前編
夏の日差しを浴びて、川沿いの土手を歩む大きな麦わら帽子がひとつ。
ノースリーブの白いワンピース。
素足にサンダル履きという軽装だ。
背丈はおよそ150センチ前後の小柄な少女。
「ふーん。川の方はあの頃のままなんだ。良かった。でも――」
そうつぶやきながら視線を土手の草から街並みへと移す。
見慣れていたはずの風景だったが彼女の主観からすれば、この十年間で、
すっかり様変わりしていた。
あったはずの建物や公園が消え、代わりに知らない店ばかり増えている。
「おぼえてる……よね?」
異国の人間であることを端的に示す金色の長い髪が穏やかな風にゆれる。
「大丈夫、あたしの始だもん」
少女は、こくこく、と、自分に言い聞かせるようにうなずき不安を押し殺す。
「がんばれ、あたし。がんばれ、ひまわりっ!」
自己暗示をかけるように言葉を繰り返すと、土手を駆け下り市街地へ急ぐ少女。
そのとき突風が大きく町全体を吹き抜けた。
「わああっ?」
麦わら帽子は宙に舞い上げられ、彼女の手を遠く離れる。
「ちょっとちょっと、待ちなさいよ~っ!」
ぴょんぴょん跳びはねるが、無論届くはずもない。
天を高く昇った麦わら帽子は、そのまま風に吹かれ、空へ溶け込むように姿を消してしまうのだった。
「やはり、わたしは思うのですが」
地元中学校である逆戸市立第二中学の制服である地味なセーラー服。
その夏服を着た少女の発言だった。
「若は生活を規則正しくするように心がけるべきです」
制服と校章等から察するに中学一年生
つまり歳も12、3歳のどちらかだ。
肩で切りそろえられたおかっぱ風の黒髪も、やや表情がとぼしく感じられる表情も未だ幼く不完全。ランドセルを背負っていても違和感はない。
当然のことながらその肢体も、やはり年齢相応のもので、ちびっこい。
140センチあるかないかだ。
彼女が若と呼んだ隣を歩く少年と比べても身長差は20センチあまり。
「夏休みだからといって、好き勝手に暮らして不摂生をするのは心身ともに良くありません。生活改善の必要がありますね。それも徹底的に」
「ほっといてくれ未知佳」
未知佳という名前らしい少女は特に気負ったり威圧的ではなく、あくまで淡々と、それこそ事務的に彼へ言葉を伝えていた。
「珍しいですね。きちんと、わたしの名前を呼ぶのも」
かすかに未知佳の表情へ笑みらしきものが浮かぶ。
「眠いから、いつもと感じが違うんだ」
むすっとした態度で未知佳の隣を歩く少年。
こちらは私服の半袖シャツにジーンズ、そしてスニーカー。
背格好や雰囲気からすると、おそらく歳は16、7歳前後。
均整の取れた体躯だが、どことなくガラの悪そうな顔立ちである。
二人の進む道の先には郊外型大手スーパーが見えた。
「22時以降のアルバイトは、本来、高校生には認められていませんよ?」
その指摘は正しいと思いつつも、彼は日払いで高時給のバイトをやめる気にはなれない。
「無駄メシ喰らいになる気はない。姉貴にいつまでも、たかってられないし」
早くに両親を亡くし、姉に庇護されてきた少年は負担を少しでも減らそうと、彼なりに懸命なのだった。
もっともその努力は、睡眠不足で補習。しかも教師からは叱咤されるという、さんざんな一日として具現化している。
「それに、こいつはグルメだから安いスイカじゃ、そっぽ向くし」
少年の肩にはオスのカブト虫が一匹、大人しく留まっている。
さながら鷹匠が手懐けた猛禽を腕に乗せているような風情である。
「心がけはご立派ですが、やはり日々の生活態度が不健全ですね始さん」
未知佳にとっても肩に留まるそのカブト虫は見慣れた存在である。
特に驚くようなこともなく手を伸ばし、ツノの先をなでるように触れる。
「あなたもそう思うでしょう、アルヴェリック?」
未知佳に呼びかけられるとカブト虫は同意したように身じろぎし動き出す。
首筋まで近寄り、ツノ先で始の素肌を突くようにして引っかく。
「ててて、くすぐったいんだぞ、やめろよな、ったく」
アルヴェリックは世にも希少なカブト虫だ。
その長寿と活動時期の長さは常識外れ。
物心付いたときから、始とはいつも一緒にいる。
いつ誰がくれたのか、それとも始が捕まえてきたか、それすらわからないほど昔から、ずっと一緒だ。
「なんか、おまえからちゃんと名前で呼ばれるのってさ、すごく違和感あるぞ、みー」
微妙に照れくさそうな態度の始は、いつもの通称で未知佳を呼ぶ。
「では平常通り、若、とお呼びしましょう。なんといっても若は先代である二代目の嫡男。そして逆戸組を継ぐ三代目なのですから」
埼玉県の小都市逆戸。
街と同じ名を冠するその組織は古来よりの任侠道を尊ぶ、いまどきは珍しいヤクザの組である。始の亡き父はその二代目なのだった。
「またそれかよ。勘弁してくれ、みー」
「勘弁しません。父はあくまで代貸しとして、組をお預かりしているだけです」
「俺はなあ今の高校出たら、逆戸市役所の下っ端公務員になるのが夢なんだよ。それでもって9時5時の定時だけきっちりヒマ潰し、お茶飲んで適当にやって、給料や手当てだけ、がっぽり稼いで平和に過ごす。そういうのを希望だ」
「却下します」
始が一気呵成にまくし立てるのを見届けてから、未知佳はあっさり切り捨てた。
「ふうう……眠い……」
がっくり肩を落とした始には目指すスーパーがやけに遠く思えた。
「若、そんなことでは、うわさの通り魔が出てきたときに対処できませんよ?」
補習帰りの始の携帯へ連絡して、スーパーへの買い出しに付き合うことを強要したのは未知佳だ。
一応その名目は最近逆戸市内で頻発する謎の通り魔事件に備え、ボディガードを務めて欲しいという内容だった。
「こんなことなら先月、みーから500円借りなきゃ良かった」
公務員試験対策の受験ガイドを買おうとした始は、そのとき手持ちの小銭だけでは足りず、同行していた未知佳に借金を申し入れていた。
「正確には525円ですよ、若」
その借金の即時返還を盾に取り、未知佳は渋る始を同行させている。
「細かいな、みー」
「職業柄、会計出納には慣れていますので」
淡々と答え、未知佳は始の服の袖を引っ張り、スーパーの敷地へ足を踏み入れた。
郊外型店舗にふさわしく、広い駐車場が目立つ。
そして申し訳程度にあるベンチと花壇。
眠気がこらえきれなくなった始は、買い出しが終わるまでの時間、そのベンチで休むことを主張し、なんとか認めさせることには成功した。
「なあ、みー、もしかしなくても晩メシのメニューってさ……」
「わたしに作れる料理が、他にあると思いますか?」
不服そうに、未知佳は始の顔を見上げる。
「パイナップルは入れるなよ」
「好き嫌いは良くありません」
そう言い残し未知佳は店内へ姿を消した。
ひとり残された始は木陰のベンチに腰掛け早々と目を閉じると、たちまち眠りの淵へ沈んでいく。
風に吹かれ天高く舞っていた麦わら帽子は、そんな彼を目がけて降下するように、ふんわりと膝の上へ落ちてくるのだった。
花火の派手な音が、それほど耳障りにはならない。
夢だとすぐに自覚できる景色。
就学前の幼児だった十塚始は、姉の鈴子、そして母親に両手を引かれ、背の高い父親の後ろを歩いている。
宵闇が落ちた街は七夕祭りの最中で、ごった返していた。
手を離し、はぐれてしまったら、もう二度と会えなくなる。
そんな想いが、幼い始の手を強く握らせる。
しかし、頼もしい背中の父はどこかへ消えた。
母と姉の手も、強引なまでの人の流れによって、ほどかれてしまう。
幼い始は、たったひとり、泣くことさえできず、おびえて立ちすくむ。
夢なんだから哀しくもさびしくも……姉貴はいるし、じじいと、みーも。
十年以上後の、今現在の意識が混じる始はそう思い起こす。
理不尽な感情が湧き上がるのを打ち払おうとする。
けれども凶刃に倒れ伏し亡くなった父と、事故死した母の姿や顔すら思い出せないことに気付き、くやしさで顔がくしゃくしゃになってしまう。
「こらあ、泣き虫始」
よく知っているはずの……だけど思い出せない声が優しく彼を叱りつける。
「あたしの始なんだから泣かないの」
わかってる。
わかってるよ……父さんが死んでいなくなっても俺はもう、泣かないんだ。
だから母さんがいなくなっても俺は泣かなかった。
姉さんだって、そうだったんだ。
できるさ、できるよ俺は。
みーが泣くようなことがあったら俺が慰めてやるんだ。
「はあい、よくできました♪」
遠い記憶にある声は満足そうに応え、その手が始の頭をぽふぽふなでる。
そして――
「ん~っ♪」
意識が戻った瞬間、目の前で起きている現実が信じられなかった。
見知らぬ少女が始の視界すべてを埋め尽くしていた。
ベンチであおむけになっていた彼の間近へ顔を寄せ、くちびるとくちびるとを重ね合わせていたのは白いワンピースを着た金髪の美少女。
「なっ、なななっ、何してんだっ?」
「えへへ……久しぶりだったから、驚いちゃった?」
始の手で強引に押しのけられたというのに少女は、なおも親しげな笑顔で問いかけてきた。手にしていた麦わら帽子をベンチへ置くと、いたずらっぽい笑顔が満面になる。
「10年ぶり、なのかな。元気みたいで良かった♪」
どうやらかなり昔の知り合いで自分を知っている。
少女の言葉を信じるとするならその通りだが、始は幼稚園や低学年の頃の顔見知りを思い出そうとする気さえしなかった。
「だ、誰だよ、おまえ?」
「ひまわり、だけど?」
きょとん、とした表情が始を見つめる。
「冗談か何かなの始?」
この女の子は、いかにも明るく朗らかそうで、とびっきりにかわいらしい。
そのことは始も認めるし、理解できる。
だが、どうしても納得できないというか信じがたいものが目に映っている。
「お、おい、それ。それってコスプレとか、そういうやつ……か?」
「はい?」
ひまわり、と名乗った少女は、始が指さした自分の身体の部位を確認する。
顔……ではなく側頭部だ。
その金色の髪から突き出ている、特徴的な部位――とがった耳。
それは始も多々あるフィクションで目にしたことがある特徴的な身体部位。
「ああ、これ?」
ひまわりが、自分の指でその耳に触れる。始は、こくこくうなずく。
「そっかあ、こっちの世界だと珍しいんだったよね、この耳。うんうん」
ひまわりも始の動作を真似てか、こくこくうなずいた。
「珍しくないとこなんて、ある……のかよ?」
「あっちの世界だと、あたしたちの封土以外でも、それなりにはいるみたい」
他人事のように、ひまわりはそう語った。
「そんなことよりあたしね、ちゃあんと約束を守って、七夕のお祭りに合わせて戻ってきたんだよ」
ひまわりは、うれしそうに、ぐいっと身を乗り出し始へ接近する。
「だから始も、あたしに、ちゅー、しなさい♪」
「ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅーって、そ、そんなことっ?」
いきなりな少女の言葉に激しく動揺してしまう始。
「どーして恥ずかしがってるの?」
「どうしても何も、い、いきなり、そんなこと、できるわけないっ!」
「そう言われちゃうと無理矢理にでも今すぐしたくなっちゃうなあ♪」
ひまわりは意地悪そうな笑顔になって始へ迫る。
どういうわけか見た目からすると吹けば飛ぶような彼女の力が完全に始を圧倒していた。今度は押しのけられない。
「わあ、アルヴェリックったら久しぶり。元気みたいね。ありがと♪」
どういたしまして、とでも応えたいのか、カブト虫は羽を広げて飛翔し、始の肩から、ひまわりの肩へと定位置を移してしまう。
物心付いたときから、始と共に過ごしてきたその超長寿カブト虫は、それほど他人に気安くないはずなのだが。
「さあ始、覚悟しちゃいなさ~い♪」
ひまわりの笑顔と不可視の力に圧倒され、どうにもならなくなった始だが、その時、ぞくりと背筋へ寒気が走る。
「はっ、離れてください、そこの人っ!」
スーパーの店舗から飛び出してきた未知佳だった。
えらく年代物に見える拳銃を手にしていた。
「よ、よう、みー」
始が知る限り、日頃、感情の起伏や抑揚に欠けるきらいがあるその表情が今は過剰なまでの怒気で満ちていた。
未知佳は始の亡き父が二代目だった地元のヤクザ逆戸組、その代貸しの娘だ。
始と姉の鈴子は、父と母の死後、祖父の屋敷を出ていたが未知佳との親交自体は続いている。
だからこそ500円ばかりの借金の代償として国道沿いの大型スーパーでの買い物に付き合わされているが、他にも、近隣で頻発する猟奇殺人事件対策の護衛という名目もあった。
さすがに眠気に負け、始は駐車場にあるベンチで居眠りしていたわけだが。
「そこの、ちびっ子エルフっ! 若から離れないと、今すぐ撃ちますよっ!」
ひまわりも未知佳の接近に気付いて、迷惑そうにそちらへ目を転じる。
「何よ、あの子?」
いいところで水を差されて、といった感じで、あからさまに不機嫌そうだ。
ほっぺたが、ぷくーっとふくれている。
その隙を突いて始は身体をずらし、ひまわりの拘束から逃れ出た。
「よくも、よくも、わたしの若を、たぶらかしてくれましたねっ!」
接近してきた未知佳の銃口は迷いなく、ひまわりの胴体へ向けられていた。
「若って始のこと?」
ひまわりは、そんな未知佳とは対照的に、あっけらかんとして問いかける。
「ええ、そうです。やけに物々しい〈彼方よりの者〉の気配を感じて、若のお側に付きましたが、まさかそんなみだらな手で攻めてくるなんて、わたしとしたことが、うかつ」
傍観者に立たされた始は、未知佳が実銃らしい得物を持ち出したことに気付き驚いていた。
「おい、みー。いくらなんでもそんなの真っ昼間から、ぶっ放す気かっ?」
「若の貞操を汚した罪は万死に値すると思いますっ!」
完璧に敵意をみなぎらせた未知佳は、うっとうしそうに返事を寄こした。
世間的には引きこもり、不登校児として扱われて、小学校も4年生で通学すらやめてしまった未知佳。制服はデザインが好きで着ていると公言している。
未知佳はその特殊な才覚を生かし逆戸組の中枢で働いている。
始もくわしく知らないが彼女は一般的な学術分野で語学や数学に異常な才能を持ち、博士課程レベルの知力を備えているのだという。
実践的なところでは複雑な利権や因縁が絡んだ葬祭や各種事業における税金・法律上の判断に関してのエキスパートらしい。
ヤクザの娘という以前に彼女は社会から浮かび上がった異端者なのだ。
だがそれは、あくまで早熟な超天才児として、経済的な分野にのみ限定。
少なくとも始は逆戸組の初代である引退した祖父、そして未知佳の父であり、代貸しの天野孝太郎からそう聞いている。
「ふうん……結局あんた、あたしの始に横恋慕した悪い虫ってことね」
ひまわりは、鼻で笑うと、やれやれ、と、肩をすくめた。
「訂正してくださいっ。若は、わたしの若はっ、あなたみたいに、わけのわからない、ちんちくりんの〈彼方よりの者〉のものなんかじゃ、ありませんからっ!」
むきになってしまう未知佳は銃口の先を揺らしてしまう。
「始は、あたしの始っ♪」
ひまわりは、たいして離れた距離ではなかった始に飛び付いて、がばっと抱きしめる。露骨な挑発だった。
「ね~始♪」
「や、やめろよ、ひまわり、だっけ?」
振りほどこうとする始だが、身体に見合わないひまわりの力に屈服させられてしまう。
「そんなよそよそしいこと言わないの、ちゅっ♪」
今度は、ほっぺたにキス。
「こっ……殺すっ……絶対っ……死んでもらいますっ!」
それを目の当たりにさせられた未知佳は、泣きそうになりながらも、ぷるぷる震える指で拳銃のセイフティを解除した。そのまま引き金へかけた指を振り絞ろうとする。
「異界の魔に仇為せ|〈総統の遺産〉っ!」
拳銃の表面に金属の光沢以外の奇怪な文様と図面、文字が浮かび上がる。
「あ……あれえ……?」
はしゃぎまくっていたひまわりが未知佳の拳銃へ注目する。
「それってゲルマニアじゃなかった、ドイツの絵描き志望が作らせたやつ?」
兵器としてのそれはパラベラム・ピストル。
俗に云うルガーP08と同一形状である。
「ええ、そうです。みだらな手練手管で前途ある若を惑わす異世界の魔物には、効き目たっぷりの呪装兵器」
徐々に未知佳は平時の冷静さを取り戻しかけていた。
「異世界? 呪装兵器? みー、おまえいったい、それにひまわりも何の話をしてるんだよ? 日本語でしゃべってくれ日本語で!」
一方、始の方は唐突にからんできた、ひまわり、そして、いきなり拳銃を向けてきた未知佳とその口から出た言葉を受け、完全に混乱状態へ陥っていた。
「ねえ、本気でやり合うつもり、ある?」
「もともと逆戸組の使命は古来より侵入する異界の魔を従え、抑えることにあります。しかも、それが若の貞操を汚した魔性だとすれば討つしかありません」
凛とした口調で未知佳は宣言する。
「アルヴェリック、この子には格の違いを思い知らせてあげなくちゃ」
カブト虫が羽を広げ、ひまわりの肩から飛び立つ。
彼女の周囲を飛び回るのだが、旋回するそのつど、金色の鱗粉がふわりと放射されている。
いつしか周囲にはスーパーの買い物客が集まってギャラリーとなっていた。
無理もない。
ひまわりにしろ未知佳にしても美少女である。
それが剣呑ならない物腰で対峙し、あろうことか拳銃まで手にしていては注目必至となる。
「みーっ、ひまわりっ!」
始は、ひまわりの側から離れると未知佳と中間の位置で仲裁するように両腕を伸ばす。
「と、とにかく荒事はやめとけっ、人が見てるんだっ!」
逆戸組は、それこそフィクションに登場するような義理人情と侠気を尊びカタギの衆に迷惑をかけぬ組だ。
しかしヤクザ全般が暴力団とみなされる昨今世間的な風当たりは強い。
「先に仕掛けてきたのは、その、みーって子の方よ」
ひまわりは聞く耳持たず。
「異界の魔を討つのは、わたしたち、この土地に根付く者の使命です!」
未知佳の方も敵対心むき出し。
一触即発の緊張が続くかに思われたが、まるでそのタイミングを狙い澄ましたように場違いな黒電話の呼び出し音が鳴り響く。
「あ、あたしのだ」
ひまわりは、これまたどこからか無骨な携帯電話を取り出し耳に当てる。
「はい、ひまわりです。え? そっちで見つけた? うん、わかってるってば。ちゃんと働く。無許可の〈彼方よりの者〉をしょっぴく。それがこっちに戻る条件だったしね」
むすっとした顔のひまわりは通話を終え、手品のようにどこかへ消し去る。
「それじゃあ、また後でね始」
ひまわりは、くるりと背を向け、たたた、と小走りに駆けていく。
「あ、そうそう。アルヴェリックも借りてくよ~」
ひまわりが一度だけ振り返るとカブト虫は彼女を追って飛び去ってしまう。
残されたのは無数のギャラリーと拳銃を手にした未知佳と始。
「行っちまったな……アルヴェリックのやつもだ。なついてやがる……」
あっけに取られている始。
「はい。どうやらあの人はきちんと許可を取って、こちら側へ渡ってきたようです通話の内容から察する限り」
未知佳の方は、ふう、と疲れたため息を漏らす。
「許可? それに異界だ魔物がどうのこうのって」
始が疑わしげな表情で未知佳をにらんだ。
「……え、ええと、ですね……」
困った顔で未知佳は右腕を掲げた。
「王たる神が戒めに依り、まどろみを」
拳銃の表面に浮かび上がっていた紋様や文字はその一言で消え失せていた。
その状態を確認すると未知佳はためらいなく引き金を引いた。
ぱしゅん、と軽い音がしてオレンジ色のBB弾が飛び出し、アスファルト上に転がる。
「おもちゃです。おもちゃ」
わざとらしく観衆へ解説するように未知佳はなおもBB弾を打ち続けた。
無責任な野次馬たちは、それであっさり潮が引くように去っていく。
「おい、みー」
落ちたBB弾を拾い集めてから始は未知佳の前へ進み出る。
「なんか、いろいろと隠し事してるみたいだな、おまえも組の連中も」
「買い物がまだでした。さあトロピカルカレーの材料を調達しましょう」
未知佳はもう平常時の淡々とした言動に戻っていた。
「教えろよ。ごまかすなよ?」
「なんのことだか、わたしには、さっぱりです」
未知佳は有無を言わせぬまま、強引に始の腕を引っ張りスーパー店内へ行こうとする。
「あ……?」
ベンチに載っている麦わら帽子が未知佳の目に留まった。
「もしかして……」
未知佳はその麦わら帽子を手に取り背伸びをすると始の頭の上へかぶせる。
そしてその情景を目で捉えたまま、視界をズームアウトさせるように数歩後退した。
「あの写真と……同じ帽子のようですね」
「ひまわりが誰か知ってるのか、みー?」
「後で灰島さんのところへ行きます。あの方の許可が出れば教えます」
そう告げた未知佳は以後、始からの質問すべてを無視するのだった。