女王の憂鬱
「これも私のせい……」
女王は深い溜息をつきながら、三つ叉の樫の木でできた台に乗った水晶玉を見つめていました。
冬の女王は【隠りの塔】と呼ばれる塔の中で、水晶玉の中に映った我が子を心配そうに眺めています。
この水晶玉は女王の精霊の力を使い、遠くの物を見ることができる魔法の品。
水晶に映し出されていたのは、冬姫の心を揺さぶろうとする訪問者たち。
しかし、この退屈な謁見はどれも失敗に終わっています。
その度に女王は深い溜息をつき、北側の窓に視線を移して涙を流すのでした。
なぜ、女王は隠りの塔から出ずに嘆き悲しんでいるのでしょう。
じつは冬の女王には悲しい過去があったからなのです。
女王は冬の王の王妃となる前は、北の小さな村に住む娘でした。
この村は北国の厳しい環境に耐えて暮らす、とても貧しい村。
冬の国の中でも万年雪が降り積もる過酷な土地でした。
そしてさらにもうひとつ、深刻な悩みを抱えていました。
村の近くにある永久に凍り付いた湖に悪竜が住み着いていたのです。
この竜は50年ほど前に、突然、空から落ちてきました。
その時の落ちた勢いで凍った湖に半身を浸からせて、それ以降は一歩も動くことはありません。
なぜなら竜の体はボロボロに腐り落ち、身動きすることや吼えることすらできなかったのです。
その為、落ちてきた竜は暴れて村を襲うようなことはありませんでした。
しかし、この竜が現れてから村に奇妙な疫病が流行り始めます。
原因は……悪竜の体から滲み出る【瘴気】でした。
この腐った竜の体から病気を含んだ瘴気が滲み出ていたのです。
この竜は自らを【ガングレリ】……歩み疲れた者と名乗り、この疫病を止めたければ、毎年、冬が開ける頃に村人から生贄を出せと要求してきます。
村人達は悩みました。
中には動けない悪竜を討ち倒そうとする勇者もいました。
ですが竜に剣や槍を突き立てるだけで傷口から瘴気が飛び散り、斬り付けた者は即座に絶命してしまったのです。
しかも、瘴気が飛び散って村に被害が出るために弓で射殺すこともできません。
さらにガングレリは、自分が死ねば体に内包した瘴気が全て噴き出すぞと村人を脅し始める始末。
結局、村人達は倒せずの爛れ竜、死にかけの腐竜と呼ばれるガングレリの要求を受け入れることになったのです。
生贄となる者は毎年ふたり。
それぞれの利き腕ではない方の腕を切り落として捧げよと悪竜は言いました。
生贄の選別はガングレリ自らが行い、彼が気に入った者が選ばれます。
20年ほど前の生贄では若いふたりの男女が選ばれました。
その女性こそが、後の冬の女王となる娘だったのです。
娘の名前はリウメレス。
もうひとりの男性はファロスといいました。
そして不運なことに、ふたりは将来を誓い合った恋人同士だったのです。
ふたりは村のため、長らく続く掟となっていた悪竜の生贄となることを決心します。
生贄となる前日、ふたりは永遠の愛を誓い、儀式に耐えて生き残ろうと誓います。
そして迎えた儀式の当日。
ファロスは約束の場所に姿を現すことはありませんでした。
恋人を信じ切っていたリウメレスは、極寒の湖の畔で泣き崩れます。
彼女が絶望に打ち拉がれているその時、畔にある人物が現れました。
立派な装飾の甲冑を身に付け、見たこともない大きな馬に跨がる騎士。
そして王家の旗を翻す数百の兵を従えた人物。
それが冬の国の王子、後の賢王ソロンシアその人だったのです。
彼は悪竜討伐の任を受け最北の村まで遠征に来ていたのでした。
ソロンシアは傷心のリウメレスを保護すると、悪竜討伐を約束します。
斯くして悪竜ガングレリは討ち倒され、王子ソロンシアはリウメレスを后に迎え入れたのでした。
――しかし。
このお話には続きがあります。
后となったリウメレスは先代から冬の女王を継承し、その務めを果たしていました。
しかし、心のどこかでファロスのことや村のことが気になっています。
あれ程に愛し合っていたファロスは、なぜ約束の場所に来なかったのか。
村の誰よりも高潔で揺るぎない心を持った若者だったのに……。
それに村の安否についても気がかりです。
ガングレリに立ち向かった勇者達は王の軍にも負けない程の偉丈夫達でした。
その勇者達が勝てなかった悪竜に兵士達は勝てたのだろうか?
斬り付けることでは死なず、湖の水で焼くことも出来ない。
そんな爛れ竜が本当に討伐されたのだろうか。
何度も王に問い質しましたが「心配ない」の一点張りで、帰郷することも許されません。
日に日に心配が募るリウメレス。
結婚してから数年後、ついに彼女は王宮魔導師に命じて村の現状を調べさせます。
すると驚くべき事実が伝わってきたのです。
悪竜ガングレリ健在。
リウメレスの予感は当たっていました。
王の軍は悪竜の討伐に失敗していたのです。
それどころか兵士がガングレリを傷付けたことにより、大量の瘴気が拡散。
村の半数は死に絶えてしまったというのです。
自分達が逃げ出してしまったことにより、村を瀕死に追いやってしまった。 リウメレスの心は、自戒の念で掻きむしられるかのようでした。
さらに追い討ちをかける情報が入ってきます。
最愛の人であったファロスは村にもどって来ていたのです。
そして妻を迎え子をもうけていると。
自分を捨てた男が、故郷で他の女と結婚して暮らしている……。
裏切られたリウメレスは悲しみのあまり、大きな過ちを犯してしまいます。
季節の女王は、就任と退任時の2回、それぞれ決まった種類の【奇跡】を起こすことができました。
冬の女王の奇跡は【心に関する奇跡】。
これを彼女は悪しきことに使ってしまったのです。
「ファロスの一族に因果の応報あれ。その名が世界に響くことを禁ず」
もはやこれは奇跡ではありません。
呪い……。
そう。これはすでにファロスの一族に掛けられた呪いでした。
呪いを掛けられたファロスの一家は、その後、急速に衰退していったといいます。
一時の怒りで我を忘れていたとはいえ、奇跡を呪いとして使ってしまった事への後悔。
そして自分が生贄とならなかったことで滅びかけている故郷の村。
過ちに苛まされるリウメレスはどんどん心が病んでいき、女王の役目以外はほとんど何もできない状態になっていました。
そしてついに運命の年がやってきます。
村から生贄がいなくなる日。
ガングレリは無作為に生贄を選んでいたのではありませんでした。
王宮魔導師の調べでわかったのは、生贄となった者は全て精霊の血を引く者だったということ。
ファロスもリウメレスも、精霊の血を引く者だったのです。
ガングレリが欲していたのは、強い力を秘めた者の血肉だったのです。
しかし、もう村には精霊の血族は残っていません。
あれから数十年経った現在では、老人や病人が辛うじて生き残っている状態だといいます。
精霊の血族がいないと知ったガングレリがどんな暴挙を起こすのか。
このままでは村が死に絶えてしまう。
自分が生贄になって村が半壊しなければ、血統は維持できたはずなのに。
全ての責任はファロスと私にあるのだと、リウメレスは自分を責め続けました。
そして……悩み抜いた冬の女王は、ある結論に達します。
「冬が終わらなければいい。生贄の儀式が始まる春の訪れを阻止すれば……」
それが終わらない冬の幕開けでした。