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第21話 ピンクの避雷針

俺は走り出していた。


「止まれ! 橋に入るな!」


荷馬車の御者に向かって叫ぶ。御者は怪訝な顔で手綱を引き、馬を止めた。


「あ? なんだピンク野郎」


「この橋は危険だ! 構造材が劣化している! 今、重い荷物を載せた馬車が通ったら崩れる!」


「はあ? 何言ってんだお前」


御者が俺を胡散臭そうに見る。当然の反応だ。ショッキングピンクの怪しい男が突然現れて「橋が崩れる」と叫んでいる。俺が御者の立場でも信じない。


そのとき。


ビキッ……。


橋から、嫌な音が聞こえた。


通行人たちが足を止める。音の出所を探すように、きょろきょろと周囲を見回している。


「な、なんだ今の音……」


「橋が……軋んでる?」


俺の警告が正しかったと悟ったのか、人々が逃げ始めた。買い物帰りの主婦が走り出す。親子連れが手を引き合って岸へ向かう。


だが、杖をついた老人は動きが遅い。橋の中央付近で立ち往生している。


「早く逃げろ!」


俺は橋に駆け戻った。



老人の腕を掴み、引きずるように橋の端へ向かう。


「あ、ありがとう……」


「礼は後だ! 走れ!」


そのとき、橋全体が大きく揺れた。


俺の最悪シミュレーションでは、橋は中央からV字に折れるはずだった。だが、実際の崩壊は違った。片側の橋脚から崩れ始め、橋全体が斜めに傾いていく。


「違う……! 力の分散が想定と違う……!」


シミュレーションが外れた。だが、今はそんなことを分析している場合じゃない。

傾斜が急になる。老人が滑りそうになる。俺は老人を抱えるようにして、最後の数メートルを駆け抜けた。


岸に辿り着く。老人を地面に押し出す。


「あんた、早くそこから」


老人が何か言いかけた瞬間、橋の傾斜が一気に増した。


俺は足を滑らせ、橋の中央に向かって滑り落ちていく。咄嗟に欄干を掴んで止まったが、橋はさらに崩れていく。


「……マジかよ」


最悪のシミュレーションを修正する。


俺は今、崩壊しつつある橋の中央付近で、欄干にしがみついている。このまま橋が崩れれば、石材と一緒に川に落ちる。打ちどころが悪ければ死ぬ。運が良くても重傷だ。


いや待て。


下を見た瞬間、血の気が引いた。


川に小舟が浮かんでいる。子供が二人、釣りをしている。彼らは上の騒ぎに気づいて見上げているが、逃げる様子がない。状況を理解していないのだ。


「下にも人が……!?」


石材が落ちたら、舟ごと潰される。これは想定してなかった。老人一人を助けて終わりだと思っていた。


「コウくん」

サティアの声が響く。


「最悪のシミュレーションはもう十分よ」


「分かってる! だが、どうすれば……」


「最高の結果をイメージして」


「イメージで物理法則は曲がらない!」


「曲がらなくていいの。あなたが助かる未来を、絵にして」


「そんな都合のいい未来、想像できるか! 俺が助かる? 下の子供も助かる? 全員無事? そんなの……」


「コウくん」


サティアの声が、少しだけ切実になった。


「あなたは、助かっていいの」


「…………」


「私を信じて」


その言葉が、妙に胸に刺さった。


俺は目を閉じた。


最高の結果とは何だ。それを絵にしろ。プロセスは考えるな。結果だけを、一枚の絵として。



川辺。俺はずぶ濡れで岸に座り込んでいる。

服から水が滴り落ちる。冷たい。だが、生きている。

隣には小舟。傾いて半分浸水しているが、沈んではいない。

子供が二人、びしょ濡れで泣きじゃくっている。だが、怪我はない。



目を開けた。


辿り着く方法を考える。

橋の傾斜角度、崩壊速度、落下までの推定時間。川の幅、水深、流速。石材の落下予測位置。子供たちの舟の現在位置。


「下の舟! 右に漕げ! 今すぐ!」


俺は叫びながら、欄干を蹴った。

石材の落下予測位置を避ける軌道。


だが、子供たちの舟は動かない。パニックで固まっている。


くそっ。


着水。冷たい。想像以上に流れが速い。足が川底につかない。深い。


顔を上げた瞬間、轟音が響いた。


石材が落ちた。舟の左舷のすぐ近く。巨大な水柱が上がり、舟が大きく傾く。


「きゃあああっ!」


子供の悲鳴。そして、小さな影が川に投げ出されるのが見えた。


「くそっ……!」


俺は泳ごうとしたが、流れに押されて思うように進めない。体が冷えて、力が入らない。このままでは岸に辿り着けない。

だが、投げ出された子供は俺より下流にいる。流されていけば、合流する。


計算しろ。流速と距離から、接触までの時間を。



数秒後、小さな体が俺の腕の中に飛び込んできた。


「つかまれ!」


子供は無我夢中で俺の首にしがみついた。だが、二人分の重さで体が沈む。水を飲んだ。息ができない。


「は、離さないで……!」


「分かってる……!」


片手で子供を抱え、もう片方の手で必死に水を掻く。だが、進まない。流されるだけだ。

このままでは二人とも沈む。


最悪のシミュレーションはしていないはずだ。



そのとき、視界の端に何かが映った。

傾いた小舟が、流されてくる。

舟の中で、もう一人の子供がオールを握っている。泣きながら、こちらに向かって差し出している。


「お兄ちゃん! これ! これ掴んで!」


俺は空いた手を伸ばし、オールの先を掴んだ。

子供が必死にオールを引く。俺は抱えていた子供を舟縁に押し上げた。小さな体が舟の中に転がり込む。


俺も舟縁にしがみついた。だが、体を引き上げる力が残っていない。


しかも、舟は半分浸水している。三人分の重さに耐えられず、さらに傾いていく。


「沈む……!」

子供が叫ぶ。


「沈まない!」


俺は舟縁を掴んだまま、足で水を蹴った。舟を押すように、浅瀬に向かって。


「二人とも、右側に寄れ! バランスを取れ!」


子供たちが慌てて右舷に移動する。舟の傾きがわずかに戻る。


あと少し。あと少しで岸だ。


腕が限界だ。指の感覚がなくなってきた。


「コウくん、もう少し……!」


サティアの声が遠くに聞こえる。


最後の力を振り絞って、水を蹴る。


がりっ、と音がした。


舟底が川底の石に乗り上げた。浅瀬だ。


俺は舟から手を離し、膝をついた。水深は腰ほど。立てる。生きている。


「……助かった」


子供たちが舟の中で泣きじゃくっている。びしょ濡れで、震えている。だが、怪我はない。

舟は傾いて半分浸水しているが、沈んではいない。


「……ビジュアライズした通りだ」


認めたくないが、そうとしか言いようがない。


俺は子供たちを舟から降ろし、浅瀬を歩いて岸に向かった。



岸に這い上がり、仰向けに倒れた。空が青い。雲が流れている。心臓がうるさい。


「お疲れさま、コウくん」

サティアの声が、優しく響く。


「……計算しただけだ」

息が上がっている。声がかすれる。


「流速と落下位置を計算して……子供の軌道を予測して……舟が流れてくる確率を……」


「それ、計算できるの?」


「……できない」


舟が流れてくることを、俺は計算していなかった。あの瞬間、舟がなければ俺は溺れていた。子供を抱えたまま沈んでいた。


逆に、俺がいなければどうなっていた?

投げ出された子供は溺れていた。舟に残った子供も、浸水した舟と一緒に沈んでいた。


二つの不運が、重なった。


俺が川に落ちたこと。子供が舟から投げ出されたこと。どちらも最悪の事態だ。だが、二つが重なったことで、俺たちは助かった。


「……偶然だ」


「そうね。偶然。ありえないくらいの偶然」


サティアの声に、笑みが混じる。


「それを引き寄せたのは、誰かしら?」


「…………」


反論できなかった。



気づくと、岸に人だかりができていた。


「あのピンクの兄ちゃんが飛び降りて……」

「子供を助けて……」

「舟も沈まなかったんだ!」

「橋が崩れるって最初に叫んだのもあいつだろ?」


助けられた老人が近づいてきて、俺の手を握った。


「ありがとう……ありがとう……」


「俺は別に……」


否定しようとしたが、言葉が出てこない。


子供たちの親らしき男女が駆けつけてきて、子供を抱きしめている。そのうちの一人が、俺に向かって何度も頭を下げている。


「これがあなたの『お仕事』よ、コウくん」


サティアの声が、静かに響く。


「世界に溜まってた『もやもや』を、大惨事になる前に小さく発火させる。避雷針って言ったでしょ?」


避雷針。


サティアの言うことが本当で、俺が避雷針としてストレスを解放しなければ、この橋は今日崩れなかったかもしれない。しかしいつかもっと急激な崩壊を起こして、もっと多くの人を巻き込んで崩壊していたかもしれない。俺が「最悪」を想定したから、問題が表面化した。俺が「最高」をイメージして行動したから、被害が最小限に収まった。


……本当に?


…わからない…


でも、俺は確かに、跳んだ。自分の意志で。そして、助かった。


「コウくん」

サティアの声が、少しだけ嬉しそうだ。


「今、ちょっとだけ、自分のこと信じたでしょ」


「……信じてない」


「ふふふっ。嘘。分かるのよ、私には」


うるさい。本当にうるさい。



そのとき、人だかりを掻き分けて、衛兵が近づいてきた。


「お前、この橋の異変に最初に気づいたそうだな」


「……ああ」


「ちょっと話を聞かせてもらえるか」


衛兵の背後に、別の人物の姿が見えた。白い法衣を纏った、中年の男。胸元には、見覚えのない紋章がついている。


その男は、興味深そうに俺を見つめていた。


「あら」


サティアの声が、少しだけ緊張を帯びる。

「教会の人ね」


教会。聖奇跡教会。魔法陣を独占し、この世界を裏から支配しているという組織。

その関係者が、なぜここに。なぜ俺を見ている。


嫌な予感しかしない。


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