第60話 燻製
ウェランドの門をくぐると、石と土の匂いが消え、水の匂いに変わった。
通りの脇を細い水路が走っている。モーサスとは別の種類の水車の音が、町全体に低く響いていた。
ピリンの店「カワウソ商会」は、門から程近い通り沿いにあった。小さいが手入れの行き届いた店構えで、看板にはカワウソの意匠が彫られている。
「ここが私の店です。……改めて、本日は護衛をありがとうございました」
ピリンは馬車を降り、俺たちにそれぞれ銀貨五枚を差し出した。
「いやいや、俺たちは乗せてもらった側ですし」
「いいえ。お仕事はお仕事ですから。タチネズミの件では助かりました」
ピリンという人はきっちりしている。商人としての筋を通す人なのだろう。
「ウェランドに滞在されるなら、何かあればいつでもお声がけくださいね」
「ありがとうございます。……あ、ピリンさん。銀鱗鱒の燻製が美味い店、教えてもらえますか?」
レンが聞くと、ピリンは少し困った顔をした。
「燻製ですか……。川沿いに食堂がいくつか並んでいますから、そちらに行ってみてください。ただ——」
何か言いかけたが、ピリンは首を振って微笑んだ。
「行ってみれば分かります」
含みのある言い方だったが、レンはそれに気づかない。
「了解! 行こうぜコウ!」
俺はピリンに軽く頭を下げて、早足で歩き出したレンを追いかけた。
川沿いの道に出ると、確かに小屋がいくつも並んでいた。どの小屋の前にも板を渡しただけの簡素な食台が置いてある。魚を捌く匂いと炭火の匂いが混ざり合っている。
だが、レンが期待していたであろう、燻煙の匂いはしない。
「燻製食堂」と大きく看板を出している店があった。
「ここだ! 名前からして間違いないだろ」
レンが意気揚々と店の扉を開いた。俺もその後に続く。
店内に入ると、長年の営業で染みついた、燻製の煙と炭の混じったような匂いがした。
「いらっしゃい。何にする?」
カウンターの向こうから、がっしりとした体格の女将が声をかけてきた。
「銀鱗鱒の燻製、二人前お願いします!」
レンが元気よく注文した。
女将の表情が曇った。
「ごめんねえ、最近は燻製をやってないんだよ」
レンの顔から期待の光が消えた。見ていて気の毒になるくらいの落差だ。
「えっ。……やってない?」
「ああ。うちだけじゃなくて、どこの店もそうだよ。燻製が作れなくなっちまったんだ」
俺は思わず身を乗り出した。
「作れなくなった、というのは?」
「燻す前に、まず陰干しで水分を抜くんだけどね。それができなくなったんだよ。日の当たらない場所に干しても、いつまで経っても乾かない。魚がべちゃべちゃのまま。そのまま燻してもまともな燻製にはならないからね」
ここもか。
イケリアの洗濯物。錬金術屋の薬草。そして、ウェランドの燻製。
全部同じだ。低い温度では水分が蒸発しない。
「いつ頃からですか?」
「つい最近の事だよ。燻製にしておいた魚も昨日までは残ってたんだけどね。
最初はうちのやり方が悪いのかと思ったんだけど、隣も、そのまた隣も同じだって言うからね。
なんだか気味が悪いよね」
女将はため息をついた。
「それで今は、日の当たる場所に干して干物にしてるんだよ。天日干しなら乾くからね。味は悪くないけど、燻製とは別物だ」
レンが落胆した様子で俺を見た。
「……コウ、どうする?」
「干物を頼もう。せっかく来たんだ」
「銀鱗鱒の干物、二人前」
女将が奥に引っ込み、しばらくして皿が二つ出てきた。
天日で乾かされた銀鱗鱒は、身が適度に締まっていて、表面に塩の結晶がきらきらと光っている。炭火で軽く炙ってあるのだろう、端の方がほんのり焦げている。
俺は一口食べた。
「……あ、美味いぞこれ」
塩と日光で凝縮された旨味が、噛むほどに広がる。燻煙の香りこそないが、魚そのものの味が濃い。前の世界で食べた干物に近い、素朴で力強い味だ。
「ほんとだ。……うん、これはこれで美味い」
レンも頷いた。燻製への未練はまだあるようだが、目の前の美味さには素直だ。
「お客さん、気に入ってくれたかい?」
女将が嬉しそうに顔を出した。
「はい、美味いです。……この干物、もっと広まってもいいんじゃないですか?」
「そうかねえ。うちはずっと燻製の店だったからね。干物は、その……代わりのもの、っていう気持ちがどうしてもね」
女将の言葉に、俺はウルカンの顔を思い出した。特級品を作れなくなった鍛冶師。自分の技術の根幹が揺らいだ時の、あの表情。この女将も同じだ。自分の店の看板を支えてきた技が、ある日突然使えなくなった。
「燻製を復活させるために、一つ、試してみませんか?」
俺は女将に向き直った。
「確実じゃないんですが、イケリアで同じような問題に対処した時に考えた方法です。温めた室内で乾燥させる。暖かくなれば水分は抜けるはずです。そしたら空気を入れ替えてまた温める。
火を焚いて温めると煙が出て香りも変わるし、危ないですが、熱魔法具ならうまく乾燥できるかもしれません」
女将は目を丸くした。
「温めた室内で……そうなのかい。……すぐにはできないだろうけど、試してみる価値はあるかもしれないね。ありがとう、お兄さん」
「うまくいく保証はないですけど」
「いいんだよ。何も手がないよりはずっとましだ」
女将の顔に少し光が戻ったような気がした。
店を出ると、夕暮れの川沿いの道に柔らかい風が吹いていた。川面がオレンジ色に染まっている。
「とりあえず飢え死にの危機は脱したな。
それよりコウ、今日は宿に泊まろうぜ」
「教会は?」
「ここの教会の宿坊は行ったことないから分かんないけどさ。せっかくウェランドまで来たんだ。護衛の報酬もあるし、たまには普通の宿に泊まりたい」
こいつの「たまには」は信用ならない。次の町でも同じことを言いそうだ。
「それに、銀鱗鱒の燻製が食えなかったんだぞ。せめて宿の飯くらい楽しませてくれよ」
燻製を食えなかったのと宿の話に論理的な繋がりはないのだが、レンの中では感情的に繋がっているらしい。
「……まあ、いいか」
護衛で銀貨を稼いだばかりだ。一泊くらいなら予算に響かない。
「よっしゃ! じゃあ俺、いい宿探してくるから! ここで待ってろ!」
言うが早いか、レンは夕暮れの通りに駆け出していった。あいつの行動力だけは見習いたい。動機が全部食い気なのが惜しいが。
俺は川沿いの広場のベンチに腰を下ろした。川の水音が心地いい。モーサスの水車の音とは違う、もっと穏やかな流れの音だ。
「コウくん」
サティアが静かに話しかけてきた。
「ウェランドでも同じことが起きてたわね」
「ああ。イケリアだけじゃない。モーサスでは確認してないが、ウェランドでも低温での蒸発が止まっている。つい最近だと言っていた」
「そうね。コウくんがこちらの世界に来た後くらいからじゃないかしら」
「いや、前に午前中にこの服を洗濯してもらった事がある。その時は大丈夫だったから——」
「お兄ちゃん、誰とお話ししてるの?」
突然の声に、横を見ると、小さな子がこちらを見ていた。
「秘密のお友達?」
「えっ!」
「秘密のお友達とお話しする時はね。誰もいないところで話さないと怒られちゃうんだよ」
「もしかして、……君には、お兄ちゃんの秘密の友達が見えるの?」
俺は、その男の子か女の子かもよくわからない子供に尋ねた。
「見えないよ。秘密のお友達なんだから、他の人には見えないんだよ」
この子は、そんな事も知らないのかと言いたげな表情だった。
「君にも秘密の友達がいるんだね」
「そう。でも秘密だから……」
「そうだね。お互い秘密にしておこうな」
「うん。……ねえ! お兄ちゃんはなんでピンクなの?」
その子は、こっちが本題だと目を輝かせて聞いてきた。
「ふふっ、愛と幸せの英雄だからよ」
サティアは黙ってろ!
「……これはね、変装なんだよ」
俺は、そもそものきっかけを思い出して言った。
これはそもそも、泥棒と疑われた状態から抜け出すための認識ハックだったのだ。
「へんそお? へんそお、って何?」
「変装っていうのは……お兄ちゃんの本当の姿を知られないようにするんだ」
あながち間違ってはいない。突然現れて色々な出来事に巻き込まれる俺への追及が少ないのは、「ピンクの冒険者」というレッテルが貼られているからというのも少なからずあると思っている。
「本当の姿って何?」
「それは秘密だよ」
「それも秘密なんだ……」
「そう。ごめんね。バレると怖い人に怒られちゃうんだよ」
多分。
「そっか。僕も秘密の友達のことがバレるとお父さんに怒られるよ——あっ、帰らないと、お父さんに怒られる!」
子供は急に何かを思い出したようだった。
「じゃあね。バイバイ。また秘密のお話ししようね」
子供は家々が立ち並ぶ方へと走って行き、俺と俺の秘密の友達だけが取り残された。
「コウくん、あの子には秘密の友達がいるんだって」
ああ、小さい子は時々秘密の友達を持っていると何かで読んだことがある。別に珍しいことじゃない。
「だから、私の事も否定して来ないのね」
それは違う。サティアの存在は異世界転生という異常事態のオマケに過ぎない。否定するなら異世界転生からだろう?
「オマケ? ……失礼ね。私は私で苦労してコウくんの元に来たのよ。異世界転生したらもれなくついてくるようなオマケじゃないんだから」
そうなのか。それはすまなかった。
これからは存在を疑うようにするよ。
「もう! ……そうじゃなくて——」
「コウー! 見つけたぞー!」
レンの声が通りの向こうから響いた。
「川魚料理が自慢の宿があるんだ! 銀鱗鱒の塩焼きが食えるってよ!」
こいつは本当にブレないな。
「行くか」
俺はベンチから立ち上がった。
この辺りで起きている不思議な現象の話も、不思議な秘密の友達の話も、また今度だ。
今は、まだ見ぬ銀鱗鱒の塩焼きに集中しよう。




