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第61話 サンシェイに向かう馬車

宿の飯は美味かった。銀鱗鱒の塩焼きは、脂の乗りが干物とは段違いで、皮がパリパリに焼けていて文句のつけようがない。


だが風呂はなかった。


レンに宿選びを任せた俺が悪い。あいつの優先順位は飯が一番で、風呂は圏外なのだ。


さて、問題は足だ。


昨夜のうちにサンシェイ行きの馬車を手配しておくべきだったが、銀鱗鱒の塩焼きとエールに負けた。人間は目先の報酬に弱い生き物だ。俺も例外ではなかったということだ。


「門のところで声かけりゃいいんだよ。サンシェイ方面に行く荷馬車なんて毎日何台も出てるだろ。護衛を引き受ける代わりに乗せてもらう。昨日と同じだ」


レンが軽く言った。コミュニケーション能力の高い人間は、こういう時に迷いがない。


「……任せた」


門に着くと、確かに荷馬車が何台か停まっていた。出発の準備をしている馬車、荷物を積み込んでいる馬車。レンは片端から声をかけるのかと思いきや、意外にも慎重に馬車を観察していた。


「荷が少なくて、護衛がいない馬車を探すんだ。荷が多い馬車は既に護衛を雇ってるし、そもそも人を乗せる余裕がない」


なるほど、斥候の目だ。周囲には同じような考えで馬車を物色している者が何組かいた。冒険者だろう。レンが彼らと目配せを交わしている。暗黙の競争が始まっているらしい。


俺は門の近くに魔道具屋の看板を見つけた。


「レン、そこの魔道具屋に寄ってくる。馬車が決まったら呼んでくれ」


「おう、任せろ」


欲しいものがある。温度計だ。

乾燥と温度の関係を定量的に調べたい。イケリアで手に入れておくべきだったが、あの時はまだ自分が何を調べたいのか手探りだった。

そもそも、この世界に温度計が存在するかどうかも分からない。


魔道具屋は小さな店で、棚には光る石や魔力を帯びた小物が並んでいた。


「すみません。『温度計』ってありますか?」


「『オンドケイ』? なんだそりゃ?」


「暖かさや冷たさの度合いを数字で測る道具です」


店主は白髪交じりの痩せた男で、少し考えてから首を傾げた。


「数字で? 暖かいか冷たいかを調べるだけなら、感熱石を使えばいい。熱に反応して色が変わるやつだ。ほれ、これだ」


店主が棚から黒っぽい小さな石を取り出した。少し赤みを帯びている。手のひらに乗せると、体温に反応して赤が濃くなる。


「ただ、数字は出ないぞ。赤くなったら熱い、黒かったら冷たい。それだけだ」


「それだけ、ですか」


「そもそも暖かさを数字で表すって発想がよく分からんな。暖かいものは暖かい、冷たいものは冷たい。それ以上に何が必要なんだ?」


この世界には「温度」を定量化するという概念自体がないようだ。感熱石は温度変化を検知できるが、あくまで定性的な判断に留まる。「何度」という数値に落とし込む発想がない。


買っても意味がないか。いや、待て。


「その感熱石二つください」


定量的ではないが、二つの地点で同時に色を比較すれば、相対的な温度差は分かる。完璧な温度計ではないが、ないよりはましだ。


「毎度。銅貨八枚だ」


感応石を二つ、ポケットに入れた。もっと大きな町なら、より精密な道具があるかもしれない。サンシェイにも魔道具屋はあるらしいから、そこでも探してみよう。



店を出ると、見覚えのある馬車の前にレンが立っていた。見覚えのある人と話をしている。


「コウさん。おはようございます」


ピリンさんだった。


「今日はサンシェイに納品に行くんです。レンさんたちもサンシェイに向かうと聞いていたので、運が良ければまた護衛をお願いできるかもと思って、昼食も三人分用意してきたんですよ」


「三人? 俺たちに会えなかったらどうするつもりだったんですか?」


「その場合は別の護衛さんに渡すつもりでしたよ。護衛に食事を出すのは普通ですから」


ピリンさんはあっさりと言ったが、用意が良すぎる気がしないでもない。


「やったー! ピリンさんの弁当だ!」


レンが子供みたいに喜んでいる。ピリンさんがそれを見て嬉しそうに微笑んだ。


この人の気遣いは商人としての合理性に包まれているが、中身は純粋な好意だろう。まあ、俺はそのお零れに預かる側だ。文句はない。


再び、レンとピリンさんの世間話を後ろで聞きながらの旅が始まった。


「へえ、じゃあピリンさんはウェランド生まれなんすか?」


「ええ。父の代から商売をしてましてね。……レンさんは? ご出身はどちら?」


「よくわからないんすけど、イケリアの近くっす。イケリアの孤児院で育ったんで」


「ああ……ごめんなさい、変なこと聞いちゃって」


「いや、俺は気にしてないっす」


そうか、レンは孤児院出身なのか。こいつのコミュ力もそこで培われたのかな。


待てよ。俺も似たようなもんじゃないか。この世界に血が繋がっている人は誰もいない……


……今のところ俺も気にならないな。めんどくさくなくて良いとしか思えない。



昼過ぎ、道が高原への登り勾配に入る手前で、ピリンさんが馬車を止めた。


「ここで少し休憩しましょう。この先は登り勾配が続くので、馬を休ませてから行った方がいいんです」


ピリンさんが荷台から防水布と包みを取り出した。道端の木陰に布を広げ、包みを開く。中にはバゲットと、蓋付きの容器が入っていた。


「オーク肉の細切れと葉野菜を和えたものです。バゲットに挟んで召し上がってください。うちの女中が作ったものですが、味は保証しますよ」


「うおお、最高じゃないっすか!」


レンが早速バゲットを開き、具材をたっぷり挟んだ。俺も倣う。


一口齧ると、オーク肉の脂と葉野菜の苦味が、パンの素朴な甘みと合わさって想像以上に美味い。野外で食べるという補正を差し引いても、十分に美味い。


「ピリンさんは料理はしないんすか?」


レンが聞くと、ピリンさんは苦笑した。


「私は壊滅的に料理ができなくて。でも良い女中に恵まれました」


料理はできなくても、人に食べさせることはできる。それは立派な才能だろう。


食後、登り勾配では三人とも馬車を降りて歩いた。鞄は荷台に積んだままなので、身軽だ。


馬の扱いに慣れているレンが手綱を引いて先を歩き、俺とピリンさんは少し後ろを歩いた。


「ピリンさん、サンシェイというのは、どういう町なんですか?」

俺はピリンに尋ねた。

レンが聞くのは食べ物のことばかりだろうから、実用的な情報は自分で集めるしかない。


「そうですね……山の中腹にあるので、空気が綺麗ですよ。それに、温泉が出るので保養地としても人気があります」


「温泉!」


俺の声が裏返ったかもしれない。


風呂。湯船。温かいお湯。

日本人の魂が歓喜の声を上げた。


「あら、温泉がお好きですか?」


「ええ、まあ。……ウェランドには風呂がなかったので」


「ふふ、あそこは川の水で行水が基本ですからね。サンシェイには公衆浴場もありますし、宿にもお風呂があるところが多いですよ」


これは朗報だ。今日こそは湯に浸かれる。


「それから、産業としては『ガラス細工』が有名ですね」


「ガラス……?」


「ええ。近くで質の良い珪砂が採れるんです。食器やランプ、窓ガラスなんかも作っています。私も帰りはガラス製品を仕入れて帰る予定なんですよ」


俺の脳内で、パズルピースがカチリと嵌まる音がした。

ガラスがある。

加工技術がある。


「……ピリンさん。その町には、ガラスを加工する職人もいますか?」


「ええ、もちろん。腕のいい職人がたくさんいますよ。……何か欲しいものでも?」


「ええ、まあ」


俺は心の中でガッツポーズをした。

ガラス管が作れるなら、アルコール温度計——いや、ガリレオ温度計なら作れるかもしれない。

原理さえ分かっていれば、職人に特注で作らせることは可能だ。


「ついでに聞きますが、魔道具屋は?」


「ありますよ。職人が多い町ですから、細かい道具を扱う店も多いです」


温度計の概念はなくても、部材は揃うかもしれない。

ここで温泉に浸かりながら温度計を準備するという手もある。


「コウくん、顔がニヤけてるわよ」

サティアが横から茶々を入れてくる。


「……ニヤけてない。計画を修正しているだけだ」


「はいはい。『お風呂楽しみー!』って顔に書いてあるけどね」



登り勾配が終わり、再び馬車に乗り込んだ。高原の風が心地いい。


やがて、前方に町の輪郭が見え始めた。

石造りの建物が斜面に沿って段々に並んでいる。そしてその所々から、白い湯気が立ち上っていた。


風に乗って、かすかに硫黄の匂いが届く。


温泉だ。間違いない。


俺は思わず立ち上がりかけた。

荷台の上で立ち上がるのは危険だと分かっていたので、すんでのところで踏みとどまったが。


「おお! あれがサンシェイか! 湯気出てんじゃん!」


レンが御者台で叫んだ。こいつの興奮は食い物由来だろうが。


「ええ。あれがサンシェイの温泉街です。旅のお疲れを癒やしてくださいね」


ピリンさんが微笑む。


硫黄の匂いが少しずつ濃くなっていく。

町が近づくにつれて、俺の中で何かが弛緩していく。


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