第62話 騎士様
サンシェイの門を入ったところで、ピリンさんと別れた。
「お気をつけて。……レンさん、サンシェイの料理は高原野菜とチーズが絶品ですよ。特に広場の東側にある『ヤギのひづめ亭』は地元でも評判です」
「おお、ありがとうございます! 絶対行きます!」
「コウさんは、何かお探しのものがありましたら、ガラス通りに行ってみてください。職人の工房が並んでいますから」
「ありがとうございます」
馬車が角を曲がって消えた後、俺はレンに聞いた。
「で、宿はどうする」
「教会じゃないのか?」
「温泉があるのに温泉宿に泊まらないやつがあるか」
「温泉って、あの湯気のやつ? 別に俺はどっちでも……」
「レン。お前、風呂に入ったことないのか?」
「風呂? ないけど。体なんて絞ったタオルで拭けばいいし、湯を浴びたことならあるけど……浸かるってのは経験がない」
この世界ではそれが普通なのかもしれない。だが俺は前世の記憶がある。温泉の価値を知っている。
「いいからついて来い。人生が変わる」
「大げさだな……」
ピリンさんに聞いた宿は少し高台にあるらしい。露天風呂があり、そこからの眺めが素晴らしいとのことだ。
まっすぐに伸びた坂道を登り始めた。両脇の建物はすぐにまばらになり、荒地の中に道が続いている。道沿いのところどころに宿や民家が点在していた。突き当たりに見える建物が、おそらく目的の宿だ。
坂を登る人は俺たち以外にも何人かいたが、徐々に道沿いの宿に消えていく。前方には一台の荷車が、馬に引かれてゆっくりと坂を登っていた。
その時だった。
バキンッ。
乾いた音が坂の上から響いた。荷車からだ。
馬と荷車を繋ぐ轅が、接続部から折れていた。馬具に繋がれた馬はそのまま前方に進み、荷車だけが切り離されて停まった。弾みで御者席から放り出された男が道に転がる。
一瞬の静止。
そして、車輪が逆回転を始めた。
荷車が坂を滑り降りてくる。車輪が生きているせいで重力に引かれて加速していく。
「避けてくれ!」
起き上がった御者が叫んだ。
俺の最悪シミュレーションが回り始める。
荷車はまだ遅い。だが坂道の勾配を考えれば、下に行くほど加速する。荷の重さはかなりある。制御を失った荷車は路面の凹凸で蛇行するだろう。俺とレンが避けることは難しくない。だが——
俺は坂の下に目をやった。
年寄りがいる。子供もいる。建物もある。
あの質量が加速しながら突っ込んだら、人が死ぬ。
「コウ! 吹っ飛ばせ!」
レンが叫ぶ。
吹っ飛ばす? 坂の上にも建物がある。道の脇に避けた人たちもいる。真正面から撃ち返したら被害が広がるだけだ。
俺の両脇には荒地しかない。建物も人もない。
「横に押し出す!」
俺はレンにそう叫んで道の左端に寄った。レンも即座についてくる。
ポケットに手を突っ込み、魔料石から魔力を吸い上げる。
指弾じゃ駄目だ。貫通するだけで質量は動かない。掌で広く、拡散気味に。グラウラー戦の時と同じ要領だ。ただし威力は絞る。荷車を粉砕するのではなく、横方向に弾き飛ばすだけの力でいい。
荷車が加速しながら坂を降りてくる。
ガガガガガガッ!
車輪が石畳を噛む音が近づく。
真横を通過する的を狙うのは初めてだ。
俺は掌を少し坂の上側に向けて構えた。
荷車が来る。距離が詰まる。
タイミングを合わせて、掌を荷車の速度に合わせて横に振りながら——
「ハッ!」
衝撃波が荷車の側面を叩いた。直撃した面の板が割れ飛ぶ。だが大部分は衝撃を受けて横方向に吹っ飛んだ。荷車は荒地の中へ跳ね飛ばされ、傾きながら着地し、残った勢いで転がって止まった。積荷の袋がいくつか破れ、白い粉塵が舞い上がる。粉物の荷だったらしい。
荷車は原形をとどめてはいるが、衝撃波が当たった面は大きく凹み、板が数枚吹き飛んでいた。
坂の下から歓声が上がった。
「ナイス!」
レンが親指を立てた。
坂の上から、御者の男が走り降りてきた。四十がらみの恰幅のいい男で、顔が真っ赤だ。怒りなのか焦りなのか判断がつかない。
男は荒地に転がった荷車を見て、顔色を変えた。
「おい、なんてことしてくれたんだ! 荷車が壊れてるじゃねえか!」
「壊れたのは側面の板が数枚だ。車輪も車台も生きている。あのまま坂を下っていたら荷車ごと全損していた」
「てめえが余計なことしなけりゃ——」
「余計なこと?」
俺は男の目を見た。
「あのまま荷車が坂を下ったらどうなっていたか、想像できますか。下には人がいた。子供もいた。建物もあった。あの質量が加速しながら突っ込んだら、最悪の場合、死人が出る。その賠償責任は、荷車を動かしていたあなたにある」
男は言葉に詰まった。だが、納得したわけではない。
「そ、それは……だが、俺の荷が台無しだ! 粉だって全部ぶちまけちまった! 誰が弁償してくれるんだ!」
「繰り返すが、あのまま放置すれば被害はもっと大きかった。俺がやったのは被害を最小限に抑える緊急措置だ。弁償を求めるなら、轅の接続部を整備しなかった自分自身に請求してくれ」
「こ、この野郎……ピンクの服着てるくせに偉そうに……」
男の顔がくしゃくしゃになった。泣きそうだ。理屈では分かっているのだろう。だが損失は現実だ。粉の荷はほぼ全滅、荷車も修理が要る。怒りをぶつける先が欲しいだけなのだ。
「なあ兄ちゃん、頼むよ……せめて荷の分だけでも……」
泣き落としか。だが俺に非はない。同情はするが金は出せない。
「じ、じゃあ衛兵を呼ぶぞ! 司祭様に言いつけてやる!」
野次馬が集まり始めていた。面倒な方向に転がっている。
その時、レンが一歩前に出た。
表情が変わっていた。さっきまでの軽い笑顔はどこにもない。背筋を伸ばし、顎を引き、男をまっすぐに見下ろしている。
「衛兵でも司祭でも、好きなだけ連れてくればいい」
声のトーンが低い。聞いたことのない声だった。
「俺たちはあそこの宿にいる。——聖奇跡教会騎士団、イケリア管区方面隊所属、レンだ。この件については俺が証人として証言する」
空気が変わった。
野次馬の何人かが息を呑んだ。「騎士団」という言葉の重さが、この町では十分に機能するらしい。
男の顔から血の気が引いた。
「き、騎士団……?」
「ああ。俺が証言する。この男が言っていることは正しい。緊急措置だ。あんたの荷車を止めなければ、下にいた人間が死んでいた。それでも弁償を求めるなら、法的な手続きを踏んでくれ。俺たちは逃げも隠れもしない」
男は口をぱくぱくさせたが、言葉が出てこないようだった。
「……行くぞ、コウ」
レンに肩を叩かれ、俺は男に背を向けた。少し後味が悪いが、これ以上は平行線だ。
数歩歩いたところで、横を見るとレンがいなかった。
振り返ると、レンは先ほどの男の背後に回り込んでいた。いつの間に。音もなく。斥候の移動術だ。
レンが男の耳元で何かを囁いた。
男がびくりと跳ね上がり、バランスを崩して倒れそうになった。レンが片手でその肩を支える。支えているのか押さえ込んでいるのか、傍目には分からない。
男は顔面蒼白で、何度も頷いている。
レンが男の肩をぽんと叩き、何事もなかったかのように戻ってきた。あの軽い笑顔に戻っている。
「……何を言ったんだ」
「ん? ああ、ちょっとな。イケリア管区統括本部のヴェルナー司教の要請でこの地域に来てるから、あんまり騒がない方がいいぞって。事実だしな」
事実ではある。だが言い方の問題だ。あの男の顔を見る限り、もっと恐ろしい言い方をしたに違いない。
「騎士団の仕事ってさ、一番多いのは実は権威を振りかざすことなんだよ」
レンがケロッとした顔で言った。
「実際に武力行使するなんて滅多にない。相手に『こいつには敵わない』と思わせれば、それで終わりだ」
それはもう武力じゃなくて権力だ。
いつもの飄々としたレンと、さっきの冷たい目のレンが同一人物だとは、にわかには信じがたい。
「レン、怖いな、お前」
「へ? 何が?」
「いや、何でもない。……宿に行こう」
「おう!」
レンは一瞬で元の食いしん坊に戻った。
俺は色々な意味で、こいつを旅の相棒にして良かったと思った。




