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後編

 未知佳が云う灰島さん――七十歳は余裕で過ぎている元アメリカ占領軍の軍曹にして日系二世のジャック灰島のことは始も知っている。

 逆戸市内の総合ゲームショップ〈夢殿ゆめどの〉のオーナーにして始の祖父の盟友。

 かつては旧陸軍の隠匿物資横流しを巡り、血で血を洗う争奪戦を繰り広げたというが始も未知佳も真相を知らない。

 今は逆戸組の相談役として黒い肌の魁偉かいい巨躯きょくを7階建てビルの最上層にあるソファーへ沈めている。

 始へ理由を説明しないまま未知佳はジャックへ何事か耳打ちし古いアルバムを見せてもらっていた。

 両親との死別後まもなく祖父の屋敷を引き払った始と鈴子は、荷物の一部を、旧知で懇意にもしているこの老人の元へ預けている。

 待ちぼうけ状態となった始は下にあるゲームショップで適当に時間を潰していたが、ひまわりのように耳が長いエルフ美少女がメイド服を身にまとうゲームのパッケージを手にしたところで店内放送に呼び戻された。

「というわけで後は鈴子さんの承諾待ちです」

 未知佳は社長室へ戻ってきた始へ開口一番そう告げた。

「いいかげんにしてくれ、みー。ジャックのじいさんも全部白状しろっ!」

「はははは、ハジメ、ユーは、せっかち、それ、良くないネ?」

 エセ外人口調で、ドレッドヘアーの老人が茶化す。

 昔から慣れているとはいえ今の始にはそれが頭に来る。

「若。何も、わたしたちは、だましたり、ごまかしたり、というつもりはありません。ただ、この件に関しては灰島さんと鈴子さんの承諾を得るまでは、伝えることを許さないという初代からお言葉があるのです」

「だったらもういい。俺が直接、姉貴に確かめてくるっ!」

 イライラしている始はジャックや鈴子に背を向け、部屋を飛び出そうとする。しかしなぜか何もないところでつまずき派手に転んでしまう。

「スズコは直接、今夜ユーに話したい。そう電話で言ったネ」

「わたしも夕食のお世話をして、お付き合いします。ですから、あと少しだけ、ご辛抱願います、若」

「もういいよ、わかったわかった。帰ってメシ喰って、だらだら待ってれば、それでいいんだろ。俺だけが、いつまでも蚊帳かやの外かよっ!」

 起き上がった始は露骨に不機嫌な顔になっていた。

 そしてわざと荒々しい音でドアを開け閉めしてから部屋を出た。

「若っ、お待ちくださいっ!」

 未知佳がその後ろを追いかけるが背後から投じられた何かの気配に勘付き振り返る。

「それ、さっきミチカがミーに依頼した物ネ」

 少し大きめのショルダーバッグだった。

 かろうじて未知佳はそれを受け止めている。

「……わたしは、あればいいなと言っただけで」

 非日常の世界。

 その知識の師匠でもある老人に対し未知佳は迷惑そうにつぶやく。

「アルヴェリックいない。ハジメ、無防備になってるヨ」

「迷惑です。勝手に連れて行かれて」

「ハハハ、彼、もともと、あの子のお守りネ」

「若に、わたしが付いていなければ、どうなることやら」

「彼女が追ってる〈彼方よりの者〉(エトランゼ)、ハジメにお熱になってる。異界の戸口を渡る燃料としてオイシイからネ。そのことで、さっきから追跡されてるの、ミチカ、わかってル?」

「当然です」

「なら、ぴったり、くっついてると、いいネ」

「では、せっかくですから、これ、お借りしておきます」

 ぺこり、と一礼し、未知佳は始を追いかけていった。




 十塚始の姉、鈴子は職場にいた。

 逆戸市繁華街の一角にある高級クラブ〈バブルクンド〉のテーブル席で出前の冷やしタヌキそばをすすっていた。

 わりと豪快にすする音が響く。

 が、いかなる作用によるのか、そばつゆは飛散しない。

「夏はやっぱり冷やしタヌキ~♪」

 窓から差す夕映えに照らされる薄紫色のドレス。

 あまり肌の露出もなく水商売っけは薄いし上品に見える。

 眠そうなタレ目や、おっとりした物腰は人をなごませる独特の雰囲気を作っていた。人当たりの良い、どこぞの名家のお嬢さん、といった具合である。

 ただし成熟した女性としての肢体は実に見事なもので、発達した胸や腰の作る曲線美は還暦を迎えようとする、その来客の不埒ふらちな想像を刺激するのに充分すぎた。

「あら代議士さん、まだ、いらっしゃったんですか?」

 視線に気付き、鈴子ははしを持つ手を休める。

 上唇に揚げ玉がひとつ残っていたのを、ぺろりと舌で絡め取り飲み込む。

 男も、ごくり、と、つばを飲み込んだ。

 〈バブルクンド〉は繁華街の中でも、いわゆるその手の店が林立するビルの1フロアにある。だがそこで提供するサービスは酒と軽食、指名で付く女の子との会話のみだ。

 それ以外のことは客との個人的な付き合いの範疇はんちゅう

 どの店でも当たり前に言われる建前だが、こと鈴子に限り実情でもある。

 彼女は20代半ばにしてこの店の雇われママなのである。

 鈴子の特殊な才覚を目当てにして、都心部から埼玉のそこそこ奥へと通い詰める政財界の人間は少なくなかった。

「そうそう、言い忘れておりましたわ。代議士さんが地元でごひいきにしている料亭の女将おかみさんですけれど、党の幹事長さんともご昵懇じっこんみたいですの」

 老代議士の目が見開く。

「女将さんはスキャンダル、それとさきほどお話しした汚職がらみの密談の音声データの見返りに、銀座にお店をプレゼントしていただく、みたいですわよ」

「た、確かなのかねっ?」

「当たるも八卦、当たらぬも八卦、と、昔からよく言いますわよね?」

 狼狽する代議士を、にこにこ笑顔の鈴子が見つめる。

「当たっていたら倍額を振り込んでおくっ!」

 代議士は、あわただしく店を飛び出していった。

 冷やしタヌキの隣には3ケタに達そうという数の一万円札の束がひとつ。

「タロットや水晶を使う予知ってよりそれ、テキ屋とかで全国回ってる子たちの裏情報がソースね」

 鈴子の隣で誰かがささやく。

「本気で水晶におうかがいを立てれば、同じ程度のことはわかりますの」

 ちょっとすねて、ずるるる冷やしタヌキをすする鈴子。

「それならさ、あたしが追いかけてるやつ、グルバレスってエトランゼなんだけどね、そいつがどこにいるか当ててもらえない?」

「お代は安くありませんの。わたくしと弟の暮らしがかかっているんですもの」

 答えながら鈴子は隣を振り向いた。

 そこには白いワンピースの少女が、ふてくされた表情で座っている。

「あっ!?」

「やっぱり、まだ鈴子はどんくさいのね。あたし心配だったんだよ?」

「ほ……本物ですわよねっ?」

 鈴子の目尻に、じわじわ涙がたまってくる。

「うん、あたしだよ♪」

「うわぁああああんっ……えうううっ!」

 ひまわりに抱き付くと鈴子は子供のように恥も外聞もなく泣き叫んだ。




 真夏なのにその男は黒革の拘束衣じみたデザインの服で街を闊歩していた。

 浅黒い肌に特徴的な耳。

 奇妙なことに、ひまわりと名乗った少女が浴びるような注目は受けない。

 ぎりぎりで都市と言える人口の逆戸という町にありながらも、誰もその男など視界に入らず認識さえしていない様子なのだ。

 長い耳――それは彼が本来属する世界においてすら希少となった種族の証。

 ユミナリと呼ばれるその故郷において彼の種族は古き民とされている。

 例外なく、世の常の者に比して特異な力を授かることで知られていた。

 そのひとつに超常の力を用いた気配も含めての隠身も存在する。

 彼――グルバレスは世界と世界とを渡ることで、それぞれで禁忌とされる力や知識を持ち込み、巨額の利益を得ることを生業としていた。

 だがそれも、およそ十年ほど前に一度断たれている。

 今回の交渉再開は落ち目になった彼が栄華を取り戻す絶好の機会なのだ。

 だからこそ彼個人だけで〈門〉を設置する術を使うために、不幸な犠牲者たちから霊的なエネルギーを奪うという無謀な凶行にまで及んだ。

 あと少し力を蓄えることができれば〈門〉の設置と操作が可能となる。

 それさえ可能となれば、あとは、わざわざ自身が危難に身をさらすことなく、雑事を請け負ってくれる連中を雇い入れる力と財とが手に入る。

 純度が高く濃密な霊気の持ち主はこちら側の世界の住人にもそう多くはない。

 追跡者のことを考えると、あまり選り好みはしていられないが、これ以上は、ちまちまと小粒な得物を刈り続けて、痕跡をたどられる愚は避けたかった。

「ここか」

 ひどく高密度……ユミナリにおいてさえも、そうそうはいない強い霊気の持ち主を、グルバレスは猥雑な街並みの中で感知した。

 探し求めていたが、どういうわけか超常的な感覚をもってしても捕捉が困難な相手だった。

 すでに日も落ち、夜の闇が空を覆い尽くした後のことだった。

 同行している少女は、こちら側の商取引相手――水銀社からは要注意とされた顔写真の中で見たひとりだが対応は可能であるように思えるレベルだった。




 十塚家の夕食が終わる。

「ごちそーさん。うまかったよ、でもやっぱりパイナップルは例外」

 カップメン以外調理方法を知らない始としては、野菜の皮をむけるだけで達人扱いだ。

「食べるだけの人は文句を言わないでください。お粗末様でした」

 軽く頭を下げる始に対し、やはり未知佳は深々と礼をする。

 てきぱきと後片付けに取りかかった彼女は、中学校の制服の上からエプロンをかけて洗い物を始めた。

 お笑い番組にも飽きた始はあおむけに寝転がる。

 すると休まず働く少女の姿が、さかさまになって映る。

 淡々と機械作業をこなしていという印象だ。

 無理しやがって……と始は思う。

 この手の作業を、未知佳は本来得意としていない。

 最近は上達しているが、生煮えのジャガイモやニンジンにも慣れている。

 週に一度の出張カレーをやめさせようにも、なんやかやと理路整然に言い負かされてしまうので強引に黙認させられているのだ。

 ヤクザの娘という以前に未知佳は社会から浮かび上がった異端者だった。

 それは特異な才覚に起因したものだ。

 ある意味似たような境遇の始に理解できる。

 世間一般から忌避されるつらさ。

 うわべだけ愛想笑いを向けられ、陰ではそしられる辛さ。

 遊び相手にすら不自由する差別。

 時には法の束縛すら無視して独自の掟を貫く以上、逆戸組といえどもヤクザであることに変わりはない。

 特にこの町ではここ二十年前後、新興住宅街の造成以降から、逆戸組自体への風当たりが強くなっている。

 義理人情に厚くカタギには手を出さぬ古風な任侠集団という実話すらまでも、青少年の非行を促進するために捏造された都市伝説とおとしめられて、煙たがられている。

 以前は友好的だった地元商工会議所も年輩の人間が減るにつれ敵対視を強めている。

 そんな世界に身を置き、理詰めで動く未知佳が、一銭の得にもならぬというのに義理堅く先代組長の遺児ふたりと親しくしている。

 それは組の実務的な部分を掌握する彼女の父である孝太郎が、先代の権威をも取り込むべく仕向けたからという風評もある。

 だが始は彼女がここへ「息抜き」に訪ねてくるのだと知っていた。

 非凡な才能を持つ早熟な成功者ではあるが、十塚姉弟と一緒に食事をしたり買い物したり連れ立って歩く彼女もまた天野未知佳という少女の一面なのだ。

 だから始は、孝太郎や組の幹部の思惑はどうあれ、家族同然に付き合ってきた少女の逃げ場所に、なってやるつもりでいる。

 二十分近くしゃかしゃか皿を洗う音が続く。

 もう一度あおむけになり、始はさかさまな未知佳の様子をうかがった。

 一枚を洗いそれをすすぐと、さらにもう一枚手にして洗い、それもすすぐと、さっき終わったはずの皿をもう一度洗っている。

 表情は相変わらず平板で無機質だが心なしか頬に赤みが差しているような気もする。

 間が悪いというか、このときちょうどテレビでは有名なスパイ映画が始まっていた。

 場面は殺人許可証を持つイギリス人の凄腕エージェントが情報収集のため敵対組織の女スパイと高級ホテルで接触するくだりとなる。

 色っぽくしなだれかかるグラマー美女の仕草に合わせ、頽廃たいはい的でムーディーな曲が流れてくる。

 小学生時の記憶によれば、無論この先は濡れ場が待っているはずだ。

 美女役を吹き替えている声優のなまめかしい嬌声は今も耳に残っている。

「リモコン! リモコンはどこだ!」

 あわてて起き上がり机の上やあたりを見回すが、こんなときに限って見当たらない。

 折悪しく携帯も着信音をがなり立てる。

「もしもし、ねーちゃん? 俺、俺だよ俺」

 相手が鈴子だったので、濡れ場が終わるまでごまかせ、とばかりに始は大声で応えた。

 未知佳たちが隠している何かを知るための承諾という話は、すっかり記憶から消し飛んでいる。

「ああ、今はうちだよ。メシ? みーのカレー喰ったって。え? 今夜は泊まりか? 戸締まりちゃんとしろ? わかったわかった。じゃあおやすみ!」

 ピ、と通話を終え携帯を耳から離すと甲高い美女の絶叫がテレビから響く。

 始の目論見は数秒だけずれていた。

 視線に気付いて振り返ると未知佳がこちらを向いていた。

 洗い物を終わらせたようだ。

 大きく深呼吸をしてから彼女は、

「シャワーお借りします」

 と言って浴室へ続く脱衣所兼洗面所へ入っていく。

 用意のいいことに着替えその他を入れたとおぼしきバッグを手にしていた。

「あ……ああ」

 もっとちいさい頃は、別に珍しくもないことだったが、妙に意識してしまっているせいで、水音が聞こえると始は落ち着かない。

 夢殿で冷やかして手に取った、ちょっとエッチなパッケージの数々が始の脳裏に、もわもわと浮かんでは消えていく。

 バカか俺は?

 みーは家族みたいなもんだ。だいたいあいつはまだガキ。

 こないだまでランドセル背負ってたんだぜ? 落ち着け、落ち着け十塚始!

「ちょっと麦茶買ってくる。俺が外に出たら、鍵、締めとけよ」

 携帯をジーンズのポケットに押し込んで脱衣所からドア越しに声をかける。

 すると浴室のドアが半開きになり、肩から上だけの未知佳が斜めに顔を出す。

「若。帰る途中、自販機で買った麦茶があるはずです。行かないでください」

「みー、正直に話す。俺も男だ。恥ずかしい話だがちょっとばかり妙な気分で、なんていうかその、このままじゃ何をしでかすか、わからん」

 ぽりぽり頭をかき、顔を背けて説明する。

「逃げないでくださいね」

 反論を許さぬ圧力でそう言い、未知佳は浴室に引っ込んだ。

 ドアが閉ざされ水音だけが響く。

「知らないぞっ! どーなったって知らねーからなっ!」

 半ばヤケになった始は元の位置に戻ると麦茶のボトルを引っ張り出して連続で飲むが気持ち悪くなってやめる。

 三十分あまり無意味にテレビを眺めていると、いつしか水音が消える。

 代わって衣擦れの音が漏れ聞こえていた。

 やがてそれも消えてドアが開く。

 「あかり、消します」

 未知佳はそう言ってブレーカーごと照明を切った。

 アパート内のテレビも冷蔵庫も止まり、重苦しい空白が降りてきた。

 カーテン越しに窓から差す光量だけの薄闇に慣れると未知佳は、しずしずと、こたつテーブル前でうろたえている始へ寄ってくる。

「考え直せ! 俺はヤクザの子だぞ。おまえほどの器量と才能があれば一流企業だって乗っ取れるし、この先もっとマシな男もたぶらかせる!」

 座っている始に合わせてしゃがんだ未知佳は説得など意に介さず、その対面へちょこんと座り込む。

「わたしもヤクザの娘ですけど何か?」

「うーっ! だいたい、その服はなんだ! その服は!」

「ああ、このメイド服? 灰島さんが気を利かせて貸してくださったんですよ。夢殿の店内監視カメラで確認した、若の趣向通りのはずですが何か?」

「あれはひまわりに似てたから見ただけだっ!」

 頭にヘッドドレス、白いブラウスの上は紺地のワンピース。

 さらに白いフリルエプロン、ニーソックスと、未知佳は完全無欠のメイド姿に着替えていた。サイズもぴったり。

「耳だけはさすがに無理でした」

「そーゆー問題じゃなくて……白状する! 俺は男相手じゃないとダメ!」

 場が保たなくなって始は支離滅裂なことを言い出した。

「うそですね。わたし物心ついてから、若には悪い虫が付かないよう、ちゃんと目を配ってます。わかるんです」

「……その、最初はめちゃくちゃ痛いらしい。泣いちまうって話だ」

「若にはさんざん泣かされてますので、いまさら」

 未知佳は首を左右に振り、姿勢を前に傾けると、始の胸に額を押し当て、体を預けた。

「もう茶化すのやめてください。わたしだって――初めてで怖いんですから」

 ささやくようなつぶやき。

 すぐそばで震える少女から委ねられた身体は男のごつごつしたそれと別物。

 触れ合う部分の布越しに柔美な感触を伝えてくる。

 石鹸とシャンプーと何かが混ざった甘い香りがした。

「みー……俺……」

 気が遠くなるような目眩めまいに始は打ちのめされていた。

 取り憑かれたように両腕が動いて少女の背中に回されていく。

 この動作を待っていたように、もぞもぞと未知佳が動いた。

 彼女の頭が離れ、代わりに別の物が押し当てられる。

「!」

 始の動きが硬直した。

 それまでの、とろけそうな甘い雰囲気に、いきなり冷水を浴びせるのも同然な感覚を受けてのことだ。

 セイフティを外すかすかな金属音で確信できた。

 未知佳は拳銃の銃口を始へ突き付けている。

「……よくも女に恥をかかせてくれましたね」

 エプロンとスカートがめくれ、はだけている右の太股には革製のホルスターが留められているのが見えた。

「お……おい、みー?」

「異界の魔に仇為せ〈総統の遺産〉(エルプシャフト)っ!」

 ためらいなく引き金が絞られた。

 薄闇がノズルフラッシュと銀色の閃光に切り裂かれる。

 撃ったのは2発。

 テレビ背面の窓を覆うカーテンが変色し人型のかたまりが現れる。

 スーパーの駐車場での時とは異なり、射出されたのはオレンジ色のBB弾などではなかった。

 本来使用されるべき9ミリ・パラベラム弾より物騒に思える閃光と熱とが火を噴いていた。

 頭頂部と左胸とを貫通された人型は、苦しげにもがきながら窓ガラスやテレビを破壊していく。

「逃げます!」

 動転する間も与えず未知佳は始の手を取って立ち上がり、あわてて靴を履き、玄関から走り出す。

「何がどーなってる! いいかげん説明しろ!」

「たぶん信じてくれません。でも、ああいうことになれば油断して不意を衝けると思ってああしました。あ、でも、邪魔が入らない前提でなら、わたしの方は何も問題ありませんと言っておきますね」

 未知佳は顔を真っ赤にして矢継ぎ早にそれだけ言うと、しばらくは走るのに専念しますと続けてから黙り込んだ。




 未知佳の手を引かれ、始はビルとビルの間の抜け道を伝い裏通りへ抜けた。

 不思議なことに人の気配はまるでなく灯火さえ消えている。

 すかさず未知佳は来た道を戻るが、出た場所は同じく誰もいない裏通り。

「すみません。わたしたち敵に捕まったみたいです」

「だから敵ってなんだ? どっかの鉄砲玉かよ?」

「それならたいして気にもしませんが、灰島さんの話では十年ぶりに――」

 説明を途中で打ち切り、未知佳は拳銃を撃った。

 10メートル程度離れた雑踏に立つ黒いもやのような何かに目がけて。

 始のアパートのカーテンで、もがき苦しんでいた影だった。

 それは一瞬で浅黒い肌の男へ変化していく。

 未知佳の狙いは正確だったが男の前面には不可視の障壁があった。

 弾丸は地面へ転がるだけだった。

 放たれる閃光と熱線も、最初の時と比べると、かなり勢いが衰えている。

「またエルフかよ?」

「異世界から来た〈彼方よりの者〉(エトランゼ)。わたしたちはそう呼んでいます」

 そう説明すると未知佳はいきなりよろめき、ふらりと倒れそうになる。

「おい、どうしたってんだ! みー!」

 受け止め支えるが、すでに意識はない。

 それどころか肌に血の気がなく体温も異常に低下している。

「何も知らされていないな。〈総統の遺産〉(エルプシャフト)――その呪装兵器は人の霊気、生命力を喰らって力を発揮する。その小娘が取り回すには力不足だったということだ」

 始はメイド服の未知佳を両腕で抱え走り出す。

 しかし走れども走れども同じ風景の連続。

 追跡者の気配は消えていた。

 さすがに息が切れた始はバス停脇の長椅子を見つけ、そこへ未知佳をあおむけに寝かせる。

「……若は……わたしが……守り……ます」

 未知佳のうわごとを耳にしながら、始は、きつく握りしめられた指を解きほぐす。拳銃を取り上げるためだった。

 「みーには、こういうの似合わない。それにな背伸びなんか、しなくたって、いいんだぜ」

 つぶやいてから顔を寄せ、ほっぺたに、そっと短いキス。

 しかしその直後、後方から迫る足音に反応し振り返ったことで、動揺した始は拳銃を取り落としてしまう。

 足音の主は無論、異世界の男だった。

「結界からは逃れられん。安心しろ。楽に殺してやる。境界破り随一の使い手、グルバレスみずからの秘術でな!」

 突き出した手から赤黒い凶光が奔り始の真横をかすめた。

 派手な爆発音と光が炸裂して商店街の一角が吹き飛ぶ。

「命乞いをしろ。あがけ! そうすれば余興の代価として、その娘だけは見逃してやっても良いぞ?」

 グルバレスは悠然とうそぶく。

 距離は約5メートル。

 突進してつかみかかるには間合いが遠すぎる。

 しかも背中に未知佳の横たわる長椅子がある始は左右へ逃げられない。

 圧倒的に不利な状況だった。

「お断りだっ! みーは俺が守るっ!」

 そう言い終えると同時に、落ちた拳銃を一瞬の内に蹴り上げた。

 宙に浮いたそれをキャッチしつつ銃口を男へ向ける。

「ぬうっ?」

「異界の魔に仇為せ〈総統の遺産〉(エルプシャフト)っ!」

 未知佳の口にしていた合い言葉らしいそれを叫び、思い切り引き金を引く。

 余裕の態度のグルバレスも拳銃の表面へ浮かび上がった文様と図形の輝きには目を見張る。

「大気の精霊ははがねとならんっ!」

 呪文めいた言葉を絶叫し防御の姿勢で構えた男。

 銃口が光と轟音を放ち周辺の視界を真っ白に染め上げる。

「やった……か?」

 凄まじい全身の疲労に襲われながら始は標的を確認しようとした。

「ここまで……虚仮こけにされるとは……許さんぞ小僧っ!」

 グルバレスは無傷のまま鬼気迫る形相で始をにらみつけていた。

「おいおいマジかよ……」

 男の足下に転がるオレンジ色の弾を見て始は脱力させられた。

 引き金を引くと、ぱしゅん、ぱしゅん、と、同様のBB弾が射出される。

 それはすべて男の体表部に当たる直前、不可視の盾にさえぎられアスファルトへ落ちていた。

 「あ、あとひとつ、なんか言ってたなっ!」

 駐車場での一幕を必死にを思い出す始。

王たる神(オーディーン)いましめにり、まどろみを」

 叫びながら再度、引き金を絞るが、今度は拳銃表面の文様やら刻印すらも消え失せてしまう。そしてオレンジ色のBB弾が、ぱしゅんぱしゅん……。

「ククク……ふはははははっ!」

 グルバレスは腕を突き出すと手で拳銃を模し始へ向けた。

真紅の炎蛇(ヴルカーン)のちいさきはしり!」

 言葉と共に指先から火線が走り始を襲う。

 背中の未知佳を考えれば逃げられない。

「ちっきしょう、ナメやがってえっ!」

 死の直前に脳裏へ浮かぶという、これまでの人生の走馬燈。

 始は時間の制約を無視した数々の光景を瞬時に追体験する。

「こんなとこで、くたばってたまるかよっ!」

 そしてリアルタイムの今現在へと意識が回帰するのだが――なぜだかその時間の流れは走馬燈と逆で極端なスローモーション。




 金色の光の粒が、きらきらと夜空を照らしていた。

 いつの間にか始の肩へアルヴェリックが戻っている。

「助けて欲しい?」

「あったり前だっ!」

 ひまわりという少女の幻聴だと思いつつも怒鳴り返してしまう始。

「深夜のアルバイトは、もうしませんわね?」

 どういうわけか姉の鈴子の幻聴まで聞こえる始末。

「ああ、わかったよ姉貴っ!」

「乱暴な言葉遣い、わたくし嫌いですの。お姉様か、妥協してもお姉ちゃん」

「鈴子は極端っていうより、それ絶対に変」

 スローモーションだったはずの炎は言い返していると少しずつ迫ってくる。

「なんでもいいから、とにかく、みーだけでも、どうにかしやがれっ!」

 切羽詰まった始は絶叫する。

「じゃあ、あたしの言葉に続けなさい始」

 答えるより先に始は、こくこくうなずく。

 それを見越していたかのように、ひまわりの幻聴は続く。

「はざまの地にことわりをつむぎ――さかしまなる扉を開けよ――」

 促されるままに始は復唱する。

 ひまわりの声は朗々と響き渡り、始が輪唱するように追いかけると、手にした拳銃の表面が、これまでになく強く明滅する。

「いまひとつの弓成る地に……」

 そこでかすかに、ひまわりの言葉がためらう。

ふるいましめの武具よたけれっ!」

 ひまわりの声を待たず、頭に流れ込んできた言葉を始は怒鳴りながら引き金を引いた。

 次の瞬間、圧縮されていた時の流れが常態へ復し、火炎と熱波とが押し寄せてくる。

 炎が始を押し包む直前、大音響と白い闇を伴う光弾が放たれた。

 その光の渦は炎と熱、そして異界の住人グルバレスを圧倒的な勢いで貫く。

 悪意ある炎と共に押し流され男の姿は見えなくなった。

 黒焦げとなり悶絶するグルバレス。

 その身体は100メートル近く離れたマンション一階ゴミ集積所で、ぴくぴく痙攣けいれんしていた。




 世界が元通りになったことを確認すると、始の体中はまるで鉛にでも変わったように重くなった。

 かつてない、とてつもない疲労が襲いかかってくる。

 おまけに異様な眠気も。

「な、なんだったんだ……今のは?」

 とりあえず、背中の長椅子で倒れている未知佳が無事なのを確認して、ほっと一息。

「始の力は暴れん坊だから、お目付無しじゃ使えないようにしておいたの」 

 振り返った目の前に、お澄まし顔のひまわりがいた。

「アルヴェリックは、もともと、あたしのお伴よ♪」 

「幻覚だ……幻覚が、俺に話しかけてやがる……」

 むむっ、と、ひまわりはふくれる。

「いーかげんにしなさいっ、あたしの始なんだから、ちゃあんと最後まで黙って聞く!」

「何があたしの始だ。俺は誰のものでもないっ!」

 まあ、みーになら、ちょっとくらいはと考え、始はちらりと後ろを向く。

 未知佳の寝息は穏やかだった。

「な、なまいきっ~それが、おかーさんにする態度っ?」

 ひまわりの言葉に絶句する始は約30秒ほど硬直した。

「お、おかーさん、だとおっ?」

 とんとん、と、これまた、いつの間にか隣にいた鈴子が始の肩を叩く。

「ごめんなさい始。わたくし今まで、隠していた事がありますの」

「また、それかよ」

「わたくしたちのお母様はユミナリという異世界の、その中でもエルフランドと呼ばれる特別な場所のお姫様ですの」

「だ、だって親父が死んだ後、すぐに葬式、お袋も車に轢かれてそれで!」

「それ、偽装よ。そうでもしないと、あちこち、いろいろとうるさくてさ」

 悪びれもせず、ひまわりは答えた。

「お母様の故郷とこの国の間では、ごくごく狭い範囲でだけ、長いことお付き合いがありましたの」

「だけど、さっきのみたいな、迷惑な連中が増えすぎて、鎖国、鎖国よ! ほんと大迷惑だったんだから」

 憤慨するひまわりを見て、始から現実感が一挙に消え失せてしまう。

 母親……この、ちんちくりんの小娘が俺の母親だってえ?

「さあ始、ちゃあんと感動の再会をやり直そ。おかあさーん、でも、ママあっ、でも、どっちでもいいから、がばあって、抱き付きなさい。たくさん、ちゅーしてあげる♪」

「ふざけるなっ、認めない、絶対、認めないぞっ!」

 あまりにも唐突で理不尽な出来事と言葉。

 あらん限りの抵抗を込めて始は怒鳴る。

 しかし疲労の限界にある始は先刻の未知佳と同様に倒れてしまう。




 記憶の走馬燈なのか。

 それとも遠い昔の夢なのか。再び幼い始は七夕の夜に泣いていた。

「こらあ、泣き虫始、あたしの始なんだから、泣かないの♪」

 大輪のひまわりの花のようにあったかい笑顔が、からかうように始の前でしゃがみ、ぽふぽふと頭をなでる。

「もうどこにも……いなくならないよね、おかあさん?」

「始がいい子にしてたらね。七夕のお祭りにもこれからは毎年行けるのよ♪」

 浴衣姿のひまわりは、いつもそうするように愛し子へキスし、抱きしめる。




 目を覚ますと始は、ひまわりに抱きしめられ、やっぱりキスされていた。

「えへへへ……甘えんぼなんだから、あたしの始♪」

 照れくさそうな、ひまわりの笑顔がすぐ目の前。

「おかあ……さ……!」

 朦朧とした意識のまま始はつぶやくが途中で、はっとして口を閉ざす。

「お・か・あ・さ・ん!」

 ひまわりが、うれしそうに強要する。

「だ、誰が言うかっ、絶対っ、認めないっ!」

 身体を振りほどくと、始は一目散に逃げ出そうとする。

 長倚子へ横たわる未知佳を抱え起こした。

 ぺしぺしほっぺたを叩いて目を覚まそうとした。

「起きろ、みー。変なのが、またからんできた」

「若……大丈夫……わたし……えるふでもどわーふでも若のこと……好き」

 ぼやけた目のまま差し出された未知佳の手。

 そこには真夏の風景に重なっている麦わら帽子をかぶった始。

 そして、後ろから抱き付いている、ひまわりの写真が握られていた。

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