第18話 …風呂…
全身からショッキングピンクの光彩を放ちながら、俺は黄昏時の街を歩いていた。
すれ違う人々が反射的に目を逸らす様を確認するたび、サティアのくすくす笑いが頭の中で聞こえる。
本来ならイライラするところだが、今の俺はその元気もなかった。
朝起きてから今までに行った活動は、本来であれば数日に分けて行うようなものだ。体育会の合宿でもあるまいし、なぜ俺は次から次に試練に突っ込んでいったのだろう。
さっきまでは、緊張や興奮で意識が張っていたが、今はもう緩んでしまった。
すでに身体だけでなく精神もくたくただ。
お腹も空いた。
思考がうまく回らない。
とにかく宿に戻って、飯を食って、寝たい。
そんな限界に近い意識のなかで、俺は無意識のうちに、かつての日本で享受していた最高の回復手段を求めていた。
……風呂。42度の湯船に浸かりたい。
浮力によって重力から解放され、温熱効果によって血管が拡張する。
副交感神経が優位に立ち、高ぶった神経が強制的に鎮められるあの感覚。
だが、ここは中世相当の異世界だ。
衛生観念すら疑わしい場所で、日本のような入浴文化を期待するのは、土台無理な話だ。
今まで読んだ異世界物の物語でも、入浴は特別なご褒美として描かれている。
期待はしていない。
俺は一瞬だけ、目を閉じた。
全身が温かい液体に包まれ、毛細血管の末端まで血流が改善される感覚。
蓄積された乳酸が溶解し、細胞のダメージが修復されていくプロセスを、理屈抜きに、だが詳細にイメージしてしまった。
「コウくん。今のイメージ、すごく『純粋』だったわよ。余計な不安のノイズがなくて、宇宙のシステムにスッと通った感じ!」
脳内のサティアが、弾んだ声で報告してくる。
ただの現実逃避だ。脳内麻薬で苦痛を誤魔化しているに過ぎない。
俺は冷徹に否定し、重い足取りで宿屋『安らぎの灯火亭』に到着した。
扉を開けると、いつもの清潔な空気が俺を迎えた。
「あ……」
「お、おお……」
カウンターにいた看板娘の少女と主人が、同時にフリーズした。
昨日まで泥だらけの浮浪者寸前だった男が、一晩で全身発光するかのような桃色の塊になって戻ってきたのだ。
あまりの光景に、思考が完全に停止しているのがわかる。
「……ただいま戻りました」
俺が声をかけると、主人がようやく正気を取り戻した。
「おお、コウさん。ずいぶん……その、目立つ格好になったな。
…疲れてそうなのが、逆に目立つが…。ああ、ちょうど良い」
主人は気を取り直したように、人好きのする笑顔を向けた。
「今さっき、魔道具のボイラーの故障が治って、お湯が沸いたところなんだ。一番風呂入るかい? あんた、顔色が酷く疲れて見えるからな」
「…………は?」
ボイラー。お湯。風呂。
提示された単語の羅列が、俺の常識を激しく揺さぶる。
そんな都合の良い偶然が、現実にあるはずがない。
「もしかして、うちには風呂なんてものは無いと思ってたかい? 昨日も言ったがうちのモットーは『オモテナシ』だよ。風呂は絶対に必要だろう」
俺は驚愕を押し殺し、主人の案内で浴室へと向かった。そこにあったのは、ベッド2つ分の大きさはある岩風呂だった。
温泉旅館かよ! いや、温泉では無いだろうが…
「どうだい。通の客にも評判いいんだよ」
「ありがとうございます。助かります」
「助かる? まあ、いいや、ごゆっくり」
主人が去ると、俺は衣服を脱ぎ捨てて、本日二度めの素っ裸になった。
浴室には、ほんのりと温かな湯気が満ちている。
俺は木桶を手に取り、まずはかけ湯から始めた。
ざぶり、と肩に湯をかける。
「……あ、つ……」
皮膚の表面で熱が弾ける。
身体の表面に付着していた汚れと目に見えない疲れが、湯と共に洗い流されていく。
二度、三度。
掛け湯を終えた俺は逸る気持ちを抑え、岩風呂の縁に手をかけて、ゆっくりと右足を入れた。
痺れるような感覚。
じんわりと、熱が表面から芯へと伝わってくる。
続いて左足。
波紋が静かに広がり、俺の存在を包み込む準備を整えていく。
膝、腿、そして腰。
一気に沈み込みたい誘惑を理性が辛うじて繋ぎ止め、数センチずつ、慎重に水位を上げていく。
「……ふうぅぅ……」
腹部が湯に浸かった瞬間、胃のあたりの緊張がふっと解けた。
そのまま胸まで沈める。
肺が湯の圧力でわずかに圧迫されるが、それが風呂の醍醐味でもある。
最後は肩まで。
首元を岩の縁に預け、全身をお湯の抱擁に委ねた。
重力という名の足枷が消える。
俺の肉体はただ、そこにたゆたっているだけの物体へと還元された。
「あああああ……溶ける……。コウくん、あなたの細胞が全部『ありがとう』って言ってるわよ。私も同期してて、とろけそう……」
サティアの甘えたような声が脳内に反響するが、それを分析して反論する気力は、今の俺には無い。
このお湯がどのような熱交換プロセスで生成されたのか。
この岩風呂の構造的な強度はどれほどか。
そもそも、なぜ俺が願った瞬間に風呂が用意されたのか。
そんな「どうでもいい」疑問が、湯気と共に天井へと昇って消えていった。
今はただ、温かい。
それ以上の情報は、何も必要なかった。
俺は静かに目を閉じ、無の状態へと没入していった。




