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第63話 露天風呂

「眺めの良い壺亭」。

それがピリンさんに教わった宿の名前だった。


壺。壺湯か。

前世の温泉施設にあった、一人用の丸い浴槽が脳裏に浮かぶ。足を抱えて入るやつだ。あれは狭い。手足を伸ばしてこそ風呂だろう。

だがピリンさんのおすすめだ。眺めが良いなら、多少の狭さは目を瞑ろう。


坂道の突き当たりに、石造りの二階建ての建物があった。入り口の上に、丸い壺から湯気が出ている看板が掛かっている。


「いらっしゃいませ。お二人様、一泊ですか?」


受付の女性に代金を払い、部屋に案内された。レンと一緒の部屋にも慣れてきた。ベッドが二つ、小さな窓から外が見える。高台にある宿なので、サンシェイの町の全体を見下ろす形だ。その向こう側には山があり、さらに遠くの山脈も淡く浮かび上がっている。


これは、風呂からの眺めも期待できる。


荷物を置くなり、俺はレンに言った。


「風呂に行くぞ」


「えっ、先に飯じゃね?」


「残念だが、夕食の準備にはまだ時間がかかるらしい。厨房から漂う匂いの成分分析によると、今は料理の仕込み段階だ。完成まであと三十分はかかる」


「えっ、マジかよ……鼻いいな、お前」


嘘だ。適当なハッタリだ。


「レン。いいから来い。人生が変わると言っただろう」


「大げさなんだよ……」


文句を言いつつもレンはついてきた。こいつは基本的に、興味のあることには素直だ。



浴場への廊下を歩いていく。硫黄の匂いが濃くなる。

酸性の強い湯だろうか? にごり湯だろうか?


「コウくん、ソワソワしてる」


ソワソワしてない。可能性を検討しているだけだ。


脱衣所に入った。レンが平然と服を脱ぎ始める。引き締まった筋肉質の体だ。無駄な脂肪がない。

全裸になることに抵抗はないらしい。


風呂に慣れていないレンが裸になるのを嫌がるかと心配していたのだが、杞憂だったようだ。


「コウくんも、魔法だけじゃなくて剣もやれば筋肉つくわよ」


必要ない。筋肉はエネルギー消費が多い。使わない筋肉をつけるのは不経済だ。

まあ、ある程度筋肉があると見た目がいいのは認めるが。



浴場に入った。

湯気が立ち込めている。視界がぼやける中、構造を確認する。手前に体を洗う場所。奥に大きな内湯。

壺湯ではない。


「壺じゃないぞ」


「え? 何が?」


「いや、何でもない」


宿の名前に反して、広い湯船だ。お湯は若干白濁している。そして——奥に扉がある。


俺はレンに言った。


「まだ湯船には入るな。体を洗ってからだ」


「わかったけど、そういう決まりなのか?」


「風呂にはルールがある。いいから従え」


俺は体を洗う前に、奥の扉を確認しに行った。


扉を開けた瞬間、冷たい風が頬を打った。


石造りの露天風呂。こちらも壺ではない。

湯面から立ち上る白い湯気。

その向こうに、サンシェイの町並みが斜面に沿って広がり、さらにその奥には山々の稜線が連なっていた。露天風呂にありがちな高い壁が無く、湯船につかったまま風景を楽しめる作りだ。


「素敵……」

サティアも呟いた。


冷たい風の中に長居はできない。浴室に戻り、レンに風呂の入り方を教える。


「まず体を洗う。全身だ。頭も」


「え、頭も?」


「当然だ。湯船に汚れを持ち込まない。これは風呂に入る者の最低限の礼儀だ」


「誰に対しての礼儀なんだよ……」


「湯に対してだ」


レンは訳が分からないという顔をしていたが、素直に従った。


「おっ、あったけえ!」


レンが嬉しそうな声を上げた。


「普段は井戸水だからな。冬場なんか気合で浴びるけどよ、これは極楽だぜ」


「汚れを落とすには温水の方が界面活性作用が高まるからな。しっかり洗えよ」


「おう!」


レンがゴシゴシとタオルで体を洗い始める。湯気に満ちた空間で、温かい湯を使う。それだけでレンの表情が緩んでいるのが分かった。野生児も温熱の快楽には抗えないらしい。


一通り体を洗い終え、レンが内湯に足を向けた。


「待て」


「え、まだ何かあんの?」


「こっちだ」


俺は外湯への扉を指差した。


「えっ、外? 寒くね?」


「いいから来い」


扉を開けた。


「うおっ……!」


レンが立ち止まった。

湯気の向こうに広がる山々と、夕暮れに染まり始めた空。


「すっげ……」


レンを置いて、俺は露天風呂に足を踏み入れた。


熱い。

安らぎの灯火亭の風呂よりも明らかに熱い。


右足のつま先から、じわりと熱が染み込んでくる。ピリピリと痺れるような感覚。

左足。ふくらはぎ。膝。


ゆっくりと、腰まで沈む。


「はぁ…………」


声が漏れた。腹の底から絞り出されるような、制御不能の吐息だ。

足先と手先がピリピリする。全身の血管が拡張し、熱が芯まで届いていく。


「コウくん、すっごいおじさんみたいな声出してたわよ」


知らん。これは生理現象だ。


レンが恐る恐る足を湯に浸けた。


「あっつ!」


即座に足を引っ込めた。


「なんだこれ! 煮る気か!?」


「温泉とはこういうものだ。慣れる」


「無理だろ! 足がジンジンする!」


「まずは足だけつけておけ。末端の血管を拡張させて、熱い血液を循環させるんだ」


「うう……足は熱いし、背中は寒いし、どうなってんだよこれ……」


レンは湯船の縁に腰掛け、足だけを浸して身を縮こまらせている。

山風は冷たい。濡れた肌から気化熱が奪われていく。


「我慢だ。その寒暖差がスパイスになる」


レンの騒ぎを無視して、俺は肩まで浸かり、空を見上げた。

頭寒足熱。いや、全身熱で頭だけ寒。

火照ってくる顔を冷たい高原の風が撫でていく。これこそが露天風呂の醍醐味だ。


「……くそっ、コウが平気な顔してるのが癪だ!」


やがて、冷たい風に耐えられなくなったのか、レンがじりじりと体を湯に沈め始めた。


「うう……」


「うう、じゃない。肩まで入れ」


レンが意を決して肩まで浸かった。数秒、歯を食いしばっていたが、冷えていた背中に熱が行き渡ると、表情が変わった。


やがてふぅーっと長く息を吐いた。


「……なんか、慣れてきたかも」


「そうだろ」


「背中の寒さが消えて、中からポカポカしてくる……」


レンは浴槽の岩にもたれかかり、脱力した。頬が赤く染まっている。


「なあコウ。これって、何の意味があるんだ?」


「意味?」


「いや、体を洗うのは分かるけどよ。こうやって熱い湯に浸かって、ボーッとするのによ。身体を温めるのが目的なのか?」


レンらしい疑問だ。俺は湯を掌ですくいながら答えた。


「まあそうだ。だが最終的な目的は違う。体が温まることで血流が改善し、筋肉が弛緩し、副交感神経が優位になる。要するにリラックスだ。心地よさに浸るのが風呂だ」


「よく分からんが……酒を飲んで寝る直前みたいな感じだな」


ちょっと違う気がするが、レンがそう感じるならそれでいい。


「あと、肌がスベスベになる」

俺は自分の腕をさすりながら言った。


「は?」

レンも自分の腕をさすってみている。


「本当だ! なんだこりゃ?!」


「温泉だからな。酸性の湯が肌の古い角質層を柔らかくして剥がすんだ」


「よくわからんが……悪くねえな」


レンは目を閉じ、湯に身を任せた。


俺たちはしばらく黙って湯に浸かった。湯が溢れる音と、遠くの風の音だけが聞こえる。

山の稜線が夕焼けに赤く染まっている。雲が低い位置でたなびいて、光が滲んでいた。


体が温まりすぎたら外に出て肌を冷やし、寒くなったらまた湯に浸かる。それを何度か繰り返した。


「コウくん」


サティアが静かに話しかけてきた。


「いい旅になってるじゃない」


……まあ、悪くはない。

温泉は好きなのだが、日本にいる時もなかなか温泉旅行には行けなかった。


「素直じゃないわねぇ。すっごく気持ちよさそうな顔してるくせに」


気持ちいいのは物理的な話だ。それ以上の意味はない。


「はいはい」


サティアのため息が聞こえた気がした。



風呂を出る前に、俺は仕上げとして冷水を浴びた。体の表面を冷やすことで、汗が早く引く。温まった体の熱を内側に閉じ込める効果もある。


「おっ、それいいな。俺もやる」


レンが真似して冷水を被った。


「ぎゃあっ! 冷てぇ!」


一回でやめた。


「無理。コウ、お前おかしいよ。あの気持ちいい温かさの後に冷たい水を被る意味が分からない」


「この方が汗が早く引く」



レンがその効果に気づいたのは、脱衣所でだった。

俺が肌着を身につけ始めても、レンはまだにじみ出てくる汗を拭き続けている。


「くそっ、汗が止まらねえ」


「だろ。最後に水を浴びて表面だけ冷やすんだ。身体の中はまだぽかぽかしてるぞ」


「俺も冷たい水を浴びてくる」

レンは再び浴室の扉を開けた。


「だがその前に、もう一回、湯で温まってくる」

レンは浴室に消えた。


「先に部屋に戻ってるぞ」


一人になった脱衣所で俺は、浴衣があればいいのにと思いながら、ピンクの作業着に袖を通した。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

拙作を読んでくださりありがとうございます。

とうとう執筆速度に更新が追いついてしまいました。

毎日更新はここまでとなります。

とりあえず週2を目標にやっていきます。

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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


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