プロローグ
時は常に流れ続ける。それは、すべてのものに言えることだ。生物にせよ、無生物にせよ、川の流れ、雲の動き、大地の鼓動、すべて時がたつにつれ、時に進化し、時に退化していく。しかし、運命のいたずらか、それとも時に抗おうとするのか、世界にはたまに例外が現れる。
たとえば、鯉。大自然を流れる川を力強く泳ぐか、はたまた大富豪の広い池を優雅に泳ぐか。例え体つきや食べるものに違いはあれど、鯉は鯉に違いない。しかし、とあるどんな生物でも昇るのは不可能と呼ばれている滝がある。そんな滝を昇ってしまう鯉がたまに存在する。
滝を登るにつれ、顔は大きくなり、体はまっすぐのびていき、髭は威厳さを増していく。そして、龍と呼ばれる存在となり、鯉とは比べ物にならないほどの長いときを生きることができるようになり、そして年を重ねるうちに偉大な存在になっていくのだ。
このように数百年、数千年の時を過ごす存在は、まるで老衰を知らないかのように、年を重ねるにつれて偉大な存在になっていく。老いはあるのかもしれないが、凡庸な生物と比べ、はるかに長い時を生きる生物に普通の生き物の定義は感じさせない。
もっともこのような鯉のような体験をせずとも、長い時を何かの間違いで生きるだけでも生物は重畳的な進化を遂げることがある。化け猫、妖狐……。もとはただのネコやキツネだったものが、長い時を生きるだけで凄まじい生き物に変わることがあるのだ。
では、人間ははたして、とてつもなく長い時を生きるとどうなるのだろうか?
日本のどこかにある、ごく普通の町。あるものを除いて、特に目立って変わったところなどない。道路は車が何台も行き交い、その隣には人間があるく歩道がある。遠くからは電車の音が聞こえ、人々の話し声が響き合う。
もっともそれは昼間の光景で、今は深い夜。静寂が町を支配し、町はごくわずかな明るい電灯を除き、ほとんど光が見えない。当然、道路も人はいない。時々酔っぱらった人間ぐらいは道路に倒れていることもあるであろうが、今夜はいないようだ。
そんな道路を一つの黒い影が駆けていく。灯りをつけることができるのにつけず、守るべき速度など知らん顔をするかのごとく、何かを恐れて逃げ出すかのように、どんどん灯りから離れていく道を、ひたすら走っていた。
そして、影が向かう先には、この町の唯一の特徴ともいえるべき場所があった。
暗い密林が生い茂り、舗装された道など一切ない。人気を感じさせず野良犬の吠え声のような音すら聞こえる。そんな場所の前で影は鋭い摩擦音をだし、停止する。
人食いの密林。ここに訪れた人間は神隠しにあうかのように幾重不明になる。死体や痕跡なども一切残らず、ただ自然と消えてしまう。そんな言い伝えのある密林だった。
もっとも今の時代にそんな噂を信じる人間はいない。しかし、別のうわさが流れている。この密林には浮浪者が何人も住んでおり、入ってきたものは身ぐるみをはがされ、ひどい目にあわされるという話だ。
その話を真に受け警察に調査を依頼した人間もいるが、浮浪者は影も形も見えない。もちろん言い伝えにあるかのように危険な生き物などもいない。ただただ、木々がおいしげ、入ってくるものをどこか拒むかのような場所だった。
そんな場所に意図的に来る人間などまずいない。それも光がほとんどないような真夜中に。しかし、車から降りた影は道なき道を駆けていく。何か箱のようなものを抱え、今度はその闇から逃れるかのように。月の光さえ届かず自身が持つ電灯のわずかな光だけを頼りに。
しばらく走った後、手に抱えていた物をその場所に乱暴に下ろした。そして軽蔑するかのように鼻で息を鳴らした後、元来た道を走り去っていく。さきほどとは違い今度はまるで置いてきたものから逃げるかのように。 誰も見ることがない、光の届かない闇の中、その光景を知るものいないはずだった。
そう、本来ならば。
暗闇に物が置かれてから、どれくらいっただろうか?足音と鼻息がその場所に近づいてくる。それと同時に六つの光が宙を舞うかのようにその場を動いていた。
「何かこっちからうまそうな匂いがするな」
「馬鹿!迂闊に声を出すなって言われたの忘れたか!」
少なくともこのあたりには人間が好むような食べ物は何もない。にも拘わらず、うまそうな匂いと言い、その言葉に反応するかのように別の声が聞こえる。
すなわち、ここにいるのは人間ではない存在にもかかわらず人間の言葉を話す存在だ。
「いいだろうが!別に!どうせこんなところ誰も来やしねえよ!いちいち目くじら立ててんじゃねえ!」
「そう言ってだいぶ前に見つかりかけたこと忘れたか!何度も言われているだろう!我々がもし、見つかったら即座に銃殺されるか、捕まって一生生体実験されることとなるだろうと!ただでさえ週に何度もない貴重な散歩をまた何年も禁止されたいのか!」
一つは荒々しい声。もう一つは知的差を感じながらも厳しさを感じさせる声だった。共に暗い闇の中、響き渡る。その音はまるで、森の木々の葉を揺らすかのようだ。そしてその光は宙を走り、森を移動していく。
光は彼らの目なのだろう。
「大体、お前はいつもいつも神経質なんだよ!細かい所ばかりいちいち指摘しやがって。そんなんだから、この間、耳の後ろの毛の所にハゲができたりするんだろうが!」
「なっ!?しっ失敬な!私はお前たちが何かやんちゃなことをしないかという見張りで常に気を配るがためにいつも苦労をしているのだぞ!特にお前が常々、私の肝を冷やすようなことをするから心休まる時など欠片もないのだ!お前に何かがあったら私たちだけでなく、あの御方にも迷惑がかかるのだぞ!」
六つの光のうち四つの光は互いを向きながら言い争いを始める。そのうち、二つの光はそれらから離れ、さきほど置かれたもののそばに移動した。そして置かれたものに近づいていく。
スンスンという音がした。二つの声にかき消されたが。
「この子……人間だよ。女の子」
「何!?」
一度口げんかをやめた二つの影が近づいてくる。光は三角形を作るかのように置かれた存在を囲んでいる。
「ああ!?なんでこんなところに人間がいやがるんだ?」
「おそらく……捨て子だろう。まだこんな小さいのに。ひどいことをするものだ」
光は少女の姿を照らすことはなかったが、それでも光の持ち主には少女の状態がはっきりと映っていた。全身痣だらけで、かろうじてまだ生きている。そんな状態だ。もっともこのままでは朝の光を見ることすら難しいだろう。
「あーうまそうな匂いはこれか。喰っちまうか?」
「馬鹿を言うな!こんなところで死体が出たら、騒ぎになる。そうすればまたこの場所にいられなくなるのだぞ!」
「冗談だ。もともと人間なんてほとんど喰えるところがねえ。小腹が減った程度じゃ喰わねえよ」
そんな会話を続けているうちに聞こえてくる息の音がどんどん小さくなっていくのが聞こえた。
「可哀そう……。助けてあげたい」
「ロウ……。わかっているだろう?我らの主人は基本的に世界とかかわることを嫌う。よほど見込みのあるとわかっている人間以外とは基本的に関わろうとはしないのだ。この少女だけを特別扱いなどはできるものではない」
「っち!目覚めがわりぃが、放っておくしかないな」
四つの光がその場所が離れようとする中、二つの光だけがその場所をとどまる。そして揺れる。まるで、嫌々をするかのように。
「やだ……助けてあげたい」
「あーもうこんな時に限ってロウは頑固なんだよな!ルフ!お前が説得しろ!」
二つの光が消えて、その場所からは匙を投げるような吠え声が聞こえてくる。瞼を閉じながらその場で唸っているようだ
「いや、しかし……こうなったロウは私の言うこともなかなか聞こうとはしないからな。むしろガル、お前が説得してくれ」
その声に反応した存在は、一方に声をかける。
「俺がこういうの苦手って言っているだろ!大体!こんな大騒ぎしていたらあっちの旦那が来ちまうぞ……」
「誰が来ると?」
唐突に聞こえる声に、三つの光はビクッと揺れる。
「ずいぶんと今日はお喋りじゃないですか。よほど、長い間、散歩を中止されたいようですねえ」
「く、黒の旦那!?これは違います!こっちにホラ!人間のがきんちょがいやがりまして!俺らは放っておこうと思ったのですが!ロウのやつがどうしても聞かないもので!」
新たに現れたのは、威厳と禍々しさを感じながらも落ち着いた声だった。さきほどまで荒れた言葉を発していた声を一瞬で敬意を感じさせるような口調に変化させた。こころなしか二つの光もちょっと弱弱しく見える。彼を萎縮させた存在は闇に完全に溶け込みつつ、少女の元へ向かう。
「ロウ……。いつもなら放っておくあなたが……どうして?」
「僕たちと同じ何かを感じる……。だから助けてあげたい」
その言葉にふうっとため息をはく。一つで二組の光を持つ存在はじっと虚空を見つめている。残る二つの存在はどうなるかを測りかねているようだ。
やがて、何もない所から声が聞こえてくる。
「確かに我が主人は、外界によほどのことがない限り影響を与えるのがお嫌いな方。しかし、このまま帰り、あなたのそんな様子を見たら、何があったかすべてをやがて察してしまうでしょう。それほど凄まじい能力があり、そしてその能力に負けないくらい優しい心をもつ御方なのですから」
そう言い切った存在に対し、二つの光は上下に揺れる。無意識に他の光もうなずくように上下に揺れた。
「ですが、忘れないください。あなた達も、私も、そしてあの御方もこの娘を救うと言うことで責任を持つことになります。それがどのように責任になるかはわかりませんが、それは決して軽いものではありません。その中でもロウ。あなたの責任はおそらく一番重いものです。覚悟の上ですか?」
静かだが、わずかな意志の揺れ動きさえ許さないといった声に今度は二つの光だけが上下に揺れた。その言葉にさきほどとはうってかわって今度は笑うかのような息が、聞こえる。それは成長した子供の微笑ましさを見守る親に似た雰囲気を漂わせた。
「わかりました。ならば早急にこの娘を助けましょう。それからガル。あなたは大きな声を出しすぎているのであなただけおしおきです」
「なんでぇー!?」
「時間がありません。急ぎましょう!」
そして六つの光はやがて、その場から足早に立ち去って行った。再びしばらく時間がたち、暗い森にも朝の太陽の光がたちのぼりはじめる。
しかし、その場に足跡も、残り香も、森の生物たちは見つけることができなかった。
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「うーん……うん?」
いつも怒鳴り声で起こされる中、今日は思いのほか静かに起きれたことに少女は疑問に思う。母親が寝坊したのだろうか?しかし、今までそんなことは一度もなかったのだが。よくよく考えてみると、自分が今横になっている物もいつもと違う。いつもは臭いにおいと嫌な肌触りのするようなものを自分の下に敷いて寝ているのだが、今日はまるで雲に包まれているかのような、そして太陽に照らされているかのように柔らかく暖かなも野に自分が包まれていると感じた。
そして少女は自分の顔に何かがこすり付けられているのを感じる。母親が自分に何かをしているのだろうか。叩かれたときはできるだけ目立たないようにすればよかったが今はどうすればいいのだろうか?幼いながら、彼女はそんなことを考えていた。
そして目を開ける。
少女の顔を一匹の動物が舌でつつくように舐めている。銀色の毛並みに優しそうな目を持っていた。この動物は一体どこから来たのだろう?と少女は疑問に思う。
「目が……覚めた?よかった……」
その瞬間、そのオオカミははっとした表情を浮かべる。普通の動物は人間の言葉はしゃべれない。自分がうっかり言葉を発してしまったことを、うかつだったと思っているのだろう。主から散々注意されたのにもかかわらず。
しかし、少女はオオカミをじっと見つめると、そっとその頭に手を置いて撫ではじめる。
「……?」
この少女には恐怖という感情がないのだろうか?不気味と思わないのか?そう思いながらも彼はだまって撫でられ続けた。別に不快な気分はしない。
すると奥から音がするとともにそよ風が流れてきた。どうやら誰かがドアを開けたらしい。しかし、ドアにその姿は見えない。
いや、よく下の方を見ると、茶色い毛を持つ、動物がこちらをじっと見ていた。傍らにいる動物に比べるとこちらは幾分か凛々しい目をしている。
「目覚めたようだな。ロウ。具合はどうだ」
「体の方は……大丈夫そう。だけど、ちょっと心配」
その声を聞くと茶色い動物は少女を踏まないように、少女の元へスタッと飛び移る。そして、まるで水晶のような目で彼女のことをじっと見つめた。彼女は怖がらない。この狼達のことをまるで昔から知っているかのように。
「なるほど。確かに問題かもしれないな。主殿に報告しよう。君も来給え」
言い放つとまるで自身の重さを感じさせず静かな音とともに床に降り立つ。彼女もまだ今まで自分が眠っていたもの……ベッドから身を起こす。そして床に裸足の足をつけた。同時に自分を包んでいた物が寝ていた物だけでなく不思議な肌触りのする服だと言うことに気づく。寒さを感じないのにまるで来ていないかのように軽い服だ。
「私は先に行って待っていよう。ロウ、案内は頼んだぞ」
「わかった。ルフ」
そういって。再びドアから出ていくルフと呼ばれた茶色い狼。同時に少女は辺りを見渡す。どこにも見たことがない景色。そういうほかなかった。全体的に部屋の色は銀色で、周囲に色々な色を持つ丸い球体がいくつも浮かんでいる。そして、その球体の下には無造作にさまざまな機械や本棚が置いてあり、自分の眠っていた物と浮かぶ球体がなければ書斎だと勘違いしそうだ。しかし、吊るされているような糸は見えない。少女はやはり自分はまだ夢を見ているのだろうか。そんな考えが浮かんだ。
「ついてきて」
そんなロウという狼の声に、後に続いた。
少女は何も関心を見せずに静かに後ろからついてきていた。普通の人間がこの場所に来たらまず間違いなく大騒ぎするだろう。この建物自体も中にある作られたものもこの場所以外まずどこにもない様なものだからだ。いや、それ以前にオオカミがしゃべったら失神しかねない。ロウはこの少女はどのような体験をしてきたのか。気になって仕方がなかった。
「君……。名前は?」
「名前……。私……?思い出せない……」
ロウはあまり口が達者な方ではないので言葉が少なくなるが、少女のその言葉の少なさからは困惑と悲しみが伝わってきた。自分の名前が思い出せなくなるほど精神的なショックがあったのだろうか。聞いてはいけないことを主の前で聞いてしまったかと後悔してしまう。
そこで、自分たちのことを説明することにした。
「僕は……ロウ。さっきのは……ルフ。そして……もう一匹、ガウという狼がいて、ご主人が二人いる。今から君をそこに案内するよ」
「ロウ……さん?ルフ……さん?」
見た目的には五歳も生きていているかわからない少女から敬称で呼ばれ、また困惑してしまう。そのまま黙って主の元へ歩いて行った方がいいかなと思ったが、昨日言われた言葉を思い出す。
(貴方が一番責任を持たなければいけませんよ)
その言葉に静かに自分自身でうなずいた。
「僕は……君の力に……なりたい」
その言葉を少女の方に首を向けながら言った。思いついた言葉はそんな言葉だった。尚更困惑されるかもしれないと少し、後悔した。だけど、少女は少しだけ、とてもぎこちない笑みを浮かべた。
「ありがとう……」
ロウはほっと溜息をつき、そのまま歩きはじめる。一方で逆に気を遣わせてしまったかもしれない、とやはり少しだけ後悔したが。
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そして色々な道を歩いた後、一つのドアの前にい立ち止まる。狼はそれによりかかるように両足立ちになり、口でドアノブをくわえ、そのまま開こうとするが。
「アオーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!!」
遠吠えのような音で思わず体勢を崩す。少女は微動だにしなかったが。しかし、この中で行われているであろう凄惨な光景は少女にさらに悪影響を与えないだろうか。そんな心配をした優しき狼は少女にこの場で待機を命じ、それに首肯したことを確認すると扉を開ける。
「リョー様……」
「ルフから報告は聞きました。看病お疲れ様です」
やはり彼が思った通りの光景だった。黒いローブに黒い髪を持つ全身黒い印象を受ける彼の主人が紅茶を飲みながら優雅に本を読んでいる。そのそばにはルフが待機していた。こころなしか、苦い表情をしている。そして、その五メートルほど隣では赤い毛がまるでサンドバックのようにうごめいている。必死に今の状況を打破しようとしているのだが、吊るされた紐が彼を逃さない。
「だ、旦那。ロウが来たってことは、あの子が目を覚ましたってことですよね?だったらおしおきは後回しにして状況を説明しましょうよ!ええ、こんな誰も得しないようなものは後でもいいじゃないですか!ねえ!」
現世で言えば、まるでヤンキーの後輩が先輩に殴られる寸前のようなそんな言い訳を浮かべながらぐらぐらと揺れている。黒いローブをまとった男ははぁとため息をついたあと、その言葉を発した存在に向けて手をかざした。その瞬間吊るされていた紐がおち、言葉を止めるかのように頭から地面に激突した。
「ぐぇ!?」
そんな声を上げながらもすぐにシュタっと体勢を立て直す。そんなオオカミの様子をリョーと呼ばれた存在は一瞥した後、ロウに少女をここに連れてくるようにと命じた。あっけにとられていたロウはすぐさま扉を開けて少女の元へ向かう。
少女はそのまま立ち尽くしていた。まるで空に何かがあるかのように。どこかわからない、だけど、痛々しさを感じさせながら。ロウは小さ目の吠え声を上げた後、少女を部屋に招き入れた。
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「はじめまして」
部屋に入るなり、そう言って椅子から立ち上がった黒いローブの男がゆっくりと近づいてきて少女の額に手をかざす。少女はそれにも何も反応を示さない。
「なるほど……。強いショックで、記憶の損失と、感情の麻痺が起きているみたいですね。彼女は、何か言ってましたか?」
「何も……言っていない。ただ……自分の名前も思い出せないって……」
ロウがオズオズと語る。余計なことをしたかと心配しているようだ。
「気にすることはありません。誰かを気にかけるということは理解すると言う義務も同時に起こるもの、それゆえ、話しかけなければいけないのは当然のことです。理屈ではわかりづらいですがね」
そう言い終わるとかざしていた手をゆっくりとおろす。少女は首を少しかしげるような動作をとるが表情は変わらない。そんな少女に対して、彼は短めの言葉を選んで話しかける。
「私も名前がないのです。面倒なのでとうの昔に忘れてしまいましたが。ここにいるうちは悪霊と名乗っています。あなたの治療を担当することになりました。どうぞよろしく」
「アクリョウ……さん?」
本来、種別としてしか用いられることのない言葉。しかし、少女はその言葉を名前と認識してしまったようだ。黒い髪の男はふっと微笑ましげに笑い、あえて訂正しないことにした。
「ですが、その前に主様に会わないと……」
「僕がどうしたって?」
その言葉に悪霊と名乗った黒い男も、さきほどまで少女を導いていた銀色のオオカミも、苦い表情を浮かべていた茶色のオオカミも、そして地にふせていた赤い狼もはっとそちらを見る。
青い髪、つぎはぎだらけの服、そしてどこか楽しそうに笑う端正な表情。
顔立ちは中性的に一瞬迷うが少女も男性と分かった。
この場所の主が立っていた。
「主様。その現れ方は心臓に悪いのでやめてくださいと言ったはずですよ」
「あははーごめんごめん。緊張をほぐそうと思ってね」
しかし、その目が少女を捕えるとその笑いも止まる。どんな光景も見なかった少女が少し萎縮しているように見えた。青年は少し悲しそうに笑うと、もうすごく前の事なんだけどなあとつぶやきながら少女を見ていた。否、少女ではない、どこか遠くの何かを見ていた。少女はオズオズと喋りはじめる。
「あ、あの……」
しかし、どこか言葉が迷子になってしまっている。そんな少女の頭に暖かい何かが置かれる。その何かは青年から伸びていた。そしてそのまま撫でられるのを感じた。
「僕は、浮狼者。この時代じゃ浮浪者なんて呼ばれているけどね。全然違うのに。とにかく、僕は君を救ってしまった。君は救われてしまった。その事実がどうなるかわからない。本来僕たちと君が出会うことなんてなかったはずなんだけど、出会ってしまった。僕はもう世界と関わらないと決めたんだけど、それでも君は僕の世界に入ってしまった」
「あ……あ……」
自分はやってはいけないことをやってしまった。そんな表情を少女が浮かべ、パニック寸前になろうとしているのが近くにいる狼達がわかり、駆け寄ろうとするが、黒いローブの男がそれを止める。
「だから」
そういって青年は少女を抱きとめた。パニック寸前で今にも動き出しそうだった少女の衝動が少しずつおさまっていく。
「ここでしばらく過ごしてほしい。誰にも義務を感じる必要はないけれど、僕からのお願いだ。勝手で悪いけど、助けたからにはもう君のことを捨てることをできなくなってしまった。望むものが与えられるかなんてわからないし、もしかしたら、もう普通の人間には戻れないかもしれない。それでもだ」
幼き少女にその言葉の意味はわからなかった。だけど、抱きしめられている安心感が徐々に少女の麻痺させていた感覚を癒していく。ゆっくりと彼が少女から離れると体勢を崩してその場に座り込む。
「まだ治療が必要かもしれないね。ガウ、ルフ、ロウ。彼女をまた看病してくれ」
「おうよ!」
「わかりました」
「御意……」
そういって、ロウの背中に少女をのせ、そのまま扉から出ていく。後に残ったのは二人の人間。
「やはり何千年たとうが、何万年たとうが忘れることができないものですか」
「そんな私情なら、いいんだけどね」
頭をかきむしりながら、彼らが出て行ったドアのほうを向く放“狼“者。
「何千年たとうが何万年たとうが、何千人救おうが、何万人救おうが、一人の人間の一生をただただ絶望のままに終わらせてしまった罪は消えないものだ。無意識に彼女を救おうことで自分を救いたいと言う我儘が出てしまったのかもな」
「ええ、お付き合いいたしますよ。悪霊として。なにせ、こんなことは何百年かぶりですから」
悪霊と呼ばれし黒い存在は面白そうに笑う。青い髪の青年はそんな彼をジト目で見た後、再び一瞬でその姿を消した。それを確認すると再び黒いローブの男は読書に戻るために椅子に座る。
これが少女と、数匹の不思議なオオカミと悪霊と。
そして、数万の時を生きる、放狼者との、出会いだった。
とりあえずプロローグのみです。
続きを書くかどうかは未定です。
なんとなく公開だけしておきます。