っていたのです。
全ては娘の心を少しでも動かさんがため。
そして、その娘の姿を見れば、女王リウメレスが心開いて塔から戻ってくれると信じていたのです。
しかし……。
「今年の税は至極公平に要求しておる。この程度は難題にもならぬはず。我が国と数百年戦ってきた北方の大族長が、税ごときで泣き言とは情けない話である。ご子息殿に代替わりをしてはいかがかな」
冬姫は突きつけられた剣に向かい、身を乗り出しながら族長に詰め寄ります。
そして鋭い眼光のまま、切っ先を自分の喉へ押しつけようとするのです。
その気迫に然しもの族長も剣を引き、深い溜息をつきました。
「……王よ。ソロンシアよ。これ以上の芝居は意味が無いようだ。姫君の胆力は蛮勇などではない。これは……」
族長は何かを口籠もると、それ以上は何も言わずに部屋から出て行ってしまいました。
冬の王は手の平を顔に当て、天を仰ぎ見ています。
残るはふたり。
もう、何の仕込みも無い者達です。
王も従者達も揃って沈んだ面持ちになってしまいます。
そんな空気を打ち破り、次にやって来たのは……。
なんと夏の王の第二王子。
思わぬ大物の出現に冬の王も、喜びを隠せず立ち上がります。
輝くような衣装を纏った王子、カランノールは落ち着いた声で優しく姫に語りかけました。
「おお、冬姫! いやリリエン殿!! このような形での謁見、大変残念に思っております。本来ならばもっと賑やかな宴席でお会いしたかった……」
王子はそう言うと冬姫に歩み寄り、その手を両手で握ります。
カランノールは夏の王自慢の子息で、兄よりも才覚があると噂されるほどの人物。
柔らかい物腰で人柄もよく、国民に慕われている評判のいい王子です。
「今日、私は父上、夏の王の伝言を伝えに参りました。しかし、これは今まさに、私の意思となっております。この出会いがそうさせたのです。実直な姫に隠し事は無用でしょう。単刀直入に申し上げます。冬の王家の第二王子である私と、婚約をしていただけないでしょうか?」
手を握り優しい微笑みで冬姫を見つめるカランノール。
美形であるといわれる夏の王家の中でも、格別に端正な顔立ちを持つ王子の求愛に、侍女達が溜息混じりでざわめきます。
……ですが。
「では私も単刀直入にお返事いたしましょう。私のような未熟者には勿体ないお話。丁重にお断りいたします」
「そうでしょう。私も貴方の麗しい姿を一目見た時から……あっ。えっ? い、今、なんと仰りましたか?」
「二度も言うのは時間の無駄ですが……。王家の方ですので仕方がありません。お断りいたします。ハッキリと、そう申し上げました」
「そ、そんな……」
王子は驚きを隠せず、しばし呆然としていましたが、気を取り直して冬姫の手を握りしめながら顔を近づけて説得を続けます。
「勿体ないなどとはとんでもない。姫様の美しさと聡明さはどの国にも伝わり広がるほど。むしろ私こそ不釣り合いで高嶺の花であると言えましょう」
「ではそのような理由で、お断りすればよろしいのですか? 貴方は私に不釣り合いであると?」
「あ、あ、ああ、そういう意味では無く! え、えーその。私を婿として冬の王国に迎え入れて頂けるのであれば、姫が施政をする必要はなくなるのです。そうして心の荷も軽くなれば自然と笑顔も……」
「私の采配はご不満でしたか。まだまだ未熟者だということですね」
「で、ですから! 私が伴侶となれば、その役目を負わなくていいのです! もう、国民に好きに言われることも……」
心なしか冬姫の表情が少し変わったように感じましたが、それでも眉一つ動かさずに冬姫は冷たく言い放ちます。
まるで外で吹き荒れる猛吹雪のように。
「国民はどんなことを仰っているのでしょうか? 氷顔姫ですか? それとも鉄眉姫? 冷血宰相なんていうのもありましたね。私の未熟さ故の誹りです。他にもあればお教えくださいな」
「な、なぜなのです。私と結婚すれば、病床の父君の代わりに苦労をすることはないのです。もう、そんな辛い目に合うこともないのですよ? 後は私に任せて……」
そう言いかけた王子の腕を払いのけて、姫は謁見の間の中央へ戻ります。
そして王子に向けて話し始めます。
「なぜ? それは私の……」
姫の言葉が、一瞬、詰まったように感じます。
次の瞬間、謁見の間の扉が開き、3人目の来訪者が姿を現しました。
3人目の来訪者は……ぼろぼろの防寒具と奇妙な仮面を付けた男。
仮面は簡素な木製のもので、真っ白な表面の右目部分だけに穴が空いています。
彼が入って来ると、少し饐えた匂いが漂い始めました。
そして覚束ない足取りで、姫と王子の方へと歩いていくのです。
ぼろ、ぼろ、ぼろと、何かの欠片を床にこぼしながら歩み、その不気味な男はふたりの前に立ち止まりました。
それを見ていたカランノールは、苛立ちながら男に言い放ちます。
「いきなり何だね君は? 自分の番まで待てないのか。言いたくは無いが我々は王族だぞ? いくらなんでも失敬だと思わないのか!」
そう言われたぼろぼろの男は、シンプルな仮面の片目からギョロリと目を動かし、言葉を話し始めます。
「この度の非礼、両殿下並び国王様に深くお詫びいたします。ですが、私に残された時間は多くはありません。どうか、この無礼をお許しください。そして私を通してくれた大臣殿にも、同様のお慈悲を」
その見た目からは想像できないほどの聡明な話しぶりと、透き通るような美声に周囲の誰もが驚きました。
カランノールは驚きつつも、この男に話を続けます
「ふん。まあいい。しかし、今は私の謁見の最中である。少しの間だけ……」
「そのほう。名前は何と言うのだ?」
カランノールの言葉を遮り、冬姫はボロの仮面男に話しかけます。
すると男は奇妙な話をし始めました。
「姫様、私には名乗る名前はありません。正確に言うと誰も私に名前を付けられないのです。これは私の一族への呪い。村に巣くう悪竜の呪いなのです。差し支えなければディプライブ……奪われし者とお呼びください」
「ではディプライブよ。なぜ、その身を押してこの場へやって来たのだ。その体では……」
ディプライブと名乗る仮面の男は姫から質問されると、少し咳き込んで話を続けます。
ふたりの間に走る緊張感を察して、誰もがその会話に釘付けになっていました。
「さすが姫様です。私の体の事を一目で見抜かれたようですね。私の体は悪竜の呪いですでに腐り果て、もうすぐ土塊のように崩れていきます。その前に、この謁見で姫様にお会いしようと思ったのです」
「馬鹿な……。死を覚悟してまでここへやってきたというのか。そのようなことはこの席で求めておらぬ!」
不思議な瞬間でした。
冬姫の言葉に強い抑揚が現れたのです。
しかし、この場でそれに気付いたのは、仮面の男一人だけでした。
そしてその言葉を聞いた仮面の男は、少し嬉しそうに話を続けます。
「やはり思っていた通りです。姫様は心が無いのではありませんね。先程の言葉もそう。姫様が施政を行う理由。それを押し通す為に心が無いふりをし続けていた。そうなのでしょう?」
「何を……訳のわからないことを。私は冷血、冷徹で名を轟かす冬姫なるぞ。現に先程も蛮族の親玉に重税を課し、これからも貴族への課税を増税するつもりだ! 私を非情と呼びたくば呼ぶがいい!!」
仮面の男は、ますます嬉しそうに話を聞いています。
そして姫の話しぶりの変化に、周りの者も気づき始めました。
姫の言葉には、あきらかに怒気が入り交じっていたからです。
「私の住んでいる村は、この国の最北にある貧しい村です。悪竜のせいで人口も少なく、自給自足をするのがやっとなのです。しかし、この村への税は前の年と変わらない。むしろ食糧の援助が来ている分、税は軽くなっています。姫様はちゃんと取れる場所を選んで税を取っているのですよね。その心配りは非情な者には出来るはずもありません」
「そ、それは……たまたま、手違いがあって……」
「いいえ、手違いなどではありませんよ。この城下町に来るまでにいくつかの街と村を通り過ぎました。そこで聞いた話は貧しい村では姫様を慕う声が多く、産業が豊かな街では姫様の評判が悪かったのです。不思議に思って役場で税率を調べてみると、繊細に課税が調整されていることに気が付きました。貧しい村は税を軽くして、富んでいる街へは税を重くしているんです。おかげでここに来るまでに、寿命が尽きそうになってしまいましたがね」
そう言いながら仮面の男は照れ隠しなのか頭を掻いています。
掻く指を二本ほどボロボロと落としながら……。
それを見ていた冬姫は、落ち着きを失った口調で反論します。
「そ、それは民を率いる者ならば当然の配慮。税制の基本でしかない! 私は……私は!!」
「それでも貧しき民が姫様を慕う心には変わりがありません。彼らの分も代表してお礼を言わせてください。本当にありがとうございます」
「……もうよい。お前達がどう思おうと勝手だ。それより、もう気が済んだであろう。医師とベッドを用意させるから今日はもう休んで……」
冬姫が冷静さを取り戻しかけた時、仮面の男は指を立てて言葉を制止します。
その立てた指が、ぽろりともげて落ちると同時に、仮面の男は話し始めます。
「いえ、お構いなく。すでに私の体は半時と持ちませんので。それに私の目的は、まだ終わっていません。この話を伝えるために、ここへとやってきたのですから」
「一体、まだ、何があるというのかね? 死を賭してまで何を伝えたいというのか……」
押し黙っていたカランノールが、仮面の男の発言を促します。
その言葉に仮面の男は一礼をして、再び話を続けます。
「王子、発言の機会を下さってありがとうございます。冬姫様……私がこれからお話しすることをぜひ女王陛下にお伝えください」
「な、何なのだ? 母上に一体何を伝えたいというのか!?」
「私の村に巣くう悪竜の話です。いえ、悪竜は悪竜ではなかったというお話でしょうか……」
そう言うと仮面の男は、自分の村に住むという悪竜の話をし始めます。
悪竜の名はガングレリ。
この男は冬の女王、リウメレスの故郷からやってきたのです。
この長く続く冬のせいで、最北の村は疲弊していました。
そこで仮面の男は生贄を捧げる期間を延ばして欲しいと悪竜に交渉をしに行ったのです。
その出会いでガングレリは仮面の男の資質を見抜き、全てを話すことにしたのです。
ガングレリは昔、とある国の王様でした。
ある時、敵国の計略にはまり、呪いをかけられて爛れた竜の姿にされてしまったのです。
この呪いは猛毒と病気の瘴気に蝕まれ、じわじわと死んでいくという過酷なもの。
しかも、死んだその場で蓄えた瘴気は撒き散らされ、国全体が滅んでしまうという邪悪な罠まで仕掛けられていたのです。
その仕掛けを見破ったガングレリは、最後の力で自分の国から飛び立ちます。
なるべく遠くへ。
なるべく辺境で人のいないところへ。
ガングレリは被害を最小限に抑えるべく、気温の低い北を目指します。
そして力尽きて落ちた場所がリウメレスの住む村だったのです。
ガングレリにとって、落ちた場所の近くに村があったことは誤算でした。
彼は村の長老を呼んで自分にかけられた呪いの事を説明します。
自分が傷つけば病が飛び散ること。
自分が死ねば、四季の国全体を死滅させかねないということ。
そして、それを阻止するために爛れ竜として生き続けるには、最低限の【力ある血肉】を食らわなければならないこと。
それらを協議した結果、精霊の血脈を持つ者の腕を捧げるという生贄の儀式が生まれたのでした。
腕一本の犠牲ならば生き残れる可能性があるという苦渋の選択でした。
斯くしてこの儀式は50年にも渡って続き、年と共にガングレリの話は忘れ去られ悪竜と呼ばれるようになっていったのです。
ガングレリも自身に恨みの全てを向けさせる為に、あえて長老以外の者には真実を話さなかったのです。
「竜が落ちてきたのは災難でしたが、あの竜自体は悪とは言い切れない。死ねば国を滅ぼしかねないのです。その為に人の不幸を食らい、生き続ける苦行に疲れたとガングレリは言っていました。この不幸の連鎖を解くには四季の女王の力を借りるしかないと。この話を伝えればわかってくれるはずだと……彼は言っていたのです」
仮面の男の話を神妙な面持ちで一同は聞いています。
ただ一人、冬の国王を除いては。
ガングレリとの戦いは冬の王、ソロンシアにとっては苦い思い出でした。
悪夢のような戦いを思い起こさせる悪竜が、実はこの国を守らんが為に生贄の儀式を続けていたというのです。
なにしろ冬の王の病気も、ガングレリとの戦いで受けたもの。
その真実に戸惑いを隠せません。
思わず玉座から、仮面の男に話しかけます。
「ディプライブよ。そなたの話は命を賭してのもの。もはや疑いのないものであろう。……お主はファロスという名に聞き覚えはないだろうか? おそらく片腕と片足を失った生贄となった男なのだが……」
「残念ながらファロスという名は存じ上げません。しかし、私の父は片腕と片脚をガングレリに捧げた生き残りだと言っていました」
「そうか……。そなたの父がファロスであったのだな」
「父には呪いを掛けられる昔に名前があったそうですが……。それがファロスだったのでしょうか?」
冬の王は目頭を押さえ、溢れ出ようとする涙を堪えて語り出します。
「私はそなたに懺悔をせねばならぬ。そなたの父にある交渉を持ちかけたのは私なのだ……」
「それは……どういう意味なのでしょう?」
冬の王は仮面の男に20年前の真実を話し始めます。
20年前、北の村にソロンシアが訪れたのは悪竜を討つためではありませんでした。
精霊の血脈を持つ娘を捜すため。
そしてその者を自分の后とするためだったのです。
北の村は精霊の血筋の者が多く、后捜しには絶好の場所でした。
そしてソロンシアはリウメレスを見初め、ファロスと交渉をしたのです。
悪竜を討伐する代わりにリウメレスを諦めてくれと……。
愛する者に辛い思いをさせたくなければ、この交渉を飲むしかない。
ファロスは苦渋の選択でリウメレスをソロンシアに託したのです。
ファロスが約束の場所に現れなかったのは、そういった経緯があったからなのでした。
しかし、ガングレリとの戦いはソロンシアの大敗に終わります。
その結果、ファロスは二人分の生贄を賄うため、片腕と片脚をガングレリに捧げることになったのです。
瀕死になったファロスは生死の境を彷徨いますが、村の娘の手厚い看護で一命を取り留めます。
その娘こそが仮面の男の母親で、後にファロスの妻となる者でした。
恋人に逃げられながらも、村のために命を投げ出して生贄になったファロス。
生き残った村の者達は、そんなファロスを英雄として迎え入れました。
事情を知らない村の者にとっては、裏切って消えたのはリウメレスのほうだったのです。
しかし、ソロンシアとの戦いで飛び散った瘴気はファロス夫婦をも蝕み、生まれて来た息子も病気に蝕まれてしまいました。
ファロスもその妻も病気が原因で、仮面の男が幼い頃に亡くなってしまいます。
それでも仮面の男は英雄の子として村で大事に育てられ、現在まで生き延びることができたのでした。
「すまない。私欲を理由に若いふたりを拐かし、さらに自分の力を過信して村までも危機にさらしてしまった。私は王として失格だ……」
冬の王は涙を堪えきれず止め処なく流して、仮面の男に懇願をします。
すると、仮面の男は冬の王に少しだけ歩み寄って語りかけます。
「国王様、謝るなどお止めください。私も父も国王様を恨みに思うことなどありません。それにこれは結果論かもしれませんが、国王様が女王様を助けなければ、私も冬姫様も生まれてこなかったはずです」
「しかし、それではファロスの一家があまりにも不憫。この身が起こした愚かな行動で……」
仮面の男の制止も虚しく、冬の王の嘆きは止まらず泣くばかり。
それを眺めていた仮面の男は、冬姫の目の前まで歩み寄ります。
「国王様の嘆きを止め、女王様を塔の呪縛からお救いするには、もうこうする他はないようです」
「な、何をする!?」
仮面の男は冬姫の右腕をそっと掴み、自分の胸に押し当てます。
そして優しい口調で語りかけ始めます。
「実は私の目は病気のせいで、ほとんど見えていません。その代わり耳だけは他の人よりもよく聞こえるのです。そんな訳で最初から冬姫様の心臓の鼓動は聞こえていたのですよ」
「だ、だから何だと言うのだ……」
「人は心の変化で心臓の鼓動が変化します。それは冬姫様も同じ。私や王子様の言葉に怒ったり、慌てたりしていましたね。そして私などの身を案じるほどにお優しい」
その言葉を聞いた冬姫は、顔を真っ赤にして何かを口走ろうとしますが、言葉にならず口をぱくぱくするばかり。
それを見た仮面の男は安心したように言葉を繋げます。
「ああ、それです。それでいいのです。姫様は本当は感情が豊かでいらっしゃる。普段からそうしていたほうが、姫様らしくてチャーミングですよ」
「なぜだ……。お前は私の心がわかっているのだろう。なぜこんなことをする!」
「姫様はもう我慢する必要はありません。今日のこの出会いが全てを解決してくれる。国王様も女王様も、きっとわかってくれるはず。一度、素直に話しをしてみてください」
「違う……の! 私は……強くなくてはダメなの。鋼宰相と呼ばれた大叔父様のように! でなければ父上も母上も……」
ついにこの時、姫君の顔は悲しみの表情に変化し、目に涙を浮かび上がらせます。
名も無き奪われし者が、冬姫リリエンの心を揺り動かした瞬間でした。
「やはり姫様はお優しい。私の策に見事に引っ掛かりましたね」
「お前……ずるいぞ。鼓動が……どんどん弱くなっていくではないか。これでは、冷静に話などできるはずがない。なんで……こんなことを。なぜ、命を投げ捨てるようなマネをするのよ!」
「元々、死にかけていたのです。気に病む必要はありません。私の命は、私を育んでくれた村のためにあります。このまま冬が続けば遠からず村は全滅してしまいます。ですが、姫様の心が動けば女王様は塔から戻られるのでしょう? でしたらこの命、なんら惜しいと思うことなどありません」
そう言うと仮面の男は、がくりと膝を落とします。
いや、正確には膝その物が砂となって崩れてしまったのです。
人体が砂のように崩れていく……これはガングレリが撒き散らす疫病の末期症状でした。
冬姫は仮面の男を支えようと腰や背中に手を回しますが、その手は砂まみれになり、男の体はぼろぼろと崩れていきます。
冬姫は男の体を揺さぶり、泣き叫びながら励まします。
「まだよ! まだ話は終わっていない!! そう……褒賞よ!! お前は私の心を揺り動かしたの!! 望みはなんでも叶うわ! だからまだ死なないで!!」
「褒……賞ですか。そうだなぁ。欲しかったモノってなんだろう。ああ、そうだ。名前。私には名前がありません。私の墓には……名前を」
「な、名前!? そんなものを……。そうだ! エルサリオン!! 王家の伝承にある悪竜を討伐する勇士の名よ!! お前にはピッタリでしょ!! さあ、だから……」
冬姫が名もなき者に名前を授けると、ついにその体は半壊して大理石の床に崩れ落ちます。
その衝撃で男の仮面は剥がれ落ち、皮が張り付いたしわしわの髑髏のような素顔が現れました。
仮面の男はその状態のまま最後の力を振り絞り、冬姫に話を続けます。
「失礼しました。このような素顔をお見せする訳にはいかないので、仮面を被っていたのですが……」
「失礼なものか。立派な……立派な男の顔よ。私が見た男の中で、一番誇り高い立派な男の顔」
「……やはり、姫様はお優しい」
仮面の男……エルサリオンは冬姫に頭を抱きかかえられながら、少し笑ったような表情で口を動かします。
「エルサリオン……王家の名前か。私にはちょっと重すぎる名前ですね」
「そんなことはない! 私が許すわ!! 父上だって母上だって許すに決まってる!!」
「あはは……。実はさっき、私は少し嘘をついてしまいました」
「……!?」
「村のために命を捨てると……途中までは本当にそう思っていたのですが……」
「ああ、言ったわ。その先は!? なんて思っていたの!?」
「本当は……ですね。姫様……あなたの……た……」
「まだよ!! がんばって!!」
「た……ため……え……が。見てみた……か……」
「エルサリオン!」
冬姫の悲痛な叫びとともに、エルサリオンの体は一塊の土塊となって床へとこぼれ落ちます。
冬姫の流した大粒の涙は、その渇いた砂に吸い込まれて滲んでいます。
感情を露わにした冬姫は、いつまでも男がいた場所から離れずに嘆き悲しんでいたのです。
こうして冬姫リリエンの心を揺さぶるための謁見は幕を閉じます。
冬の女王が隠りの塔から出てきたのは、その翌日でした。
冬の季節は過ぎ去り、春がやって来ます。
そして――あれから3年の月日が経とうとしていました。