第54話 火事
貧民街は南門の近くだ。ここから南に行ったところにある橋を渡れば貧民街だ。
橋を渡る時、北へ向かって避難する人とすれ違う。子供を抱えた母親、荷物を担いだ老人。
「コウくん、煙が見えるわ」
サティアの声に顔を上げると連なる家々の向こうに黒い煙が立ち上っていた。
複数の煙が重なり合っている。
まずい。延焼している。
俺は貧民街を煙の方に向かって走った。
狭い路地に小さな家がひしめき合っている。木と藁で作られた粗末な建物。長屋も多い。
火には最悪の条件だ。
すぐに現場に出た。
「——っ!」
目の前で、三棟が燃えていた。
炎が屋根を舐め、火の粉が舞い上がる。熱気が顔を叩く。
隣の家の屋根にも、既に火が燃え移ろうとしている。
住民たちがバケツリレーを組んでいたが、水の量が圧倒的に足りない。焼け石に水、という言葉がこれほど似合う状況もない。
「どけ! どけ!」
怒声とともに、衛兵たちが斧を持って駆けつけてきた。
先頭の男——おそらく指揮官——が、燃えている家の隣を指差した。
「あの家を壊せ! 延焼を防ぐ!」
衛兵たちが斧を振り上げる。
だが、木造の家を斧で壊すには時間がかかる。その間にも火は広がっていく。
間に合わない。
俺は指揮官に駆け寄った。
「手伝う。俺なら一瞬で壊せる」
「あ? 何言って——」
指揮官が俺を見て、目を見開いた。
「ピンクの……お前、あの……」
「説明は後だ。壊すのはあの家でいいんだな?」
「あ、ああ……だが、どうやって……」
「見てろ」
俺は燃え移ろうとしている家の前に立ってポケットの中の中粒魔料石から魔力を吸収した。
このまま延焼が続けば、この一帯は全焼する。死者が出る可能性もある。
だが、家を壊して防火帯を作れば、火の進路を断てる。
問題は壊し方だ。
衝撃波を横から撃てば、家は吹き飛ぶ。だが、その先にも家がある。巻き込んでしまう。
上から撃つか? しかし周囲は全て平屋だ。高い場所がない。
待て。
燃えている家はどうする?
壊したところで、瓦礫が散らばって火の粉が飛ぶだけだ。延焼が早まる。
俺は足元の地面を見た。
……いける。
「何か思いついた?」
サティアが聞いてくる。
ああ。思いついた。
地面に穴を掘って、燃えている家を「埋める」。
空気が下から入らなくなれば火の勢いが弱くなる。それに隣の家に燃え移るルートも少なくなる。
俺は指揮官に向き直った。
「予定変更だ。まだ燃えていない家じゃなく、燃えている家を処理する」
「はあ? 燃えている家を壊したら火の粉が——」
「壊すんじゃない。埋めるんだ」
「埋める……?」
説明している暇はない。
俺は燃えている家の前に立った。
狙うのは家そのものじゃない。
家の真下——地面だ。
右手を地面に向けて構える。
魔力を集中。
家の直下、やや深めの位置に向けて——
「ハッ!」
衝撃波が地面に叩き込まれた。
轟音。
土が吹き上がる。
家の下に、空洞が生まれた。
支えを失った家が、ゆっくりと内側に向かって傾き——
ドシャアッ!
地面に沈むように潰れていく。
穴の縁の土が崩れ、燃える家に覆いかぶさる。
中央部はまだ燃えているが、家が潰れたので炎の威圧感が弱まった。
実際、下からの酸素供給がなくなったせいで勢いも弱まっている。
成功だ!
「な……」
指揮官が呆然としている。
周囲の衛兵も、住民も、口を開けたまま動かない。
「次だ」
俺は隣の燃えている家に向かった。途中で魔力を補給する。
二棟目。
炎が屋根全体に広がっている。熱で近づくのも辛い。
狙いを定める。
家の真下。
地面を深くえぐるイメージ。
「ハッ!」
衝撃波。
地面が陥没。
家が穴に落ち込み、炎が小さくなる。
三棟目。
これが最後の「燃えている」家だ。
壁から屋根まで、全体が火に包まれている。
三つ目の中粒を吸収した。
集中。
深く。
一気に。
「ハッ!」
轟音とともに、家が地面に沈んだ。
土煙が舞い上がり、視界が遮られる。
数秒後、煙が晴れた。
そこにあったはずの家は、土をかぶった瓦礫に変わっていた。
大きな炎の姿はない。
「……すげえ」
誰かが呟いた。
俺は膝に手をついた。息が上がっている。
頭が重い。魔力の消耗だ。
「コウくん、大丈夫?」
大丈夫じゃない。
先程買った干玉房をひとつかみ口に放り込む。すぐには効かないだろうが……
顔を上げると、大きな炎を上げている家はなくなっていた。
しかし埋めた家からの炎は消えていない。
剥き出しの木材がいくつも突き出ていて既に燃え始めている。
衛兵隊と住民による隣家の打ち壊しも進んでいる。
だがその向こう側や、俺が埋めた家の奥にも家が密集している。
このままでは燃え移る可能性が高い。
向こうの家も壊す必要がある。
「あっちの家の避難はどうなっている? その向こうに人はいないか?」
状況がわからないまま、破壊はできない。俺は指揮官に聞いた。
「わからん。今部下を見にやった」
どうする? 俺も向こうに行くか……
「コウくん……」
サティアの声が聞こえた。
「……なんだ」
「最高の結果を、イメージして」
また、それか。
「イメージしたところで、水は湧いてこないだろ」
「でも、やってみて。お願い」
俺は燃える瓦礫の山を見つめた。
最高の結果。
《火が完全に消えた状態。住民が安堵している姿。煙すら上がっていない、静かな焼け跡》
……イメージした。
何も起きない。
当たり前だ。イメージで火が消えるなら、消防士はいらない。
「……駄目だ。何も……」
その時だった。
ドドドドドッ——!
地響きとともに、北の方から馬蹄の音が近づいてきた。
「騎士団だ! 騎士団が来たぞ!」
誰かが叫んだ。
白い鎧を纏った騎士たちが、貧民街の入り口に到着する。
その中に、青いローブを着た人物がいた。
水魔法使いだ。
「全員、下がれ!」
騎士の一人が叫ぶ。
住民たちが慌てて後退する。
水魔法使いが杖を掲げた。
青白い光が杖の先の魔石に集まる。
次の瞬間——
轟音とともに、大量の水が空から降り注いだ。
滝のような水流が、燃える瓦礫を叩く。
蒸気が立ち上り、視界が白く霞む。
十秒、二十秒。
水が止まった時、そこにはもう火の気配はなかった。
煙すら、ほとんど消えていた。
「……消えた」
俺は呆然と呟いた。
「ね? イメージした通りになったでしょ?」
サティアが、どこか得意げに言った。
「……は?」
「火が完全に消えた状態。煙すら上がっていない、静かな焼け跡。コウくんがイメージした通りよ」
「いや、それは騎士団が来たからだろ。俺の引き寄せとか関係ない」
「関係あるわよ。コウくんがイメージした直後に、騎士団が到着した。これが引き寄せでなくて何なの?」
「こじつけだろ……。騎士団は警鐘が鳴った時点で出動してたはずだ。タイミングが重なっただけだ」
「そうね。でも、宇宙は最も実現しやすいプロセスを選ぶの。コウくんが水を出せるわけじゃない。だから、水を出せる人が来るという形で実現した。それだけよ」
「それだけって……」
反論しようとしたが、言葉が出てこなかった。
確かに、俺がイメージした直後に火は消えた。
因果関係があるかどうかは別として、結果だけ見れば「イメージした通り」になっている。
まあ、火が消えて、家を失う人が増えなかったのならそれでいい。
俺の引き寄せでも、騎士団の素早さでも、何が理由でもいいのだ。
俺は何か言い返すのをやめて、ただ煙の消えた焼け跡を見つめていた。
その時、白い法衣の人影が視界の端に映った。
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