デスアイ告発録
第1章 くるみ、と呼ばれること
相原くるみは、朝の教室で名前を失くす。
「くるみ、おはよ」
「くるみ、ノート見せて」
「くるみ、そこどけ」
名字で呼ばれることはほとんどない。悪意がなくても、呼び捨ては“軽さ”をまとってしまう。自分の輪郭が薄くなる。笑って返せば返すほど、雑に扱われるのが普通になっていく。
四限の国語。
黒板に向かう背中は細いのに、字は妙に強い。句点がきっちり置かれている。似鳥馳彦――学校では皆、似鳥と呼ぶ。怒鳴らない。褒めちぎらない。冷たいわけじゃないのに、ぬるさもない。
「今日は“言葉の責任”の話をする」
似鳥はそう言って、教科書ではなくプリントを配った。そこには短い文章が二つ並んでいる。
“冗談だった”
“そんなつもりじゃなかった”
「この二つは便利だ。人を傷つけたあとに、傷を無かったことにできるから」
教室が小さくざわめく。くるみは指先でプリントの端を折り、元に戻す。誰かが笑っている。笑いが、薄い膜みたいに広がって、すぐに消えた。
授業が終わり、チャイムの余韻が廊下へ逃げていく。
くるみは消しゴムを落とし、拾おうとして視線を上げた。
似鳥が、教卓の端に残ったプリントを揃える手元。
指が、少し震えている。
――先生も、怖いものがあるんだ。
そう思った瞬間、くるみはそれを誰にも言えない気がした。言えば、台無しになる。自分だけの発見でいたかった。
放課後。忘れたイヤホンを取りに戻った廊下で、くるみは足を止める。職員室の外、引き戸の隙間から声が聞こえた。
「……悪い、道夫。今月も無理だ」
「……子どものほう?いや、俺のほうだ。仕事じゃない。仕事だけど、仕事じゃない」
「……また連絡する」
似鳥の声は授業より低く、どこか擦れていた。
電話を切る音。引き戸が少し開く気配。
くるみは反射で壁の陰へ身を引いた。
逃げたいわけじゃない。ただ、見られたくなかった。盗み聞きをした自分のほうが、急に汚れて見える。
似鳥が廊下へ出た。目が合う。
一瞬、くるみの心臓が跳ねた。
「……相原。何か用か」
呼び捨てじゃない。名字だ。
それだけで、くるみは救われた気がした。
「イヤホン、忘れて」
「ああ。……気をつけて帰れ」
似鳥はそれ以上、何も言わなかった。
でも“何も言わない”は、ときどき“気づいている”と同じ顔をしている。
くるみは校舎を出るとき、ふと振り返った。
窓の向こうの職員室で、似鳥が書類に目を落としていた。
ただそれだけ。なのに、胸の奥がうるさくて、息が少しだけ苦しい。
第2章 道夫の缶コーヒー
土曜の夕方、駅前の風は冷たかった。
似鳥は自販機の前で立ち止まり、缶コーヒーを二つ買う。自分は無糖、もう一つは微糖。道夫は甘いほうを選ぶ。昔から変わらない。
「顔色わりいな」
道夫は、似鳥の手から缶を受け取るなり言った。
町工場の油の匂いと、やたら明るい笑い方。似鳥の世界にはない温度がある。
「いつものことだ」
「それを“いつものこと”にすんな」
道夫の言葉は乱暴なのに、刃が薄い。切るためじゃなく、起こすための音みたいだ。似鳥は缶を開け、ぬるい空気に白い湯気を混ぜる。
「……息子、どうだ」
「今日な、二歩いった。二歩。たった二歩だけど、俺、泣きそうになった」
道夫の声が少しだけ揺れた。
似鳥はその揺れを、きちんと受け止める言葉を持たない。
「すごいな」
「すごいのは息子だよ。俺じゃない。……お前もさ、誰かの“二歩”見逃すなよ」
似鳥は眉を寄せる。
道夫は、似鳥がそういう顔をするとき、だいたい“逃げる準備”をしているのを知っている。
「学校、なんかあった?」
「別に」
「“別に”って言うときはだいたい別にじゃない」
似鳥は缶のラベルを指でなぞった。
言葉がのどに引っかかって、落ちてこない。
「生徒が、……目立つ」
「いじめ?」
「断定できない」
「断定できないなら、起きてる」
道夫は短く言い切った。
似鳥は反射で否定しそうになって、飲み込む。否定してしまえば、自分が楽になる。
「お前、先生だろ」
「先生だからこそ、軽々しく動けない」
「それ、言い訳になりやすいから気をつけろ」
道夫は缶を握り、へこませる。
その音が、冬の空気に妙に大きく響いた。
「なあ、似鳥。お前、誰か一人の人生を背負うなよ」
「背負ってない」
「背負いそうな顔してんだよ」
似鳥は何も言えなかった。
道夫の言う“顔”は、たぶん正しい。
別れ際、道夫がぽつりと言う。
「見てるつもり、が一番危ねぇから」
似鳥はその言葉を胸にしまい込む。
しまい込んだせいで、余計に重くなるとも知らずに。
第3章 動物園、課外レポート
「課外レポートだ。動物園に行ってこい」
似鳥は、教室でそれを言った。
口調はいつも通り。無駄がない。誰にも疑われないくらいの距離感。
くるみの心臓だけが、勝手に速くなる。
「一人で、ですか」
くるみが言うと、似鳥は一拍だけ間を置いた。
「……危ないなら、教員が同行する」
「それ、先生が、ですか」
似鳥は視線をそらさずに頷いた。
くるみは頷き返してしまう。断る理由が見つからない。見つけたくない。
休日。動物園の入口。
家族連れの笑い声の中に、制服じゃないくるみがいる。似鳥も私服だ。だけど私服でも、どこか“職員室の匂い”がする。アイロンの効いたシャツ、飾り気のない靴。
「人混み、平気か」
「……平気、です」
嘘だった。
平気じゃない。視線が怖い。楽しそうな人たちの中で、自分だけが“何かを隠してる”みたいになる。
けれど、園内に入って少し経つと、くるみはふいに笑ってしまった。
カピバラが、葉っぱを鼻先に乗せたまま、微動だにしない。
まるで世界の騒がしさが届かないみたいで。
「……先生、見て。あれ、絶対わざとだ」
くるみが指差す。
似鳥がそちらを見る。
そして、ほんの一瞬だけ口元がゆるんだ。
それが、怖かった。
授業中の似鳥は“先生”だ。
今の似鳥は、先生じゃない。
先生じゃない顔を見てしまったら、戻れなくなる気がした。
くるみは笑いを引っ込めようとした。
でも、似鳥が言う。
「笑うのは、悪いことじゃない」
「……悪いことにされることはあります」
くるみの声が自分でも驚くほど、真ん中を刺した。
似鳥は黙り込む。言葉を選んでいるときの沈黙。
「……君が悪いことをしたわけじゃない」
くるみはその言い方が好きじゃなかった。
“悪いことをしたわけじゃない”は、“悪いことに見えるかもしれない”と隣り合わせだから。
帰り道、園の出口付近。
ふと、背中に視線を感じる。くるみが振り返ると、誰かがスマホを下ろす仕草をした。見知らぬ高校生くらいの集団。笑っている。
くるみは息が止まる。
似鳥が、くるみの前に半歩出る。
「行くぞ」
その声は低く、授業より強い。
くるみはその半歩に、救われてしまう。
救われたことが、後から罪みたいに残る。
第4章 下北の映画、終電まで
下北沢の小さな映画館は、入口のポスターが少し色あせていた。
くるみは、映画を観に来たはずなのに、座席の硬さとか、隣の似鳥の呼吸のほうが気になってしまう。
暗闇の中で、似鳥は瞬きの回数が少ない。
くるみはスクリーンより先に、横顔を覚えてしまいそうで怖い。
上映後、カフェ。
くるみはカップの縁を指でなぞり、言葉の代わりに時間をいじる。
「……相原」
似鳥が呼ぶ。名字で。
くるみは少しだけ安心する。危ない方向へ行きそうな自分を、名字が引き戻す。
「先生、デス――」
くるみは口を噤む。まだ“デスアイ”は存在していない。けれどこのとき、くるみは、未来の悪意の形をなぜか予感していた。
似鳥は言いかけた言葉を待つ。
待つという行為が、くるみにとっては優しすぎた。
「……なんでもない」
「そうか」
似鳥は深追いしない。
深追いしないことが、くるみには“逃げ道を残されている”みたいで、つらい。
終電が近づき、駅の改札前で別れる。
「送る」と似鳥が言いかけ、飲み込んだのが分かった。
送れば物語になる。送らなければ傷になる。
どちらも、誰かが笑う。
くるみは改札を通る前に言う。
「先生、今日の映画、良かったです」
「……そうだな」
それだけ。
それだけで十分だったはずなのに、くるみの胸は、空っぽみたいに鳴った。
第5章 デスアイ、最初の告発文
月曜の昼。
教室の空気が、スマホの振動で一斉に薄くなる。
「ねえ、これ見て」
「うわ……」
「え、くるみ?」
くるみの名前が、画面の中で勝手に光っていた。
黒い瞳のアイコン。匿名。文章は妙に整っていて、句読点が正しい。
デスアイ
――悪趣味な名前。
【告発】相原くるみ(通称くるみ)と国語教師・似鳥馳彦(似鳥)
放課後に二人きり、休日に外出。教師として不適切。
証拠あり。
添付の写真。
動物園の入口、遠景の二人。
下北の映画館、看板の前の後ろ姿。
どれも“決定的じゃない”のに、“決めつけるには十分”な切り取り方だった。
くるみの胃が冷たくなる。
耳の奥で血が引く音がする。
「これ、マジ?」
「先生と?」
「やっば……」
言葉は、刃物より軽い。軽いから、何度も刺せる。
くるみは視線を上げる。
廊下の向こう、職員室の前。
似鳥が立っていた。誰かに呼ばれて出てきたのか、画面を見たのか、分からない。
目が合う。
似鳥の顔色が、授業の日より白い。
その瞬間、くるみは決めてしまう。
――これ、終わるやつだ。
終わらせられる前に、壊れるやつだ。
第6章 友情の弱点
放課後、似鳥は校長室へ呼ばれた。
廊下を歩く背中が、普段より少し小さい。
くるみは教室で一人、机の落書きを指でなぞる。
“死ね”
“先生の玩具”
文字は太い。書いた人は震えていない。書くときに、ためらっていない。
夜、似鳥は道夫に電話する。
声が、いつもより掠れている。
「……俺のせいで、迷惑かかるかもしれない」
「子どもいる俺に“迷惑”とか言うな。今さらだろ」
道夫の声は荒い。
荒いのに、似鳥を追い詰める荒さじゃない。
「お前、逃げるなよ」
「……」
「逃げるなら、せめて逃げる相手を間違えんな」
似鳥は、返事ができない。
“逃げる相手”――誰だ。何だ。自分か。学校か。世間か。
それとも、くるみか。
電話を切ったあと、似鳥は床に座り込む。
教師としての言葉は、こんなとき何も守れない。
守れないのに、言葉しか武器がない。
第7章 保健室の白、言葉の責任
保健室は、清潔すぎて、心が汚れて見える。
カーテン越しの冬の光が、ベッドの白いシーツを痛いほど照らしていた。消毒液の匂い。綿の匂い。体温計のプラスチックの匂い。
くるみはベッドの端に座り、膝の上で手を組んだ。指が冷たい。握りしめるほど、爪が皮膚に食い込む。
養護教諭は、声をいつもより柔らかくしていた。
柔らかい声は、正しいことを言っているふりをするのに便利だ。
「相原さん。大丈夫?」
「……大丈夫です」
“大丈夫です”は、救いじゃない。
ただの合図だ。これ以上、掘らないでください、という。
養護教諭は頷き、カルテを閉じた。閉じる音だけが大きい。
「それでね。相原さん。少し確認したいの」
“確認”。
“確認”は、誰かを守るための言葉みたいに聞こえる。
でも実際は、誰かを裁くための入口だ。
「似鳥先生と、二人で外出したの?」
くるみの胸の中で、何かがカチ、と鳴った。
“外出したの?”という音だけが、耳に残る。外出――それだけで、罪の匂いがする。
「課外レポートでした」
「動物園?」
「……はい」
「下北沢の映画も?」
今度は、喉がかすれた。
“映画”という単語が、悪さをしている。レポートでも授業でもなく、“デート”を匂わせる単語として。
「……課外レポートです」
養護教諭は、言葉を選ぶふりをした。
でも選んだ言葉は、鋭かった。
「どこまでの関係?」
くるみの視界が、一瞬だけ白くなる。
保健室の白が濃くなる。息が詰まる。
心の中で、似鳥が配ったプリントの文章が浮かんだ。黒い字で、淡々と書かれた文章。
「言葉は、言った瞬間から相手のものになる」
「冗談のつもりだった、は免罪符にならない」
「“確認”は、ときに暴力になる」
くるみは、息を吸った。
そして、吐いた。
「……先生」
「なに?」
「今の質問は、誰のための“確認”ですか」
養護教諭のまつ毛が一回だけ揺れた。
くるみは続けた。震えが声に混ざるのが悔しくて、言葉だけは整える。
「“どこまでの関係?”って聞き方は、守ってない」
「相原さん、落ち着いて」
「落ち着いてるから言ってます」
自分の声が、自分の耳に刺さる。
強く言うほど、後から自分を嫌いになる。
でも言わないと、もっと嫌いになる。
「それは、私が“汚れてる前提”で聞いてます」
「そんなつもりじゃ」
「“そんなつもりじゃない”って、似鳥先生が授業で一番嫌ってた言い方です」
その瞬間、養護教諭の口が一度止まった。
保健室に沈黙が落ちる。
沈黙は、ふわふわしているのに重い。胸の上に乗る。
カーテンの向こうから、別の先生の足音と声。
「……校長が。似鳥先生、呼び出し」
「今?」
「保護者も来てるって」
“保護者”の音がした瞬間、くるみは心の中で何かが崩れるのを感じた。
自分の味方じゃない人が、自分の名前で動く気配。
勝手に決まる。勝手に終わる。
くるみは、視線を下げたまま、最後に言う。
「正しいことをしたいなら、正しい質問をしてください」
「……相原さん」
「私を守るなら、私を“先に汚さない”でください」
廊下に出ると、スマホの光が点々と灯っていた。
誰も見ている。
誰も見ていないふりをする。
くるみは、その中を歩く。
歩くたびに、床が「ここはお前の場所じゃない」と言う。
第8章 転校届、紙の重さ
転校届は、紙一枚なのに、体温があるみたいに重かった。
母は泣かない人だ。泣くときは怒るとき。怒りは、守るために使うものだと母は知っている。
「転校、する」
母の声は、決定の音だった。
くるみは、頷けなかった。
頷いたら、自分が“負けた”みたいになる。
でも頷かなかったら、自分が“壊れる”のが分かる。
「いやだ」
声が出た。
驚いたのは自分だ。
母は、くるみの顔を見て言った。
「戦わせない」
「……でも、逃げたって言われる」
「言わせておけばいい。逃げじゃない。場所を変えるんだ。生き残るために」
“生き残る”。
その言葉が、くるみの心臓に刺さる。
私は今、“生き残らなきゃいけない側”になったのか。
最後の登校日。
ロッカーを開けた瞬間、小さな紙が落ちた。
丸められて、ねじれて、雑な字。
「先生のもの」
「消えろ」
短い言葉ほど、息が止まる。
くるみは紙を握り潰して、ポケットに入れた。
捨てたら、ここで終わる気がした。
終わるのは怖い。終わりは、ずっと痛いまま残るから。
昇降口のガラスに、自分の顔が映った。
目の下が暗い。
口角が上がらない。
“くるみ”って呼ばれてた自分が、薄くなる。
靴を履き替えていると、足音。
「……相原」
似鳥だった。
職員室の匂いがついたまま、そこに立っている。
くるみは、顔を上げられない。
上げたら、全部が溢れる。
「転校するのか」
「……はい」
「すまない」
“すまない”は、痛みを整頓したふりをする言葉だ。
でも整頓されない痛みが、胸の奥で暴れる。
くるみは声を絞る。
「先生、謝らないでください」
「……」
「謝られたら、私、先生のせいにしなきゃいけなくなる」
「……」
「先生のせいにしたら、楽になる。でも、それをしたら、私が……私が、私じゃなくなる」
似鳥が一瞬だけ息を吸う。言葉が出ない。
「相原」
名字。
名字は距離だ。
距離は守りだ。
守りの言葉が、こんなにも優しく痛い。
似鳥が、やっと言う。
「生きろ」
教師としては重すぎる言葉。
でも、それしか言えなかった言葉。
くるみは、頷いた。
頷いた瞬間、喉の奥が焼ける。
泣かないまま泣くときの痛み。
第9章 二歩、という奇跡
似鳥の異動辞令は、紙一枚の顔をして、人生の背骨を折ってくる。
段ボールに本を詰めながら、似鳥は自分の手が震えているのに気づいた。
震える理由が、寒さじゃないことも分かっている。
夜、道夫の家。
石油ストーブの匂いがする。
生きてる匂い。生活の匂い。
その匂いが、今の自分には眩しい。
居間で、道夫の子どもが床に貼ったテープの線を見つめていた。
二歩分くらいの長さ。
「いくぞ」
道夫が笑って言う。
でも笑いの奥に、祈りがある。
子どもの足には装具。
小さな靴が床を探す。
その姿に、似鳥は息を止めてしまう。
一歩。
床が軽く鳴る。
子どもが眉を寄せる。
痛みか、恐怖か、どちらか分からない顔。
二歩。
次の瞬間、子どもの口が、ふっと開く。
笑った。
“できた”じゃなく、“できちゃった”の笑い。
奇跡が本人にも信じられない笑い。
道夫が、泣きそうに笑う。
「な? 二歩だ」
似鳥は、声が出ないまま頷く。
喉が締まる。
二歩。
たった二歩。
でも、二歩で世界が変わる。
二歩で、親の顔が変わる。
二歩で、“明日”が生まれる。
道夫が缶を開ける音をさせながら言った。
「学校、どうなった」
「……終わった」
「終わらせた、だろ」
「……」
道夫が似鳥を見る。
「お前は、立ってるだけでよかったんだよ」
「……」
「立ってるだけで、あの子は、“自分は一人じゃない”って思えたかもしれない」
あの子。
くるみ、と言わない。
言ったら、似鳥が壊れるのを道夫は知っている。
似鳥は俯いた。
俯いた視界に、ホームの白線が浮かぶ。
内側、外側。
立つ場所ひとつで、守れるものが変わる。
子どもが、似鳥を見上げて言う。
「せんせい、いっちゃうの」
似鳥は笑えずに頷く。
「行く」
「また、くる?」
「……分からない。でも」
その“でも”の続きに、教師として言ってはいけない言葉が混ざっている。
“会いたい”とか、“ごめん”とか。
そんな言葉は、誰も救わないのに、言った瞬間だけ自分を救う。
道夫が代わりに言った。
「来るよ。来るために、生きろ。お互い」
帰り道、似鳥は何度も二歩の笑いを思い出す。
二歩は、誰かを終わらせるためじゃない。
渡るための距離だ。
第10章 名字で止まる
駅は、夜の音をしていた。
電光掲示板が冷たく光り、風がコートの隙間から体温を奪う。
くるみは内側。
似鳥は外側。
白線は、約束になってそこにある。
「これ以上、壊さないための距離」。
くるみが言う。
「……デスアイ」
その言葉を口にしただけで、胸が痛む。
「告発文、回ってる」
「……」
「“証拠あり”って」
「証拠は、いつも切り取りだ」
似鳥は、くるみを見ない。
見ると、言い訳になりそうだから。
言い訳は、守りにならないから。
くるみは、息を吐く。
「先生のこと、責めたくない」
「……」
「でも、責めないと、私、怒りをどこに置けばいいか分からない」
沈黙。
その沈黙の中で、似鳥の手がポケットの中で強く握られているのが分かる。
手袋越しの拳。
触れないための拳。
似鳥が、ゆっくり口を開く。
「君に、触れたことは――」
くるみの心臓が跳ねる。
その先を言われたら、終わる。
“触れた”でも、“触れてない”でも燃える。
燃える火の色が違うだけで、燃えるのは同じ。
くるみは反射みたいに言ってしまう。
「似鳥」
作中の呼び名。
先生を外した名前。
距離が、刃物みたいに一気に縮む。
似鳥の目が揺れる。
くるみは、自分の声の無防備さに怖くなって、すぐ言い直す。
「……似鳥、先生」
名字。
距離。
守り。
「それ、言わないで」
「……」
「言ったら、どっちでも燃える」
「……」
「燃えるなら、せめて、私たちの中に置いて終わりにしたい」
似鳥の喉が痛そうに動く。
言葉が溺れて、出てこない。
電車の接近音。
風がホームを撫でる。
くるみが、ぽつりと言う。
それは弱さじゃなくて、最後の事実だ。
「動物園で笑ったの、久しぶりだった」
似鳥が、やっとくるみを見る。
目が合ってしまう。
合った瞬間、くるみの喉が熱くなる。
「……俺もだ」
それだけ。
それだけで、世界が崩れそうになる。
謝罪でも告白でもない。
ただ、“同じ時間を持ってしまった”という事実。
似鳥が、何かを言いかける。
言葉が喉の手前まで来て、止まる。
「相原――」
くるみが、首を小さく振る。
名字を言われたら、泣いてしまう。
名字は優しすぎる。
優しい言葉は、最後に残って一生痛い。
第11章 発車、白線、手袋
ドアが開く。
人が降りる。人が乗る。
世界が“普通”の顔で動いているのが残酷だった。
くるみは車内に入る。
座らない。座ったら崩れる。
手すりも掴まない。掴んだら、もう手放せない気がする。
ドアが閉まりはじめる。
似鳥の口が動く。
でも音にならない。音になる前に、風に奪われる。
くるみは目をそらす。
口の形が読めたら、背負う。
背負ったら、潰れる。
電車が動き出す。
ホームが、ゆっくり後ろへ流れる。
そのとき、似鳥が――
白線を越えないまま、ほんの少しだけ前に踏み出した。
一歩分だけ。
でも、越えない。
“立つ場所”だけは守る。
そして、似鳥は手袋を外した。
片方だけ。
冷たい空気にさらされた指が、少し赤くなる。
外した手で、何かに触れるわけじゃない。
ただ、手袋を握りしめる。
強く。
自分の体温がそこに残るくらい強く。
触れない誓いみたいだった。
触れなかった事実を、最後まで抱えて生きる誓い。
くるみの胸に、道夫の子どもの二歩が浮かぶ。
くるみは直接は知らない。
でも今この瞬間、似鳥が思い出している気がした。
――二歩。
たった二歩。
でも、二歩で“明日”が生まれる。
くるみは、喉の奥が痛くなるのをこらえながら、口の中でだけ言う。
「……二歩、だよ」
誰にでもなく。
自分に。
ここから先、壊れきらないために。
電車が速度を上げる。
窓の外の光が流れる。
ホームが小さくなる。
似鳥の輪郭が、街灯の中で溶けていく。
くるみは、最後まで振り返らない。
振り返ったら、戻ってしまう気がした。
戻ったら、今度こそ燃える。
だから振り返らないまま、泣く。
涙は落ちない。
喉だけが痛い。
息を吸うたびに、胸の奥がこすれて熱い。
一度関係を持ったのか、持っていないのか。
その答えは、白線の向こうに置いてきた。
置いてきたほうが、二人を少しだけ守る。
発車の揺れで、くるみの体がわずかに傾く。
その傾きが、人生の傾きみたいで、笑えなくなる。
くるみは、窓ガラスに映る自分を見ないまま、心の中でだけ言った。
――似鳥。
――先生。
名前と距離と守りが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡んで、ほどけない。
そして最後に、思う。
二歩でもいいから。
生き残るための二歩。
自分の明日を作る二歩。
終




